GASLIT STREET C06 「鳥撃ちと不動産」
ローズは受話器から耳を離し、胸を撫でて安堵した。
「それで、アイリスは家にいるのね」
そのようだ、と返すマークの語調は落ち着いていた。
〈疲れた様子ではあるけど、家でゆっくり休んでるってさ。なんて言ったっけ、粗野な言葉遣いの同居人の〉
「オリンダ?」
〈そう、その人〉
「……誰に、なんの用で呼び出されたとか、そういうことは分かった?」
〈いや。そこまでは聞けなかったな〉
「そう……でも、安心した」
心配そうにデスクからカミーラとモーリスが顔を覗かせているのが見え、ローズは笑んで頷いた。
ありがとう、と礼を言って電話を切り、ローズは2人を見た。
「大丈夫そうでしたか、アイリスさん」
モーリスが語調に不安を滲ませて言った。
「アイリスは家にいたの。ゆっくり休んでいるそうよ」
「そうですか──」
モーリスは息を吐く。よかった、とカミーラは胸を撫で下ろした。
既に日は落ちていたが、3人は事務所に詰めたままマークからの連絡を待っていたのだった。
「私、アイリスさんをあのまま行かせてしまって、本当に後悔していたんです。危ない人に呼び出されたのかもしれないなんて……」
「自分を責めないで、カミーラ。元はといえば、アイリスを手伝わせてしまったのは私なのだから」
言われて、カミーラは掛ける言葉を失ってしまった。ローズも自責の念に苛まれていたのだ、と思い当たった。カミーラと同様か、あるいはそれ以上に。
「でも何で、今さらアイリスさんは戻ったんでしょうか」
モーリスが言う。「だって半年間も協会のことを放ったままだったんでしょ?」
モーリスの言葉の端には、僅かだが不満が滲んでいた。そんな言い方、とカミーラは首を振る。
ローズは受話器から手を離し、デスクに腰掛けた。
「アイリスは立ち上げ当時、誰よりもよく考えてくれたし動いてくれた。私や、協会の為にね。真剣だったし、だからこそぶつかることもあった。それで──」
ローズは言葉を詰まらせる。
「……後悔の残る別れ方を。彼女がここへ来れなかったのは全部、私のせい。アイリスは私を許し、手を貸してくれているのよ」
ローズはモーリスを見た。
「アイリスはよく誤解される。そっけない風に見えるし、ものを言う時ははっきりと言う。でも、素敵な人なの。強くて、優しくて、面白い。……腹話術の芸は、本人が思っているより今ひとつなのだけど、欠点は本当にそれくらいなの」
モーリスは申し訳無さそうに頷く。
「すみません。悪く言うつもりは」
「いいの」
けれども、とローズは続けた。
「ここまで来るのに、私たちや支援者たちは多くのものを失い、傷つきました。──ほんとうに、事務所を畳むことも考えるべきなのかも」
ローズの沈痛な声に、カミーラはただ頷くしかなかった。
CHAPTER 6
FOWLERS
ウォーターストリートのダイナーで電話を借りたマークが、電話のブースから戻ってきた。
「ローズに伝えたよ。とりあえずアイリスは無事だった。今はそれで良しとしようか」
疲れたように呟くマークに、マンフレッドはそうだな、と相槌を打つ。
「酒、頼む?」
「気分じゃない……伝えるべきことが伝えられずにいるままだ」
暗い海縁の欄干にもたれ、マンフレッドは呟いた。
「アトラス不動産……」
「こっちでも、調べられそうなことは調べたよ。アトラス不動産は界隈じゃ悪徳不動産で有名だった。表向きは格安で一等地を提供する優良企業。でもその裏では元いた住人を無理矢理立ち退かせ、応じない人達には脅しに嫌がらせ。無法者達のフロント企業が前身らしいんだけど……ヴィクター・モンローはその大口の株主。彼自身もいっぱしのビジネスマンのようでいて、実際は摘発を逃れたギャングだよ」
まったく、とマンフレッドは苦笑した。
「まさに呪われたホテルだな」
「今、僕も同じことを思った」
「とすると、アイリスを手紙で呼び出したのは」
ヴィクターなのか、の意を含んだマンフレッドの問いに、マークは頷いた。
「その可能性はあるだろうね」
マークは神妙に言って、マンフレッドと同じく柵に寄りかかる。
だとしたら、とマンフレッドは続けた。
「アイリスは何かを言われたんだろう。何を言われたと思う?」
問われると、マークは苦笑した。
「分かんないけど、悪の親玉がいう事なんてだいたい想像がつくだろ。首を突っ込む奴は殺す、とかなんとか」
「……ずいぶんと危ない橋を渡っているんだな、アイリスは」
危険だと思うし、怖ろしい、ともマンフレッドは思う。だが同時に、その悪意は白日の下に晒さなければならない、と強く感じているのも事実だった。それは義憤などではなく、極めて個人的な感情だった。
ホテル・ハイタワーの保護は停止されなければならない。
しかし、それはローズ自身の意思で行われるべきであり、暴力に屈する形で為されるものではないはずだ。
ローズの意志を暴力で折ろうとする無法者に与するつもりは無かった。
「彼らを探ろう。手伝ってくれるかい」
マンフレッドはマークに声をかける。
ああ、とマークは当たり前のように頷いた。
「何を調べればいい?」
「そうだな……まずは、彼らの日頃の仕事ぶりを見学してみよう。調査は僕の方でやるから、君には何とかアイリスとコンタクトを取ってほしい」
⚜⚜⚜
「……おはよ、オリンダ」
オリンダが早朝のスタジオに入ると、アイリスが教室の床に練習用のマットを敷き詰めているところだった。今朝も鍵が消えていたので肝を冷やしたが、このあいだのように踊っていたのだろうか。
「わざわざご用意どうも。出るときは声掛けてって言ったよな?」
「大丈夫だから。気にしないで」
「やだよ。あんたに、もしものことがあったら」
「子供じゃないのよ?」
「そうだな。でも病人だ」
オリンダの懸念は正しい、とアイリスは思う。自分の意思とは関係なく、就寝中に出歩くのは言うまでもなく危険だ。家が家なら部屋に外付けの鍵が付くだろう。
「……それ、いいな」
話題を変えるように、オリンダがアイリスの紺のズボンを示して言う。アイリスは振り返って口をぽかんと開けた。
「──なに?」
「そのズボン。紺のやつ」
「ああ、これ。協会の制服のキュロット」
「制服なんてあるの? あのお茶会に」
「可愛いでしょ、動きやすいし」
「ていうか、結局ローズ親衛隊に戻ったんだ」
オリンダの軽口を聞き流し、アイリスが訊ねる。
「久しぶりに組手をしてくれる?」
「……珍しいわね。いいけど、レッスン料をいただくよ」
「うっそ。そんなこと今まで無かったのに」
「お試し期間は過ぎてるからね」
むくれた顔で睨んでくるアイリスに、オリンダは笑顔で返す。
「冗談だよ。これからあたしを──師匠とお呼び」
袖をまくって、マットに乗ったオリンダが構える。アイリスは首を振って答えた。
「……師匠は持たない主義なの」
「それを弟子側が言うか?」
アイリスは僅かに笑むと両手を顔の前に構え、上半身を低く沈めた。
⚜⚜⚜
「ほら、予備動作が見え見え」
アイリスの回し蹴りを後退して避けながら、オリンダが言う。
「避けながら捻る。そうすれば相手に見えない。脚を回すな、腰を捻るんだ」
オリンダは地に手を付いて腰を捻る。それに着いていくように、勢いを乗せた蹴りがアイリスの眼前を通過した。
「うわぁ」
「……避けないと当たるぞ」
立ち上がったオリンダが笑った。
「普通は当てずにスキを見て逃げるんだ。女は戦わない。警官と戦っても捕まるだけだしな」
「あたしが戦うのは警官じゃない」
アイリスは言って、逆立ちした。
「逃げちゃ……だめなの!」
キュロットに包まれた脚がぐるぐると回る様子に、オリンダは苦笑した。
「やっぱり次は当てる」
⚜⚜⚜
ブロードウェイの高架駅の階段を下りながら、アイリスはわずかに腰を押さえた。
「いった……」
朝の稽古で疼痛が残った。オリンダは加減を知っている。この痛みが後に引くものではないことをアイリスは理解していた。
──これでいいんだ。生半可なものでは意味がない。
アイリスは通りに降り立った。
事務所に行くことを考えたが、思い留まる。
あの男に付け狙われている可能性が僅かでもある今、あそこに行くのは得策ではないかもしれない。
そんなことに今更ながら思い至り、そぞろ歩いた末に着いたのはニューヨーク・デリだった。場所は事務所の眼と鼻の先、たいして意味があるとも思えないが、ふとマークやマンフレッドのことを思い出し、寄っていくことにした。
ベーグルを2つ注文し、空席を探して店内を見渡す。
と、客席でアイリスを見て手を上げる人影があった。
⚜⚜⚜
「フレッドは今、調べものをしていてね。君が来たら話そうと思ってた」
マークの語調は他聞を憚るように低かった。
「手短に話すよ。ホテル・ハイタワーの所有者の記録を調べた」
アイリスはマークを見返す。
「調べたの? どの時期まで」
「とりあえず、遡れるところまで遡ったよ。まずはこれを見てほしい」
マークは言い、テーブルにメモ帳を開いた。アイリスはベーグルにかぶりつきながらそこに視線を落とす。
「エドワード・ハモンド。この人物がまず、ハリソン・ハイタワー三世失踪の後で土地管理者の代理人になっていたよ」
「誰? 管理者の代理って……」
「さぁね。ハモンドって人がハイタワー三世とどういう関係だったのか、はたまた無関係なのかはまだ調べてる途中。とにかく、彼はいくつかの不動産会社を通して複数の人間に土地を売却してた。中でもほら、この仲介の欄に載ってるアトラス不動産って名前があるだろ」
メモ帳に列記された名前を見て、アイリスは頷く。マークは早口で続けた。
「この不動産会社は裏組織の持ち物だった。株主の名前はヴィクター・モンロー」
アイリスは咀嚼を止めて、目を見開いた。マークはその様子を見て、眉を顰める。
「ヴィクター──知ってる名前かい?」
意表を突かれてアイリスはマークを見返す。
「知っていた……かも」
「かも?」
「ずっと昔のことだから」
意味を汲みかねて、マークは首を傾げた。
「それはどういう意味? いや、余計な事だったら聞かないけど」
アイリスは首を振る。
「どうせ、思い出さなきゃいけないことだし。聞いてくれた方がいいんだと思う」
⚜⚜⚜
ストリートの一画、同じように立ち並んだ雑居ビルのひとつが、アイリスの育った劇場だった。その劇場と、所属する劇団の運営を担っていた父アルフレッドの元には度々訪れていた「特別な友人」がいた。
──ジョセフ・ハミルトン。
彼はいつも、普通とは違う高値の席から公演を見ていた。いい仕事を持ってきてくれるんだ、とアルフレッドは言っていた。
その傍らにいた人物。特別な客人の付き添いだった若者。
ヴィクターと呼ばれていた彼は、あの夜──劇場が燃えた夜も来ていた。
ただし、彼一人で。
「君のお父さんは何処かな。ちょっと挨拶したいんだ」
彼──ヴィクターはその時、関係者用の通路を通り、楽屋の前にいたアイリスに声を掛けてきた。
「父はマネジャー室です。階段を上がった先の」
言って、アイリスは疑問を投げた。
「今日はハミルトンさん、いないんですね」
彼が一人でいるのを見たのは、その時が初めてだったからだ。
ヴィクターは答える。
「ボスは体調を崩してね。先日の仕事の『お礼』を、俺が代わりに伝えに来たんだ」
ありがとう、と言い添え、ヴィクターは階段を登った。唐突に1人で現れて階上へ消えていく彼の背中を、アイリスはその時、怪訝に思いながら見送ったのだった。
⚜⚜⚜
アイリスは客席のテーブルで頭を抱えた。
「火災があったのはそのすぐ後。両親は火災が原因で」
「亡くなったんだね?」
「……そういうことになってる」
アイリスの言葉に、マークは深く息を吐いた。
「ヴィクターはビジネスマンのような顔で街を闊歩しているけど、もとはバワリーを中心に活動していた裏社会の人間だ。ファウラーズってギャングの構成員だった。1899年末に摘発を受けて組織自体は解散してるけど。……ひょっとしたらホテル・ハイタワーの不動産売買には、裏があるのかも」
そして、とマークは付け足す。
「ジョセフ・ハミルトンはファウラーズで最期のリーダーだ。これは推測だけど……君の劇場はたぶん連中のシマにあって、関係を持たざるを得なかったのかもしれない。お父さんがやっていた実入りのいい仕事って、危ない仕事だったんじゃないかな」
アイリスは頷く。
「じゃあ、あの火災は」
「さしずめ、粛清だったんだろうね。ファウラーズはそういうこともやってきたって聞いてる。そうして粛清を行う前後、現場近くに鳥の死骸を飾るように置くそうだよ」
「鳥の死骸? ……そうだ」
アイリスははたと思い当たった。
火事のあった日、劇場ビルの外壁の油灯に引っ掛かっている鳥の死骸をオリンダが発見していた。片付ける時に劇団員たちも験が悪い、と言っていたのを覚えている。
「ファウラー、とは鳥撃ち……狩人を意味する。狙った獲物は逃さない、とでも言いたいんだろうね」
マークは重々しく言った。
アイリスは、ヴィクターとの会話の中で「信頼を裏切る」という言葉が出てきたのを思い出した。父アルフレッドが無法者と結託して悪事を働いてきた──そう考えると、すべての辻褄が合う。
「そのファウラーズの奴が、突然また現れたってこと。……あたしの前に」
「カミーラの言っていた、あの置き手紙。やっぱり彼が残したものだったんだね」
マークの言に、アイリスは頷いた。
「あいつは、あたしを呼び出した上で、全部認めた。市民を集めて抗議したのも、議員を消したのも自分だって」
「議員……君の言っていたウィッテンバーグ氏のことかい」
こくり、とアイリスは頷く。
「仲間が片を付けた、奴はもう脅威じゃない、って」
「それにしてもアイリス、よく気付いたね。抗議の集団とウィッテンバーグ氏の失踪に関連があるなんて」
「議員のことはローズから聞いたの。気づいたのはほぼ偶然」
「なるほど」
言いながらマークは、アイリスの言をメモに書き留めていた。それを見て、アイリスは一瞬、息を詰まらせる。
『もう脅威じゃない』
そこに書かれた自分の言葉を見つめたまま、アイリスは思案した。
──ウィッテンバーグ議員は、ヴィクターの脅威だった。それがもう、脅威じゃない。ヴィクターの仲間が片を付けた。
(片を付けた?)
「どうかした?」
マークの問いに、はっとしてアイリスは顔を上げた。
「議員が生きているってこと、ない?」
「──何だって」
「『片を付けた、脅威じゃない』とヴィクターは言った。それって、少なくともウィッテンバーグ議員がヴィクターにとって脅威だったってことよね。彼の何が、脅威だったのかしら」
「そりゃあ、彼はローズと同じくホテル・ハイタワーの保護を推進する立場だった。ヴィクターにとっては、ホテルの存在が邪魔だったんだ。不動産の売買には裏があった……その発覚を恐れて、ホテルが注目されるツアーを中止させたかったのかも」
だとしても、とアイリスが遮る。
「──やっちゃうかな、人を1人、それだけの理由で」
「それは……」
マークは首を捻った。アイリスは続ける。
「殺したと言ってもよさそうなものを、敢えて『片を付けた』って表現した。脅し文句に使うんだったら、明らかに前者の方が効果的なはず。でもそうは言わなかった」
「ヴィクターはウィッテンバーグ議員を殺していないってこと? さすがに殺人はリスクが高いと判断したのか。それとも、その気でいたけどできなかったのか」
マークの言葉に、アイリスは頷く。
「その通り」
「それで、彼が生きていたとして、状況は変わりそう? ヴィクターは脅威じゃなくなったとまで言ったんだ。金を掴まされ、街を出て雲隠れでもしてるか、でなきゃ病院送りになってるかもね」
「──逆だわ。かつては脅威だった、とまでヴィクターに言わしめている。それだけの何かをウィッテンバーグ議員は持っていた、とは考えられない?」
「何かって、いったい何を」
マークの問に、アイリスは口をすぼめた。
「……分かんない」
マークは無言で首を振り、肩を竦める。アイリスはでも、と意気込んで前のめりになった。
「彼の周辺を調べてみたい。──それでヴィクターの弱点が分かるかも」
⚜⚜⚜
マンフレッドはホテル・ハイタワーの前にいた抗議集団を見張っていた。見張りを始めてすぐに、彼らのうち数人がその場を離れるのを確認した。
(移動するのか)
座っていたベンチを立ち、マンフレッドはそれまで手に持っていた新聞を畳む。彼らの後を密かに追いながら、あれがアイリスの言う無法者達か、と確信した。彼らの動きは明らかに計画的で、誰かの指示を受けていることは一目瞭然だった。
迷いのない足取りは、目的地が明確であることの証左である。
賑やかな劇場通りの景色は次第に変わり、通りの両側に何の変哲もないアパートメントが建ち並び始めた。住宅街の一角、古びたアパートの前で、彼らは足を止める。強面たちの姿を見るや、通りの住人たちは彼らの素性を知ってか知らずか建物に隠れ始める。
マンフレッドは手前の建物の陰に身を隠し、何気ない風を装って新聞を広げた。
アパートは丸ごと無人の廃墟のように見えた。
もっともマンフレッドの目にそう見えただけで、誰かしらは住んでいるのかもしれないが。
男らはアパートの半地下の窓に近付いて中を覗き込んだ。窓といっても、外側から板張りがされて内側を見ることはできない。
一人の男が覗くのを諦め、苛立ちを露わに舌打ちした。
「塞ぎやがって、面倒くせぇ」
吐き出すように言ったあと、男は玄関に回ってドアを乱暴に叩く。
「ごめんください。アトラス不動産です。立ち退きの件、考えて貰えましたか?」
かなりの大声だったが、内側からの返事はない。
マンフレッドは息を呑んだ。
(──アトラス不動産)
別の男が板張りの窓に手を掛けた。壁を蹴り、乱暴に剥がす。木の板は粗末な釘で打ち付けられていたが、それを外すまでもなく、板の方が大きくしなって割れた。
窓にガラスは無かった。
男はそこへ顔を覗き込ませ、せせら笑うように言う。
「何だ、いるじゃねぇか」
玄関にいた男は作り笑顔で窓へ近付き、声を掛けた。
「いやぁ、これはこれは。心配しましたよ、いらしたんですねえ。……先程申し上げたように、ここを退いていただければ、少しばかりの金を渡す用意があります。どうです? ここらで乗っておいた方が」
何某かの返答があったが、仔細は聞き取れなかった。しかし、男の作り笑いがみるみる引きつっていく。
「てめぇらの住む場所なんざ知るか! ここはもう俺らのモノなんだよ」
叩きつけるように男は言い、剥がされた板を窓の内に投げ込んだ。「こっちがいつまでもいい顔してると思うな。虫ケラどもが」
物音と共に、部屋の中から今度は明瞭な声がした。
──子供の泣き声だった。
マンフレッドは顔を歪める。
(……卑劣な)
マンフレッドは彼らの後について、いくつかの場所を転々と回った。どの場所へ行ってもすることは同じようだった。
部屋に汚水を撒く、水道管を壊すなどの嫌がらせを行い、住人に立ち退きを強いる。罰当たりなことに、標的の中には教会までもがあった。
マンフレッドは開いた地図に印を付け、彼らの回った場所を書き記す。そうやってアトラス不動産の記録をつけながら、マンフレッドは思う。
──起こってはならないことが起こっている、と。
⚜⚜⚜
ニューヨーク・デリへ着くと、マークが客席で待っていた。
その正面にはアイリスの姿もあった。
疲れた顔をしてこそいたが無事のようで、とりあえずマンフレッドは安堵の息を吐く。
「おかえり。収穫は」
マークが手を挙げて言う。
「あったよ、ひどいものだった。──失礼」
マンフレッドは苦い顔をして答え、珈琲をテーブルに置いてマークの隣に掛けた。
アイリスは僅かに眉根を寄せ、カップを両手で抱えるようにして座っている。脇に空の平皿が2枚重ねて置いてあった。
その様子が拗ねた子供のようで、不謹慎ながらも笑ってしまった。
「無事でよかった、アイリスさん。──昨日は不審な人物に呼び出されたって聞いたから」
マンフレッドの言にすみません、とアイリスは目を伏せた。
「ご心配をおかけしたみたいで。あと……色々とお調べいただいたようで、ありがとうございました、ホテルの件」
「ああ、いや。大したことは」
マンフレッドは手を振りながら、妙にしおらしいアイリスが心配な気分になった。
それで、とマークはマンフレッドを見る。
「あらかたの事はアイリスに伝えたよ。どうだったの、連中の仕事ぶりは」
「そうだな……」
マンフレッドは珈琲を一口飲み下し、かいつまんで自分が見たものを伝えた。
マークは深いため息をつき、アイリスは難しい表情で押し黙っていた。
「彼らはニューヨーク中に土地を持っていた。それらの土地にある建物……住宅、商店、教会。何であろうと、そこに住む住人を追い出そうと嫌がらせをしていたんだ。……ひどかったよ」
マンフレッドの言葉に、マークはまったくだね、と頷いた。
「でもそれは、開発を目的とした強制立ち退きってことだろう? この街を見渡してみると、まあよくある話なんだ。鉄道やら高層ビルなんかを作るのに、貧民層の粗末な建物が密集していたりすると邪魔になる」
「まあ、それはそうだが」
「都市計画を進めたい政府の意向に乗っかる形で、いい場所に閑地を持ってる不動産会社には利権が生まれるんだ。だから、そういう余計な建物や人は一掃したいんだろう」
「──でも」
口を挟んだのはアイリスだった。
「そこにいた人は昔からそこに住んでいたんでしょう? 居たい場所に居る──そんなの、人として当たり前です。中にはそこでしか暮らせない人だっているのに、急に現れて『出ていけ』なんて横暴ではないですか」
アイリスは語調に憤りを込めて言った。マークは苦笑する。
「……耳が痛いね」
マークも自身が身を置く業界に、多少の苦々しさを覚えているようだった。
「ホテル・ハイタワーも、ゆくゆくは開発に使う目的で露払いに来ているのかもしれない」
マンフレッドの言に、マークは首を捻った。
「あそこはもう連中の土地じゃないだろ。むしろ自分たちの手で売ったくらいなのに、なんで今更ちょっかいを出すのさ?」
「まあ、それもそうか……」
マンフレッドは頭を抱える。
アイリスは視線をマンフレッドに向けた。
「彼らはハイタワーの土地がいずれ開発に使われることを見越して売却した。けれども、いざ売ってみるとそうならなかった。それが気に入らなかったとか、考えられないでしょうか」
「気に入らなかったって……そんな理由?」
マークは言った後で、何かに思い当たる。
「開発会社の利権も絡んでるって言いたいのか」
「分からないけど。開発も込みで売却したのに約束が違う、みたいな」
それもどうかな、とマークは首を振った。
「アトラス不動産を通した土地の売買はホテル跡の開発──具体的にはエンディコット・グランドホテル計画、より何年も前の話だ。開発前提で土地を売ったのなら、エンディコット三世に買収されるまでずっとホテル跡が放置されてきたのはちょっと不自然だ。僕らが『ツアーだ』と言い出した途端にちょっかいを出し始めた理由がわからない」
「……ウィッテンバーグ議員は、その理由を知っていたのかな」
アイリスがぽつりと言う。マークとマンフレッドがアイリスを見た。「人ひとりを厄介払いするほどの理由が、あるのかも」
マークは神妙に頷き、マンフレッドを見やる。
「実は、アイリスと話していたんだ。ウィッテンバーグ議員はまだどこかにいるんじゃないかって」
アイリスはマンフレッドに、ヴィクターとの会話や過去にあったことを思い起こしながら語った。
「あの男は、あたしを呼び出してこう言いました。『あいつのことは片を付けた、もう脅威じゃない』って。あたし、それがずっと引っ掛かってて。ヴィクターは標的を殺したのなら殺したと、はっきり言うような気がするんです」
そうか、とマンフレッドは小さく頷く。
「ヴィクターにとって脅威となるような情報を持った彼が、まだ何処かにいる……」
「それで、フレッドにはもうちょっと手伝ってほしいんだよ」
言って、マークはメモ帳をペンで叩いた。
「ウィッテンバーグ議員について探ってくれないかな。僕やアイリスももちろんそうしたいけど、頼れる手蔓が君よりも少なくてね」
「分かったよ。……断る理由はない」
二つ返事のマンフレッドの言葉に、アイリスは深く頷いた。
「ありがとうございます、本当に。あと……ごめんなさい」
「……なぜ、謝るんです」
マンフレッドが訊ねる。アイリスは恥じ入るように顔を伏せた。
「あたし……あなたのこと、あんまり信用してなかったんです。ホテルを取り壊すべきだとか、偶像の呪いだとか書いて、協会のことを貶めるただ胡散臭い大衆紙の記者なんだって、誤解してました」
マークがくつくつと笑う。
「ほとんど事実だけどね」
「でも、気付いたんです。たとえあなたが厚顔無恥な記者だとしても、」
「厚顔無恥は言い過ぎ」
「──あなたの思いは、本当なんだって」
アイリスの言葉にマンフレッドは目を丸くする。
「思い?」
はい、とアイリスは頷いた。
「あなたが抱いている、ローズへの思いです」
「……なんだって」
虚を突かれ、マンフレッドは平静を保つのが難しかった。
「いや、それは」
「心配しないでください、他言する気はありませんから。とにかく、あなたは信頼に値する人物です。それで、これまでの無礼な言動を、あの──お許しいただけると」
アイリスは手を組んで、マンフレッドを見ていた。マンフレッドは困惑を露わに苦笑する。
「大丈夫です、気にしていませんから。本当に」
慣れているので、と言い添える。
アイリスは右手を出して、
「改めて、これから宜しくお願いします」
決然と言った。マンフレッドはそれを握る。
「──こちらこそ」
それで、とマークが口を挟んだ。
「調べるあてはあるの? フレッド」
「まあ、無くはないかな。差し当たって、政治部の同僚にでも聞いてみるよ」
マークは頷き、アイリスを見る。
「君はどうする?」
「あたしは……」
アイリスは言って、マンフレッドに視線を送った。
「ストラングさん、地図をお借りしても」
「地図? ああ、印を書いたものか。構わないですが」
マンフレッドはメモ書きのある地図をアイリスに手渡しながら、どうするんです、と訊ねた。
アイリスは受け取った地図を見下ろす。
「あたし自身の目で一度、彼らの標的となった地域を見てみたいんです。可能ならば、住人の話も聞いてみたい」
え、と声を上げたのはマークだった。
「危険じゃないか。連中がうろついているかもしれない場所に、自分から行くってことだろ?」
「だって、逃げてばかりじゃいつまで経っても連中には近付けない。そうでしょ」
「そりゃそうだけど……。君ひとりじゃ危ないし、行くなら僕も行くよ」
「ボディーガードでもしてくれる?」
いいや、とマークは首を振る。
「いざってときは逃げるよ。それでも最悪、助けくらいは呼べるだろ?」
アイリスは呆れたように息を吐く。
「逃げるんだ……」
「得体の知れない手紙を受け取ってノコノコ出ていっちゃう、向こう見ずな子が一人で行くよりマシだろって話」
アイリスはむっとした表情でマークを睨めつけた。
「勝手にすれば。着いてくるのも、逃げるのも」
「そうさせてもらうよ。ところで……君ってなんでいつもそんなに強気なの? あんなことがあった後だろ」
「多少、身を守る術を心得てるの。……荒れた通りでポン引き狩《が》りをやってて」
マンフレッドとマークは顔を見合わせる。
深入りはよそう、と言いたげにマンフレッドが首を横に振り、心得た、と言わんばかりにマークは頷いた。
⚜⚜⚜
「ねぇ、デリのベーグルってそんなにうまいの?」
その日の午後、アイリスはマークを伴い、地図を頼りに住宅街を歩いた。
「メニューが変わるっていうから、2個頼んだの」
「常連でもないのに? ……君、粗食って聞いてたけど」
「誰からよ?」
「それは言えない。恨まれたくないからね」
「……ローズめ」
「おっと。その手には掛からない」
家々の並ぶ通りにひとけは無く、ここでは劇場街の雑踏も遠かった。あたりは生活音と呼べるほどの生気もない、風が起こす乾いた物音のような、寂しげな雑音に満ちていた。
「この先を右だ。例のアパートメント」
マークは地図を片手に、うすら寒そうに周囲を見渡しながら言った。アイリスが頷く。
「マークはこの辺に詳しいのね」
「詳しいもんか。君が地図を見ないから僕が代わりに見てるんだ」
「子供のいる家族が住んでるって言ってた」
「あー……泣き声が聞こえたらしいよ。窓に張られた木板を奴らが無理矢理剥がして、家に投げ入れた時に」
「……ひどい話ね」
吐き出すように言って、アイリスは足を止める。
「ここだ」
アイリスの視線の先には、赤茶色のレンガ造りのアパートメントがあった。所どころ漆喰が剥げかけ、鄙びた雰囲気が漂っていた。階段を数段下ったところに半地下の住居の入口が見える。
扉の横に鉢植えがあったが、枯れた草が横たわっているだけだった。
行こうか、とマークは階段を降りて、扉を数回ノックする。
「──ごめんください。ニューヨーク市保存協会の者です」
マークは名乗ったが、いい加減待っても返答は無かった。いないのかな、とアイリスが諦観めいた気分でいると、突然背後から声をかけられた。
「おい、あんたら」
2人はぎょっとして振り返る。そこには日雇い労働者風の、日に灼けた青年の姿があった。
青年は強面の顔に、憤りの表情を露わにしていた。
「サリバンさんに嫌がらせしてる連中の仲間か。いい加減、しつけぇんだよ!」
唾棄するように言って大股で2人に歩み寄ると、男はアイリスとマークを交互に睨む。マークはその場であわてて手を振り否定した。
「違う、彼らとは関係ないよ。誤解だ」
「しらばっくれんな。日に何度も何度も現れやがって。サリバンさん達がどんな思いでいるのか知らないだろ!」
目が据わったその青年は完全に我を忘れているように見えた。アイリスはひとつ、息を吐いた。
「落ち着いて。あなたは──いやっ」
アイリスが言いかけ、途端、青年は掴み掛かってきた。咄嗟にアイリスは身を退き、身体を捻って避ける。
「アイリス!」
マークの悲鳴をよそに、アイリスは反射的に身を屈めて攻めに転じた。石畳に手をついて、脚を蠍のように跳ね上げ、男の腕を絡め取る。
「うおっ」
花のようにキュロットが舞ったかと思うと、次の瞬間に青年の身体は石畳の上に引き倒された。
「──いってぇ!」
アイリスは転がるように受け身をとって立ち上がる。一方の青年は何が起きたのか分からずに、自身の肩を押さえ、痛みに悶えていた。マークも青年同様ら何が起きたか分からずに唖然としている。
アイリスは慌てて青年に駆け寄った。
(やりすぎた)
大丈夫ですか、と声をかけながらアイリスは、仰向けに倒れた青年に近付く。
「すみません、すみません」
狼狽えるアイリスの背後、マークのすぐ横の扉が開いたのはその時だった。マークが視線を戻すと、黴びた木の扉の僅かな間隙から女性の顔が覗いている。
歳の頃は三十代半ば、怪訝な表情でマーク達に目配せしていた。
「──何です、さっきから騒々しい」
⚜⚜⚜
「何のお構いもできませんが」
そう言って、アンナ・サリバンはアイリスに椅子を勧めた。
「こちらこそ、急に押しかけてしまってすみません。そんなに、長くはなりませんので」
アイリスがやんわりと断ると、アンナは床で絵を描く子供に声を掛ける。
「ちょっとお母さんお話してるから、あっちで弟の面倒をお願いね」
子供はひとつ頷くと、別室の扉の奥へ姿を消した。
──部屋は古い木の匂いに満ちていた。
床はカーペットで、古いがよく手入れされていた。破損した窓にはガラスこそはめられていなかったものの、周囲に木くずや埃も無く、綺麗に片付けられている。度重なる破壊活動に対し、こちらも精一杯の整備で日常を守ろう、という住人の強い意志が感じられた。
部屋の一角には古いソファとテーブルがあり、ソファには裁縫箱が置かれていた。
ドア枠にもたれ、ふてくされた様子でアンナとアイリスを見ていた青年に、マークは声を掛ける。
「大丈夫かい?」
青年はアイリスに強く引かれた右肩をさする。
「……いてえ」
「──自業自得だよ、トム」
アンナは苦笑して、たしなめるように言った。
「あんたが早とちりしたせいでしょう。酒飲んで暴れた挙げ句、女相手に返り討ちなんて、笑い話にもならないわ」
アンナはアイリスに視線を戻すと、すみませんね、と詫びた。
「トーマスが迷惑をおかけして。近所に住んでるんで時々助けてくれるんだけど、ちょっと思慮が足らないのが欠点で。──あなたたちは」
ああ、とアイリスはアンナに向き直って名刺を差し出す。
「申し遅れました。私たちは、こういう者で」
「ニューヨーク市保存協会、共同創設者──エンディコット? エンディコットって、あの」
アンナの反応に、アイリスは苦笑した。
「たぶん、ご存じのエンディコットとは関係ありません」
「……まぁ、お金持ちの家は親戚が多いって言うから。うちの田舎もそうでしたよ」
勝手に納得したようなアンナの様子に多少の誤解がありそうだったが、アイリスはとりあえず頷く。
「それで、ニューヨーク市なんとかってのは、役所か何かですか」
いえ、とアイリスは首を振る。
「ニューヨーク市保存協会は市内の建造物の保護を行っている有志の団体です。現在、ホテル・ハイタワーの保護を続けるにあたって、ある不動産会社について調べておりまして」
アンナは僅かに眉を上げた。
「……アトラス不動産、ですか」
そうです、とアイリスは頷いた。
アンナは深く息を吐いた。アイリスの名刺をテーブルに置いて、椅子に腰かける。
「──あの人たちは突然現れて、『うちが新しいオーナーだから出ていけ』と言ってきた。半地下とはいえ、ここの賃料払うんでも手一杯だったから……もうここを出てったらどこ行けばいいのか。迷ってるあいだに、他の住人はみんな出て行ってしまった」
アンナは顔を上げて、そういえば、とアイリスの顔を見る。
「建造物の保護って仰ってましたけど、もしかして、ここの建物を保護してくださるとか、そういう話でしょうか」
アイリスは申し訳なさそうに首を振った。
「すみません、違うんです。保護となると、いろいろと確認しなければならない事項が決まっておりまして」
「審査のようなことですか」
「まあ、そんなところです」
そうですか、とアンナは肩を落とす。そこへ、マークが歩み寄った。
「これ、僕の会社です。凡庸な不動産会社ですが、住居費を抑えたいというご要望でしたら、転居のお力になれる物件があるかもしれません」
そう言って、マークは本業の名刺を差し出す。
アンナは立ち上がって、それを大事そうに抱え込んだ。
「ありがとうございます」
マークは棚に飾られた写真に気付く。
「これは……旦那さん?」
マークが示したのは家族写真のようだった。
さっきの子供たちが元気に笑顔を浮かべている。その2人を挟むようにして、アンナともう一人、体格のいい男が笑顔で写っていた。
アンナは懐かしむように笑った。
「そうです。夫が建設業で、大きなビルができた時にお金が入ったんです。それでちょっと奮発して撮りました。夫は現場の事故で、下の子……ジェイミーが生まれてすぐに亡くなりました。しばらくは会社の方からの保険金もあったのですけど、今は私の内職と洗濯屋の給料で、何とか」
アイリスはいたたまれない表情で頷く。
「ご主人が事故で」
「ええ、大きな橋から転落して。……命綱はあったんですけどね。ロープの引っかかった場所が良くなかったって聞きました。運が悪かったんです」
言いながらも、苦いものを飲み下したような顔でアンナは言う。
「アトラス不動産のような連中は、本当にろくでもない。買収したからって何です。買った土地から勝手に建物が生えてくるわけでなし。その場所や、関わった人、建物に対しての敬意ってものが無さすぎやしませんか」
「……ですね」
同意しながら、アイリスはマークを見る。
マークも神妙そうに何度も頷いていた。
「──なあ」
ふと、トムが入り口の方から声を掛けてきた。アイリスとマークは振り返る。
「アトラス不動産を調べるなら、ニューアムステルダム・グレースにも立ち寄ってくれ。おれが通ってる教会なんだが、連中の標的になってる」
言われたアイリスは地図を取り出し、検めた。──ニューアムステルダム・グレース教会。マンフレッドの残したメモがしっかりと残っている。このアパートメントからほど近い場所だった。
「分かりました。この後に寄ります」
「……死ぬ前のおふくろに聞いたんだ、おれにしてほしいことはあるかって。そしたらおふくろ、こう言った。何もいらないから、クリスチャンになれって」
言ってトムは、遠い目で窓の外を見る。
「教会の人はみんないい人だ。力になってくれると、嬉しい」
アイリスはマークと顔を見合わせた後、トムに向かって頷く。
「承知しました」
⚜⚜⚜
別れを述べて辞去する道すがら、アイリスとマークは深い溜息を落とした。
「この家に限らず、方々で似たようなことをしているんだろうか」
マークの言に、そのようね、と、アイリスが頷く。
「アイリスはどう思う」
「どうって?」
「連中が地所で働いている横暴と、ホテル・ハイタワーの件。何か関係があると思う?」
「そりゃあ」アイリスは仰ぐように顔を上げる。「やり口が横暴ってことは共通してるけど。彼らが地所をどう管理しているかって事と、今ローズの周りで起きている事とは無関係でしょうね」
だよね、とマークは生真面目に頷いた。
アイリスはメモ代わりの地図に目を落とす。
「何でも結びつけるつもりじゃないけど……アトラス不動産の横暴の証言を集めることは、きっと有益なはず」
彼らがホテルを使って何をしようとしているのか、アイリスには全くと言っていいほど分からなかった。分からないことを考えるより、今は彼らの横暴の証拠を集める方が先決のように思えた。
(アトラス不動産の悪事を知らしめて……ヴィクターに後悔させてやる。あたしには、それだけの大義名分がある)
ローズの危機に不在だった自分自身への怒り。
最初はそれが転嫁する形で、抗議集団について調べ始めた。糸の端を辿ると、アイリス自身の過去の闇へと続いていた。
未来は光の中に、真実は闇の中にある。──だとしたら、光に進むのがローズの役目で、闇に潜るのは自分の役目なのだ。