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GASLIT STREET C13 「運命の夜」

 アイリスがいつもの路地に差し掛かると、自宅の窓に明かりが灯っているのが目に入った。オリンダが帰宅しているのだろう。
 あんの息をらし、自然と足が速まる。ふと郵便受けに視線がまり、アイリスは歩みを止めた。
 ──そこに何かがあった。
 本来あるはずのない、異様な何か。
 近寄りながら首を傾げるアイリスの視界に、月明かりを受けてぼんやりと物体が浮かび上がる。郵便受けからだらりと垂れ下がっていたのは、血の気を失った七面鳥の首だった。
 アイリスの背筋に冷たいものが走る。

 ──七面鳥の数が足りないらしい。
 
 数時間前のパーティで耳にした、他愛のない噂話が脳裏をよぎった。

 ──しゆくせいの前後、現場に鳥の死骸を残す。
 
 ついこのあいだ、マークが言っていた。ファウラーズのやり口だと。
 その言葉が今、この異様な光景と結びついた。嫌なものが背筋を走り、喉の奥が鳴った。ハンドバッグが手を滑り、石畳の上に鈍い音を立てて落ちる。(まさか)
 血の気が引くような感覚を覚えながら、アイリスは家に目を向けた。明かりは静かに灯り続けている。しかし、暖かさを感じるはずのその光はもはや不気味な静寂の一部にしか見えなかった。
 家の灯りが玄関から漏れている。扉が、僅かに開いていた。
 アイリスは扉を押し、その間隙かんげきから屋内を覗き込む。居間の床に倒れたオリンダの姿に、その視線は釘付けになった。

「オリンダ!」

 手足は縛られ、口には猿轡が噛まされている。オリンダの瞳がアイリスを捉えると、「来るな」と言うように彼女は大きく首を振った。暴行を受けたのだろうか、顔の広範囲に紫色の痣ができている。
 思わず駆け寄り結び目を解こうとするが、縄は驚くほど固く縛られていた。指先に力を込めるも、まるでびくともしない。
 アイリスはキッチンに駆け込む。包丁、はさみ、刃物の類を探したが、それらはまったく見当たらない。
 
「──どうして」
 
 アイリスはオリンダの傍らに跪き、口元を覆う布を剥がそうと手を伸ばした。その時、背後から蝶番の軋む音が響いた。
 ──扉が押し開かれる音。
 アイリスは振り返る。視線の先には、細い体躯の男がくわえ煙草で立っていた。
 最後に会った時にアイリスを脅し、その後ローズに恐怖の記憶を植え付けた男──ヴィクターだった。

CHAPTER 13
NOT ALONE


「探し物は見つかった? アイリス」

 ヴィクターは手元で小振りのナイフを揺らした。「あれぇ、ひょっとしてこれだった?」

 ヴィクターは右手にはナイフ、左手には酒瓶を持っていた。口調は柔らかいが、声には怜悧な響きを宿している。玄関の灯りが、彼の鋭い鷲鼻と深く刻まれた影を浮かび上がらせた。
 アイリスは立ち上がり、オリンダとの間に立ち塞がる。
 
「ヴィクター・モンロー」これまで聞いた自分の声で、いちばん低い音が出た。「これは……あんたが、やったの」

 ヴィクターの口元が歪む。
 
「さぁて、どうだろうねぇ」
「……ローズは逃げた。あたしも。あんたはしくじったの」
「少数精鋭のつもりだった。たしかにしくじった、反省してるよ。……でも楽しめた。君もだろ?」
「今すぐあんたを殺してやりたい」

 アイリスの言葉を聞き、ヴィクターの目が細められる。
 
「いいねぇ……いい目。もう尻尾巻いて逃げ出さないんだ」
「あの時とは違う」

 言って、アイリスはヴィクターを睨んだ。

「そう?」と嘯いて、ヴィクターはナイフを軽く捻った。刃先が鈍く光る。「早く試したいね」
「……なんで、こんなことを」 
「エンディコット一族は俺からあるものを奪っていった。それはどうやら、俺にとって大事なものだったらしい」
「らしい? 他人事みたいに」

 アイリスが訊ねると、ヴィクターは苦笑した。

「思い出せないんだよ、もう。姿形も、声も。記憶は摩耗するって言うじゃない。ただ無力感だけが残ってる。あの日、タラップを降りる直前に聞いた……」

 酩酊したように、ヴィクターは顔をひきつらせて首を振った。

「──汽笛だ。俺の頭の中ではずっと、汽笛が鳴りつづけてる。鳴り止まないんだ」

 ヴィクターの顔から笑みが消えていた。アイリスは立ちすくんだまま眉を顰める。──1888年に沈んだガルガンチュア号。そこに乗っていた「エディス」という人物は、かつてヴィクターにとって安寧の象徴だった。そう、リチャードが言っていた。

「昔話をしよう。コーネリアス・エンディコット二世の海運帝国……かつてそれを作り上げる為に、意図的に沈められた船があった。ガルガンチュア号……俺はあの海難事故があって以来、その事故にエンディコットが関わっていたとされる証拠を持ったハイタワー三世の下で働いていた」

 ヴィクターは氷のような視線をアイリスに送ったまま、話し始めた。

「あんたの親父は運よくファウラーズのシマに転がり込んできたいいカモだった。……あいつはエンディコット一族のはぐれもの。使い方しだいで、直接エンディコット一族の秘密を探れる。俺はハイタワー三世に媚びを売るかたわらで、奴を使ってエンディコットの裏の顔を探ろうとした。だが、あいつは……秘密なんてねぇ、と抜かした」
「……当たり前よ」アイリスは口を挟む。「あんたは誤解してる。裏なんてない、エンディコット一族にも、あの海難事故にも」
「裏が無い? 君にそう言われたところで信じられないねえ」

 困惑にも似た表情を浮かべ、ヴィクターは酒瓶を持った手でアイリスを指さした。
 
「君のお父さんに何度も連中の巣を探させたんだ。家だの会社だの、余所者が入れない場所をね。けど無駄だった。何も掴まないどころか、あの男は……『親父に裏の顔なんて無かった』と言い張る。──笑っちゃうよ、自分は捨てられてるくせにさぁ!」

 ヴィクターはコート掛けをアイリス目掛けて蹴飛ばした。それは中程で折れ、渇いた音を立てて床を転がる。アイリスはコート掛けを一瞥し、ヴィクターに視線を戻した。この男はすでに相互理解を図れる範疇の外にいた。ある種の妄想に侵されているのだ。

「父は……」

 アイリスが口を開く。「親の会社の船を抵当に、無断でお金を借りていた。追い出されはしたけど、家族に負い目を感じてた。そして……自分の父や兄を、誇りに思っていたわ」
「──負い目、ねぇ」

 ヴィクターが嘲笑った。

「……そうやっている間にコーネリアス二世は死んだ。肝炎だとさ……さすがに応えたよ。奴は間違いなく、報いを受けさせるべき人間だった。けど……それが死んだなら俺は、誰を裁けばいい?」
 
 ヴィクターは苦々しげに続ける。

「俺はまず、アルフレッドの劇場に火を放った。連中を庇った当然の報いとしてな」

 聞きながら、アイリスは奥歯を噛んだ。(当然の報い?)それはこの男の中でのみ成立する理屈でしかない。

「そして19世紀の終わりとともに、ある事件が起こった。──ハイタワー三世が失踪。彼の自宅でもあったホテル・ハイタワーは閉鎖され、以後手出しが出来なくなった。俺はしばらく戦意を喪失し、頭の中で汽笛だけが鳴り続けた。『あの事故を忘れてくれるな』とでも言うようにね。……そこへ、ホテルの開発を企てる政治家が現れた」
「……政治家?」
「フィニアスはじつに器の小さいクズだよ。ハイタワー三世に弱みを握られていた要人のひとりだった。それで奴は開発の名のもとにホテルを解体し、自身の保身を図ろうとしていた。……ホテルを解体してしまえば、秘密は外部に漏れない。そこに海難事故の真相が眠っていようが、奴には関係がないのさ。だから……俺はフィニアスの側近を口車に乗せて、ハイタワーの土地に細工をした。本物と偽物、区画も曖昧な複数の権利書を偽造し、数々の訴訟や法的な問題を抱えた土地として開発に混乱をもたらしたんだ。例の秘書は高飛びしたけどねぇ」

 アイリスは目を見開いた。 
 ヴィクターは彼なりのやり方で、ホテル・ハイタワーを開発から守っていたのだ。──海難事故の真相が、あのホテルのどこかに眠っていると思い込んだまま。
 
「……だが、よりによってまたフィニアスから開発の話が出た。今度はエンディコット・グランドホテル? ふざけてる。おまけにエンディコット三世は、本物だろうが偽物だろうが関係なしに権利書を買い取ったときた」

 ヴィクターは声を荒げた。「エンディコット三世がそこまでする理由は何だ? ……決まってる。海難事故の真相がホテルに眠っている事を、奴はどこからか嗅ぎつけたんだ」
「違う。なら何であなたはニューヨーク市保存協会の邪魔を? 協会はホテル・ハイタワーを保護してた。協会のおかげでホテルの開発の話は無くなったのに」
「もちろん歓迎したよ。……代表の女が『エンディコット』でさえなきゃあ。連中は開発と保護、相反する2つの勢力の両方で影響力を持ち、徹底して事故の証拠を隠蔽しようとした!」
「でたらめよ、そんなの」 
「俺はなんとか事態をコントロール下に置くため、『自分も弱みを握られていた』と言ってフィニアスに近付き、密約を交わした」

 ヴィクターはアイリスの言葉には答えず、勢い付いたまま語る。

「あのベアトリスとかいう代表には報いを受けてもらったよ。エディスの味わった、逃げ場のない場所で水に侵される恐怖、着実に死へと向かう絶望を……あのまま死んでもらうつもりだったけど、すんでの所で助かった。思った通り、君はすごいよ。アイリス」 
「……あなたは」

 アイリスは首を横に振った。

「何も分かっていない」
「いや、違うねぇ。……正しく物事を理解しているのは、俺だけだよ」

 ──アイリスは嘆息した。
 目の前の男はただ、恣意的に物事を解釈し、自身の理論を強化しているだけに過ぎなかった。おそらくこの先も、ホテルやその回りで何が起きようとも自分の中の理論を強化する為に物事を解釈していく。そしてその度に、その理論に基づいて身勝手な復讐を繰り返すのだ。 
 
「それで……どうする?」
 
 ヴィクターは床に伏せるオリンダを一瞥し、嘲笑った。

「その人、結構強かったよ。たぶん君より強いんだろう。でも今はご覧の通りだ」

 言って、ヴィクターは左右の手に握られたものを見比べた。ナイフと、酒瓶。

「選ばせてやるよ。1人で逃げるか、2人とも死ぬか」
「……何ですって?」 
「1人で逃げるなら、止めないよ。ただしその場合……そいつがどうなるかはわかるだろう?」

 アイリスはヴィクターの目を見据える。ベストのポケットにある、協会のワッペンを強く握った。

「あたしは、逃げない」
 
 左足を前にして半身に構え、アイリスは突き出した左手でヴィクターを正面に捉える。「……あんたをここで止める」

 アイリスの言に、ヴィクターは躰を反らして洪笑を漏らした。 

「いいねぇ……やる気の眼だ。それでこそ、火あぶりから生き残った魔女だ。くく──嬉しいよ。また尻尾巻いて逃げ出すもんだと思ってたからさぁ──」

 ヴィクターの語気が昂る。荒い息の合間から絶えず笑いが漏れていた。「小動物みてぇに」
 
「何度も言わせないで。──あたしは逃げない」 
「どうせすぐに逃げたくなるさ。もう、遅いけど」

 ヴィクターは手にした酒瓶を放り投げた。ボトルは窓枠の角に当たり、湿った音を立てて砕け散る。次いで、ヴィクターはそこに煙草を投げ捨てた。
 ──途端に火の手が上がった。
 アイリスは息を呑む。(あれは、酒じゃない──!)
 
「……君たちが悪いんだよ」

 ヴィクターは左手を正面、ナイフを腰元に構え、緩慢な歩みでアイリスににじり寄った。

「俺はこの汽笛と一生を共にする覚悟でいたのに……君たちがあのホテルに手出しをするから」
 
 爬虫類のような粘りのある動作で、一歩、また一歩とアイリスに近づく。
 アイリスの脇に上がる火の手は小窓のカーテンを焼き、木材を蹂躙しながら燃え広がっていた。にじり寄るヴィクターと火の手から逃れるには後退しかない。だが、背後には横たえたオリンダがいる。
 アイリスは歯噛みした。 
 その時、ナイフが角度を変えるのが見えた。刃先が胴を狙って突き上げられる。アイリスは身を翻してかわし、その勢いで回し蹴りを繰り出した。ヴィクターは左手で軽くいなす。
 たたらを踏んだアイリスに横薙ぎが襲った。咄嗟に身を低くして両手を床についた。そのまま蹴り上げる。

「短い手足を頑張って使ってる。でも……軽いねぇ」

 アイリスの足を、ヴィクターは左手で捕らえていた。腰の横でしっかりと抱き込んで拘束する。

「ボクシングだか柔術だか知らないけど、ここは教室じゃないんだよ!」

 ヴィクターは身を大きく引いて勢いをつける。アイリスの躰は容易く投げられ、火の手に近い壁に打ち付けられた。
 痛みに顔を歪め、間近に燃える炎に気付くとアイリスは叫びとも制止ともつかない意味不明な声を上げた。

「やぁ──! あぁっ」

 半身で這って後退し、階段に縋る。そのまま上階へ逃れようとするアイリスの首元をヴィクターに掴まれ、あっけなく引き戻された。
 ヴィクターはアイリスの首元を壁に押し付け、力任せに持ち上げた。ずり落ちそうになるアイリスの胴に、自身の膝を食い込ませて支える。
 アイリスは呻いた。骨が軋み、臓腑が悲鳴を上げていた。

「痛いか? ──ああ、熱いか!」
 
 ヴィクターは笑いが止まらなかった。
 間近の炎に咳き込みながら「熱い、熱い」と必死に足をバタつかせ、左腕に組み付こうとする獲物を、ヴィクターは楽しんでいた。
 喉の奥が燻される感覚はあの夜以来、久し振りだった。

「やっと君を連れていける。ご両親のところにねぇ」

 燃え盛る劇場の外で見た少女の涙を思い出し、ヴィクターは哀れむような視線をアイリスに送った。もっとも、裾を焼かれた程度でパニックになっている彼女には気づきようもないだろう。

「……船の音は、まったく不愉快だよ」

 遥か遠くで、あるいは、ごく間近に──汽笛の音が聞こえる。この女は生かしておいた方が良いなどという考えは、その音の前に掻き消えた。

   ⚜⚜⚜

 突然開いた玄関の扉に、ヴィクターは新たな来訪者の存在を認めた。リチャードは逡巡無く火中をかいくぐり、ヴィクターの顔を殴りつける。
 戒めが解かれて倒れ込んだアイリスは、咳き込みながら火を厭うように床を這った。

「お前──!」

 頬を押さえるヴィクターの目が見開かれた。

「お返しだよ、兄弟」

 言って、リチャードは右、左とパンチを繰り出す。そのいずれもヴィクターに防がれ、横薙ぎの一閃を飛び退いて避ける。リチャードは背後のテーブルでしたたかに腰を打った。ヴィクターは逆手に持ったナイフを振り下ろし追撃する。リチャードが両手でそれを押さえ、刃先はかろうじて眼前で静止した。

「死に損ないが!」

 テーブルの上に抑え付けるかたちでリチャードに優位をとったヴィクターの顔は、狩りを邪魔された怒りの表情で満ちていた。
 這いながら息を整えたアイリスは、我に返ってヴィクターを見た。半ば馬乗りになっている相手が誰なのかよく分からなかった。アイリスは跳ね起きて、助走をつける。その肩口に飛び蹴りを浴びせた。
 ヴィクターが壁に打ち付けられる。ナイフは明後日の方向に飛んだ。
 起き上がった男の顔を見て、アイリスは瞠目する。

「リチャード?」
「ああ。いい蹴りだ。大丈夫か」
「……オリンダが」

 リチャードは部屋の隅に横たわる女を見て、状況を理解する。

「わかった、とにかく連れ出そう」
「お願い」

 アイリスの目は、半身で起き上がろうとするヴィクターの方を向いていた。リチャードは首を振る。

「ここは駄目だ、逃げよう」
「こいつはあたしが止める」
「何を言うんだ? 無理に決まってるだろう、そいつにはまともな話が通じない」
「……大丈夫」

 アイリスはリチャードの目を見返した。アイリスの顔は炎によって黄色く照らされていた。空中を舞う火の粉の中で、その目は決然と輝いている。

「……すぐに来い。待ってる」
「うん」

 リチャードはオリンダに駆け寄り、抱え上げた。そのまま出口へと向かう。アイリスはヴィクターに向き直った。ヴィクターは緩慢な動作で起き上がると、顔を押さえて身を反らした。
 ──笑いが漏れていた。

「おかえり、アイリス」
「気安く呼ばないで」
「これはこれは……失礼。ミス・エンディコット」

 言って、ヴィクターはアイリスに掴みかかる。それを身を沈めて横に避け、回し蹴りを繰り出した。

「だから──軽いって、言ったろ!」
 
 またしても足を抱き込まれ、ヴィクターの膝がみぞおちに飛んでくる。足を掴まれたまま、息が止まった。続けざまに下段の蹴りが来る──軸足を狙われる前に、アイリスはその足で床を蹴った。
 アイリスの躰は空中で回転した。その勢いを乗せ、掴まれていない方の足をヴィクターの側頭部に叩き込む。 
 ──ヴィクターは倒れた。脳が揺れ、汽笛は耳鳴りで掻き消された。手足を動かそうとしたが、ひどく痺れ、その場に縫い止められたように動かない。
 アイリスは起き上がり、床を転がったナイフを無言で拾い上げた。脱力したようにナイフをだらりと構えて、床に仰向けに倒れた男を見下ろし、馬乗りになる。そこまで淡々とした動作だった。
 悪化する視界の中、ヴィクターは炎に照らされたアイリスの冷たい瞳がこちらを見下ろすのを見た。首筋に冷たいものを感じ、そこにナイフがあてがわれていることをヴィクターは悟った。

「ヴィクター」

 アイリスが低く呟いた。「エンディコットは報いを受けるべき、とか言ったわね。その理屈で言うと……あたしにはこうする権利がある」

 言いながら、アイリスは突き付けたナイフを持つ手に力を籠める。
 
「……そうだ、やりなよ」ヴィクターは応えた。「俺は責めない」

 ヴィクターは荒い息の合間をついて、笑いが込み上げた。
 ──そう、惨い仕打ちには報いがある。それはヴィクター自身がここまで行動で示してきた。彼女が刃を引けば畢竟、彼女自身もまたそれを肯定することになる。
 あてがわれた刃先を通して、アイリスの手の震えが感じられた。 

「アイリス!」

 家の外からリチャードの声が聞こえた。アイリスは振り返らず、ナイフを逆手に持ち替える。そして大きく振りかぶると、渾身の力で振り下ろした。

   ⚜⚜⚜

 リチャードが再び屋内に入ると、状況はさらに悪化していた。火の手は今や柱となって上階に達し、周囲の視界は煙で白く濁っていた。
 いちど炎の侵略を許した古い家屋が燃え尽きるのは時間の問題だ。

「アイリス! 火が回るぞ、危険だ」

 リチャードは咳き込みながら、半ば叫ぶようにアイリスに呼び掛けた。──悪化する視界で判然としないが、煙の向こうでヴィクターに馬乗りになるアイリスの背中が朧に見えた。リチャードは眉を寄せる。

「アイリス、何を」

 アイリスは色の無い表情でリチャードを振り返った。

「リチャード、手伝って。……これを外に運ぶから」

   ⚜⚜⚜

 ホテル・ハイタワーの最上階に上がると、先を行くカミーラとヴァネッサがヘンリー八世の肖像画の前で止まった。ローズは怪訝に首を傾げる。

「ここですわ」

 カミーラが肖像画を示すと、ヴァネッサが具合を確かめるように額縁を軽く揺らした。

「──動いた」

 ヴァネッサがゆっくりと絵を横に動かす。その肖像画は容易く横にスライドし、ワインセラーに見せかけた隠し部屋が現れた。
 行きましょう、とローズが促し、3人はセラーの暗がりへと進んだ。
 その金庫はすぐに姿を現した。懐中電灯に照らされて見えたのは、アルファベット順に並べられた書類の束。ローズはそこから書類を一部選んで手元で開く。

「工場移転にともなう──有害物質の流出に関する報告。こっちのは、契約書かしら。何だか意味深ね」

 ええ、と脇のヴァネッサが頷いた。ローズはカミーラを見る。

「カミーラ、ここをどうやって見つけたの?」
「え? ああ、その……荒らされた箇所の確認中に。絵に違和感を覚えたので動かしてみたら、ここが」

 そう、とローズは頷くと、しばらく考えてから2人に目配せする。

「これは……私達の手には余ります。これらについて適切な情報を持ったメンバーは1人。アイリスをおいて他にはいません。──彼女に任せましょう」

   ⚜⚜⚜

 ──アイリスは夜の街を歩いていた。
 煤だらけの顔、焦げた裾、傷だらけのブーツ、風よけに羽織った男物のジャケットは道行く人々の視線を引いたが、アイリスにとってそれは重要ではなかった。
 オリンダを病院に置いて、アイリスは街に放たれた。元の場所に家は……無い。
 
 ──警察とは僕が話す。君は彼女と病院へ行け。
 
 リチャードの言葉を思い返すものの、今夜起きたことにはまるで現実味が無かった。アイリスの足はカールッチ・ビルへと向いていたが、そこへ辿り着く前に力尽き、公園のベンチに座り込んだ。

「……痛い」

 体中が軋むように痛んだ。病院で最低限の処置は受けたものの、足にも火傷を負っている。上着を羽織ってはいるが、夜気のために凍えそうだった。
 自身の躰を掻き抱いて、ベンチの上で前かがみになる。
 ウォーターフロントパークに人の気配はまばらだった。この時間ここにいるのはクリスマスの劇場街の喧騒を離れ、木立の陰で自分たちだけの時間に浸る男女くらいだ。枯れ木の揺れる音が、寒々しく響いていた。
(……また、みんな焼けちゃったんだ)
 炎に包まれた自宅の様子を思い返し、アイリスは両目を袖で覆った。
 自室にあった宝箱。ローズとやりとりした手紙が入っていた。実家の劇場から持ち出した品々は、アイリスが自分自身が何者であるかを思い返すのに必要なものだった。オリンダが立った台所。火を嫌う自分のせいで、暖炉に火を起こすことは滅多になかった。それでも木彫りのマントルピースは可愛くて好きだった。

「何にもなくなっちゃった……」

 言いながら、ふと、思い出してポケットを探る。

「あれ……無い」

 ローズから渡されたはずの黒真珠。ネックレスをポケットに入れていた。それが忽然と消えている。
 そのことに気づき、アイリスは両の手で顔を覆った。自身の顔を潰すように、拳を握る。

「何やってんだ、あたし」
 
 言って、アイリスは顔を上げた。再び広げた指の間から見えるものがあった。──公園を、アイリスを見下ろすように佇むホテル・ハイタワーだった。
 この建造物を取り巻く状況は、最近になって大きく変わった。しかし、ホテルそれ自体の外観はほとんど変わっていない。落雷で窓は割れていた。それでも、営業当時とほとんど変わらない風貌のまま、我が物顔でニューヨークの街を見下ろしている。

「……偉そうに」

 アイリスは吐き出すように呟いた。

「何様なのよ。みんなどれだけ苦労してあんたを守ってると思ってるの?」

 アイリスはホテルを睨みつける。ローズが美しい、と褒め称えたゴシック建築、そのあらゆる場所には世界中の建築意匠が施されている。──だがそれらは畢竟ひつきよう、そう見えるように主が作っただけに過ぎない。

「あんたの主人はねぇ、自分が偉ぶる為にあんたを着飾ったの。でもやってることは、人の弱みにつけこんで、人の人生をめちゃくちゃにして……最低の、クソ野郎よ!」

 アイリスはホテルに向かって大声で吐き捨てた。木立の陰にいた男女の肩が跳ねる。そして、ベンチにふんぞり返って吠えている謎の女をいとうように去っていった。

「クソ野郎……」

 小さく呟いて、アイリスはベンチにぎようする。「……七面鳥、食べとけばよかったなぁ」

 横になると、ニューヨークの夜空が見えた。澄んだ空にはいくつか明るい星が見える。眠気が突然襲い、アイリスの瞼が急に重くなった。
 吐く息は白い。このまま眠るとまずい気がする。
 睡魔を払うように、首を振った時だった。

「──お嬢さん」

 ふと声が掛かり、アイリスは目を開けた。

「今は12月だよ。さすがにそこで、夜は越せないんじゃないかな」

 アイリスは緩慢な動作で身を起こす。

「誰……警察?」
「警察じゃない」

 声の主は老人──のように見えた。つぎはぎだらけのボロのコートを着た老紳士。古い山高帽子を被り、隠遁者のような雰囲気でベンチの前に立っていた。

「お隣、よろしいかな」

 言われて、アイリスは首を振る。
 
「あたしは文無しよ。失業者に与えるお恵みは無い」
「ただ、座りたいと言ったんだよ」
「……あたしのベンチじゃない。公園局のもの」
「君は公園局に許可を?」

 アイリスは苦笑して肩を竦める。「勝手に座れって意味」

「そうかい。では……失礼」

 彼はベンチに腰を下ろすと、アイリスの風貌を一瞥して、ひとつ息を吐いた。

「皮肉だよ。君のような『ホテルを守る』人間が、夜中に泊まる場所が無いなんて」

 言われて、アイリスは首を捻る。

「ホテルを守ってるって、なんで分かったの」
「制服を着てるだろう。ニューヨーク市保存協会」
「……この制服、新しいのまた貰わないとな」

 アイリスは小さく呟くと、何かに気づいたように顔を上げた。「じゃなくて──あたし別に家が無いわけじゃ……いや、無いか。でも泊まる場所はある。ただ疲れて、動けなくなってるだけ」
 
「何かあったんだね」紳士は穏やかに言って、眼前のホテルを示す。「守るべきホテルに対して、悪態を吐きたくなる何かが」
「まあ、あったけど。そもそもあたしは好きじゃないわ、あんな廃墟……見てくれは立派だけど何だか不気味だし。オーナーのハイタワー三世って、大悪人だったんでしょ」

 ふてくされるように言うアイリス。紳士はホテルを見ながら目を細めた。

「あの方は偉大だった」
「……ハイタワー三世を?」
「ああ──知っている。私はあのホテルの従業員だった」

 言われて、アイリスは目を丸くした。

「従業員に慕われる雇い主ってイメージは無かった」
「だろうね。まあ、……私とあの方の関係も、必ずしも従業員と雇い主というものではなかった。私が彼と会ったのはなにせ……」

 彼は少し言い淀むと、懐かしむように顔を綻ばせた。

「異国の地だ。右も左も分からない。その時の私は、身も心もぼろぼろで、さまよい歩いていたんだ」
「……何があったの?」

 アイリスの問に、紳士は苦笑する。

「ありがちな話だが……戦争だった。私は戦場で負うべき責務を投げ出し、後先も考えずに逃げ出したんだ。何もかもを無くした……誇りすらも。知らない土地を何日も歩いて、疲弊した。人は極限状態に陥ると幻視する。家族や友が私に手を差し伸べるんだ。そして、それが幻だと分かるといっそう絶望した」

 だが、と紳士は続けた。

「もう駄目だと思った時──偶然、アメリカ人の冒険家に会った。あの方は私を見て、何かを察したように頷いた。そして手を差し伸べ──ただ『来い』と。それが私とハイタワー三世の出会いだった」

 アイリスは想像した。渇いた大地、伸びる自身の影だけがそこにある。歩く気力も無い時に、差し伸べられた手を。その手はきっと、ローズのものだ。

「その手のぬくもりが幻でないと分かった時……涙を流す気力も無かった私は最後の力を振り絞り、その手を強く握り返した。この方に全てを、命すらも捧げようと誓った。私は生きる希望と、意味を与えられた」 

 握った感触を思い返すかのように、自身の手の平を見つめる老紳士に、アイリスはあの、と声を掛ける。
 
「さっきのあたしの言葉、考え直すべきかも」
「思うことが人によって違うのは仕方がない。ただ私は……翌朝ここで凍った君が見つかる前に、できれば君には再び立ち上がってほしい。ホテルを守り続けるために」
「……そうね」

 頷いて、アイリスは立ち上がる。

「ありがとう。ちょっと元気になったわ」 
「何よりだ。年寄りの昔話なんて退屈だったろう」
「まぁね。でも戦場帰りよりはマシって思えたわ」

 躰を引きずりながら街へ戻るアイリスの背を見送りながら、アーチーは昔を思い出した。

 ──御主人様。追っ手が!
 ──腹を括れスメルディング。助けは無いぞ!

 いかなる危険な状況でも、笑みすら浮かべて切り抜ける才覚。

 ──王になれ、スメルディング。
 ──王、ですか。
 ──民がいるから王なのではない。王のいる場所に民が集まるのだ。
 
 子供じみている、と思われるかもしれない。けれども、アーチーにとってハイタワー三世は王だった。彼のいない王国など、アーチーにとっては何の意味もない。
 ハイタワー三世は全てを捨てて逃げ出した自分を「勇敢だ」と褒め称え、アーチボルト・スメルディングとしての自分を肯定してくれた唯一の存在だった。
 彼の魂が、このホテルには眠っている──未だに。

(まもなくツアーが再開する)

 ホテルを巡る状況は、再び安定を取り戻そうとしている。無法者どもは姿を消し、ニューヨーク市保存協会は再び息を吹き返していた。大事な時期に、ひとつでも駒を失うのはアーチーにとって痛手に他ならない。
 先ほどの娘も含め、まだまだ彼らには働いてもらう必要があった。
 
(これまで以上に集めてもらわなければ。シリキ・ウトゥンドゥの──生贄を)
 
   ⚜⚜⚜

 カールッチ・ビルの前でリチャードを見た時、アイリスは思わず「よかった」と口に出していた。

「リチャード」アイリスが呼び掛けると、リチャードは深刻そうな顔で振り返った。

「アイリス。遅かったな」

 アイリスの側まで駆け寄り、手を握る。その冷たさに、リチャード自身が身を震わせた「……大丈夫か」

 アイリスはええ、と頷いたが、リチャードは着ていたコートをアイリスに羽織らせた。

「君の状況については伯父さんに伝わってる……ローズを通じて」
「……そう」

 またローズに心配を掛けることになる、とアイリスは申し訳ない気持ちになった。

「警察はどうだった?」
「すぐに終わったよ。放火犯はあの場で罪を認めたし、僕は偶然居合わせただけだ」
「よかった」

 まるで現実味の無い会話を交わしながら、アイリスはふと何かに思い当たる。

「ねぇ、あなたは何故あたしの家に来たの?」
「それは……」言い掛けて、リチャードは自身のポケットの中からあるものを取り出した。黒真珠のネックレスだった。

「──これを届けに。ローズからもらった大事なものなのに、君、ポケットに入れたまま子供と遊んだだろう。……ちゃんと叱っておくべきだな」

 ほら、と差し出されたネックレスを受け取り、アイリスは恥じ入ったように首を掻いた。

「ごめん。ありがとう」
「だが──これのお陰で君を助けられたのも事実だ。訴状の住所を覚えておいてよかった」

 リチャードの苦笑に、アイリスも笑みを返す。
 
「……よく、思い留まったな。ヴィクターのこと」

 言われて、アイリスは俯いた。
 ──やはり、夢ではなかったのだ。あの男は間違いなくアイリスの自宅に現れた。

「誰であっても、あたしには裁けない……」

 それに、とアイリスは低く言った。

「ヴィクターはあなたを生かした。そうすれば、あなたが止めに来ることはわかってたはず。だって、あなたは」
「──ブレーキ役だ。僕はあいつのブレーキ。悪ガキの頃からそうだった」

 リチャードが続けた言葉に、アイリスは頷く。

「考えすぎかもしれないけど……本当は、誰かに止めてほしかったのかも」
 
   ⚜⚜⚜
 
「アイリス!」
 
 燃え盛る炎の中、アイリスは聞こえた声には振り返らず、右手に構えたナイフを逆手に持ち替える。そして大きく振りかぶると、渾身の力で振り下ろした。
 
「へぇ……殺さないんだ」

 ヴィクターは耳の横をかすめて床に刺さったナイフを一瞥して苦笑した。

「あんたは──」アイリスは口を開いた。「自分の頭で考えることもしない、莫迦な男。賢くも、強くもない」

 アイリスは息を吐いた。

「あたしは自分で考えて、正しいことをする。──だから、あんたは殺さない」
「……後悔するよ、きっと」

 空気が歪むような熱気の中、ヴィクターは目を剥いて笑った。アイリスは「かもね」と色の無い返事を返す。
 
「でも乗り越える」アイリスは確信を込めて言った。「あたしは、独りじゃないから」
 
「きっと……続くよ。これで終わりじゃない。もう種は蒔いたんだ……まだ、芽吹いてないけどねぇ。時間の問題だ」

 言葉を接ぐヴィクターの言にアイリスは眉を寄せる。
 
「知り合いに武器のブローカーがいてね……表向きは美術商だ。彼らの拠点はニューヨークに、パリ──」

 美術商、ニューヨーク、パリ。そこまで聞いて、アイリスは思い当たる。
 
「あんた……リリーまで」

 巻き込むの、と言いかけて、アイリスは窓が割れる音を聞いた。熱で歪んでガラスが割れたのだろう。次第に家屋が聞いたことも無いような音を立てはじめた。

「アイリス、火が回るぞ!」

 聞こえたリチャードの声に振り返って、アイリスは答えた。

「手伝って! これを……外に運ぶから」

   ⚜⚜⚜

 安宿の部屋までアイリスを送って、リチャードはルームキーを手渡す。

「……狭い部屋で悪いな。手持ちが無くて」
「ありがとう、何から何まで」

 アイリスは鍵を受け取る。そして、言いにくそうにリチャードを見上げた。

「あの……朝まで一緒にいてくれない?」
「それは、どういう」

 リチャードは僅かに上気した。アイリスは繕うように手を振る。

「何かの拍子で言ったような気がするんだけど、あたしはその……寝ながら立ち歩くから」
「ああ、なるほど」
 
 リチャードはしばらく考えて、苦笑する。

「とりあえず床の寝心地を確かめてからでいいか?」
「あたしが床でいい」
「駄目だ。深く眠ってもらわないとこっちが困る」
「それはそうね。じゃあ床はあなた」

 リチャードが扉の間隙に滑り込むと、アイリスは扉を閉じた。2人は同時に顔を見合わせる。少しの間、沈黙が流れた。アイリスはぱん、と手を叩く。

「じゃあ、そういうことだから」
「ああ。そういうことで」
「明日は?」
「まずは身なりを整えよう。どうせ君は伯父に呼び出しをくらうだろう」
「ああ、もう。それを言わないで」
「……今は休もう」 
「まずはシャワーを浴びたい」

 アイリスが答えて、再び沈黙が流れる。慣れない空気と狭い部屋の中で、2人はいそいそと支度を始めた。

   ⚜⚜⚜

 ──翌朝。
 ホレイショー・スクエア1番地、USスチームシップ・カンパニー本社の白い驕奢な建物の前で、1台の黄色いタクシーが停車した。
 降りたのは白いドレスに鍔広帽の女と、茶色いスリーピース・スーツの男。

「まったく、ローズは聖人だな」

 リチャードが呟いて、傍らに立つアイリスを見た。「世界中のどこを探しても、高級デパートで取り置いた盛装を丸々一式譲ってくれる従姉なんていないぞ」

 白く、直線的なシルエットのドレスには、スカート部分に柔らかなプリーツや刺繍が施されている。カシミヤのショールやサテン素材のパンプスはローズ好みの落ち着いた黒だった。
 
「……なんかローズみたい。着慣れないわ」アイリスは言いながら、肌着がきついのか、身を反らして具合を確かめていた。
 リチャードは苦笑する。
 
「嫌なら裸で来ればよかったんだ」
「……それもありだわ」
「その帽子は。食べずに被ったな」

 言われて、アイリスはムッとしたように帽子を外した。

「ケチャップちょうだい」  
「似合ってるよ。使用人みたいな協会服よりよっぽどいい」
「あれ、動きやすくて気に入ってるのよ?」
「暴れやすい、の間違いでは?」
「そうとも言う」

 アイリスは固い表情で本社の白い建物を見上げた。

「……待って。行く前に練習していい?」
「練習って、伯父に会う練習?」
「家が燃えたの。どんな嫌味を言われるか分からないわ」アイリスは咳払いの後、一人芝居を始める。「……コンコン、こんにちはミスター。いらっしゃい、チケットがご入用ですか。いいえ違うの伯父に用があって。そうですか、アポは?」
「……そこからやる必要ないだろ」

 アイリスは肩を回し、ひとつ息を吐いた。そして、決然と顔を上げた。リチャードはその背中に笑みを送る。

「──僕はここで待っていればいいか?」

 リチャードの言に、アイリスが振り返った。
 
「……待っててくれるの?」
「次第によっては、君がここを出た時に八つ当たりする相手が必要と思ってね」
「まあ。引き受けてくださるのね」
「そういうことだ。……健闘を祈る」

 それと、とリチャードは言い添えた。

「子供がいても遊ぶな」

   ⚜⚜⚜

 本社2階にある執務室へ案内され、アイリスは軽くノックして扉を開ける。社の保有する蒸気船の絵画や模型に溢れた部屋の窓際に、コーネリアスはこちらを向いて立っていた。

「伯父さま」

 アイリスはそう言ったきり、沈黙してしまった。
 コーネリアスの前に立つ時、アイリスはいつも異様な緊張を感じた。険しい表情や固い口調はどうあっても不機嫌に見えたし、実際、そうやって人をあつすることが伯父のしよくぶんなのかもしれない。
 この日のコーネリアスはチャコールグレーのスーツにクリーム色のタイを締めていた。コーネリアスはアイリスを見て、僅かに口元を緩ませる。

「……無事でよかった」

 アイリスはコーネリアスの言を聞き、その言葉の裏の意味を考えた。無事? それはアイリスに使わせていた邸宅の焼失に対する皮肉だろうか。
 そこまで考えて、アイリスは両手を上げた。

「伯父さんに貰った家は黒焦げで柱の一本も遺ってない……家財もそう。あと、裁判所に呼び出されてる。自分がやったことの結果。同居人は怪我をして入院中で、あたしはその入院費も払えない。なのに何故か今、社交パーティーに行くみたいなドレスを着せられてる……ぜんぜん、無事じゃない」
「アイリス。まったく……」

 コーネリアスは首を振った。どこか呆れたような、諦めたような調子だった。

「命は無事だった、という意味だ」
「命って……あたしの、命?」
「他に誰がいる」

 言って、コーネリアスは来客用のソファを示す。アイリスは腰を下ろすと、コーネリアスはデスク横のボタンを押してから、アイリスの正面に掛けた。
 すぐに執務室の扉が開いて、ダークカラーのスーツを着た壮年の女性秘書が顔を出す。

「御用ですか?」
「──紅茶を。2人分だ」
「今、用意していますよ」
「ああ、そうか。……頼む」

 秘書が姿を消すと、それで、とコーネリアスは切り出す。
  
「今日まで私は、あまりにも多くのことを見過ごしてきたようだ」

 どこか疲れたように言うと、コーネリアスはアイリスを見た。「教えてほしい。お前はこれまでいったい何と戦っていたんだ?」

 コーネリアスの問に、アイリスは眉を上げて答える。
 
「放火が趣味の、陰謀論者?」
「アイリス」
「真面目に言ってる。昨日捕まった男の名前はヴィクター。……ローズを攫った男。あたしと初めて会った時、ホテルから手を引けって脅してきた。1888年に嵐で沈んだガルガンチュア号の事故は、エンディコットの人間が仕組んだことだって信じていたの。──本気で」

 言いながら、アイリスはコーネリアスの出方を伺っていた。当然、あの海難事故にエンディコット一族の関与があったとはアイリスは思っていない。しかしその事実を今の当主の口から直接聞いたわけではなかった。

「あたしの実家の……劇場火事もあいつのせいだった。動機は同じ。あたしの父がエンディコットの関与を秘匿したと、あいつは言ってた」
「そうか……」

 頷きながら、コーネリアスは眉を寄せる。

「ひとつ訊かせて」
「何をだ」
「事故とは、無関係なのよね?」

 アイリスの言葉と同時に執務室の扉が叩かれた。トレーに紅茶のポットとカップをのせた秘書が現れたのだった。

「お持ちしました。インドのダージリンにレモンとミルク、お好きな方を」
「……お湯は」
「少し冷まして。蒸らしは3分」
「ありがとう」
「いつものことです」

 カップに紅茶を注ぎ終えると、彼女はアイリスを見やって、鼻眼鏡の奥の瞳を僅かに細めた。

「お久しぶりです、アイリスさん」
「あの……ごめんなさい。覚えてない」

 アイリスが苦笑すると、秘書も苦笑を返す。

「昔から変わらない。正直なお方」

 それだけ言って、彼女は扉の向こうに消える。

   ⚜⚜⚜

「あの事故があったのは、」

 と、コーネリアスは言う。「私の父の代だ。当時の社はちょうど、グローバルな海運を目標に事業拡大を考えていた。当時最大級の船、ガルガンチュア号を持っていたイギリスのインペリアル・オーシャニック・ラインのような。父も株主で、経営の意思決定を間近で見ていた1人だった」

 コーネリアスは苦いものを噛んだような顔で続ける。

「あれが完全に不幸な事故だったとは私も思っていない。ガルガンチュアの悲劇には、航行予定を守るという当時の上からの圧力や、天候状況の軽視、大型船であるが故の過信が大いにあった。防水隔壁、エンジンの高速化……最新技術によって作られた船は、いかなる嵐にも耐えられる、とな。──父はいずれ、ああいう事が起こることを予見していた」

 それで、とコーネリアスは続けた。「私と父で話し合い、インペリアルの株を手放した。それが幸か不幸か、直後に事故が起こった時に会社へのダメージが最小限で済んだ理由だ」
「……でも、それだけじゃないでしょう?」

 アイリスの問に、コーネリアスは眉を寄せる。

「どういう意味だ」
「乗り合わせた企業家の株を使って、大儲けしたって聞いてる」
「……なるほど」

 コーネリアスは苦笑した。

「情報通の仲間がいるようだな。……そうだ。乗り合わせた企業家たちの会社の株は当然、急落する。だが、会社というのはそう弱い組織ではない。頭が変わったところで、すぐにとは言わないが持ち直すものだ。事実、底が抜けた会社は多くはなかった。彼らの会社の8割は持ち直した。私と父は、インペリアルを含めたガルガンチュア号の犠牲者らの株を買い、結果として大きなリターンを得ることに成功した。破綻寸前だったインペリアルの事業も吸収したことで、国内の海運でトップクラスにまで登り詰めた。当然、道義的にどうなんだと批判する者もいたよ。広場のモニュメントは被害者への敬意を周囲に示す為……我々が設置したんだ」
「形式的に?」
「悪しざまに言うものじゃない。あの事故を踏まえ、運航や準備には万が一に備えた対策を織り込む文化が生まれた。それにはあのモニュメントが一役買ったのも確かだ」

 アイリスは息を吐いた。コーネリアスの言葉に嘘がなければ、ヴィクターの言っていたような陰謀は無かったということだ。けれども、かつての「エンディコット」が経済的利益の為に、ある意味で不幸な事故を利用したのは事実だった。

「満足したか?」

 コーネリアスの開陳した経緯に「ええ」とアイリスはとりあえず頷いた。コーネリアスは膝を叩いて立ち上がる。
 
「過去を悔いても仕方がない、これからの話をしよう。ヴィクターが我々を脅かすことはもう無い、そうだな」
「……リリーを止めないと」
「何?」

 アイリスも立ち上がり、コーネリアスを見た。

「パリやニューヨークの美術商に知り合いがいるとヴィクターが。リリーが危ないかもしれない」
「具体的にどう危険なんだ?」
「……わからない。ただ匂わせて脅された。リリーは伯父さまに止められたと言っていたけど」
「止めた覚えは無い。好きにしろと言った」

 コーネリアスは書類棚に向かった。アイリスは首を傾げる。

「正確に、何て言ったの?」
「『判断には責任が伴う。後悔することになるぞ』、と」
「……ぜんぜん『好きにしろ』と言ってるようには聞こえない」
「旅費を出す羽目になった。好きにさせているつもりだ」
「とにかくリリーを止めて。あたしから話すから」

 コーネリアスは肩を竦めて言う。「好きにしろ」
 どうも、とアイリスは頷いた。コーネリアスは書類棚からファイルを取り出すと、ぱらぱらとめくり始める。

「アイリス。この機会に清算といこう」

 コーネリアスの申し出に、アイリスは首を捻った。

「清算?」
「あの土地は返してもらう」
「……ごめんなさいね。返そうにも、家がないの」
「それでいい。お前に与えたあの場所を今の状態で返してもらえれば、貸し借りはナシだ」
「そう。ならいいけど」
「私からも返すものがある」

 言って、コーネリアスは書類に挟んであった小切手をアイリスに向けて差し出す。アイリスは怪訝に思いながら、コーネリアスに歩み寄ってそれを受け取った。額面を見て、目を見張る。

「5000ドル……こんなに。どうして」
「保険金だよ」
「あの家の?」
「まさか。……お前の実家だ」

 アイリスはコーネリアスを見返した。

「あたしの……実家?」
「立派な劇場だっただろう」
「そりゃあ、立派の定義によるわね」
「当時、後見人の私が代わりに保険金を受け取った。それをお前に返すだけだ。──清算だ」
「そう……あ、ありがとう」

 アイリスは小切手をしまうと、コーネリアスはデスクに手をついてアイリスを見る。

「ところで、用は済んだか?」
「5000ドル……」
「アイリス」
「……ああ、ええ、失礼。用は大丈夫。ていうか、呼び出したのはそっちだし」
「じゃあもう帰れ。用は済んだ」

 繕うように笑みを浮かべ、「どうも」とアイリスは手を上げた。執務室の扉を振り返り、ふと部屋の隅にある白い建造物の模型に目が留まる。
 ──エンディコット・グランドホテル。半年前に頓挫するまで、コーネリアスの肝入りの事業だった。

「和解したって聞いたけど、こんなものがまだあるなんて知ったらローズはどう思うかしらね」
「これが退けられるのは、私が死んだ時だ」

 ふうん、とアイリスは鼻を鳴らす。

「諦めてないってわけ? これは後継者がいるかもね」
「エンディコット・グランドホテル計画に関しては私自身の願いだ。個人的な復讐にまで、他人を巻き込む気はない」
「……復讐の話はもうウンザリ」

 コーネリアスは苦笑した。「絡んだのはお前だ。もう帰れ、私は忙しい」

 はいはい、とアイリスは扉を潜る。その背中に、コーネリアスは声を掛けた。

「わかっているとは思うが……清算したからといって、もう私を頼るなと言うわけじゃない。なんと言っても……女性の自立は難しい」

 アイリスは何も言わず、足を止めた。コーネリアスは続ける。

「いつでも頼れ。……お前は娘なのだから」

 アイリスは唇を噛んだ。扉の外を向いたまま息を吸う。震えながら吐いた息とともに、今まで言えなかった言葉が口を突いた。

「──またね、お父さま・・・・

 それは何度も口に出そうとして、アイリス自身も気付かないうちに飲み込んでいた言葉だった。

   ⚜⚜⚜ 

「会社の船を無断で抵当に入れるような向こう見ずのアルフレッドお坊ちゃまが、まさか劇場を保険に入れていたなんて……信じられません」

 ローテーブルに置かれた紅茶のトレーを持ち上げた秘書が口にした言葉に、コーネリアスは顔を顰めた。

「……盗み聞きか」
「聞こえてしまっただけです。聞こえたことは都度、忘れておりますからご安心を」

 部屋を出る秘書の背中に溜め息を吐くと、コーネリアスは窓の外を見やった。広場に置かれたスクリューの前に花が置かれているのが見えた。

「あいつが……あの楽天家が保険など。入るわけがない」

   ⚜⚜⚜

 社を出てきたアイリスの表情には複雑な色が混じっていた。リチャードはそれに気付いて、どう言葉を掛けたものかと思案した。

「大丈夫か。何を言われた」

 リチャードを見たアイリスは眉を寄せる。それが何を意味するのかリチャードには分からなかった。アイリスの目の端に光るものが見えたのも、彼が混乱した理由のひとつだった。

「八つ当たりをするならどうか、僕だけにしてくれ。君が他の人をぶん殴ったりしたら僕が弁護する羽目になるから、それだけは──」

 アイリスはリチャードに歩み寄ると、その襟元を掴んで引き寄せる。空いた手でリチャードの後頭部を押さえ、何かを言いかけた彼の唇を自身の唇で塞いだ。
 リチャードは突然のことに動揺し、空いた両手を上げた。だがそれはごくわずかの時間だった。アイリスの身に手を添えて目を閉じる。
 ──2人が唇を離すと、短い沈黙が訪れた。

「すっかり、言い忘れていたんだが……」

 アイリスを抱いたまま、リチャードが先に口を開いた。「君はとても、美しい」

 目を開けたアイリスがリチャードに言う。

「煙草を吸ったのね?」
「……ああ、そうだ」
「あとでちょうだい」
「構わない」

 アイリスは身を離して薄く笑った。

「不意打ちを食らわせたのに……まるで準備ができていたみたい」
「できてたさ。男はいつだって備えてる」
「……何それ」

 アイリスが小突いて、リチャードは笑った。2人は親しげに腕を組み、歩き始めた。
 
「それより聞かせてくれよ。伯父に何を言われたんだ?」 
「長くなるわ」
「ちょうどいい。これから銀行に行って口座が生きてるか調べるから、時間が掛かるかも」
「あたしに付き合えって?」
「……嫌ならいい」
「嫌とは言ってない」

 とりとめのない話をしながら、2人はゆったりとした足取りで街へと戻っていった。


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