GASLIT STREET C10 「くだらない真実」
CHAPTER 10
CONFESSION
「お前、なんでここにいやがる」
アイリスが後ろ手に木の扉を閉じると、倉庫の上階の厳つい人影がこちらに向かって吠えた。その人物は鉄の柵を握りながら、険しい表情でアイリスを睨んでいた。
赤いズボンにサスペンダー、剣呑な目付き。その男には見覚えがあった。
「誰かと思ったら。確か名前は……ブラッド」
アイリスは1歩前進し、自身の制服を示して声を張る。
「見てわかんない? 関係者なの」
倉庫内は薄暗く、ブラッドとは距離があった。ローズが安全な場所へ行くまで、木の扉から男の注意を逸らさなければならない。背後の扉はバックヤード経由で外に通じている。
──最悪、この扉を使わずに外へ出ればいい。
「最上階までエレベーターを動かしたな、お前」
男──ブラッドはアイリスをねめつけて言った。
「エレベーターが何? そんなの知らない。……最上階って言った?」
アイリスは思い当たったように問う。ロビーの男は、探し物をしている、と言っていた。
「最上階で何をしていたの。ローズを誘拐までして、目的は何?」
「誘拐だぁ? 何を言ってやがる。だいたい、俺たちがここにいることは誰も知らねぇはずだ」
心外そうなブラッドの答えに、アイリスはそう、と返しながら、釈然としないものを覚えていた。
(彼らはローズの誘拐を知らない?)
ブラッドは嘘をついているようには見えなかった。当然、ローズを探しに来たアイリス達のことも知らないのだ。
「色々と、お互いに聞きたいことがありそうね」
「しらばっくれやがって。……お前、そこ動くなよ」
言いながら、ブラッドは大股で階段へ向かって歩く。アイリスは肩を竦めて嘆息した。
「……動かないわよ」
とは言ったものの、荒い息の男1人を相手にできる余力はない。アイリスは両手を挙げた。
「冷静に、話し合いましょう」
「ああ、そうだな。ホテル前で俺をコケにしてくれた、クソ協会員さんよ」
階段を降り、跳ね上げ扉の横、アイリスのすぐ傍までブラッドが寄ってきた所で、アイリスは両手を前に突き出す。
「待って! ストップ」
「ああ?」
「ほら、おっきい男の人って怖いからさ」
アイリスの言にブラッドはああ、と苦笑して立ち止まった。ローズが安全な場所へ行くまで、自分がこの男を引き止めるのだ。
「ありがとう。それで、エレベーターがどうのって?」
「……俺たちは最上階の部屋で探し物をしてた。そこで突然、ゲスト用エレベーターが動いて、中に気味の悪い人形が乗ってたんで、手下がビビって逃げ出しちまった」
「ゲスト用って、カゴが落ちちゃってるやつよね」
アイリスの言葉にブラッドは頷く。
「そうだ」
「それは関係者でも動かせないわ。あたしじゃないし、仮に動かせたとしてもあたしはそんなことしない」
「じゃあお前、何でここにいんだ? ロビーに俺らの仲間がいたはずだ」
アイリスはこれに答えず、笑みを返した。
「こういうのは順番に質問しましょうよ。あなたがしてる探し物って見つかった?」
「……まあな」
ブラッドはほくそ笑む。「本当は保管庫の中身を丸ごとごっそりいただくつもりだったが、手下が消えちまったんでな。……とりあえず最低限、見当てのモンだけだ」
「ちなみに、それが何だか聞いていい?」
「調子に乗るなよ」
「……失礼」
とりあえずブラッドの注意をそらすことには成功していた。カミーラが通報しているはずだ。このままうまく留まれば、手立てが見つかるかも知れない。
「ところでお前……1人か?」
ブラッドの笑みが意味ありげなものに変わった。
「あー、それはここに1人で来たかってこと? なら、1人だけど」
「そうか……なるほど」
ブラッドは一瞬、アイリスを憐れむような目をした。その目の意味を、すぐにアイリスは理解した。
「俺は今、手に入るはずのものが手に入らなくなって困ってた。仕切ってる奴に文句をつけられちまうからな」
「……ええ」
「で、埋め合わせとして、別のものを差し出すことを考えてる」
「別のもの?」
アイリスは聞き返し、ああ、と何かに気付いたように頷いてみせた。
「そういうこと」
「──たまたまそこにいたのが、悪かったんだ」
ブラッドが不敵に笑った。
「ところで、さっき言ってた気味の悪い人形ってあれのこと?」
言いながらアイリスが上階を指で示す。途端にブラッドは目を見開き振り返った。
「な……何もねぇぞ」
その隙にアイリスは駆け出していた。
「──おい、騙したな!」
声を上げてブラッドが追う。
積まれた木箱の間隙を縫うようにすり抜け、石棺、彫像、丸めた絨毯の上を飛び越えてアイリスは走った。少し遅れてブラッドがその後ろを走る。巨体が障害物に阻まれ、ブラッドは苛立ちを露わに木箱や石棺を押しのけながら進んだ。
「待ちやがれ! クソが!」
制止の言葉と悪態を交互に吐くブラッドの前を行くアイリスが階段に差し掛かった時、先程まで閉まっていた木の扉が唐突に開いた。マークが倉庫に戻ってきたのだ。
「アイリス?」
「ごめんマーク、今は駄目かも!」
ブラッドは扉を振り返ってマークの姿を確認すると、手近のカノプス壺を拾い上げて投げつける。
「1人じゃねぇじゃねえか!」
うわ、とマークは身を屈めて躱した。そこへブラッドが駆け込んで来て、マークは思わず後退さった。
柵を踏み台に階段から飛び降りたアイリスが、その勢いを乗せてブラッドの頭を踏みつける。
ブラッドは絨毯の山に倒れ込んだ。着地したアイリスに、マークが木の扉を示した。
「アイリス、逃げよう!」
「ローズは」
「マンフレッドと一緒だ。もう病院へ向かってる」
ブラッドが頭をさすり半身を起こした。
「てめぇ──」
アイリスは笑みを浮かべてブラッドを見る。
「たまたまそこにいたのが悪い」
⚜⚜⚜
バックヤードの薄暗い廊下を、泥濘を掻き分ける思いで走り抜けて、アイリスはマークと中庭に出た。そのままインドの庭園、瞑想の庭園を通ってホテルの前に出る。
フォードの黒い警察車両が2台ホテル前に停車し、警官がホテルのロビーに入っていくところだった。その近くにはダニエル・ロウズ警官の姿もある。
「おい、そこのあんたら」
声を掛けられ、アイリスとマークは庭園の門を開けたところで立ち止まった。マークがアイリスに耳打ちする。
「……十二時の方向から警官が接近」
「大丈夫。彼、知り合いなの」
ロウズは2人の前で立ち止まると、アイリスの顔を見るなり妙だな、と訝しげに呟いた。
「パメラ・アイリス・エンディコット。この辺りで可怪しな事件が起きる度、あんたの顔を見るのはどういうことだ?」
アイリスは心外そうに肩を竦めた。
「さぁ。ぜひ推理をお聞きしたいわ」
「お前が企みに関わっているか、お前が狙われてるか。そのどっちかだ」
「合理的に考えると、どっち?」
どうだろうな、とロウズは声を低めて頷く。
「後者だと信じたいが」
「そんなことより、ホテルの中がギャングだらけなの。何とかして。警察でしょ」
「ひとつ確認させてくれ。ニューヨーク市保存協会会長の誘拐を知って、なぜ警官が来る前に勝手に動いた」
それは、とアイリスが言い掛け、マークが口を挟む。
「それじゃ間に合わなかったからだよ。会長は地下に閉じ込められてた。潮の満ち引きの影響をもろに受ける水路で縛られて、溺れる寸前だったんだぞ」
ロウズがマークを訝し気に見る。
「……あんたは」
「マーク・オーメン。協会のメンバーだ」
「それじゃ、ミス・エンディコットに聞くよ。あんたはなんでローズ会長がホテルにいると知ってた。実は犯人と繋がっていて、恩人の振りをして共犯でした、ではさすがに笑えん」
アイリスは大仰に息を吐いた。
人を疑うのが仕事だ、というのは理解できる。危険を承知でギャングだらけのホテルに向かったのは自分で、それが証拠隠滅の為ではないかと疑うのも分かる。しかしこうして事が済んでからホテルに現れておいて、どうしてこんな物言いができるのだ、と憤りを感じないではいられなかった。
「……犯人から手紙がきたの。『急げ』とだけ書かれた、ホテル・ハイタワーへの招待状がね。……筆跡は、間違いなくヴィクター・モンローのものだったわ」
「それ、今あるか?」
「それなら……」
言い掛けて、アイリスは両手を上げた。
「……マンフレッドに渡しちゃった。記者の」
アイリスの言を聞くなり、ロウズはうなだれるように腰に手を当てた。
「そうかい。証拠は無し、と」
「でもホントよ、嘘はついてない。……ねえ、そろそろいい? ローズの所に行きたいのだけど」
「……ちょっと着いて来い」
ロウズは人目を憚るようにアイリス達をホテルから引き離した。
庭園の柵の前で一行は立ち止まり、ロウズがアイリスを真剣な顔で見る。
「警察の出動が遅れた件で、言っときたいことがある。署の電通室が通報を受けてから警官出動までもたついたのには理由があってな。上から待ったが掛かったんだ」
「……また?」
ああ、とロウズは頷く。
「はっきり言おう、近頃の警察にはウンザリだ。……とにかくヴィクターに及び腰なんだよ。異常だ。おそらく今ホテルで掴まってる連中も、大半が放免になるだろう」
「そんな」
「俺のせめてもの抵抗として、あんたたちは見なかったことにする。仮に聴取することになれば、あんたらはホテルにいた『市民』への暴行罪で牢屋に入れられかねない」
語調を低くしてロウズが言う。
そこへ、上司と思しき中年の警官がロウズに声を掛けた。
「どうした、ロウズ」
はい、とロウズは上司に向き直った。
「……いえ、何でもありません」
「この2人は?」
彼の言葉にアイリスは何事かを言い掛け、ロウズが制止する。
「先日、器物損壊の容疑で聴取した者がいたので声を。偶然、通り掛かったようで」
「……余計なことに時間を使うな。持ち場に戻れ」
「了解です、ボス」
上司の背中を見送り、ロウズはアイリスに耳打ちした。
「そういやあんたが渡ったワイヤーの会社、ドロツェスキー・ワイヤー社が喜んでいたよ。あんたのお陰で『人が乗っても切れない丈夫なワイヤー』と評判だそうだ」
「……はあ」
アイリスが苦笑する。ロウズは顎をしゃくって通りをひしめく人混みを示した。
「面倒なことになる前に行ったほうがいい。じゃあな」
どうも、とアイリスは頷いて踵を返す。マークはありがとう、と一言呟き、遅れてアイリスを追った。
⚜⚜⚜
「ベアトリス……」
ベッドで眠る白い顔に、枕元のマンフレッドは語りかけた。
寝息に合わせて寝具の胸のあたりが上下する。額に氷嚢をあてられ、横たわるローズの姿は痛々しかった。
水につかっていた割に低体温症は軽かった。例年よりも水温が高かったせいかもしれない。迅速な救助のおかげだろう、とも医者が言っていた。
「すまない──」
それでも、マンフレッドは詫びずにはいられなかった。
アイリスの言葉を最初から信じていれば、もっと早くローズを助け出せたかもしれない。……そう思えてならなかった。だいいち、ホテル・ハイタワーから手を退こうとしていたローズを引き留めたのはマンフレッドだ。
ローズがこのような目に合った責任の一端は間違いなく自身にもある。
ふと、マンフレッドは回復室を覗く人影に気付き、思わず椅子から立ち上がった。
「エンディコットさん!」
ドアを開けたのは、厳しい顔のコーネリアスだった。
部屋に入るなり、片手を挙げてマンフレッドを制する。
「大きい声を出すな。……娘が起きる」
「──すみません」
コーネリアスは手を下ろすと、横たわった末娘に歩み寄り、顔を覗き込んだ。
表情ひとつ変えずにローズを見下ろすその姿は、十を越える所有企業の舵を絶えず取り続ける実業家のものであり、父親としての情を感じさせないものだった。
「医者から大体のことは聞いた。ベアトリスの様子は」
「熱が高いです。あとは……低体温症。とりあえず、手足の指を落とさずには済みましたが」
「そうか……」
「声を掛けなくて大丈夫ですか」
「ん、ああ」
思わず発せられたマンフレッドの言に、コーネリアスは僅かにたじろいだように眉を寄せる。
「冷たい人間だと思うか」
「いえ、そういうつもりでは……」
「いいんだ。眠っている娘をわざわざ起こして、取り乱して見せることに意味を感じなかっただけだ」
誰にともなく開陳するコーネリアスに、マンフレッドは苦笑した。
「わかってますよ」
「……掛けるべき言葉は掛けてきた。すべきことも、教えてきたつもりだ。私は常に言葉でなく行動で示す性分なんだ。それでもなお、この子は自分の立場を譲らなかった」
コーネリアスは低い声で続けた。
「社に誘拐犯からの電話が来た。奴の要求は『エンディコットの過去の過ちを公の場で認めろ』というものだった。何のことか全く身に覚えのないものだ。だからそのように伝えると、『それならあとはアイツ次第だ』と返された。電話が切れて、……それきりだ」
マンフレッドは首を捻る。
「過去の過ち。それが、犯人の動機ですか」
「……悪戯だと思ったのだが、ベアトリスに連絡を取ろうと電話すると、電話先の者は『会長が攫われた』と言う。今、警察には全力で捜査に当たらせている。合わせて、警察の動きを鈍らせている奴を特定する為に調査委員会も組織するよう申し入れたところだ」
「アイツ次第だ、のアイツとは?」
「姪のアイリスのことだろう。お前は行動を共にしている、と聞いたが」
言われて、マンフレッドは目を見開いた。コーネリアスは呆れたように息をつく。
「私が知らないとでも思ったか。お前が取材と称して方々に嘴を突っ込むような真似をしていることは常に把握している」
「そうでしたか……でも、それなら話が早い。見ていただきたいものが」
これです、とマンフレッドは懐から招待状を差し出す。
「これは何だ」
「アイリスが事務所で受け取ったという、犯人からのメッセージです。アイリスはこれまでに、犯人と思しき男から接触を受けています。私は報せを聞いて、アイリスを手伝いました。彼女と共にホテルに向かい、ローズを見つけて助け出したのは私です」
「……犯人はいたのか?」
「いませんでした。ただ目星はついています」
マンフレッドは鞄から書類の束を取り出した。コーネリアスは訝しげにそれを受け取る。
「しっかりとした裏取りはまだですが、ホテル・ハイタワーの土地売買にはおそらく裏があります。ヴィクター・モンローという人物、その男が仕切るアトラス不動産という組織。彼らの暗躍によって、ある特定の政治家に金が流れている可能性が出てきました」
「なら……なるべく早く記事にしろ」
「ですが、今言ったように裏取りが不十分です」
コーネリアスはマンフレッドを睨んだ。
「できないなら他の者がやる」
「私に、不確かなものを記事にしろと?」
「本当か嘘かなど、世間の者は気にしない。重要なのはニュースになるかどうかなのだ」
「私は──」
言いかけ、マンフレッドは寝台に横たわるローズを振り返った。
「ニューヨーク市保存協会は言われもない疑いを掛けられ、市民の抗議の標的となりました。公費で私腹を肥やす者がいる、ツアーは街にとって全くの無益。……その結果、ローズは意志を折られる寸前までに追い詰められた」
しかし、とマンフレッドは言葉を重ねる。
「私は……彼女に告げました。協会の活動を辞めるべきではないと」
マンフレッドの言に、コーネリアスは瞠目した。
「なぜ、そのような──」
「間違っているからです。私腹を肥やしている? そんな事実はない。しかしここで辞めてしまったらそれを認めるも同然だ。そんな汚名を、彼女は負うべきではない。そして、ローズをこんな目に合わせた無法者を追い詰めるのに、彼らと同じ手を使って同類に成り下がるのは御免だ」
決然と言って、マンフレッドはコーネリアスに向き直った。
「僕がそんな人間だと、ローズに思われたくないんです。なぜなら、僕は彼女を──」
言いさして、マンフレッドは言葉を止めた。寝台のローズが身じろぎをしたのだった。
「ローズ」
マンフレッドがローズの顔を覗き込む。その様子と、手元の書類とを交互に見比べて、コーネリアスは嘆息した。
「……ならさっさと裏取りしてこい」
マンフレッドに突き返すように書類を押し付け、コーネリアスは扉へ踵を返した。去り際に、マンフレッドを指差す。
「呑気にデリのコーヒーを飲んでいる暇があるならな!」
⚜⚜⚜
「おれたち、最強!」
「ああ、そうだな」
オールド・アーマリー・ブリッジの橋脚にもたれて座り、彼らは荷馬車から強奪した品物を物色していた。
ウォーターストリート・ブラザーフッドは、橋の下の倉庫裏や叢に隠れ家を作り、それを「シマ」と呼んで溜まり場にしている不良集団だった。
雑多な通りで立ち往生する「トロい荷馬車」をターゲットに、素早い動きで荷物を攫う。
「見ろ、懐中時計だ。引っ越しの最中だったのかな」
「すげえ。こっちは……人形だ」
「……ちっちゃい子供もいたのかな」
「馬鹿。やな事言うなよ」
そこへ、叢に転がり込む人影があった。
──金髪の女。合わせの紺のベストとズボン。胸にたいそうなワッペンが見えた。
「……おい、ここはおれたちのシマだ」
いちばん上背のある少年が立ち上がって女に近付く。そこへ、別の人影が転がり込んだ。
顔に酷い紫の痣を作った、サスペンダーの大男だった。
「わ……悪かった、ほんとうに!」
必死に詫びる彼に遅れて、鷲鼻の男が現れた。少年たちと目が合い、鷲鼻の男は苦笑を浮かべる。
「ごめんよ君達。ちょっとここ、借りられるかな」
「あ、ああ」
少年達は顔を見合わせ、足元に転がしていた品々をそのままに、その場を走り去った。
鷲鼻の男──ヴィクターは金髪の女に目配せする。
「モリー、少し休んでいいよ」
「……はい」
モリーと呼ばれた女が橋脚により掛かり、荒い息を整える。ヴィクターは仰向けの大男に向き直り、体重を乗せてその腹を踏んだ。
「で、ブラッド。君は目当ての宝の山をせっかく見つけたってのに、みすみすそれを置いて逃げ帰ったわけだ。……それも、『呪いの偶像』を見たとか言って」
苦悶の表情でブラッドが頷く。
「……そうだ。でも……依頼のやつは見つけたんだ……ポケットにあったろ」
「あったよ。でもそれって問題だと思わない? まさかそれを自分の懐に入れようなんて、思っていなかったよねぇ?」
靴の底で胸を叩かれ、ブラッドはぐふ、と声を上げた。
「してねぇ。本当だ、信じてくれ」
「本当じゃなきゃ困る。嘘だったらどうなるか、君はよく知ってるはずだもの……ねぇ!」
ヴィクターはブラッドの脇腹を蹴ると、それきり興味を失ったようにモリーへ歩み寄った。
「モリー。分かってるだろうけど、協会へはもう行かなくていいよ」
「……はい」
「よく頑張ったね」
ヴィクターは包むようにモリーの頭を数回撫でた。モリーは安堵したように俯いて息をつく。
「アイリスとやりあったんだっけ。どう? どんな味がした?」
「──覚えてません」
はっきりとしたモリーの声に、そう、とヴィクターは苦笑する。
「まぁいいよ。それはその時のお楽しみだ」
言いながら、ヴィクターは運河の柵にもたれた。懐から出した便箋を開いて視線を落とす。ブラッドのポケットにあったものだ。非難するようなモリーの目には気づいていなかった。
「おおっと。フィニアス先生ったら、お熱いメッセージだ。いけないねぇ……」
「その手紙、どうするんです。ヴィクター」
モリーの淡々とした声にヴィクターは振り返った。
「君にあげるよ」
「私、ですか」
「これは売るなり、強請りに使うなり……まぁ、好きに考えてくれ」
ブラッドはやりとりを聞いて目を見張る。それは事実上、今回のヤマをモリーに一任する、ということだ。
モリーは静かに頷き、ヴィクターに答えた。
「……わかりました」
⚜⚜⚜
空を闇が覆い始めていた。カールッチ・ビル前に停まっているフォードの警察車両を見て、アイリスとマークは顔を見合わせる。
「戻りづらい……」
マークがぼやくと、脇から声が掛かった。
「マーク。それにアイリスさん」
ニューヨーク・デリからカミーラが顔を覗かせていた。彼女は2人を見るなり、アイリスにひしと抱きつく。
「カミーラ……」
「無事でよかったです。会長は?」
仰ぐようにアイリスを見上げたカミーラの声に、アイリスは頷いた。
「ローズは大丈夫よ……病院に運ばれたみたいだけど。皆が助けてくれたわ」
よかった、とカミーラは胸を撫で下ろす。
「アイリスさんの荷物は、これで全部ですか?」
カミーラが殊勝な顔で手に持ったハンドバッグを差し出した。
「そう、これ。持ち出してくれたの?」
「はい。何ていうか、大事なもののようだったので」
「ナイスよ。カミーラ」
「通報した手前、届けに追いかけるわけにもいかず……今、警察は事務所で聞き込みを」
そう、と溜息混じりにアイリスは頷く。
「アイリスさんは事務所に来られますか? 犯人逮捕の為にも、事情を話した方が」
「……どうかしらね」
アイリスの言にカミーラが首を捻るので、マークが横から補足した。
「犯人ならとっくに察しがついている。ただ警察の連中、そいつをちゃんと追ってくれるか怪しいよ。捜査の足を引っ張ってる奴がいるらしい」
「……まあ」
カミーラが神妙な顔で声を漏らした。で、どうする、とマークはアイリスを見る。
「どうするって」
「この辺の救急なら、ローズはたぶんパーク・メモリアル病院だろ。彼女はおそらく誘拐犯の顔を見てる。話を聞いてみないか? フレッドもいるだろうし」
「……行きましょう」
──アイリスは頷いた。
とは言いつつも、ローズの無事を確認できさえすればよかった。誘拐犯は分かりきっている──ヴィクターだ。けれども、ローズが自身の誘拐の目的を知らされているとは考えにくかった。協会を裏切ったモーリスの存在も考えると、ローズを攫うのにヴィクター自身が出張る必要すら無かった可能性が高いのだ。
「私も行きます」
カミーラが真剣な顔でアイリスに言った。いいですよね、とマークにも確認をとるので、マークはいや、と首を捻った。
「僕らの旅は危険だよ、お嬢さん」
「事務所が襲われたんです。安全な場所なんてありませんわ!」
言い切るカミーラに一理あるわね、とアイリスは苦笑した。
「一緒に行きましょう。何かあったら──あたしが守るわ」
⚜⚜⚜
地下鉄の階段を上りしな、マークがノロノロ足で後ろに続くアイリスを振り返った。
「ほら、ここまで来たらもうちょっとだから。……なんだよまったく、何が『私が守るわ』だ」
「はあ……余計な時間がかかって……」
疲労に抗うように足を運ぶアイリスに、カミーラが時折心配そうに目をやっている。
マークは溜息をついた。
「君が改札機と喧嘩したせいでね。僕が係員を呼ばなかったら、危うく改札機を破壊するところだったよ。それで素面なのが驚きだ」
「あの改札機、あたしの硬貨を吸い込んだと思ったらスライドバーがぴくりとも動かなくなったのよ。極めて悪質だわ」
「……少なくとも、壊れた改札機と疲れたアイリスの相性が最悪なことはよくわかった」
地上に出てすぐ、クリーム色の石造りの高層建築が見えた。あれです、とカミーラは声を上げる。まるで信頼と歴史をそのまま形にしたような建造物だ、とアイリスは思った。
アイリスは肩を回すと、髪を撫でつけて具合を確かめ、気合を入れるように息をついた。
「さて。……行くわよ」
しゃんと背筋を伸ばしたアイリスは、先ほどまでの手負いの獣のような雰囲気から、どこぞの名家の娘かと思われるような凛とした佇まいに変わっていた。
⚜⚜⚜
「ベアトリス・ローズ・エンディコットさんはこちらでしょうか?」
アイリスが訊ねると、受付の男は胡乱な視線をアイリスと後ろの2人に送った。
「どちらさまですか」
口調は丁寧だが、強情そうなしかめっ面だ。お金持ちの患者はガードが固いということだろうか。アイリスはロープを渡るような緊張を覚えながら続けた。
「エンディコットです。パメラ・アイリス・エンディコット」
言いながら、通行証だと言わんばかりに名刺を突き出した。はあ、と名刺に視線を落とした受付が、狼狽えたようにうやうやしく下がった。
「今、すぐに確認をとります。少々──お待ちを」
受付はすぐに戻り、丁寧に答えた。
「お待たせしました。エンディコットさんは7階の回復室でお休みになっています。右手にまっすぐ進んだ所にエレベーターが」
「──ありがとうございます」
ニッコリと笑顔を返し、アイリスは右手に進む。
マークは苦笑した。
「金持ちの身内とわかると、こうもあっさりいくとは」
「……金持ちは銃を持った赤ん坊と同じ。怒らせたら大変だもの」
「なるほど。なかなかサマになってるね、赤ん坊のフリ」
⚜⚜⚜
寝台に横たわりながら、ローズは自分が何故ここにいるのかを考えた。どういうわけか、自分は命を狙われたのだ。そうして助けられたのが、あのストラングという記者。
半年前に父であるコーネリアス・エンディコット三世を裏切る形で立ち上げたニューヨーク市保存協会。それがなければ、自分は今も父の下でデザイナーとして働いていたのだろうか。あるいは、社交界の一員として色んな事業に身を投じていたのだろうか。
そうだったなら、おそらくこれほどまでにあの男を意識することなど無かったのだろう。
先程まで部屋にいた彼は、何かを心に決めた様子で部屋を出ていった。
──なぜなら、僕は彼女を──。
あの言葉の続きは何だったのだろう、とローズは考える。聞きたいような、聞きたくないような気持があった。その言葉の続きによっては、本当に協会の意義についての考えが揺らいでしまうように思えたからだ。
横たえたまま首だけを動かし、寝台脇の置き時計を見る。油灯の柔らかい光に照らされた置き時計が、6時過ぎを差していた。
その時、個室の扉が開いてぞろぞろと足音が聞こえた。
「……ローズ」
掛けられた声はアイリスのものだった。
微睡むような声。アイリスの家の傍の木立で、2人きりで話す時の声だ。病院の白い無機質な枕の上が一瞬、アイリスの膝の上であるかのように感じた。
ローズは頭を上げかけて、その鉛のような重さに耐えられず、再びすとんと枕の上に後頭部の乗せた。
「アイリス。ごめんなさい、起きられなくて」
無理しないで、と答えたアイリスの顔は、油灯の光の中で優しく微笑んだ。アイリスの背後にマークとカミーラの姿が見える。
「みんな……心配かけてごめんなさい」
瞑目して詫びるローズに、カミーラが首を横に振る。
「いいんです。それより、無事で本当によかったですわ」
カミーラはローズの頬に顔を寄せると、小さくキスをする。アイリスは肩を竦めた。
「あたしはローズを信じてたから、別に心配してなかったけど。──それより、酷いことされてない? その……」
一瞬言い淀んで、アイリスは続ける。「水責め以外に」
ローズは力無く笑った。
「されてないと……思う」
「思う?」
「──あんまり覚えていないの。モーリスとホテルの敷地に入って、急に視界が暗くなって……」
はっとしたようにローズは眉を寄せた。
「モーリスは? 私……彼と一緒にホテルへ向かったのよ」
ローズの言葉に、アイリスとマークは顔を見合わせた。何か合点がいったように頷き合っている。
「モーリスは──」
カミーラが答えようとし、言葉を詰まらせた。寝台の柵に乗せられた手が、いっそう強く握られる。
「奴らの仲間だよ」マークが淡々と続けた。「……ローズをホテルに連れ去った誘拐犯、ヴィクター・モンロー一味のね」
⚜⚜⚜
「それでは、ホテル前の抗議や法案の起草者失踪は全てその……ヴィクターという人物のせいなのね」
アイリスの話を聞いたローズは神妙そうに言った。アイリスは頷く。
「そう。抗議活動は全部が全部、市民によるものではなかったの」
「そして、ヴィクターはかつて、あなたの劇場に火を放った……」
これに、アイリスは苦々しげに答えた。
「当時、ヴィクターが身を置いてたファウラーズってギャング集団の粛清って言うのが、マークの読み。あたしの劇場、そういう連中のシマだったんじゃないかって可能性があるの。あたしの……父が、無法者の一味だったって可能性も」
「でも──それはまだ、わからないのよね?」
ローズはきっぱりと言った。
「きっと脅されていたの……弱みを握られて。何か事情があったのよ」
アイリスが生家に抱く慈しみを理解してか、ローズの口調には強いものがあった。アイリスは小さく笑った。
「──ありがとう。それでも、ひとつ分からないことがあったの。連中が何故、ローズを誘拐したのかってこと。あなたを誘拐したのは間違いなくヴィクター。けど、同時にホテルを襲撃してた一味の中には誘拐自体を知らない人達がいた。それで何をしていたって話になるんだけど……どうやら『何か』を探してたみたいなの」
ローズは事情を聞いたあと、はっと目を見開いた。
何か──思い出し掛けた。
「私、誰かに会った……気がする。水路で」
「本当?」
「分からない……まるで、夢の内容を半分しか覚えていないような。何か……強い光を当てられて──」
ローズは目をぎゅっと瞑って、記憶を掘り起こすように言葉を次いだ。
「知らない人……男の人。……そう、耳元で囁かれたのだわ。『1888年の秘密のありかを知らないか』って」
「……1888年の秘密?」
アイリスは振り返って、マークを見た。マークは何のことを言っているのか分からない、という風に首を振った。
「カミーラ、分かる?」
マークに問われ、カミーラは慌てたように両手を振った。
「そんな、急に言われても何も思いつきませんわ」
「だよね……」
カミーラの言葉は最もだ。突然年号を言われて、すぐにその年の出来事が思い浮かぶのは稀だ。それで、とアイリスはローズを見た。
「ローズはなんて答えたの?」
「……覚えていないわ。というより、何も答えられなかったのだと思う。ただ、1888年、というのが妙に頭に残って」
そう、とアイリスは頷いた。
突然言われても答えられないような問を、ヴィクターはローズに投げかけた。そうなのだとしたら──何故。
「考えてもわからないことを考えても、仕方がないよ」
疲れたようにマークが言った。ですわ、とカミーラも同意する。
カミーラは「そもそも彼らは何を、何処で探していたのかしら?」と首を捻った。答えたのはアイリスだった。
「ブラッドって奴が言ってた。ホテルの最上階に探し物を見つけたけど、手下が不気味な人形に驚いて逃げちゃったって」
「不気味な人形って? シリキ・ウトゥンドゥ?」
「知らないわよ」
「……何だか、さっぱり。なーんにも頭が回りません」
カミーラはうんと伸びをして、同意を求めるようにアイリスを見た。
「そうね……」
そういえば、昼から動きっぱなしだ。カミーラの声に気が抜けて、アイリスも膝をついてローズの寝具に突っ伏した。
「ローズ、ごめん。なんだか……疲れちゃった」
大丈夫よ、とローズは苦笑した。
「すぐに良くなって、また会えるから。みんな、本当に……ありがとう」
ローズはうやうやしく礼を言う。アイリスは顔を上げて、力強く頷いた。
「またね」
⚜⚜⚜
「マーク、言い忘れてたことがあるの。ウィッテンバーグ議員、見つけたよ」
病院の廊下を歩きながら、何とはなしにアイリスが言う。マークは目を見開いた。
「ええ? いつの間に?」
「ほら、ヴィレッジの教会で上階に記憶喪失の人がいるって聞いていたでしょ」
「ああ。……まさか、その人が?」
マークの問にアイリスは頷く。
「驚いたね」
「それでマークにお願いしたいことがあって。彼に記憶を取り戻させる為に色々と資料が必要なの。マンフレッドに連絡をとって、彼に関する資料を渡してもらえるように頼めないかしら」
「そういうことなら、頼んでおくよ」
「ありがとう」
やりとりを後ろで見ながら、カミーラが怒ったようにこぼす。
「……どうせ私は蚊帳の外、ですわ」
マークは苦笑を漏らした。
「適当に店探して何か食べようよ、僕が奢るから」
マークの提案にカミーラはうんうんと頷いた。そのまま3人がエントランスを抜け、病院を出た時。
アイリスは正面玄関に嫌なものを見た。
(最悪)
突然歩みを止めたアイリスを、マークが振り返る。
「アイリス?」
アイリスは無言で、病院前に停車する黒塗りのロールス・ロイスを指さした。マーク達が視線をやると同時に運転席の扉が開く。若い運転手が出てきて車の後ろに回り、後部座席のドアを開けた。
「お迎えに上がりました、ミス・エンディコット」
カミーラは目を丸くしてアイリスを見た。
「どうなさったの?」
「──また会ったわね」
カミーラの問には答えず、アイリスは運転手に声を掛ける。彼はにこやかに頷いた。
「エンディコット様お1人で、とのことです」
なるほど、とマークは肩を竦める。
「僕たちはお呼びでないってことか」
誰にともなくマークが言い、ちらと運転手を見やる。彼は眉を上げて小さく頷いた。アイリスは身を屈めて車内を覗く。伯父のコーネリアスの姿は無かった。
「……誰もいないみたいだけど?」
「どうも、お忙しいようですね」
他人事のような運転手の言葉にそう、とアイリスは息を吐いた。
「まぁいいわ。ちょうど、伯父さまには言いたいことがあったから。──またね、2人とも」
アイリスはイギリス車の広いシートに腰掛けると、窓の外に視線を送る。マークは心配そうにアイリスを覗き込んだ。
「まさか、君まで攫われたりしないよね」
「大丈夫よ、あたし強いから。……資料のこと、お願い」
わかった、とマークは心得たように頷いた。
⚜⚜⚜
「……で、どこへ向かうの」
夜の街を運河沿いに南下する車内で、アイリスは運転手に訊ねた。
ああ、と運転手は頷く。
「54番埠頭にコロンビア号が停泊しているのをご存知ですか?」
「……知らない。そうなの?」
「クリスマスまで内部を公開しているんです。処女航海の時以来の大規模公開なので、そこそこ話題なんですが」
運転手の言に、アイリスは呆れたように苦笑する。
「今さら持ち船の自慢でもするつもり──?」
ニューヨーク港近くの広場に差し掛かり、イギリス車は速度を緩めた。ホレイショー・スクエア。コーネリアスの船会社であるUSスチームシップ・カンパニー本社や貨物ターミナルが目と鼻の先だ。
「こちらです」
運転手は車を停めると、後ろに回ってドアを開ける。
「まっすぐ行くと外階段があります。『全てのデッキへ』という看板が目印です」
「……どうも」
アイリスはこれに唯々として従い、埠頭を歩いた。
潮気を含んだ冷たい夜気が肌に染み入る。
広場で憩う人々はまばらだった。見学に入れるはずのコロンビア号の外階段は紐で塞がれ、船員の格好をした案内係が1人佇むだけだ。
巨大なコロンビア号の白い船体は下半分が濃紺に塗り分けられ、夜に溶けるように停泊していた。船内は明るい光が灯り、甲板も電飾によって明るく照らされている。
外階段の傍に佇む船員に歩み寄ると、彼は口を開いた。
「本日は貸切です。お名前を」
「……パメラ・アイリス・エンディコット」
アイリスの名前を聞くや彼は紐を外し、手のひらを階段上に向けてアイリスを促した。
「お待ちしておりました」
淡々と手続きを踏み、階段を登る。登った先で搭乗橋を奥へと進み、Cデッキへ。そこにスーツを着た役人風の男が立っていた。
「アイリスさんですね」
「……そうよ」
「船内へは入らず、船首甲板へお向かいください。真っ直ぐ行って階段上です」
「そこに何があるの?」
「──すぐに分かりますよ」
アイリスは苦笑した。まだるっこしい、もここまでくると笑えてくる。
唯々諾々と指示に従い、アイリスは甲板に出た。階段を上がってBデッキに登る。言われた通り、船首甲板にグレーがかった髪の男の後ろ姿があった。
アイリスは人影に歩み寄る。
「……随分と大袈裟ね。病院にいるって分かってるなら、そこへ自分で来れば?」
憤りを含んだ言い方でアイリスは声を掛けた。
「可愛い末娘が病院に運ばれたのに顔も出さないんだ。ほんと、どこまでも薄情な──」
言いさしたところで、アイリスは足を止めた。振り返った男の顔が見覚えのないものだったからだ。角ばった顔に、深い皺。年の頃はコーネリアスと同じくらいだろうが、まったくの別人だ。
「謀ったようで、悪かった」
アイリスを見ると、男はすまなそうに詫びた。
「イギリス車にあの運転手を用意して正解だった。……私はウィザーズという。フィニアス・J・ウィザーズ」
アイリスは息を呑んだ。その様子を見て、察したようにフィニアスは息を吐く。
「君がアイリスだな。話はヴィクターに聞いていたよ」
「誰に聞いてたって?」
アイリスは歯噛みする。「アイリスも攫われないか心配だ」と言っていたマークの顔が脳裏に浮かんだ。
やはり、この男はヴィクターと組んでいた……。
「私のことは、おおかた調べているのだろう。私とヴィクターの関係、そしてホテル・ハイタワーのことも」
「ええ、調べたわ。あんたは秘書を利用して、ホテル・ハイタワーの土地を不正に取引した。そうやって私腹を肥やして……それが今、表沙汰になる事態を恐れて保身の為に活動家の女性を虐めてる。裏社会の連中を使ってね」
「……」
「あたしにもしものことがあれば、記者の友達がぜーんぶそれを記事にする。分かる?」
「なるほど……君の中ではそういうことになっているのか」
「……違うの?」
フィニアスは固い表情で、頷いた。
「君に全て話そう。誰の耳も近くに無い……決して外部には漏れぬこの場所だからこそ、伝えられる」
その代わり、とフィニアスは言い添える。
「……私を助けてほしい」
⚜⚜⚜
「助けるって──どういうこと」
アイリスは船首甲板で相対した悪徳政治家を睨みつけた。フィニアスは力無く頷くと、うなだれるように瞑目した。
「ヴィクターの一味に脅されている。奴らはホテル・ハイタワーから、私の探していた『あるもの』を持ち出した。それをネタに強請るつもりらしい」
「……その『あるもの』が何かって話、別に訊かないけど。そっちから話してもいいわよ」
「手紙だ。私からある女性に宛てた。それへの返事も含めて2通、連中から取り戻したい」
アイリスは鼻で笑う。
「おおかた不倫相手にラブレターでも送った? その程度のこと、身から出た錆でしょう」
「相手は少女だ」
フィニアスの言葉に、アイリスは身を凍らせた。言葉を切ったフィニアスをじっと見返す。
「……続けて」
低い語調で促すと、フィニアスは続けた。
「私の立ち上げた養護施設で育った十代の少女だ。私と関係を持ち、やがて文通をするようになった」
「関係を持ち」の言葉にいっそうの渋面を作り、アイリスは息を吐いた。
「……手紙が証拠になるってことね」
「そうだ。かつてハイタワー三世は裏ルートを使って他人の弱みを握り、要人たちを自身の傀儡に仕立て上げていた。私もその1人だった……その手紙を読めば、私と少女の関係がどこまで進んだのか一目瞭然だったからな」
「どういう意味よ?」
「彼女の……妊娠の事が書かれている」
──アイリスは嘆息した。
「……最低」
「あれが世に出れば、私の人生は終わりだ。ハイタワーの土地に関するいざこざ、あれは秘書の独断によるものだ。だが手紙が世間に公開され、土地の不正取引まで表沙汰になれば、私の言葉など誰が聞く?」
「誰も聞かないでしょうね。自分の欲を抑えることもできない人間が、儲けの為に他人の土地使うなんて容易に想像がつく」
悪いけど、とアイリスは踵を返した。
「あなたを助けることはできないわ。保身の為にヴィクターと組んでローズからホテルを取り上げて、手紙も無かったことにしようとしてたんでしょう。ホテル・ハイタワーを襲ったのもあなたの思い付き?」
「奴の……ヴィクターの意志だ。奴も私と同様、弱みを握られていると言っていた。ホテル・ハイタワーが消えれば、その弱みも消える。だからニューヨーク市保存協会を追い払い、開発を再開させたかった。だが奴は、強硬手段に出た。──ニューヨーク中の要人のスキャンダルが詰まった『宝』を、我が物とするために」
「それで、ヴィクターに裏切られたから助けてほしいだなんて……恥を知りなさい」
待て、とフィニアスは制止する。
顔だけ振り返ったアイリスの目には、恨みがましいものが混じっていた。フィニアスは懇願する。
「ニューヨーク市保存協会に手出しはさせん。市民どもやヴィクターの手下は追い払わせる。だから頼む」
「協会から手を退くだけでは充分とは言えない。ローズに危険が及ばないように最大限注意を払って。もしローズが危ない目にあったら、あたしはどんな事情だろうとあなたのせいだと感じるでしょうね」
分かった、とフィニアスは頷いた。
「協会の安全を最優先にしよう。約束する」
アイリスは厳しい表情のまま、フィニアスに向き直った。
「……ヴィクターと話をする。彼はどこ?」
「わからない。──本当だ、奴は行方を眩ませた。今私を強請っているのは奴の手下だ」
「どういうこと?」
「奴には奴の目的があるらしい。既にアトラス不動産を離れている」
アイリスは顎に手を当てて思案する。ヴィクターだけが持っている目的、と聞いて脳裏に浮かんだのは、例の年号だった。
「──1888年、と聞いて何が最初に思いつく?」
アイリスはフィニアスを見た。フィニアスは何、と首を傾げる。その様子から、この男がヴィクターの目論見とは関係がないであろうことが想像できた。
「いいから、……答えて」
「……海難事故があった年だ。……そこの広場を見てみろ」
アイリスは甲板から埠頭を見下ろした。
建造物の灯りがいくつも連なって見える。街の喧騒より手前に、ぽつりと朧な街灯に照らされたホレイショー・スクエアのモニュメントが見えた。
「ここへ来る前に目に入ったのでな。あれはガルガンチュア号のスクリュー……沈んだのがたしか、1888年だ」
「そう……ありがと。ウィザーズ先生」
アイリスは言うと、それきり興味を失ったように甲板の階段を下った。
「取り戻せるんだろうな?」
背後から掛けられた問に、答えることはなかった。
⚜⚜⚜
「ああ、どうも。おかえりなさい」
広場にいた運転手はアイリスの姿を確認すると、悪びれもせずに声を掛けた。
アイリスは憤りを露わに運転手の胸を指で突く。
「……騙したわね」
「そうですか?」
「伯父じゃなかった」
「待ち人があなたの伯父さまだとは言ってないですよ。僕はただイギリス車であなたの元へ行き、『お迎えにあがりました』とお伝えしただけだ」
アイリスは運転手から指を離すと、確かに、と頷いた。
「……家まで送って」
「なんで、僕が」
「車の中、安い煙草の臭いがしたわ。伯父さまは安い煙草を吸わない」
はは、と運転手は小さく笑う。
「車で煙草を吸うのは重罪ですか」
「そうは言わないけど……」
アイリスは責めるように眉を寄せた。
「非番の時に他人の車を乗り回すのはどうかと思うわ。送ってくれたら、あたし口裏合わせるけど」
なるほど、と運転手は頷いた。
「そういうことなら、いいですよ」
言って、後部座席のドアが開かれる。アイリスは身を屈めて乗り込みながら、運転手に言い添えた。
「……煙草も一本ちょうだい」
⚜⚜⚜
「どうも、邪魔するよ」
店の扉が開き、コート姿の男が入ってきたのを認めると、雑貨屋の店番の男は渋面で男に言った。
「もう店じまいだよ」
言いながら、男の目の前でレジの机に「CLOSED」の札を立てる。
「オーケー。じゃあ札下げとくよ」
男はそう言うと扉の札を裏返して「CLOSED」が外から見えるように直す。ふざけてるのか、と店番が言いさすのを、制するようにコートの男が指を立てた。
「この店がこんな一等地にあるのは元々あった店をアトラス不動産が追い出したからだ。俺がその気になればお前らだって……追い出せる」
アトラス不動産、と店番の男は繰り返す。その声には恐れが滲んでいた。
「その電話を借りたいんだ。いいかな?」
「わかった。それだけか?」
「ああ」
言ってからそうだ、とコートの男が付け足した。
「あんたはそろそろ用を足す時間だよ。ほら。行って」
「ああ、それもわかったよ。まったく……」
店番の男が店の奥に消えるのを見届けて、コートの男は卓上電話のダイヤルを回す。それは拠点どうしを結ぶ専用線の番号だった。
「やぁ、俺だ」
〈お前、この番号に掛けてくるってのがどういうことかわかってるのか?〉
答えたのは太い男の声だった。
「わかってるさ。まさか市警の電信室に通報しろなんて言わないよねぇ」
〈……例のホテルであんな騒ぎを起こした言い訳でも?〉
「言い訳?」
言って、男──ヴィクターは苦笑した。「なんで俺が、そんなこと」
〈あんなに派手な騒ぎを起こしておいて、仲間全員が無罪放免になると? 私にだってできることの限度はある〉
「べつに頼んでないよそんなこと。それより例の金庫は見つかったのか? あの後、きちんと公の力でガサ入れできるようにお膳立てしたんだ」
電話口のブラックウッドは大仰な溜め息をついた。ヴィクターは渋面を作る。
「──見つからなかったのか」
〈そんなものは無かった〉
「冗談だろ。見つけたのはブラッドだぞ? もしその話が本当だとしたら、ニューヨーク市の治安を守ってるサツは猿以下の脳みそしか無いってことになるな」
〈そいつは本当に信用できるのか? しっかり手綱を握っておけよ。……用はそれだけか〉
いや、とヴィクターは首を振る。
「まだある。実は俺、組織を抜けることにしたんだよね」
〈……何を言い出すかと思えば〉
「大丈夫だ、後継者は君やブラッドよりよっぽど優秀な女だよ」
女、と電話口の声はせせら笑う。ヴィクターはそうなんだ、と嬉々として語った。
「そこなんだ。みんな女を侮り、蔑み、相手にしない。モリーはそこを逆手に取る。初めて手に掛けた相手が自分の里親だと聞いた時は、さすがの俺も彼女を認めた」
〈……とにかく、心配はいらないんだな〉
そういうことだ、とヴィクターは言い残して電話を切った。
……金庫が見つからないことが気掛かりでなくもなかったが、ヴィクターはすぐに雑念を払うように首を振る。今の自分は組織を抜け、自由だ。
ここまでくれば、定めの悪戯をとことんまで味わうとしよう。
かつて客船を襲った水難を再現し、エンディコットの1人に報いを受けさせた。だが、これで終わりではない。
(……ようやくお楽しみにありつける)