GASLIT STREET C09 「薔薇を取り戻せ」
(まだ、大丈夫)
ローズは呟いた。 声にならなかったので、口の中でそう呟いた。 ローズは立ち上がって周囲を見渡す。目が慣れたせいか、石とレンガで囲われた暗闇の中、朽ちた木箱や割れた胸像などをかろうじて見出すことができた。水位は膝の下あたりだったが、もしもまだこの場に座していたら、腰の辺りまで水に浸かっていただろう。
体温を奪われまいとして立ち上がったまま、無益な体力の消耗を避けていた。
音も光も無いこの状況でどうしてここまで平常心でいられるのか、ローズ自身にも分からなかった。
立ってはいても、手首の戒めは梯子の下部に固定され、ほとんど中腰のようなものだった。 腰と肩が軋むように痛い。
そして、寒い。(アイリス)
──何でこんなことに、と自問した。
市民の声を無視した罰なのか。それとも、市民の振りをしたならず者の仕業か。いずれにせよ、己の不注意が招いた結果だ。(マンフレッド)
助命を願うとすれば、これまでローズを支え、肯定してくれた者たちだ。彼らがきっと助けてくれる。問題は、この冷気の中でローズ自身がどこまでもつかだった。満潮になれば、おそらくは窒息する。だが、それを待たずして凍え死ぬ可能性もあった。
(お父さま……)
そう思った時、上階で物音がした。跳ね上げ式の鉄扉が開き、僅かに光が差し込む。(誰かが来た)ローズは頭上を仰ぎ見た。──不意に懐中電灯の光源がローズの顔に向けられ、ローズは思わず顔を背ける。かつん、と梯子に足をかける音。次いで、男の声が聞こえた。
「悪いね、ベアトリス会長。助けじゃないんだ」
声は水路の石壁に反響した。光源によって、床と自身のドレスの裾のあたりが照らされる。茶色く濁った、清潔とは言い難い水。濡れたドレスは変色していた。
「あいつもいい場所を教えてくれた。逃げようのない場所で、少しずつ海水に侵される。沈みゆく船みたいだと思わない?」
梯子を下りた男は、ばしゃん、と音を立てて水路の床に立った。
顔は逆光で見えない。男はローズの耳元、数インチのところまで口を寄せると、何事かを口走った。
(えっ──)
ローズは目を見開いて、男の双眸があると思しき場所を見返した。男は首を横に振って、息を吐く。
「ああ。その様子じゃ、あんたは何も知らない。……聞かなくてもわかるよ」
語調に諦観を滲ませながら、男は再び梯子を上がっていく。ローズは絶望的な気持ちでそれを見送った。猿轡さえも外されずこの場に残される恐怖が、ローズの腕を突き動かす。
「──っ! ──!」
叫んだが、それは声にならない。括られた梯子もびくともしなかった。
「頑張ってね。助けが来る前に溺れるか、凍えるかってとこだろうけど」
開いた鉄扉から漏れる光が、男の顔を朧に照らす。その口元は、水路の淀んだ水のようにどす黒い笑みを湛えていた。
CHAPTER 9
TAKEN
事務所のドアが開いたままになっている。
アイリスは怪訝に思い、背後のカミーラに目配せした。カミーラははて、と首を傾げる。
──ドアは開いたままであるのに、恐ろしく静かだった。薄ら寒さを覚えながらドアをくぐって、アイリスは目を見張った。
見えたのは、床に倒れ込んでいる協会員の姿だった。後から入って来たカミーラが短い悲鳴を漏らし、怯えたように身を寄せる。
「そんな──」
部屋の中は荒らされていた。
アイリスは我に返って協会員の側に駆け寄り、抱き起こした。頭に包帯を巻いた彼だった。
「ああっ、クソ……」彼──ニコラは身じろぎして、苦痛に顔を歪める。「男が……いきなり襲ってきて……そいつ、何かを置いていった……」
アイリスは彼の示す先にローズのデスクがあるのを認めると、すぐにカミーラの方を振り返り、強い口調で言った。
「悪いけど、すぐに通報して」
カミーラは頷くと、青ざめた顔で電話機に駆け寄った。アイリスはデスクに向かい、ニコラが指さした場所を調べる。
そこにあったのは、ローズが書いた「ホテル・ハイタワー ツアー」の招待状だった。整然と並べられたツアーの宣伝文句が目に入る。その隣には、ローズがいつも身につけていた黒真珠のネックレスが無造作に置かれていた。
「……」
アイリスの手が震え、招待状をつかんで裏返す。そこには、ヴィクターの書いた文字が赤いインクで大きく記されていた。
〈急げ!〉
その一言がアイリスの胸に鋭い刃のように突き刺さり、愕然とした。
「──何で」
ローズが攫われた。
何故、と問うたが理由は分かりきっている。
アイリスは確かに「ホテルから手を引け」と言われ、それを無視した。
そのことに対する報復に違いない。血の気が引いていく。
報復があるとすれば、それは自分に向けられねばならない。無法者を追っていたのは自分で、ローズは自身の正義を信じて活動していただけに過ぎないのだ。
「ローズ……」
名を呼んだ自分の声の低さに、アイリスは驚いた。アイリスは黒真珠を右手に握りしめる。
──アイリスの中の、何かが切れた。
ローズを奪われたことが、越えられない何かを越える後押しになった。
それを右手に握ったまま、アイリスは駆け出す。
「行くのかよ、また」
床に伏したニコラが問うのが聞こえた。アイリスは足を止め、前方を睨みつけたまま答える。
「ほんとにごめん。ホテルに……急がないと」
助けを待つ猶予が無いことは置かれたメッセージを見れば明らかだ。この場で事態を正しく把握しているのがアイリスひとりだけである以上──他に選択肢は無かった。
⚜⚜⚜
マークがニューヨーク・グローブ通信の社に駆け込んだのは、マンフレッドがニューヨーク・デリにいないことを確認してからだった。
先にこちらに来なかったことを悔やみ、歯噛みしながら受付に縋る。
「こちらに、ストラング記者はいますか」
「はい、さっき戻ったところで。今、お呼びしま──」
受付の答えを待たずにマークはオフィスに入った。
「マンフレッド・ストラング!」
叫ぶようなマークの声に、立ち上がる記者の姿があった。
「マークか。どうした、血相を変えて」
「さっき、……会長、ローズが──」
攫われた、とマークは言った。その言葉に、マンフレッドは身を凍らせた。
⚜⚜⚜
招待状──おそらくヴィクターが残したそれに導かれ、アイリスの姿はホテル・ハイタワーにあった。
ホテル前には誰の姿もない。
アイリスは正面玄関のドアを押して入る。それはあっけなく開き、アイリスは当たり前のように灯った明かりの中へ突き進んだ。
「……おい、変な女が紛れ込んでるぞ」
家探しでもしていたのか、数人の男がロビーを荒らしているのが目に入った。フロントテーブルの内側にいたシャツ姿の男が冷笑を浮かべて、ひょいとカウンターを乗り越える。腕には幾何学模様の入れ墨が彫られていた。
ホテル前で、最初に見かけた男だ。
「ホテル・ハイタワーへようこそ。どうかしましたか、お嬢さん」
アイリスは立ち塞がった男を見上げ、自身の纏った協会の制服を示した。
「見ての通り関係者よ。ローズはどこ」
「さぁ、何のことだか……それよりせっかく来たんだ。楽しんでいけよ」
仲間と思しき別の男がアイリスの首の後ろに肩を回す。その脇にも別の仲間が立ち塞がった。
「──触るな!」
肩を回した男の腹に肘を入れ、くの字に曲がった躰を背負い投げた。
「てめぇ!」
迫る脇の男を転がって避け、下から足刀で顎を蹴り上げる。ぐふ、と変な声をあげるとそのまま倒れ、頭を抱えたまま動かなくなった。
「……おい!」
入れ墨男の合図でさらに数人、家探ししていた男が手を止めて、アイリスを囲むように動いた。
「女一人にご苦労なことね、クソ野郎」
アイリスが吐き捨てるように言うと、入れ墨男はアイリスに向かって突進する。それを避けて、アイリスはロビーを疾走した。ソファを踏み台に跳躍し、棒立ちする手下の顎を蹴り上げる。顎が変な音を立て、男が倒れた。着地し、振り返りざま、横薙ぎに蹴る。確かな感触。蹴った足に痛みが走った。
倒れた手下の向こうで入れ墨男が怒声をあげている。その手元が光り、刃物が見えた。
気を取られた瞬間、後ろから羽交い締めにされる。
「離して!」
アイリスは身もがいたが、抜け出せそうにない。
「いいぞ……そのまま押さえていろ」
刃物を手に、入れ墨男が近づく。
その時、ホテルの扉が開いた。帽子を被った男──マンフレッドだった。
「アイリス!」
入れ墨男の注意が一瞬、そちらに向いた。
すかさず両足で地面を蹴る。アイリスの下半身が持ち上がる。踵に全体重を乗せて、男の両肩を叩いた。
「てめ──」
一挙二連撃が炸裂した。
そのまま沈みゆく男の肩を踏み台に、アイリスはさらに跳躍した。羽交い締めた男の手が緩む。そのまま宙返りをして、アイリスは男の背後に着地した。
股の間を蹴り上げる。男が下半身を押さえて崩れ落ちた。
次いで、床に手をつく。曲げた腕を一気に伸ばし、その勢いで入れ墨男との間合いを一気に詰める。
起き上がり掛けた男の顔面を足で突いた。
「がっ」
男は短く声を上げて倒れ、後頭部を床に強打した。
「……えげつな」
と一言発し、入れ墨の男はがくりと首を垂れて動かなくなった。マンフレッドがロビーを見渡し、目を白黒させる。
「これは、君が──」
言いかけたマンフレッドの元に駆け寄る影があった。火かき棒を持った男がシッティングエリアから迫っていた。
うわぁ、と声をあげてマンフレッドが屈む。
男の振るった火かき棒は空を切った。
アイリスが跳ぶ。
「──でりやぁ!」
屈んだマンフレッドの背中に手をつき、男を両足で蹴り飛ばす。男は両開きの玄関扉に叩きつけられて悶絶した。
床で受け身をとって立ち上がると、アイリスは男の襟首を掴んだ。
「……ローズを、どこへやったの」
アイリスに低い語調で問われ、男は狼狽した様子で首を振る。
「し、知らねぇ! ……ホントだ!」
「あんた達はここで、何やってるの?」
「さ、探しモンだよ。雇い主が高い金出すって、そういう約束だったんだ」
探し物、とアイリスは繰り返す。
「ファイルと手紙だ。ホテルのどこかにあるって話だが、まだ見つかってねえ」
「ヴィクターは来てんの?」
「ああ……書斎の方に」
そこまで聞いて、アイリスは突き飛ばすように男の襟首を離す。
マンフレッドは唖然とした。ここにいたであろう無法者達がみな倒れている。まさかアイリス独りでこれを、と思ったが、先刻のドロップキックが脳裏に蘇った。
(おそらく、そういうことだ)
無言でロビーを横切るアイリスに、マンフレッドは声をかけた。
「ローズに何かあったとマークから聞いた。これは……君がやったのか」
マンフレッドは床に転がる男達を示す。
「こんなことをして、君は大丈夫なのか」
「今、それを聞いてどうするの? ローズが攫われたのよ」
アイリスは苛立ちを滲ませながら言い、マンフレッドに向かって例の招待状を投げた。
「お喋りしてる時間はないの。ローズを助けないと」
マンフレッドがそれを拾い上げるのを待たず、アイリスはロビーを抜けた。マンフレッドは見慣れたツアー招待状を裏返し、「急げ」の文字を睨んだ。
(これを見て、攫われた、……と)
アイリスの推測通りなのか、マンフレッドには分からなかった。ただ、そうでなければいい……と願わずにはいられなかった。
──思い違いであってくれ。
待ち合い室を抜け、書斎に入る。
──パーク・プレイスの竜。あの時と同じ、ドラゴンの装飾に囲まれた部屋だ。
アイリスが部屋を見渡すと、床に倒れた協会員の姿があった。あれは男性用の制服──モーリスだった。
モーリス、と呼びながらアイリスは駆け寄った。
名前を呼ばれたモーリスは僅かに身動ぎをして目を開ける。
「すみません……会長が……僕、守れなかった」
モーリスと目が合った。「抵抗したんです。でも……数が多くて」
アイリスは、違和感を覚える。
言語化できないその違和感を信じ、そのまま後退さった。
「……どうしたんですか、アイリスさん」
モーリスはひどく淡々とした物言いでアイリスに訊ねる。
「……あなたはローズを、守ろうとしたのよね?」
「そのつもりで言いましたけど……なぜ、確認するんです」
大勢の暴漢を前に、ローズを守ろうとしたのだとモーリスは言う。だがその割に、アイリスには制服が小綺麗に思えたのだ。
アイリスは自身の制服をちらと見やる。
──人が命懸けで何かを守るということは、そういうことだ。
扉が開いて、マンフレッドが書斎に入ってきた。後ろにはマークが着いている。
「アイリス、無事? ──ああ、モーリスも」
マークが声を掛け、モーリスはゆっくりと腰を浮かせる。
「……アイリスさん。疑うんですか、僕を」
立ち上がりかけて、モーリスはたたらを踏んだ。痛みを堪えるように顔をしかめる。思わずマークが駆け寄った。
「モーリス、大丈夫──」
言いかけたマークの腕をアイリスが引き、制する。止められたマークは怪訝そうにアイリスを見た。
「ローズを攫った奴の仲間かも。油断しないで」
マークは目を見開いてモーリスを見た。
「……あーあ」
モーリスは箍が外れたような声を上げる。それが、どこか開き直った少女のような響きを持っている気がした。モーリスは立ち上がる。だらりと脱力させた右手にスチレットナイフを握っていた。
コレクションルームで見かけたことがある。
「あんた、それ、どうするつもり」
「……どうって」
アイリスの問に、邪気の無い、いつも通りの顔でモーリスは答えた。ぶらぶらと指先を遊ばせるようにスチレットナイフを揺らす。
「足止めです。別に逃げても良かったんだけど」
モーリスは何でもないことを言うように呟いて、刃先をアイリスに向けた。
「──あなたが嫌いだから」
マンフレッドは眉を寄せた。自分が何を見て、何を聞いているのか分からなかった。
「そんなものを人に向けて……君は自分がいったい何をしでかしているのか、分かってるのか」
マンフレッドの言を聞き終える前に、モーリスは出鱈目な声を出して首を振った。
「あー、もう。ヴィクター以外の男って、本当につまんない事しか言わないわぁ」
掛けていた眼鏡を放り、悪態をつく。露骨に不快感を見せるモーリスに、マークは訊ねる。
「君は、ヴィクターの何なんだ?」
「あの人にとって僕が何かなんて知りませんよ。ただ、僕にとっての彼は……神様みたいなものかなぁ。彼が協会メンバーの情報を欲しがってたから、僕が間に入って横流ししてました」
アイリスは眉を顰めた。
「最初から、それだけのために協会に入ったの?」
モーリスは困ったような顔をして首をかしげた。
「別にそれだけってわけじゃ。ほら、現に会長を拐かすのに役立ったでしょう? ……必要なことなら何でもやるんです。諜報だろうが、足止めだろうが何でも。それだけのものを、彼から受け取ってきたんですから」
「ヴィクターは協会のメンバーのことを知っていた。メンバー全員分の家族構成まで。あなたがみんな、ヴィクターに教えていた……」
アイリスが語調に怒りを滲ませる。ヴィクターはホテルを手に入れる策を考える下準備として、協会のメンバーの情報を調べたと言っていた。
「その通り」
なのに、とモーリスは声を落とす。
「そのヴィクターが、近頃になって急にアイリス、アイリス、と興味津々にあなたの話ばかりする。……僕としてはつまらないですよ。ほんとうに」
モーリスは手にしたナイフを逆手に持ち替え、アイリスに向き直る。
「彼の為になら何でもしてました。代わりに手を汚すことだって厭わなかった。……彼は、僕に生き方を教えてくれた。僕はね、孤児なんです。ずっと施設で育ち、オーナーから暴行も受けました。誰の愛も受けず、孤独に生きていたんです。僕に唯一愛を向けてくれたのは、彼だった」
「だからって……あなたはそんな風に一線を越えるの?」
アイリスの問に、モーリスは呆れたように笑った。
「一線なんてとっくに越えてます。話したところでわからないですよ、あなたには」
モーリスは続ける。
「誰からも愛されず、たった独りで生きてきた空っぽの僕に、温かく、愛のある接し方をしてくれる人が現れたんです。そういう存在に尽くしたくなる気持ちが、わかりますか? ……無理でしょう。最初からエンディコットで、最初からお金も影響力もあって──誰からも愛されているようなあなたに」
アイリスは苦いものを噛むような気持ちで、その言葉を聞いていた。分かっていないのはお前の方だ、と叫びたくなる気持ちを抑え、アイリスは首を振った。
「確かに理解しかねるわ。……誰の為とはいえ、簡単に一線を越えてしまうような人の気持ちなんて」
アイリスは吐き捨てた。
言いながら、モーリスとの距離を詰めることも、開けることもできなかった。アイリスが左右、どちらかの足に体重を乗せようとするたび、モーリスのナイフが僅かに角度を変える。
モーリスは憮然とした溜息をひとつ、吐いた。
「お喋りは終わりです。あんまり長引くと、ローズさんが保ちませんよ?」
⚜⚜⚜
ハイタワー三世のペントハウスに足を踏み入れた瞬間にブラッドが感じたのは、その異様さだった。
数人の手下とともに踏み入り、荘厳、というよりも大仰に装飾された室内を見渡す。壁に並ぶアフリカのものと思しき仮面と武器が、部屋に不気味な影を落としていた。外の光は尖頭アーチ型の重厚な格子窓を通して薄く差し込み、部屋全体が現実味を欠いているような気がした。
(……気味が悪ぃ)
ブラッドは胸中で呟く。
窓と窓の間の壁にさえ、人の背丈ほどもある木彫りの人形が立ち、部屋のどこにいても異様な視線を感じるようだった。
たしか──何とかいう「呪いの偶像」とやらも、アフリカで手に入れた代物ではなかったか。呪いなどというものを信じるつもりは毛頭無いが、異邦の神を象った木彫りのそれらには他の文化圏に無い独特の異様さがある、とブラッドは思う。そんな事を考え、ふと我に返って手下に声を掛けた。
「とっとと探せ。この部屋の何処かにあるはずだ」
へい、と方々から威勢のいい声が返ってきて、家探しが始まった。
壁に掛かったハイタワー三世の肖像画の裏、遺跡から持ち出されたであろう祭壇をくり抜かれた炉の中やソファの下に至るまで、虱潰しに探す。
「やっぱり、ホテル中を探すなんて無茶ですよ」
手下の一人が苛立った様子で部屋を歩き回っていた。ブラッドは馬鹿が、と悪態をつく。
「ホテル中なんざ探す必要はねぇ。大事なモンを隠すんなら自室に隠すに決まってる。俺だってそうする」
「でも、ここの家探しは一回やったって聞きましたよ。それこそあの、最近見つかったっていう隠し倉庫とかの方がありそうなもんすけどねぇ」
「るせぇ! 黙って探せ!」
「すんません……」
ブラッドは部屋の隅々に視線を巡らせていた。この部屋はコレクションを無造作に隠す場所とは違う。ハイタワー三世の富と力、その象徴だ。
ニューヨークという都市を手懐けるのに必要なものがこのホテルにあるのだとしたら、それはハイタワー三世の手がすぐに届く場所にあったはず。
そんな事を考えていた時、ブラッドの耳に手下の声が飛び込んできた。
「ブラッドさん、これ」
巨大な肖像画を示して、手下の一人が立ち止まっていた。ブラッドは手下の横に並んで肖像画を見る。
「この肖像画、バカでかいくせにおかしいんです。ハイタワーのやつ、ホテル中にしつこいぐらい自分の肖像画を並べてるくせに──」
「ああ……」
ブラッドは頷いた。「こいつ、ハイタワー三世じゃない」
手下も頷いた。
「はい。ヘンリー八世です」
「……誰だそりゃ」
「英国史におけるカリスマ、とも暴君、とも言われてるみたいですよ。まぁ、カミさんの受け売りですけど」
へぇ、と別段興味も無さげにその前に立ち、ブラッドは何とはなしに絵に手を伸ばした。するとそれはゆっくりとずれていき、壁の一部が音もなく開いた。
隠された扉が現れ、ブラッドは息を呑む。
「おい、これは」
ブラッドが低い声で呼びかけると、手下は大きく頷く。
「まさか、金庫ですかね」
「……お手柄だぞ、お前」
2人が隠し扉を開けると、奥には暗い通路が続いていた。その先にひんやりとした空気が漂っている。彼らは互いにうなずき合い、懐中電灯の明かりを頼りに通路を歩いた。
通路の先に現れたのは、まるで地下にあるかのような荘厳なワインセラーだった。棚には無数のワインボトルがずらりと並び、積もった埃と蜘蛛の巣はこの場所が過ごした静かな時を思わせた。中央の棚に鎮座しているボトルはおそらく、年月を重ねた最高級品だろう。
「金庫じゃあ……ねぇな」
ブラッドが囁き、手を伸ばしてそのボトルを手に取る。
「つっても、いいモンには違いねぇ。俺たちにご褒美ってことかもな」
「……かもっすね」
手下が苦笑いを浮かべ、わお、とワインのラベルを見て感嘆する。ワインセラーの冷たさが部屋を満たしていた。
「んじゃ、探すとするか。ボトルの奥にもあるかもしれねぇ」
「……はぁ? 兄貴、マジですか。こっから一本一本探せって?」
非難めいた声を上げる手下の頭をブラッドは思い切り叩いた。
「あたりめぇだろうが。ただでさえ1回目の家探しで空振ってんだ。もう一度手を抜いてみろ、ヴィクターの奴に何されるか分からねぇ」
⚜⚜⚜
アイリスはモーリスを睨んだまま静止していた。
不意にその手に握られた、何の変哲もないコレクション品だったはずのスチレットがわずかに揺れるのを感じた。
モーリスは突然、アイリスに向かって一歩踏み込んだ。ナイフが空を裂く。アイリスは横に跳び、危うくそれを避けた。
刃先が眼前を通過する。
視線をモーリスに向けたまま、躰を捻って両手を付いた。
アイリスの突風のような回し蹴りをかわし、モーリスは小さく笑む。
「──へぇ」
感心したように呟きながら、二撃目をアイリスに向ける。その時、マークが縋るようにモーリスの腕に組み付いた。
「こっちも忘れるなよ!」
モーリスは舌打ちし、マークのみぞおちに膝を入れる。沈みかけたマークの背中目掛け、逆手に持ったスチレットを構えた。
そこへマンフレッドが突進する。手にはハイタワーのデスクランプがあった。
「くらえ!」
叩かれそうになった側頭部を腕で庇い、モーリスは壁を背に倒れる。
「……クソ」
アイリスはマンフレッドを睨んだ。
「ちょっと。ホテルの備品が壊れるからやめてよ」
「どうせ解体するんだ。遅いか早いかの違いさ」
口調の余裕とは裏腹に、マンフレッドが荒い呼吸で答える。
モーリスは立ち上がろうとするが、壁を背にしたままたたらを踏んで座り込んだ。
「モーリス、わかってないのはあなた」
アイリスは静かに言った。声には怒りと軽蔑が滲んでいる。
「あなたがヴィクターに抱いている感情、それは愛じゃない──ただの依存よ。彼がくれる偽りの温かさにすがって、自分を捨てているだけ。……男の格好までして」
アイリスの言葉にモーリスは一瞬目を見開き、次いで、微笑んだ。その笑みは醜く歪んでいる。
「けど、それが僕にとって唯一の救いなんです。彼がいなかったら、僕は今頃──」
「その先にあるものは何? あなたがヴィクターのために何をしても、彼はあなたを救わない。ただ利用して──捨てるだけ」
アイリスの語調は鋭かった。モーリスは眉を寄せる。
「僕は、他の生き方を知らない」モーリスはゆっくりとスチレットを握り直した。「この変装は、少しでも自己投影がなくなるようにと──自分がいちばん嫌いな生き物になりきっただけです。無能で、小心者の男に」
そう、とアイリスは息をついた。
「あたしも暗闇の中、孤独で……自分の手を引いてくれる自分以外の手を探した経験がある。だからあなたの言いたいことは分かるわ。でも、あなたは掴む手を間違えたの。あなたはヴィクターがどんな人間か分かってる?」
「ええ……分かってるつもりです」
「──じゃあ」
アイリスは身構えた。
「もうあなたに言うことはないわ」
モーリスは瞬時に立ち上がり、壁を蹴る。無駄がなく、明らかにナイフの扱いに慣れている。
アイリスの顔に向かって振り下ろされるスチレットを、両腕を交差してなんとか防いだ。
モーリスに力で押され、アイリスは壁際まで追い詰められる。背後にドラゴンの喉を串刺しにするハイタワー三世の肖像画があった。
「弱き竜は死すべし──!」
眼前で呟くモーリスの瞳には狂気が宿っていた。
モーリスの背後で、マンフレッドが動く。彼は書斎の椅子の肘掛けに手を掛けた。
「アイリス!」
マンフレッドが合図する。
アイリスは背後で壁が動くのを感じた。モーリスの腕を渾身の力で突き上げ、アイリスは上体を後ろに倒し、逆立ちする。
隠し扉が開いたことで、倉庫の通路に躍り出るように体勢を崩したモーリスを、アイリスは両足で力いっぱい蹴り上げた。
天井近くまで上がったモーリスが、吸い寄せられるように落ちてくる。その躰は再びアイリスの渾身の蹴りによって、後方へと飛ばされた。
スチレットが明後日の方向へ飛んでいく。甲高い金属音。床に叩きつけられたモーリスが呻いた。
「この……クソ」
どうしてそれができるのか、モーリスは立ち上がり、身を引きずりながら倉庫の奥へと消えていく。
「──待て!」
マークがそれを追い、通路の角を曲がる。
アイリスは立ち上がれず、仰臥したままそれを目で見送った。
「大丈夫か、アイリス」
聞こえたマンフレッドの声にええ、とアイリスは小さく答えた。
「さすがに応えるわ……久しぶりの『人間ジャグリング』は」
絶えず上下する胸。爆発寸前の心臓、言う事をきかない躰、ありとあらゆるもののせいでアイリスは床に張り付いていた。
「倉庫の扉……いくつも外に繋がってる。モーリスを追うより……ローズを探して。お願い」
絞り出すようなアイリスの声に、マンフレッドは「わかった」と固く頷いて走り去る。
アイリスは天井を仰ぎ見ながら、小さく笑った。
「弱き竜は死すべし、か。……そういう意味なんだ、あの絵」
⚜⚜⚜
「くっそ、どこだ……」
手下が呟きながら、無造作にワインボトルを掴んで移動させる。ボトルを動かしながら、違和感を拭えずにいた。ワインセラーは通常、地下に構える。最上階のペントハウスにあるのは普通ではない。
事実、ここに漂うのは埃とカビの匂いばかり、葡萄の甘い匂いは微塵も感じなかった。
すると、その中の一本を引いた瞬間、微かな音と共にラック全体がゆっくりと前にスライドした。
「来てください、見つけました!」
隠されていた小さな隠し部屋が露わになった。その内に金庫が見えた。扉が半ば開いている。中には手紙やファイルの束が詰め込まれていた。
ここはワインセラーに見せかけた隠し部屋だったのだ。
「これだ……」
雑然とした印象だが、懐中電灯で注意深く照らすと、アルファベットの付いた仕切り紙によって規則的に並んでいることがわかった。
歓喜の声を上げる手下に、ブラッドは冷静な眼差しを向けて近付く。金庫の中身を確認すると、手紙の束をひとつ掴み取り、目を通した。
「なるほどな」
言って、ブラッドはほくそ笑んだ。
それらはヴィクターの指示通り、フィニアス・J・ウィザーズに関連するもののようだった。
(だが……それだけじゃねぇ)
この古い紙の山の中には、かつてハイタワー三世がニューヨーク中の有力者たちを支配した手段も含まれているはずだった。
ヘンリー八世の隠し扉を見つけた者が仮にいたとして、その向こうにあるワインセラーを見て大抵の人間はその秘密に満足するだろう。
「雇い主のご所望のモンはこいつらしい」
ブラッドはポケットに手紙をねじ込む。
「お前はもう戻れ」
ブラッドの言に手下は頷き、ワインセラーを抜ける。その背中にブラッドは叫んだ。
「全員呼んで来い。中身を全部運ぶぞ」
言って、ブラッドは金庫に向き直る。
「……さてと」
ブラッドはおもむろに金庫に手を入れ、書類の束から適当に数枚抜き取ると、自身のポケットに仕舞い込んだ。
(このくらいはいいだろ)
依頼を受け、計画を練り、指示を出すのはヴィクターだが、実際に現場で動くのはブラッドだった。それは役割であり、上下関係などではなかった──最初のうちは。自身の分け前が減り、明確な上下関係になったのはいつからだったろう。
ブラッドはポケットの中で書類をまさぐる。
ヴィクターに渡すより、直接脅しに使う方が貰いがいいはず。
これは裏切りではない。今の自分の扱いは不当で、自分は単にその不当を正す機会を得た。
──それだけのことだ。
薄暗がりの部屋の中、書類の山が業務用エレベーターに運び込まれるのを、ブラッドは満足気に見ていた。
これで自身の評価が上がることも間違いなかった。
いっそのこと、フィニアスの野郎のケチな報酬も蹴ってしまえばいい──たんまり脅し取れるはずだ。
ヴィクターに打診してみるのも悪くない、と思った。
手下たちの足音と、ホッとしたような話し声が部屋に響く。そんな時、背後で音がした。
──がこん。うぃぃん。
機械音だった。
エレベーターか、とも思ったが、背後のエレベーターはゲスト用で、すでに稼働していない。
誤作動で籠が上下することもあるかもしれない、と思ったところで、あることに気が付いた。
(誤作動で籠が動くのは、あり得ない)
ブラッドは振り返った。
手下の何人かが異変に気付き、黙り込んだままゲスト用エレベーターに視線を送る。
──うぃいぃぃん。
エレベーター扉上方の、扇形の階数表示板が緑色に怪しく光る。その針は6階、7階、と徐々に示す数を増やしていく。
(そもそもエレベーターの籠は落ちて粉々のはずだ……13年前から)
──ちーん。
到着の合図とともに機械音が止まった。
がこん、という音の後で、エレベーターの扉がゆっくりと開く。エレベーターの灯りの中に、そこだけくり抜いたように黒い影が見えた。
子どもの背丈程の奇妙な人影は、右手に長槍を手にしている。
その場にいた全員が息を呑んだ。
(呪いの……偶像)
ブラッドの独白は言葉にならなかった。
偶像の影、顔のあたりに、緑に丸く光る目が現れる。同時に閉ざされていた偶像の口が、笑みを浮かべるように耳元まで裂けるのが見えた。
──ひゃっはははは。
その笑い声を聞くや、ブラッドと手下は叫び声を上げて、業務用エレベーターに殺到した。
⚜⚜⚜
「誰かいないか。──ローズ! どこにいる」
マンフレッドは倉庫の下層から声を上げた。声は倉庫の壁に反響する。返答は無かった。
ポケットからアイリスに渡された招待状を取り出し、マンフレッドは血のように赤いインクで記された「急げ」の文字を睨んだ。
あれだけ命懸けのアイリスの姿を見てなお、マンフレッドはローズが攫われたという事実を飲み込めずにいた。たんなる思い違いで、ローズは今も何処かで無事でいる……そんな思いが捨てきれていなかった。
──あら、何をそんなに大騒ぎでいらしたの。子どもみたいに。
いつかのようにローズが、心配するマンフレッドを鼻で笑うのだ。
そもそも「急げ」という文字以外にメッセージらしきものは見当たらなかった。
いつまでにここに来い、でもなく。
何を持って来い、でもない。
(いや、違う。書かなかったのではなく、書けなかったのだとしたら)
ローズの命の保証が、正確にいつまでできるのかヴィクター自身にも分からなかったとしたら。
あえて言うならば、監禁場所が時間によって状況の変わる類の場所で、ローズの身の安全もそれに依存するのだとしたら──
そこまで考えたところで、マンフレッドは何かを聞いた。
──ひゃっはははは。
倉庫に反響するその声は、遠くから聞こえるようでもあり、ごく間近で発せられているようでもある。
同時に、何者かの視線を強く感じた。
「この笑い声……まさか」
マンフレッドは警戒とともに周囲を見渡す。
倉庫の床に並べられた石像、それらに立てかけられるように無造作に置かれたエジプトの棺。
倉庫の中央に屹立する巨大なファラオの像。
天井から吊られた、首だけとなったタマスの彫像。タマスは舌を出し、威嚇するような表情をマンフレッドに向けていた。
──だが、これといって異常は無い。
(気のせいか……?)
思ったその時、二つ並んだ緑色の光を見た。
タマス像の下、積まれた木箱やロープの隙間から、陰火の如き光が朧に揺れていた。
マンフレッドはその場に凍りつく。
「シリキ・ウトゥンドゥ……!」
その光は木箱の奥、床に備え付けられた跳ね上げ式の扉の間隙からこちらを覗いていた。開いた扉に反射した水の照り返しに、混ざるようにゆらゆらと揺れている。
──けっけっけっ……。
再び笑い声が聞こえた刹那、その光は水の光に混じって消えた。
「なんなんだ……」
マンフレッドは首を振る。
偶像の狙いが何であれ、今はローズを探さなければ。思いながら、ふと鉄扉の水の光に何かを感じた。
以前ここへ来た時、ローズとここで会話した。
──階下は地下水路よ。木箱が無数に積み上げられているわ。浸水で調査が困難になっている箇所もあるけど。
──なるほど、貴重なコレクションが、あわれ水浸しというわけですか。
──貴重であることは認めるのね。
ニューヨーク港に直結するこの倉庫の下は、水路だった。ハイタワー三世が消えて十三年、そこは想定よりも潮の干満の影響を受けている。
そしてマンフレッドは、ある可能性に行き着いた。
──まさか。
「──ローズ!」
マンフレッドは足元に転がる木箱や石棺、カノプス壺を飛び越えて走った。(なぜ、気付かなかった)普段のマンフレッドならば「死者への冒涜」と忌み嫌うであろう行為だったが、今、それを気にしている余裕は無い。
うず高く積まれた木箱を登り、タマス像の下、鉄扉の側へと駆け寄った。
「そこにいるのか、ローズ!」
丸い取っ手を渾身の力で引き、重い鉄扉の間隙がみるみるうちに広がっていく。開いた鉄扉の重みで木箱のいくつかが動いた。
床下を覗き込んで、そこにローズの白い首から上が見えた。
「ローズ!」
下りていた鉄梯子にすぐさま組み付き、数歩下ったところで逡巡なく飛び降りる。飛沫と水音。次いで、刺すような冷たさがマンフレッドの胸までを包んだ。
「ローズ、今助ける」
猿轡を外し、首まで水没したローズの躰を抱え上げようとして、ローズの腕が鉄梯子に固定されていることに気がついた。
──あの野郎。
マンフレッドは歯噛みする。
「フレッド!」
鉄扉の上から、マークの声がした。マンフレッドは顔を上げ、覗き込む顔に声を掛けた。
「見つけた。ローズはここにいる。……腕が縛られていて、解くには手こずる」
上ずる声で説明すると、マークは何かを差し出してきた。
「こんなこともあろうかと」
「……助かる」
手渡されたスチレットナイフを水面下に潜らせ、ローズの腕の戒めを探り当てる。
「スト……ラング……」
ローズの青ざめた唇が動いた。
マンフレッドは懸命に縄をナイフの刃先で削りながら、ローズに笑い掛ける。
「ローズ、もう大丈夫だ。──よく耐えたね」
戒めが解かれ、ぐったりとしたローズを抱えて梯子を登った。マークに引き上げられ、ローズは倉庫の床に倒れ伏した。
「……随分冷えてるな。フレッド、濡れた服を。──彼女には僕の上着を」
できうる処置をして、2人でローズを支えて歩く。そこへアイリスがやって来た。
「ローズ、見つかったのね」
「地下の通路にいたよ、水没寸前のね」マークは渋面で続ける。「あと少し遅ければ溺れていたかも。まるで拷問だ」
マークの言葉に、アイリスは悔しげに顔を歪める。
「モーリスは」
「ごめん……見失った」
「そう……そこの扉、バックヤード経由で外に出れるわ。急いでローズを病院へ」
「了解。──フレッド、急ごう」
こっち、とアイリスが木の扉へ促す。マンフレッドは歩きながら、忸怩たる想いを抱えていた。
「ローズ……あんな場所に独りで、少しずつ水に侵されながら、ずっと助けを待っていた。どんなに孤独だっただろう」
それなのに自分は、思い違いであってほしい、などと最後までアイリスの言を信じ切れずにいた。
扉を潜ると、背後のアイリスが言う。
「でも、あなたが助けた。きっとローズは大丈夫よ」
「……そうだね」
行きましょう、とアイリスは扉を閉める。
その時、倉庫で声がした。
「──待て、お前!」
振り返ったアイリスは閉め掛けた扉の隙間を覗く。
「さっきのはてめぇの仕業か、女ァ!」
剣呑な目つきをした大男──ブラッドが倉庫の上階の柵に縋りつきながら喚いていた。
「2人とも、急いで」
「アイリス、君は」
マンフレッドに問われ、アイリスは嘆息する。
「すぐに行くから」
小声で言って、アイリスは扉の間隙に躍り出た。
「おい、アイリス!」
首だけを振り向かせたマンフレッドの眼前で、木の扉はばたりと閉じた。