Another Terror 前編
December 31,1899/ 23:59:50
Water Front Park, New York
ホテル・ハイタワーに停電が起きたのは、大晦日のパーティーの最中だった。正確に言えば、新たな年を迎える瞬間だ。
カウントダウンが始まり、興奮に満ちたウォーターフロントパークの人々は、眼前で今まで煌々と照っていたホテルの灯りが突然消えたのを見て静まり返った。
凄まじい轟音とともに緑色の稲妻がホテルの最上階へ落ちる。窓ガラスが割れ、飛散した破片はウォーターフロントパークに降り注ぎ、そこにいた人々はパニック状態だった。
ホテルからも大勢の客が逃げ出し、周辺は混沌とした有り様だったという。
December 31,1899/ 23:45:00
The Hotel High Tower, Park Place 1
朝方に降り積もった雪が、未だホテルを静寂の中に孤立させていた。マンフレッド・ストラングはその夜、ホテル・ハイタワーのオーナーである大富豪で探検家の、ハリソン・ハイタワー三世の凱旋祝賀パーティー会場にいた。
空のトレイを脇に抱え、所在なくマンフレッドはロビーを見渡す。
「お兄さん、これ」
婦人が空のグラスを手渡すので、マンフレッドはたどたどしくそれをトレイにのせた。
――少なくとも、変装はうまくいっているらしい。
ハイタワー三世が三日前にコンゴ・ロアンゴから帰還したことを祝したパーティー。記者として参加するはずだったマンフレッドは、その日の正午の記者会見で悶着を起こし、祝賀パーティーには招待されなかった。
それでも会場にいたのは、今回の遠征でハイタワー三世が手に入れた呪いの偶像「シリキ・ウトゥンドゥ」にまつわる、幾つもの不吉な噂がどうしても気にかかり、ウェイターに変装して潜り込んでいたからだった。
マンフレッドの行動力は、会社から高く評価されていた。その頃、マンフレッドの所属するニューヨーク・グローブ通信は、会社を上げてハイタワー三世のスキャンダルを狙っていた。というのも、通信社のオーナー、コーネリアス・エンディコット三世は、ハイタワー三世と長い因縁があったのだ。
マンフレッドは正義感にも似た感情からハイタワー三世のスキャンダルを追っていたが、エンディコット三世の目には「手段を選ばない、行動力のある人間」に映ったらしい。
じっさい、変装はハイタワー三世によく使う手だった。とはいえ、自信があったわけではない。以前、御者の変装をハイタワー三世に見破られたばかりだ。今回もいつ見破られるか気が気ではない。
パーティーを終えたハイタワー三世が、まもなくここに現れるはずだ。
「おい」
不意にハイタワーの声が聞こえたとき、マンフレッドは肝を冷やした。
だがそれはマンフレッドにではなく、傍らに控えたハイタワーの従者、アーチボルト・スメルディングに掛けられた言葉だった。
「お前は向こうで客人の接待をしろ」
威圧的なだみ声に振り返り、マンフレッドは息を飲んだ。報道陣の相手を終えたのか、ハイタワー三世がゲスト用エレベーターの前にいた。白く長い彼の髭は、威厳を演出するかのように整えられている。荘厳な衣装にトルコ帽、その腕には不気味な偶像が抱えられていた。
――あの偶像だ。
「御一緒させていただく約束ではありませんか」
仔細は聞き取れなかったが、そういう意味合いの言葉だったと思われる。普段は忠実であるはずのスメルディングが、ハイタワー三世に強い語調でそう言い返すのが聞こえた。
エレベーターを待つハイタワー三世が、葉巻の煙をスメルディングに吹き掛ける。
「聞こえなかったか。お前は客人をもてなせ。いいな」
ハイタワーの正面にいたスメルディングの表情は見えない。スメルディングは小男だが、その小さな背をいっそう縮め、悲痛な声をあげた。
「ご主人様、どうか偶像のお扱いには、お気をつけください。そして、くれぐれも敬意をお払いください」
さもないと呪いが、と言葉を重ねるスメルディングを、ハイタワー三世が制する。
「五月蝿いやつだ」
ハイタワーは吐き捨てると、エレベーターに乗り込み、スメルディングを睨んだ。
「馬鹿げた呪いの正体とやらを、見てやろうではないか」
言って、ハイタワー三世は咥えていた葉巻の火を、偶像の頭に押し付ける。
マンフレッドは思わずああ、と声を漏らした。
「だから馬鹿馬鹿しいと言ったんだ。何も起こらんじゃないか」
自分のしたことがさも面白いことかのように、ハイタワー三世は笑う。エレベーターの扉は、静かに閉まった。
がっくりと肩を落とし、閉ざされたエレベーターの扉に背を向けたスメルディングと眼があった。最愛の者の訃報を聞いたような、悲嘆と絶望に満ちたような、そんな表情をしていた。
所在無げに話を始める客人たちを尻目に、スメルディングは助けを求めるようにマンフレッドを見ている。
マンフレッドには、どうすることもできなかった。
――あの忌まわしい事件が起きたのは、その直後のことだ。
December 31,1899/ 23:59:59
階上から突然の爆発音。エレベーター前にいたマンフレッドとスメルディングは、何事かと上を見やる。音は明らかに、エレベーターという縦穴を通してロビーに響いていた。
ゲストたちも不審に思ったのか、ロビーは一瞬の静寂に包まれる。
――と、突然の停電。
建物中の灯りが消え、いたるところでガラスの割れる音がした。悲鳴を上げ、パニックを起こした者たちが一目散に出口を目指す。
「い、一体何が……」
マンフレッドはスメルディングを見た。彼は先程と変わらず、階上をじっと見つめていた。
「御主人様!!」
スメルディングが叫ぶ。
すると……エレベーターから、悲鳴が聞こえた。
「シリキ・ウトゥンドゥの、目がぁ!」
それはまぎれもなく、ハイタワー三世の声だった。
そして、ばちん、と何かが切れるような音。エレベーターの扉の隙間から、緑色の光が漏れる。
(危険だ)
マンフレッドは咄嗟にスメルディングの肩を掴み、エレベーターから離れるように後退した。轟音をたててエレベーターの扉がひしゃげる。ハイタワー三世を乗せて最上階へ向かったはずのエレベーターは、落下したのだった。
その後、マンフレッドはスメルディングと共に、エレベーターの中を検めた。
歪んだ扉の隙間からカンテラの光を射し込み、内部を見渡す。しかしそこにハイタワー三世の姿はなかった。
ただ、醜く小さな木彫りの偶像が、こちらを見上げるように床に倒れていた。
September 10,1912 / 11:30:00
New York Deli, Broadway 109
マンフレッドはいつものようにニューヨーク・デリでコーヒーとベーグルを注文すると、ブロードウェイに面したテラスにある一番広いテーブルを陣取り、机いっぱいに資料を広げた。
そのどれもこれもが、ホテル・ハイタワーに関するものばかり。
マンフレッドは長年、新聞記者として、ホテル・ハイタワーの事件を追ってきた。
ニューヨーク市、パークプレイス一番地。
祝祭の街ともよばれるニューヨークであるが、倉庫街や路地裏などのそこここには、静かな孤独が蟠っている。ホテル街で一際目立つ巨大な建造物「ホテル・ハイタワー」は、そんなニューヨークの闇を象徴するものだった。
――ホテル・ハイタワーは1892年にオープンした。
そのときになって突然現れたわけではない。もともとはオーナーの、ハリソン・ハイタワー三世の大邸宅だった。彼は世界中を巡り、文化的価値の高い美術品を集めて大邸宅に飾っていた。増改築を繰り返しては知人を集め、収集品のお披露目パーティーを開く。そして、いつしか「世界中の者たちに、自分の冒険の功績を見せつけたい」と思うようになり、ホテル業界に乗り出したのだった。1886年に建設を開始した当時、ハイタワー三世はオスカー・キルノフスキーという著名な建築家を招き、ホテルの設計を依頼した。キルノフスキーはニューヨーク最大のホテルになるであろうホテル・ハイタワーの建築に関わることを光栄に思った。しかしほどなくして彼は、自分が作ろうとしているもののあまりの異常さに嫌悪を抱き、ハイタワーから離れていった。ハイタワー三世は彼を無能と罵りクビにしたとされているが、事実は違う。
(キルノフスキー……彼は自分から辞めたのだ)
彼がいなくなってから、ホテルは怪物が成長するかのように増築され、その間にもハイタワー三世の気まぐれで幾度かデザインが変更された。ことに最上階に関しては、ハイタワー三世の自室を構えることもあって、外装のシルエットが不自然にハンマー型に見えるようになるほど拡張された。
その間もハイタワー三世は遠征を繰り返す。インド、エジプト、アジア……行く先々で、文化的価値の高い美術品を持ち帰っていた。
その多くは、違法なやり方で。
ホテルのオープンから七年後、ハイタワーはコンゴ川に遠征した。その時に持ち帰ったのが呪いの偶像、シリキ・ウトゥンドゥだった。
あの日、ハイタワー三世の従者であるスメルディングと共に体験したあの忌まわしい事件。マンフレッドは、その原因がシリキ・ウトゥンドゥの呪いによるものだと考えていた。
マンフレッドは資料の中から、偶像の写った写真を取り出す。
木製で小柄、丸い頭に幾つもの釘が刺さっている。台座に自立しているその偶像は手足が短く、まるで赤ん坊のようだ。
両目は閉じ、一文字に固く結ばれた口もまた、機嫌の悪い子供のようである。
あの夜、ハイタワー三世は姿を消し、エレベーターの中にはこの偶像だけが残されていた。
(目……)
シリキ・ウトゥンドゥの目が、と彼は言っていた。マンフレッドはその言葉が引っ掛かっていた。言葉の続きは恐らく、「開かれた」だろう。
(偶像の目が開いたとき、それは起こる)
おそらく、「呪い」と呼ばれる種類のもの。
マンフレッドが確信するのは、すでに事件以後、ホテルでそれらしき事象に遭遇していたということもあった。
――あの偶像は危険だ。
マンフレッドはテラス席から、通りの向かいにあるカールッチ・ビルの三階を睨み、胸中で独りごちた。ビルの三階は現在、ホテル・ハイタワーを管理している団体「ニューヨーク市保存協会」 の事務所だった。
ニューヨーク市保存協会は三ヶ月ほど前に設立された、文化財保護を名目とした組織だった。だがその内実は、ホテル・ハイタワーを保護下に置き、啓蒙活動の拠点とすることだけを目的としている団体だ。それもそのはず、協会の設立者は幼い頃からハイタワー三世に傾倒していたベアトリス・ローズ・エンディコットという女性なのだ。
彼女は偶像の恐ろしさを知らない。
今協会が催している「恐怖のホテルツアー」こそ、無知の証左だ。あれだけの惨劇を起こした偶像を再び人目にさらすなど、望んで新たな事件を起こす事に等しい。
だが、とマンフレッドは思う。
(彼女に罪はない)
マンフレッドは、彼女を糾弾する資格を持たなかった。ベアトリスがハイタワーに傾倒しはじめたのは、マンフレッド自身が原因だったからだ。
September 10,1912 / 14:00:00
The New York Globe Telegraph,Broadway 117
「そんなにホテルが気になるなら、協会の人に頼めばいいじゃないですか」
そう言ってマンフレッドのデスクを殊勝な顔で覗きこむのは、後輩記者のボブキンズだった。
「会長から直々に招待状を受け取ってるストラングさんなら、協会の人も悪い顔はしないでしょう」
そうだな、とだけマンフレッドは返す。けれども、事は彼の言うほど単純ではなかった。マンフレッドは事実、一度ベアトリスからツアーの招待状を受け取り、ホテル・ツアーに参加していた。だがそれでわかったことと言えば、ベアトリスはホテル・ハイタワーに対し文化的価値があると思い込み、ツアーを止める気などさらさらないこと。そしてやはりあのホテルには偶像の闇が潜んでいるということ。その程度だ。
いくつか新たな事実が記された資料も目にしたが、あいにく持ち出せてはいない。
彼女はおそらく、もう誘ってこないだろう。
マンフレッドの複雑な表情を見て、ボブキンズが怪訝な顔をした。
「ひょっとして僕、余計なこと言いました?」
「いや……君は間違っていないよ。確かに、協会の助けが必要かもしれない」
ベアトリスの協力は期待できない。だが、それ以外であれば。
マンフレッドは荷物をまとめる。
「ちょっと出てくるよ」
「手伝います?」
「いや、いい」
マンフレッドは立ち上がる。
(協会員の数は多い。誰でもいい、ツアーの実情だけでも知っている者を)
今、ホテルのツアーはどのように行われているのか。日に何人のゲストが、何人の協会員の案内によって廻るのか。そこに問題は無いか。
(知る必要がある)
――ツアーの中止に足る理由が、何処かにありはしないか。
September 10,1912/ 16:45:00
The Hotel High Tower, Park Place 1
「すみません、あの」
夕方、一人でホテルの裏庭の門から出てくる若い男性に、マンフレッドは声を掛けた。協会員の制服にボサボサの金髪。こちらをちらと見た彼は、門をぴったりと閉じ、鍵をかけた。
「あんた、記者?」
こちらを見ずに、ぶっきらぼうに彼は言った。
「それともツアーに興味が? なら馬車置き場に行きなよ。無料のチケットを配ってる」
「ニューヨークグローブ通信の、マンフレッド・ストラングです」
名刺を彼に差し出すと、ようやく彼はこちらを向く。名刺を受け取り、凝視した。
「ああ、なんだ。会長の親父さんの新聞社じゃないか。 それならそうと」
彼は笑顔で右手を差し出す。
「僕はマーク・オーメン。おたくのオーナーには世話になったんだ」
「そうでしたか」
マンフレッドは差し出された手を握り返した。友好的な彼の様子に、ほっと胸を撫で下ろす。
「実は、ホテル・ハイタワーについて色々と調べているんです。よろしければこの後、お話を伺えませんか」
「ああ、いいよ」
「感謝します、オーメンさん」
マンフレッドとマークは、ニューヨーク・デリの奥、テーブル席でコーヒーを挟んで相対していた。
「まずは、ご職業を伺いたいのですが」
「フリーの金持ち」
「……」
彼は真顔で即答した。まずい、苦手な人種だ。
「すみません、もう少し詳しく」
「悪かった。一応、不動産会社の役員」
「なるほど。協会にはいつ頃入られたのですか」
「できて一ヶ月くらいかな。実を言うと、エンディコットさんに言付かってたんだ、無茶しないように見ておいてくれって。娘さんのことが心配だったんだろうな」
どうやら、オーナーの知り合いらしい。どうりでマンフレッドに友好的だ。
マーク・オーメンの話では、協会の規模はかなり大きく、ニューヨーク中の富豪、ことにその子息のほとんどがニューヨーク市保存協会の活動に何らかの形で関わっているらしい。
そして、その会長……ベアトリス・ローズ・エンディコット。
マンフレッドの所属するグローブ通信のオーナー、エンディコット三世の末娘。複数の慈善団体の代表を務めるベアトリスの信頼は絶対的だった。
「彼女がホテルを『保護』してる限り、エンディコット三世はホテルに手を出せないだろうなぁ。たしかに彼は大会社の社長だけど、人間的な信頼では娘の方が勝ってる。女性の権利を主張する団体のほとんどが、彼女の味方だって話だ。親父さんにとっては相当厄介だろうね。何て言ったっけ、頓挫した事業があったよね」
「エンディコット・グランドホテルですね」
それだ、とマークは頷いた。
「ハイタワー三世の栄華の象徴、そして最後の証があそこにある限り、親父さんはずっとハイタワー三世の影を感じていなきゃならない。だから取り壊して自分のホテルに作り替えようとしたのに……」
「邪魔された。それも、実の娘に」
「まったく、ややこしいよな」
「ああ……ややこしい。ほんとに」
マンフレッドは頷きながら、ベアトリスの鋭い眼差しを思い出していた。内に秘めた強い意思を感じさせる瞳。誰にも、ホテルを取り壊させたりしない、と彼女は言い切った。
――たとえ相手が、実の父であったとしても。
「……ところでツアー中、何か変わったことはありませんか?」
マンフレッドが尋ねる。マークは一瞬、ぎょっとしたような顔をした。
「変わったこと」
「何でも構いません。呪いの偶像と呼ばれているシリキ・ウトゥンドゥの周囲で、何か妙な事は起きていませんか」
「いや、無い……と思うけど。いかんせん僕は案内役よりも広報みたいなことをしているから、話に聞くだけなんだ」
「どんな話を」
切り返され、マークはしまった、というような顔をした。
「別に、たいしたことじゃ。ただ、ゲストがいなくなったはずの書斎から物音が聞こえたり、笑い声が聞こえたり……」
「笑い声、ですか」
「そう。それも、誰かと話すような感じじゃない。ただ、ギャハハハ、みたいな、それこそ可笑しくてたまらない、みたいな調子で誰かが笑う声が部屋から聞こえる。何だろうと思って扉を開けると、誰もいない。そんなのが時々あるらしいんだ」
「なるほど」
マンフレッドは、メモにペンを走らせながら、最後にあのホテルに入ったときのことを思い出していた。
ベアトリスに誘われ、ホテル・ハイタワーのツアーへ行ったときのこと。マンフレッドはホテルの一画に、人が独りで姿を隠せる程度の居住スペースを見つけていた。
ある部屋に置かれたアステカの石像。その後ろに、隠し部屋へと続くハシゴがある。そこを登った先には、汚れた食器と酒瓶の散乱した部屋があった。ベアトリスすらも知らなかったその場所には、13年間放置されていたはずのホテルにあろうはずもない生活の痕跡があったのだ。
「あのホテルに誰かが潜んでいる、という可能性はありますか」
「……誰かって?」
マークはマンフレッドに聞き返す。彼の様子はとぼけているわけではなく、ただ純粋に、ホテルで噂される何者かの気配の正体を知りたい、というふうだ。
「私は以前あのホテルで、人の生活の痕が残った居住スペースを発見しました。彼女――ベアトリスも一緒の時です。彼女から何か聞いていませんか」
「いや、何も」
マークは首を振る。「誰かあそこに住んでるのか」
「今は分かりませんが……あのときは確実に、それもついさっきまで、誰かがその部屋にいたような印象を受けました」
「まさか、そんな部屋があったなんて……」
「何なら、場所をお教えします」
マンフレッドが切り出した。「あまり明瞭ではないのですが、まだ部屋の場所の、大体の見当はつきます」
「ほんとに?」
「ええ。ただ、ベアトリスが部屋について話していないとなれば、あの部屋のものがあの時のまま残っているとは考えにくい。片付けられてしまっている可能性もある。……それでよければ」
「きっと、ツアーの評判に関わることは表沙汰にしたくないんだろうな。ホテルの変な噂も、部外者に漏らすなって会長から言われてたし……えっと、その、ストラングさん。今日の事はできれば内密に」
「心得ました」
その後、マークはマンフレッドの質問に幾つか答え、立ち上がった。
「どうも。なんか……かえってこっちの方が色々聞いちゃったな」
マークは苦笑して頭を掻いた。
「よろしければまた、お願いします」
マンフレッドは丁寧に言うと、立ち上がってもう一度握手する。マークと別れた後も、マンフレッドはテーブルで資料を整理した。……マンフレッドはあの部屋について、あえてマークに伝えていないことがあった。部屋の主についてだ。
あの部屋に残されていたのは、ホテルに関する新事実、そしてハイタワー三世の失踪についての資料が挟み込まれた従者の日記だった。
従者、ハイタワーの右腕――アーチボルト・スメルディング。
ハイタワー三世の失踪から、幾日も経たずに姿を眩ませた男。
惨劇を知る彼が、13年経った今でもホテルの周囲を彷徨いている。アーチーと名を変えてベアトリスの前に現れ、ニューヨーク市保存協会の立ち上げを提案したのも彼だ。
彼は13年前のあの惨劇を知っている。にもかかわらず、無知なベアトリスを半ば傀儡のように使い、ニューヨーク市保存協会を立ち上げた。ホテルを遺し、偶像を遺す。
マンフレッドには確信があった。
部屋の主――スメルディングはあの部屋で、かつての主人を待っていたのだ。そして今も、偶像の呪いに関するなにがしかを企んでいる。
だが、とマンフレッドは思う。
(この事実を、マークに達に明かすべきだろうか)
皆が危険に晒されることを望む者がいる。そんな事実を今明かすべきなのか、マンフレッドには分からなかった。
September 11,1912 06:00:00
Water Front Park, New York
彼は屋敷を出て、今朝もいつものように徒歩で公園まで赴くことにした。早朝のブロードウェイを上り、コロンバス・サークルに差し掛かると、コックの姿をした大道芸人のグループが、調理器具を打楽器がわりにした見事な演奏をしていた。
ウォーターフロントパークに入る。
花壇の花々を眺めながら、ゆっくりとした散歩を楽しむ。まさしく、いつも通りの朝だった。――その時までは。
「キルノフスキーさん……ですよね」
公園のベンチに座っていたスーツ姿の男が、不意に立ち上がり、こちらに近付いてきた。
「ニューヨークに戻ってらしたんですね。先日、著書を拝見しました。素晴らしかったです」
「なんだね、君は」
話し掛けてきた男は手に自分の著書を持っていた。が、どうも「ただの読者が偶然話し掛けてきた」という様子ではない。
キルノフスキーは訊ねながらも歩みを止めなかった。
「失礼、私はニューヨークグローブ通信の記者、マンフレッド・ストラングといいます。26年前にあなたが設計を依頼された、あるホテルについてお話を伺えませんか」
案の定、新聞記者のようだ。キルノフスキーは歩みを速める。
「悪いが、記憶に無いな」
「記憶に無い」ストラングはキルノフスキーの言葉を繰り返した。「30年以上前の武勇伝を事細かに著書に書かれていらっしゃいますが、 26年前の大仕事は記憶に無い。確かにそういうことも、あるかもしれません」
「何が言いたい」
キルノフスキーは険のある声で言う。依然記者はキルノフスキーの歩調に合わせ、ぴったりとついて来た。
「雇い主の注文内容や当時の様子など、些細なことで構いません。お話を伺えませんか」
キルノフスキーは歩みを止め、息を吐く。
「ハイタワーホテルに関しては、私は途中で解雇された身だ。覚えていようが話す気は無い。そもそも、雇い主はとっくに死んでる」
「死んだとは決まっていない」彼は言った。「行方不明です」
「同じようなものだ。死人に口無し。彼がいなくなった途端、事が表沙汰になっているじゃないか。皮肉なものだね、彼の報復を恐れて口を割らなかった人物が一斉に悪事を告発した」
「あなたは」
「……」
キルノフスキーは口ごもる。記者は続けた。
「あなたに支払われた謝礼金の出どころについて調べました」
「なら解雇時に全額返したことも当然ご存じだろうね」
「汚れた金だと知っていたから、受け取らなかった」
「いいじゃないか、今更。いない者の悪事を暴いて何の意味があるんだ」
「それは――」
そこまで言うと、記者が言葉に詰まった。
「君の暇潰しに付き合う暇はない」
そう言い残して、キルノフスキーは再び歩み始める。記者は追ってこなかった。
ふん、と鼻を鳴らす。すると、背後から記者の声がわずかに聞こえた。
「――意味はある、絶対に」
それは何となく、自分に向けての言葉ではなく、記者自身に向けたもののような気がした。
「なぜ、口を閉ざすんだ」
デスクに腰を下ろして開口一番、マンフレッドは独りごちた。渋面で会社に戻ったマンフレッドに、思い出したくないんでしょうね、とボブキンズは言う。
「そもそもハイタワーホテルはただでさえ経営的に採算の合わない事業でした。そんなものの建築に関わったなんてこと、普通は忘れたいもんですよ」
「……それはそうだが」
「あ、そうそう。これ、頼まれていたものです」
ボブキンズはマンフレッドに帳面を差し出す。「オーナーから借りました」
船会社「U.S.スチームシップカンパニー」の従業員名簿だった。この会社もまた、マンフレッドのボスであるコーネリアス・エンディコット三世の持ち会社だ。
「よく借りられたな」
マンフレッドは帳面を受けとる。「緊張しただろう」
それはもう、とボブキンズは苦笑した。
「ストラングさんに言われた通り、石炭を積む作業員に絞ってあります。とはいえ他人の情報が記載されてますから、扱いは慎重に」
「わかってるさ」
「次はご自分でお願いします。あの人、顔怖いんだもの」
言い残し、ボブキンズは去る。
マンフレッドはぱらぱらと名簿をめくり、内容に眼を通した。その中に、ある名前を探していた。
(キジャンジ……)
ハイタワー三世がコンゴ・ロアンゴへ遠征に出掛けたさいに、出会った原住民族「ムトゥンドゥ」。
シリキ・ウトゥンドゥを守護神として崇拝していたムトゥンドゥの首長の名がキジャンジであった。そして最近、U.S.スチームシップカンパニーの末端に、「キジャンジ」と名乗る者が籍を置いているとの情報があったのだ。
(キジャンジ……キジャンジ……)
守護神を手放したムトゥンドゥはその後、他の民族の侵攻を受けて滅んだと、マンフレッドは聞いていた。
しかし、キジャンジなどそう多い名前ではない。もし本当にいたとすれば、ムトゥンドゥの生き残りである可能性もある。
(あった)
マンフレッドは蒸気船の従業員欄に、その名前を見た。
……キブワナ・キジャンジ。
これがあのキジャンジである確証は無い。しかし、会って話を聞いてみる価値はある。
まずは現場に行ってみよう、とマンフレッドは立ち上がる。
「ストラングはいるか」
と、自分を呼ぶ声がオフィスに響いた。
「何か?」
同僚が入り口を示す。
「受付にニューヨーク市保存協会の人が来てるぞ」
「協会……ベアトリス?」
「さぁな。話があるとか」
「忙しかったかな」
「いえ、大丈夫です」
マンフレッドがどうぞ、と促すと、マークはテーブルについた。マンフレッドは注文したコーヒーを2つテーブルに置き、正面に座る。
「それで、話って」
「行ってみたんだ」
「……行ってみた?」
「例の部屋だよ」
マークの言葉に、マンフレッドはマークを見返す。「居住スペースに、行ったのですか?」
「場所を教えてくれたろ。ハシゴは外されてたけど、適当なのを見繕ってこっそり上がったんだ」
好奇心でそこまで出来るものなのか、とマンフレッドは素直に感心した。
「何か、遺っていましたか」
マンフレッドの問いにいや、とマークは首を振る。
「言ってたような生活の痕跡は無かったな。あと、帳面の類いも。ツアー開始の前に片付けられたんだろうねえ」
「そうか――」
「でも全て破棄されたとは限らない。一部はどこかにあるかも」
「どこかに、ですか」
「そう。どこかに」
言って、マークはにやりと笑った。
「一度、ホテルに来るといい。会長にも伝えてあるから」
マンフレッドは、その言葉の意味が汲めなかった。
「伝えた、とは」
「今日、飛び入りで僕の客人を呼んだから、ツアーの相手をよろしくってね。ベアトリスはオーケーしたよ。それで来たんだ。部屋の話なんてついでさ」
そんな、とマンフレッドは焦る。「急にそんな約束を」
「嫌なら断れるけど?」
「別に、そういうわけじゃなくて……」
心の準備ができていない。前回ベアトリスとツアーに行ってから約ひと月。あの時、彼女とは少々後味の悪い別れ方をしている。
マークはメモを差し出した。
「この時間に、ホテルの裏庭の門の前にいてくれ」
言って、コーヒーを飲み干す。「じゃ後で」
「おい。ちょっと待てよ」マンフレッドは声を上げる。「ベアトリスは知ってるのか。その……来るのが僕だってことを」
黙ってひらひらと手を振り、店を出るマーク。
その背中を見て、マンフレッドは項垂れた。
チャンスと言えばチャンスだが、これは前回の二の舞になってしまわないだろうか。
September 11,1912 / 16:55:00
The Hotel High Tower, Park Place 1
「その……カミーラ。この絵、ほんとにここじゃないと駄目かしら」
協会員達によって庭園に運び出された絵を見て、ベアトリスは困惑したように言った。そこには17歳の頃のベアトリスの姿が描かれている。
「ええ、こんなに美しい絵は是非とも、ゲストの眼をひくこの位置に」
女性協会員……カミーラの示した先は、庭園の真ん中。古代ギリシャの女神像、エジプトの女王が並ぶ荘厳な中庭の中央に、その黄色いドレス姿の乙女の肖像は置かれることとなった。
「何と言うか……」
気恥ずかしい。そう口に出そうとしたところに、マークがやってきた。
「やぁボス。ご機嫌うるわしゅう」
ベアトリスとカミーラは声に振り返る。
「どっちに言ったの、マーク」
カミーラの問いにどっちもさ、とマークは答えた。
「どちらへ行かれていたの? さっきから、姿が見えなかったようだけど」
ベアトリスが尋ねると、マークは肩を竦める。
「仕事さ。ブルックリンの事業所が不調でね」
「ブルックリンに事業所なんてあったかしら」
「あれ? ナンタケットだったかな?」
「……あなたが嫌われている理由、名前のせいじゃなさそうね」
「おお、綺麗な絵だね」
マークは庭園をバックに描かれたベアトリスの絵をまじまじと見る。「誰が描いたの?」
「ハイタワー三世の従者です。ずいぶん昔の絵なのだけど」
「へぇ。どこにあったんだ、こんなの」
マークが尋ねると、カミーラとベアトリスが顔を見合わせる。
「ええっと」カミーラが言葉を濁した。「バックルームだったかしら」
ベアトリスは頷いて、にっこりと笑う。
「そうです。確か」
「そうそう」
カミーラも繕ったような笑顔を浮かべる。マークは怪訝な顔をした。
「――気味が悪いな、二人とも」
その時、カミーラは中庭の門に現れた人影を見て、真顔に戻った。
「ちょっと。あの男」
カミーラの示した先には、帽子を深く被ったスーツの男。
門の鉄格子の向こう側にいるその人影を見てベアトリスが息を呑むのを、近くにいたマークは感じ取った。
「彼は……マンフレッド」
「そう」
マークは不敵に笑う。
「彼が僕の客人だよ」
中庭には三人の協会員の姿があった。マンフレッドの姿を確認すると、マークより先に彼女が歩み寄って来る。
鉄格子を挟んで、マンフレッドは約ひと月ぶりにベアトリス・ローズ・エンディコットと相対した。
「懲りずにいらしたのですね。ミスター・ストラング」
「またお目に掛かれて光栄ですよ、ミス・エンディコット」
その会話の切り出し方は、まるであの時の心持ちのまま、またあの時のやりとりの続きを始めたような感覚を覚えさせた。
「ここ最近紙面がやたらに静かだと思ったら、こういうことでしたの」
ベアトリスは不快さを露に、マンフレッドに詰め寄る。
「あまり呪い、呪い、と騒がなくなったかと思ったら、今度はうちのスタッフを騙してホテルに忍び込もうという魂胆かしら」
「紙面で呪いについてあまり言及しなくなったのは事実です。どうも20世紀の人間は、よく知りもしない科学的思考によってそういう言葉を毛嫌いする傾向がある。しかしこのホテルには、保護だのツアーだのと祭り上げられるような価値などこれっぽっちもない。それは変わりません。
それから、誤解があるようなので訂正しますが、私はホテルに忍び込もうなどとは思っていない。オーメンさんに至極正統なやり方で取材を申し込み、ホテルの調査に協力していただいた。それだけです」
「ほんとにそれだけかしら?」
マンフレッドたちのやりとりを聞いて、マークは両手を上げた。
「まぁまぁ。このホテルもずいぶん綺麗になったんだ、せっかくだから、少しだけでも見せてあげようよ」
会長、とマークは媚びるように頭を掻いた。
ベアトリスは不承不承、頷く。
「そうね。ひと月かけて、このホテルも営業当時の姿を取り戻しつつあります。ホテルハイタワーの真の美しさを知れば、きっと貴方もツアーの重要性を認識するはずですわ」
ベアトリスは内側から門の鍵を開けた。
マンフレッドは三たび、そのホテルへと足を踏み入れることとなった。
September 11,1912 /17:20:00
The Hotel High Tower, Park Place 1
「あの時も、ちょうどこの位の時刻でしたね」
マンフレッドはしみじみと言う。
ホテルのロビーは明るく、電気が点いていた。かつて感じた、廃屋じみた薄暗さやカビ臭さが嘘のようだった。ロビー上方に描かれた彼の冒険の肖像も、こうして見ると美しい。
――あくまでも、虚偽に満ちた肖像(イメージ)であるが。
雰囲気だけを挙げれば、営業当時とほぼ同じだ。
「ずいぶんと、手を入れましたわ。殊に照明は」
カミーラが言う。
しかし、とマンフレッドは思う。ロビーの真ん中に置かれた円形ソファには、古びたコートとカバンが置いてある。
――そこに座っていた貴婦人の姿を、マンフレッドは今でも思い浮かべることができた。
13年前、パニック状態となったロビー。突然の暗闇が訪れる直前、ここには女性が座っていた。飛散するガラス。暗闇から逃れるように、出口へ走ったのだろうか。
そして、ロビーの一番奥にある、ゲスト用エレベーター。
――ハイタワー三世の墓標だ。
ギリシャのアテネを思わせる装飾(恐らく、本物の遺跡から略奪された)に縁取られた、鉱鉄製の扉は無惨にもひしゃげている。その隙間から、青黒い闇が見えた。
事件の記憶が鮮明に、マンフレッドの脳裏に甦る。
「さぁ、待合室へ向かいましょう」
ベアトリスの誘導に従い、マンフレッドたちはロビーの脇を抜け、待合室へ入った。
室内は照明で明るかった。四方の壁に飾られたいくつものハイタワー三世の冒険旅行の写真が、その明かりを受けて光る。
(……13年前の記者会見)
この決して広くないスペースにあの日、報道関係者は集められ、記者会見の開始を待ったのだ。ハイタワーの収集品がどのような過程でこのホテルに集まったのか、こういった写真からも見てとれる。
ひと月前は埃の堆積してひどい有り様だったこの部屋も、手入れが行き届いていた。
部屋の奥の扉、ハイタワー三世の書斎へと続く扉の脇に、拡大された写真が飾ってある。その写真には見覚えがあった。
ハイタワー三世がコンゴ川流域で撮った写真。
彼の隣には原住民の首長も写っていた。
(シリキ・ウトゥンドゥ)
写真のハイタワー三世は木彫りの偶像を腕に抱えていた。守護神とも言われるそれを手にした時の、彼の高揚感が伝わるようだ。そしてそんな彼に、首長……キジャンジの胡乱げな視線が投げ掛けられている。
「さて……」
カミーラが大仰に咳払いをした。「この、ホテル・ハイタワーにある貴重な収集品(コレクション)は全て、ホテルの創立者、大富豪で探検家のハリソン・ハイタワー三世が集めたものです。1899年12月31日、ハイタワー三世はホテルで記者会見を開き、アフリカの秘境で手に入れたこのシリキ・ウトゥンドゥという、奇妙な偶像を公開しました」
カミーラが写真を示し、快活な口調で続ける。
「そして彼はその夜、行方不明となりました」
「カミーラ」マークが横槍を入れる。「もっとそれっぽく頼むよ」
「そしてその夜。彼は──行方不明となりました……」
「いいね。間の取り方が最高」
言われて、カミーラは子供のようにはしゃぐ。
マンフレッドは息を吐いた。
「……なんですか、これは」
「ホテルという神秘の世界へゲストを案内する協会員は、要所要所でこうして説明を入れるのです」
ベアトリスが答える。なるほど、とマンフレッドは苦笑した。
「君は本当に、趣味がいいな……」
「さぁ、次は書斎です」
ベアトリスが扉を押す。ぎぃぃ、と嫌な音を立ててそれは開いた。
ステンドグラス越しに陽光が射す。天井は高く、まるで中世の礼拝堂のようだ。だがステンドグラスに描かれているのは神や天使などではなく、ホテルを背にこちらを見つめるハイタワー三世だ。照明は真新しかったが、雲と陽光の加減だろうか、部屋が妙に薄暗く感じた。
あるいは、ゴシック様式の柱の上に置かれた偶像のせいかも知れない。
部屋の最も奥まった場所に、その偶像はあった。
(……シリキ・ウトゥンドゥ)
右手に槍を持ったその小柄な木の像は、柱の上からマンフレッドたちを静かに見下ろしていた。もっとも、その双眸はぴったりと閉じられていたが。
「この偶像が、シリキ・ウトゥンドゥ。落下したエレベーターから見つかったのですが、ハイタワー三世は謎の失踪を遂げました」
カミーラは抑揚の無い声で言う。
「それではハイタワー三世の失踪の鍵を握る、最後の記者会見の録音を、お聞きください」
カミーラが三人に向き直る。そして、書斎の机に置かれた蓄音機に手をかけた。……その時。
「会長!」
突然、書斎の扉があわただしく開く。
眼鏡を掛けた、男性の協会員が飛び込んできた。
「会長、大変です。緊急事態です」
「どうしたのです?」
ベアトリスの声は落ち着いていた。協会員は明らかに狼狽していた。こちらを見て、マンフレッドに聞かれるのを憚るような素振りを見せた。
「その方は客人です」ベアトリスは言った。「何が起きたのですか?」
「え、エレベーターが……原因不明で……」
協会員は、こう言った。
「ツアーBのエレベーターが緊急停止しました。理由がわかりません……原因、不明です」
その言葉を聞き、全員が息を呑む。マンフレッドの背中に、冷たいものが走った。
One day,1899/ --:--:--
The Territory of Mtundu Tribe,Congo Loango
ボートが桟橋に接岸するや、植物でできた簡素な衣装を纏った原住民たちが、ハイタワー三世の探検隊を笑顔で迎えた。探検隊は十数人いたが、迎えた原住民はその倍以上だった。
ハイタワー三世は上機嫌で案内に着いていく。ジャングルの奥にあったのは集落だった。彼らはすぐさま歓迎の席を設け、ハイタワー三世を取り囲む。ここへ至るまでに数多くの苦労を強いられた探検隊は、ほっと息をついた。
だが、あまりに友好的な彼らの態度に違和感を覚える者がいた。ハイタワー三世の従者、スメルディングだ。
(ムトゥンドゥは、周辺で最も恐ろしい部族ではなかったか)
スメルディングは背筋に薄ら寒さを覚えながら、歓迎の宴に出た料理を口にした。
「これは」
同じく、料理を口にしたハイタワー三世も顔をしかめる。
「なんだ、これは。ろくに火が通っていない」
ハイタワー三世は自身の違和感を伝えると、ムトゥンドゥの首長、キジャンジは「一族の守護神が火を嫌うのだ」と答えた。
「守護神だと?」
ハイタワー三世はスメルディングを見た。せせら笑うような顔だ。スメルディングは返す言葉が見つからず、キジャンジを見る。彼は、シリキ・ウトゥンドゥ、と呟いた。
「シリキ・ウトゥンドゥ」「シリキ・ウトゥンドゥ」
周囲の原住民がぼそぼそとその名を口にする。
「どこにあるのか、聞いてみろ」
ハイタワー三世はスメルディングに言った。スメルディングは簡単なスワヒリ語で、どこにいるのか、とキジャンジに尋ねた。
キジャンジは小さく笑って、立ち上がる。案内する、とでも言いたげだ。
スメルディングが立ち上がるより早く、ハイタワー三世はキジャンジに着いていった。
「お、お待ちください、御主人様!」
村の中央の祭壇に、それは安置されていた。
祭壇といっても、周囲の空間とそのシリキ・ウトゥンドゥを遮るものは何もなかった。
像自体も、ただの木彫りに過ぎない。
意外に簡素なのだな、とスメルディングは思った。ハイタワー三世は注意深く偶像に見入る。そして、「持たせてほしい」と願い出た。キジャンジはあまり乗り気ではなかったが、スメルディングの懇願が効いたのか、幸いにも撮影まで許可が下りた。
ふと、偶像を手にしたハイタワー三世がこんなことを口にした。
「……このちっぽけな村を見下ろして、お前は満足か?」
言って、ハイタワー三世は不敵に笑む。スメルディングはああ、と声を漏らした。
(また始まった)
御主人様は、この偶像を持ち帰ろうとしている。
今までも、彼は旅の中で多くの芸術品を持ち帰った。正当に買い取ってではない、略奪によってだ。
この偶像はそれらの収集品と比べるまでもなく質素なものであるが、それでもムトゥンドゥにとっては守護神である。
「御主人様、いけません」
スメルディングは小さく呟く。ただでさえ、今は部族に囲まれている。満身創痍の探検隊が武力でかないようはずもない。
だがスメルディングの願いも空しく、ハイタワー三世の手は、自身の懐へとのびていた。
ハイタワーの一行はカヌーで川を下る。部族は銃に恐れをなしたのか、追ってこなかった。シリキ・ウトゥンドゥを手に入れたハイタワー三世は上機嫌だった。しかし、ムトゥンドゥが全くの無抵抗で守護神を手離した理由が、スメルディングには分からなかった。まるで、わざと奪わせたようではないか。
「御主人様、他の部族が」
スメルディングは草間からこちらをうかがう人影に気付いた。探検隊は銃を構える。だが不思議と、彼らは襲ってこなかった。
カヌーに乗せられた偶像の姿を確認するや否や、弾かれたように立ち去るのだ。
(これは……いったい)
スメルディングは自分が何か、とんでもない失態を演じた、そんな気がした。
September 11,1912 /17:55:00
The Hotel High Tower, Park Place 1
「制御盤にも、異常はありません。これ以上は専門の業者を呼ばないと」
協会員の言葉に、ベアトリスは息を吐く。
「仕方ありません……しばらく、ツアーは中止に」
「かしこまりました。すぐにアナウンスを」
眼鏡の協会員は走り去る。
「カミーラ、手配をお願い」
「承知しましたわ」
バックヤードにはマンフレッドとマーク、ベアトリスが残された。
「人が乗っていなくてよかったよね、ほんとに」
マークが呑気に呟く。マンフレッドは声を上げた。
「そういう問題じゃ、ないだろう」
ベアトリスはマンフレッドを睨んだ。
「まさか、これも呪いのせいだなんて仰るのではないでしょうね」
「僕はこのことが呪いのせいかどうかよりも、このツアーが安全かどうかの議論をしたいところですが」
マンフレッドはベアトリスを見返す。「とにかく、このことは市民に知らせるべきだ」
「ちょっと!」
カミーラが戻ってきた。
「偶像が無いのだけど」
「なんだって」
マークがカミーラを追う。書斎に戻った四人は、柱の上にあったはずの偶像が忽然と消えているのを確認した。
「まさか……そんな」
マンフレッドは言って、書斎を立ち去る。
「待てよ」
マークがその背中を追う。
ホテルを出て、マンフレッドは暫く呆然としていた。
起こるべきことが起こった。いや、これは何かの前触れかもしれない。
――前触れ。これまでで最も、不吉な「何か」が起こる。
「待てってば」
思索するマンフレッドに声をかけてきたのはマークだった。飄々とした普段の彼からは想像しがたい渋面でこちらに詰め寄る。
「マーク」
「さっきのこと記事にするつもりか」
捲し立てるような口調で彼は言った。マンフレッドは息を吐く。重い、溜め息になった。
「それで、ツアーが中止されるのなら」
「会長はどうなるんだ」
マークはマンフレッドの腕を掴み、険のある口調で続ける。「偶像は消え、エレベーターは停止。……きっと何か勘違いした協会員が偶像を移動させたんだよ。エレベーターだって誰かが乗っていたわけじゃない。誰も被害を受けてないじゃないか」
「だが、マーク。ツアーを中止するには、充分な材料なんだよ」
「それで記事にしてみろ、槍玉にあがるのはベアトリス女史なんだぞ。彼女を傷つけてもいいのか」
何も言い返せなかった。ベアトリスを敵に回したくないのは事実だ。
マークはマンフレッドの腕をほどき、低い声で言った。
「調査に協力するとは言ったけど、このことを記事にするならもう協力はしない。これっきりだ」
「待て」
きびすを返す彼に声をかける。
「わかった。記事にするタイミングは、また考え直す」
だが、とマンフレッドは続けた。
「君たちは市民に、説明する責任がある。それでもツアーを続けるかどうかは、ベアトリスの判断だ」
マークは振り向き、頷いた。
「わかった、そうするよ。あんたが話の分かる記者でよかった」
September 11,1912 /21:59:59
The Hotel High Tower, Park Place 1
深夜までホテルに残ったベアトリスは、呆然としていた。
起こるべきでないことが起こっている、とベアトリスは思った。メイヤーズ社曰く、巻き上げ機にも制御装置にも問題はない。エレベーターを作った奴に聞けとも言われた。
しかし、このホテルのエレベーターを作った会社などとうになくなっている。
(誰かが邪魔しているのよ)
偶像の消失にしろ、エレベーターの停止にしろ、誰かがツアーの邪魔をしているとしか思えない。
「止まった」原因が分からないというのなら、誰かが「止めた」のだ。そこに「呪い」という結論を挟み込むのは短慮としか云いようがない。
(だとしたら、誰が)
無数のタペストリーが飾られた部屋で、ベアトリスはエレベーターの扉を睨む。
その時だった。
――ペタペタペタ………。
ベアトリスのいる部屋の外、倉庫の廊下から湿った音が聞こえた。子供の足音のような音。
振り返ると、木製の壁の間から青黒い闇が見えた。ベアトリスは廊下を覗く。出入口の方には誰もいない。
――ケケケケ。
上層の方から声がした。笑い声のようだ。
ベアトリスは階上を見上げた。
「誰かいるの」
タマスの不気味な像が吊られているあたりに声を上げた。こんな時間に倉庫をうろつく人間がいるとしたら、まさか。
(捕まえてやるわ)
ベアトリスは廊下に出でて、階段を駆け登る。
September 12,1912 /08:19:00
NYCPS Office,Carlucci Building 3F
「顔色悪いぞ、ボス」
事務所に入るなり、マークは机に頬杖をつくベアトリスに声を掛けた。
「……ボスはやめて」
「昨日は徹夜?」
「ちょっとね。ツアー予約者に謝罪の手紙を書いていて」
言って、ベアトリスは唸る。
「今日は早いのね」
「昨日の対応に追われてね。カミーラの奴は」
「彼女は倉庫に。本当は非番だけど、コレクションのリスト作り。ほんと、頑張ってる」
言って、ベアトリスはうんと伸びをした。
「なぁ、ほんとに大丈夫か? 無理しすぎじゃないか」
マークは 心配げにベアトリスを覗きこむ。ベアトリスは半眼でマークを睨んだ。
「父みたいなこと言うのね。それとも父に言われて協会に来てるから?」
マークは一瞬ぽかんとベアトリスを見返し、すぐに苦笑した。
「知ってたのか」
「当たり前でしょう。あなたと父の関係くらい、お見通しです」
「あー、でも大丈夫。逐一報告なんかしてないし、よほどのことがない限りお父さんは君の好きにさせるさ。だから、あのさ、そんな眼で見るなって」
「……でも確かに、今日はちょっと疲れてる」
「昨日何かあった?」
「情けない話なのだけれど」
ベアトリスは昨日、倉庫で人の気配がしたので、それを追い倉庫内を走り回ったのだと語った。ホテルにおける物品の移動、エレベーターの停止。それらに関わる何者かが潜んでいるに違いない、とあのときは確信していた。
「今考えるときっと猫か何かだったのね、途中で気配が途絶えてしまったし。必死になって、馬鹿みたい」
「そう……」
真面目な顔で頷くマークに、ベアトリスは笑った。
「あなたの言うとおり、疲れてるみたい。ほどほどにするわ」
「それがいいね」
ところで、とマークはある封筒をベアトリスに差し出した。白い、飾り気のない封筒だ。
「最新号が来てる」
「ああ……」
ベアトリスは溜め息をつき、封筒を受け取った。封筒には「ハイタワー三世とその周辺に関する調査書」とある。
「困った記者さんね、本当に」
「君の目を汚すだけだと思う。捨てておこうか」
「いいえ、いいの。後で読むから」
そう、とマークは頷いた。ベアトリスがまるで宝石でも眺めるような眼でその封筒を見つめているので、マークは内心、笑いが止まらなかった。
「ツアーは今、中止ですよ」
不意に掛けられた声に、アーチーは弾かれたように振り返った。そこには女性の、ニューヨーク市保存協会員の姿があった。
彼女は柔らかい笑みを浮かべている。
アーチーは胸を撫で下ろす。敵意は無いらしい。
「迷ってしまったようだ」
アーチーは首を振り、困惑したように言った。「出口はどっちかね、お嬢さん」
彼女は笑みを崩さないまま、応える。
「暗い倉庫の中を灯りもなしに歩き回っていたようでしたから、慣れている方かと思いましたわ。それこそ」
訝しげに、彼女は首を傾げた。
「――目を瞑っていても歩けるくらいに、ホテルに詳しいような方」
協会員の語りは、まるでこちらのことを見透かしているかのようだった。自分のことを知っているとなれば、敵意は無くとも、それはアーチーにとっては危険な存在だ。
「君は誰だい」
「見てわからないかしら」
言って、彼女は制服を見せびらかすようにくるりと回った。
「関係者なの」
「ほう……」
なるほど、とアーチーは笑った。
「じつは私も関係者なんだ。見てくれじゃ、わからんだろうが」
「そうね。係員の案内も無しに秘密の倉庫までたどり着ける老人なんて、そういないわ」
「真新しい制服だね。新入りかい」
「新入りじゃないわ。見た目より、けっこう長いこと此処にいるの。カミーラよ、よろしく」
「アーチーだ。よろしくついでに何だが、私に会ったことは……」
「誰にも言うなって?」
カミーラの笑みが、先程よりも不敵なものに見えた。
「そうだ。話のわかるお嬢さんでよかった」
「わかるわ。だって素晴らしいじゃない、このコレクションの数々。そのひとつひとつに、人々の魂を感じるわ」
「魂……」
アーチーは彼女の言葉に息を呑む。
「魂の存在を、君は信じるのかい」
「ええ。どうして?」
いや、とアーチーは首を横に振る。
「何でもない。……内緒にしてくれるお返しに、よかったら案内しよう。コレクションひとつひとつが、どういった経緯を辿りこの倉庫に行き着いたのか。それを知る者はもはや、そう多くない」
「ええ、是非」
カミーラが差し伸べた手を、アーチーはとった。彼女にはどこか普通の人間とは違う、独特の『気配』があるように思えた。
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