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GASLIT STREET C07 「気持ちを聞かせて」

 
1892年
ニューヨーク市 エンディコット邸
 
 アイリスはリビングに入ると、そのまましばらく立ち尽くしていた。
 リビングにはコーヒーの香りが漂っていた。カーテン越しに入る柔らかな光の中で、長テーブルの椅子に腰掛けたコーネリアスが、部屋にたった一人で新聞を開いている。
 彼の白髪交じりの頭髪が、紙面の上から僅かに覗いていた。
 
「──家にいるのがそんなに珍しいか?」
 
 新聞越しに、低い声が聞こえた。
 ニューヨーク・タイムズ新聞のロゴの少し上で、コーネリアスの茶色い瞳がアイリスを見ていた。アイリスは思わず目を逸らす。伯父の咳払いが聞こえて、彼もまた顔を伏せたのだと分かった。
 珍しいというより、休日のコーネリアスが朝食後に家の書斎以外の場所にいるのを、この時アイリスは初めて見た。
 
「……それ、伯父さまの会社の新聞?」
 
 アイリスの言葉に、コーネリアスは紙面のロゴを一瞥して「違う」と答えた。
 
「子供には同じに見えるかもしれんがな。……うちの新聞は大衆紙で、市場動向の情報収集には向かん」
 
 アイリスの問いに、伯父は少し考え、ゆっくりと答えた。その会話は互いの距離を推し測るかのように、目も合わずに交わされた。

「市場、動向って」
「……簡単に言うと、だ。これから値を上げるとされている推奨株が書かれている。それを参考に取引する」
「買うの?」
 
 アイリスの問には間髪入れずに「逆だ」と答えがあった。
 
「鵜呑みにする奴は痛い目を見る。場合によるが、手放すことの方が多い」
「けど、参考にするって」
「しているさ。周りの人間が情勢をどう見ているのかがわかる。……だが、信用に値するのはあくまでも自分の目と耳。それだけだ」
 
 言って、コーネリアスはテーブルのコーヒーカップを口元まで運んだ。「この家には慣れたか、アイリス」
 コーネリアスの言に、アイリスは後ろ暗さを覚えて顔を伏せる。何も答えないアイリスにコーネリアスは怪訝な顔を向け、新聞を畳んで脇に置いた。
 
「不足があれば言いなさい。何か必要なものが?」
「いえ……べつに」
「座りなさい」
「はい」

 コーネリアスの言葉に唯々として従い、アイリスはすぐ脇の椅子に座った。

「何か言いたいことがあるのか」

 コーネリアスの言葉に胃が縮こまるような感覚を覚えて、アイリスは膝の上の両手を握りしめた。

「あの、あたし」絞り出すように、アイリスは言葉を続けた。「施設に……行きます」

 姪の言葉がよほど心外だったのか、コーネリアスは深く息を吐いて首を振った。

「とうぜん、聞かれるであろうことは想定していただろうが。──それは何故だ?」

 それは、と呟いて、アイリスは押し黙った。重い沈黙が流れる。リビングの柱時計の秒針が、いやに大きく聞こえた。

「ここは、あたしの家じゃないから……」
「施設に行けば、そこが自分の家だと思えるとでも?」
「でもずっといるわけじゃない。里親が迎えに来てくれるんでしょう?」

 コーネリアスは眉を寄せてアイリスの言葉を聞いていた。アイリスは切れ長の目をコーネリアスに向けたまま続ける。
 
「あたしはずっとここにいたくないの。皆にだって迷惑掛けてるし……」
「居心地が悪いのか」

 コーネリアスの言葉は、ある意味でアイリスの本音を端的に表していた。それだけに、何も言えなくなった。

「──図星だな」

 コーネリアスは憮然とした様子で首を振る。「里親が迎えに来る、と言ったな。それはいつだ」

 アイリスは首を振った。

「わからない。でもそういうものでしょう?」
「いつになるかわからない迎えを待てるか? ──たった独りで」
「今だって……」

 独りだ、と言いかけて、脳裏にローズの顔が浮かんだ。ぎゅっと瞑目し、その影を追い払う。

「あたしは独りよ。──親が死んでからずっと」


CHAPTER 7
YOUR WILL
 

 

「政治部の人に聞いたんですけど、ウィッテンバーグについては皆目、見当がつかないそうです。分かっているのは独り身だったことぐらいですね」

 後輩記者のホプキンスがマンフレッドのデスクを覗き込む。

「グリニッジ・ヴィレッジの周辺を拠点に、主に人権系の弁護や開発関係の訴訟を担当していたようですが……当然知ってますよね。いちど記事にしてますから」
「そうだな。ヴィレッジといえば、ちょうどアトラス不動産の連中が彷徨いていたあたりか。……ハモンドについては」
「ハモンドは議員秘書だったみたいです。官僚時代、土地管理部門にいたそうで」
 
 報告を聞いたマンフレッドは、今までためつすがめつしていた帳面を机に置いて、そうか、と頷いた。
 
「するとやはり、ハイタワー三世とはまったくの無関係と考えてよさそうだな」
「ええ。ハモンドは退職前、フィニアス・J・ウィザーズって議員の下で働いていました。それが、例の取引があってすぐに行方を眩ませたそうです」
「フィニアス……聞いた名だ」
 
 当然だった。マンフレッドは自身の取材ノートの中に、その名前をすぐ見付けた。リチャード・H・ウィッテンバーグ議員と、開発を巡って対立していた。それが先日、都市開発委員会の委員長に任名されたのは記憶に新しい。
 当時のハモンドがフィニアスの指示で動いていたとすると、押収したホテル・ハイタワーの土地を転売したのはフィニアスということになる。
 
「これ、フィニアスの思惑下での取引だとしたら、スキャンダルですよ」
「そうだな……」
 
 ホプキンスの報告をノートに書き留める。
 ──書面が偽造されていたとしたら、巧妙なものだったに違いない。まず、ハイタワー三世の資産管理代理人としてハモンドを仕立て上げなければならない。その上で乱立させた権利書を元に取引を成立させる。本物と偽物、双方の区画が入り乱れた土地権利書を巡る法的な問題、未解決の訴訟は、あの土地を13年間放置させるに足る混乱を巻き起こした。

(……これだけの手間を掛けて、いったい何を)
 
 と、マンフレッドに別の同僚から声が掛かった。
 
「おい、ストラングはいるか。ニューヨーク市保存協会が入口に来てるぞ」
 
 マンフレッドはデスクから顔を上げる。
 
「今行く。……マークか、いやに早いな」
 
 そういうことだから、とマンフレッドは帳面の束をホプキンスに渡す。
 
「ちょっとちょっと、どうするんですかこれ」
「記事にする準備を頼むよ。使うタイミングが来るかもしれないからね」
「聞いてないですよ!」
 
 ホプキンスの苦情を聞き流し、マンフレッドはそそくさとその場を離れた。
 ブラインドで仕切られたガラス張りの社の入口を出て、階段を下る。空は黄昏れ始めていた。
 
ストラングさんミスター・ストラング
 
 階段の下で待ち受けていた人物を見て、マンフレッドは身を硬くした。
 ──いつか見た、白いドレス。
 
「君は……ローズ」
 
 そこに居たのは、複雑な顔をしてマンフレッドを見上げる、ベアトリス・ローズ・エンディコットだった。
  
   ⚜⚜⚜
 
「もう宵の口で悪いのだけど、もう一件付き合ってくれる?」
「例の教会? いいよ。車を捕まえようか」
「歩きましょう。探すのも面倒だから」
 
 空が黄昏れ始めた頃、アイリスとマークはアパートメントから程近い場所にある教会、ニューアムステルダム・グレース教会へと向かった。
 前面部分がレンガ造りの古いビルに着くと、ちょうど黒衣の教会員が入り口に灯を入れる所だった。
 掲げられた「ニューアムステルダム・グレース」の看板の下には、「すべての人に開かれた場所」というメッセージが添えられている。
 
「こんにちは」
 
 五十代くらいだろうか、声を掛けたアイリスを、その男は怪訝そうに見返す。
 
「ええ、こんにちは。何か御用でしょうか」
 
 とりあえずアイリスは教会員に名刺を渡し、アトラス不動産について話を聞いて回っている旨を伝えた。
 ああ、はいはい、と男は頷く。
 
「ニューヨーク市保存協会なら知ってますよ。何ヶ月くらい前かな、歴史ある建築物は保護されるべきだ、なんて女の人が演説してましたよね」
「そうです。ご存じでしたか」
「……でもなんだって、あなた方のような人たちがアトラス不動産なんかを」 
「実は、ホテル・ハイタワーの保護を続けるにあたってアトラス不動産について調べる必要がありまして。ここの事は、近隣のアパートにお住まいのサリバンさんと、トーマスさんから聞きました」
 
 アイリスの言に男は破顔する。
 
「ああ、なるほど」
 
 親しみやすい笑みに、彼自身の柔和さが表れていた。
 
「彼らに話を聴いたのなら話は早い。だいたい、ウチも同じような事情ですからね」
「少しお話を伺えますか。ご都合が悪ければ出直しますけど」
「いえ、もう勤行の時間は過ぎましたから。どうぞ入って。私は牧師の、ベネットといいます」
 
 言って、男はドアを開けた。
 ビルの一室にこさえられた部屋には、簡素ながらも温かみのある装飾が施され、木製のベンチが並んでいた。
 前方には小さな祭壇、その上には金の十字架が掲げられ、数は少ないが献花や蝋燭が飾られている。
 ベネットと名乗った牧師は、礼拝堂の隅のベンチにマークとアイリスを促した。
 
「ここは3階建てのビルを丸ごと借りて、教会と住居にしてます。1階が礼拝室とホール。おおよそは聞いているだろうけど、あるとき急にアトラス不動産が来て、オーナーが変わったから出ていけ、と言われたんです。けどまぁ、そういうわけにはいかないじゃないですか」
 
 教会は、地元の貧困層や困窮している人々に対し、食糧や衣服の配布を行うなどの地域貢献も行っていた。信者もいる手前、すぐに立ち退くことはできなかった、とベネットは言う。
 
「相当苛立っているようですね、私らに対して。こないだは外の水道管を壊されました。この時期にそういうことをされると、水が凍り付いて、道を歩く人が滑って危ない。足弱な老人だっているんです。仕方がないんで、自分らで直しましたよ」
 ベネットは苦笑交じりに肩を竦める。「そしたら今度は、ビルの管理会社から『修理費用』の名目で高額な請求書が送られてきた。当然、修理された覚えなんてないです。まったく、何が何だか」
 
 呆れたようにベネットが言った。
 ふと、アイリスは階上で物音がしたのを聞き、マークと顔を見合わせる。
 あのう、とマークが口を開く。
 
「上階が住居って話でしたけど、どなたかおられるんですか」
「ああ、居候ですよ。この辺は治安が悪くてね。しょっちゅう喧嘩だなんだと騒いでは怪我人がうちを頼るんです。自分じゃ医者にかかる金を持っていないからって」
 
 はは、と笑うベネットの口調はまんざらでもない様子だった。
 
「といっても、今回は町医者を呼びましたけどね。さすがに怪我がひどかったんで」
「そんなことがあるんですね」
 
 アイリスは感心混じりに頷いた。
 服や食事に加えて簡易的な医療も提供している、ということだろう。それはもはや、信仰の要であるということ以上に、地域社会を根底から支えていることを意味していた。
 
「ベネットさん、もし差し支えなければで構いません。上の方にもお話を伺っておきたいのですけど」
 
 アイリスが言うと、ベネットは少し困ったような顔をした。
 
「別にそれは構いませんけど……あんまり力にはなれないと思うなぁ」
「……というと」
「いえね、彼には数年分の記憶が無いんですよ。頭を打ったらしいんだけど」
 
 マークが口を挟んだ。
 
「それって、記憶喪失ってこと?」
 
 ベネットは頷く。
 
「そう。落ち着くまでここに居たいっていうんで置いてるんです。最初はひどい状態だったけど、今は多少体力が戻ったようで。まぁそれでも……寝たり起きたり」
 
 聞いていたマークはアイリスに目配せする。
 
「……今日のところは、やめておこうか」
 
 意を汲んで、アイリスは頷いた。

   ⚜⚜⚜

「残念ながら、ニューヨーク市保存協会の事務所を畳もうかと思っています。もっともあなたにとっては、朗報なのでしょうけど」
 
 ローズの申し出に、マンフレッドは啞然と口を開けた。ニューヨークデリのテラス席でマンフレッドと向かい合いながら、ローズは珈琲を口に運ぶ。
 
「それは……」
 
 何故、と問い掛け、マンフレッドはそれが愚問であることに思い当たる。
 
「抗議活動のせいなのか」
「それもありますが……いちばんの理由は、多くの人を自分のエゴに巻き込んでしまったこと」
 
 ローズは憂いを含んだ目を伏せた。
 
「アイリスやマーク、それに、他の協会員も。私が抱いた夢のせいで、多くの人を傷付けてしまった。あなたの言う通り、あのホテルは呪われていたのかも」
「あなたの……夢のせい」
 
 ええ、とローズは頷く。
 
「あのような価値ある建造物が喪われるのは歯痒いのですが……もう仕方がないことなの。でも、そのかわり」
 
 ローズは幾分、晴れやかな顔をしてマンフレッドを見た。
 
「これでようやく、貴方と本音で会話ができる気がしますわ。ホテル・ハイタワーの話題も、ハイタワー三世の話題もなしに」
「そう……ですか」
 
 マンフレッドは目を見開いたまま、ローズを見据えていた。彼女は笑っていた。瞳にはわずかに充血の跡が見え、目の下にはうっすらと隈がある。そんな姿でさえ、美しい、と思う。
 ローズは再び顔を伏せ、カップを口に運んだ。それでカップが空であることに気づき、慌ててそれを置く。
 ふ、と短く笑みが漏れた。
 
「……どうかなさったの?」
 
 マンフレッドは大きく息を吸い、吐いた。長い、長い嘆息だった。
 
「いけない。してはいけないよ、そんな選択は」
 
 マンフレッドの言葉で、ローズの目に僅かに光が戻る。
 
「あなたも、ホテル・ハイタワーの価値を信じてくださる気になったの?」
 
 マンフレッドは苦いものを噛み締めるように首を振った。
 
「違うよ、ローズ。あのホテルには、保護に値する価値なんてこれっぽっちもない。それは確かで、今後も変わらない。あんなものを遺すなどニューヨークの恥だ」
 
 ローズは眉間に皺を寄せた。不快さの為か、単なる疑問の為か。マンフレッドにはそのいずれにも見えた。
 
「けれども君はそのことに、自分で気付かなきゃならない。自分で気付き、自分でホテルを手放さなくてはならないんだ。……誰かの暴力によってではなく、自分の意志で」
「私の意志?」
「ああ。活動を辞める、と聞いた時は色々なものが頭を巡ったよ。抗議が止み、平穏を取り戻すストリート。開発計画が再び動き出し、解体の始まるホテル跡──全てが、あるべき形に戻っていく」
 
 でも、とマンフレッドは続けた。
 
「そこには僕にとって、いちばんあるべきものがない。君の意志だ。君は納得がいかないまま、夢を棄てることになる。味わうべきでない挫折によって泣き伏す君の姿など、あってはならないんだ」
「マンフレッド──」
「君の仲間は……大丈夫だ。僕が言うのもなんだが、彼らは強い。君の夢を叶えようと必死だ。力になりたいと思ってしまうほどに……僕でさえも」
 
 だから、とマンフレッドは続ける。
 
「君には今少し、彼らの要でいてほしい。それは君にしかできない。君の立場を脅かす連中を退けるには、まだ時間が必要なんだ」
 
 マンフレッドの言を聞くローズの瞼に、光る粒があった。瞳には光が宿る。自信に満ちた光……マンフレッドを初めてツアーに招いた日に見た、あの光だ。
 
「活動を辞める、と言えばきっとあなたは喜ぶと思ったのに。今度は諦めるな、なんて──相変わらずひどい人ね。ストラングさん」
 
 ローズは苦笑した後、机に突っ伏した。ほんとうにひどい人、と言い残して。

   ⚜⚜⚜
 
「突然、押しかけてすみませんでした」
 
 アイリスは玄関扉を潜りながらベネットに詫びる。ベネットはいえいえ、と手を振って笑った。
 
「あなた方の事情は分かりませんけど、できる限りは協力しますよ」
「ありがとうございます」
「気を付けてください。このへんの夜道は危ないですから」
 
 アイリスとマークは軽く会釈をして、教会に背を向ける。
 遠ざかる二つの背中をベネットは見送った。ベネットが扉を振り返ると、不意にそれが開いた。その間隙からくわえ煙草の男が顔を覗かせる。
 
「──客人か」
「ん、ああ。ニューヨーク市保存協会のアイリスさんとマークさん、と言っていたがね」
 
 聞いて、男は首を捻る。包帯の撒かれた頭が傾けられた。
 
「ニューヨーク市保存協会は知ってる。アイリスにマーク?」
「彼らは君に話を聞こうとしてた。けどあれで良かったんだろう? リチャード。もし連中の仲間だったら、今度こそ命が危ない。警察だってどこまで信用できたものか」
「ああ……いや」
 
 リチャードと呼ばれた男は瞑目し、首を振る。「ニューヨーク市保存協会は敵じゃない。ただ、知らない名前で」
 そうかい、とベネットは嘆息する。
 
「もう遅い、戻ろう。……夕餉は部屋で?」
「1日寝台の上にいたんだ。腹なんて減らないよ」
 
 リチャードは渋い顔のまま、顔を伏せた。「……ありがとう」

 ベネットは苦笑して、扉を潜り階段へ向かう。
 
「──あの」
 リチャードはその背中を呼び止めた。
「俺はいつまで、ここにいていいのかな」
 
 振り返ったベネットはリチャードを見る。
 
「君さえよければ好きなだけ居て構わないがね……こんな場所じゃ落ち着かないんじゃないかい? 連中が昼間みたいに騒ぐのを見て、君も穏やかじゃないだろう」
「……迷惑なら出ていくさ」
「迷惑だとは言わんよ。君がこの地区の人々にしてくれたことを考えれば、匿うなんて大したことじゃない」
 
 ベネットの言にリチャードはそうか、と小さく頷いた。その表情には安堵の色があった。
 
「もし本当にここが危なくなったら、俺の身柄を使って好きに連中と交渉してくれ」
 
 はて、とベネットは首を捻る。

「交渉って、何をだ。君をボコボコにしたのは彼らの仲間なんだろう?」
「何とも言えないんだ。……ただ、本当にニューヨーク市保存協会が味方につくのなら心強い」

   ⚜⚜⚜
  
「しかし、なんでわざわざ人が住んでる所を追い出して、開発するのかね」
 
 住宅街をアイリスと並んで歩きながら、マークが言う。
 
「マンハッタンを少し外れれば、都市化してないところなんていくらでもあるだろ。開発ってのは本来、そういう所をより良くする為にやるべきなんだよ」
 
 アイリスは頷いた。
 
「ウェストチェスターとか?」
 
 アイリスの答えにいや、とマークは苦笑する。
 
「そこはもうやってるだろ。金持ちが好きそうな新しい住宅がちらほら建ってるって聞いたよ?」
「ええ。大きいばっかりで面白みもない家がね」

 そうかい、とマークは頷く。
 
「……区画整理だなんだと言って土地を小綺麗にしたい政治の意向も分かるけれども、それにしたって、生活の基盤としている人達がいる場所を無理矢理潰して高層化やら何やら……まるで、金持ちが金持ちでいるための開発だ」
「そうね」
「僕はただ、フレッドを手伝うのが面白いから色々と手を貸してた。でもここまで調べてきて、思うことがあったよ。色々と」
 
 マークは遠い目をしたあと、そういえば、とアイリスを見た。
 
「ちなみに……君んちの近所には何があるの?」
「昔から住んでる金持ちの家と、最近住み始めた金持ちの別荘と……あとは全部農家。──そんなだから、みんなの関心事はもっぱら朝の散歩と、それに使う靴や自転車のこと」
「へえ」
「つまんないでしょ」
「いいんじゃない、平和でさ」
「平和とは言えない。昔からの名士と新興成金との諍いが絶えないわ」
「そりゃ……犬も食わないね」

 たしかに、とアイリスは笑った。
 
「君があの連中……アトラス不動産を追うのは、ローズの為かい?」

 虚を突かれて、アイリスはマークを見返した。
 
「それが確かに一番の理由だけど……20年前、あたしの家族に『お礼』をしたのが本当にヴィクターなのだったら、あたしはあいつに挨拶しなきゃならないでしょ」
「挨拶って……血の気が多いな」 
「アトラス不動産の悪行を白日の元に晒してやる。必要なことよ」

 決然としたアイリスの言葉に、マークは大きく頷いた。
 
「それには同意見だ」 

   ⚜⚜⚜
 
「僕はこのあたりで車を捕まえるけど、アイリスはどうする」
「駅まで歩くわ。すぐそこだし」
「わかった、気を付けて。……じゃあまた」
 
 マークと分かれた後、アイリスは聞いたことを反芻しながら帰路を歩いた。
 新たな情報は皆無と言っていい。しかし、立ち退きの当事者の声を聞いたことで、アイリスの決意はより確かなものとなった。
 ──かつてホテル・ハイタワーの不正な売買に関わった不動産が、今なお汚い手を使って多くの建造物を乗っ取っている。
 そして、どういうわけか手を離れたはずのホテル・ハイタワーに再びその触手を伸ばしているのだ。
 
(連中の好きにはさせないわ。──絶対に)
 
 アイリスには証拠も捜査権も無い。だが、仲間がいる。うち一人は新聞記者だ。必要なものさえ揃えば、どんな巨悪だろうと失脚させられるはずだった。
 
 ──ガス灯の並ぶ静かな通り。
 眩い電灯に照らされている劇場街とは打って変わり、今もこの街の夜の大半はこの朧で不安定な灯を頼っている。
 こんな灯でも無いよりは遥かにいい、とアイリスは思う。かつての人々は手持ちのカンテラひとつを頼りに道を歩いたそうだ。
 それに比べれば、等間隔に灯が並んでいるというだけでも頼もしいはずだ。けれども、アイリスは何となく緊張した面持ちで冷えた夜気の中を歩いていた。
 人通りは少ない。夜道はただ単に暗いというだけではなく、暗がりに誰かの姿を想像してしまう。居心地の悪さを覚え、無意識に速足になった。
 
 その間、アイリスはどこからともなく視線を感じていた。思い立って、前を向いたまま目線だけを視界の隅に向ける。車道を挟んだ向こう側、ガス灯の狭間の暗がりに数人分の影が見えた。
 
(……尾けられてる)
 
 じわりと背中に汗が浮かんだ。
 アイリスは徐々に足を速めた。ほとんど小走りになったころ、背後の人影もまた速度を上げていることが分かった。
 背後に追跡者の気配を感じながら、咄嗟に路地裏へ入る。細い通りを抜けて劇場街へ出れば、雑踏に紛れられると思った。
 眼前に道は無く、あったのは建造物の真裏の壁、そして左に折れる細い道だった。
 
(甘かった)
 
「──裏へ行ったぞ」
 
 背後で声がした。それは殆ど囁きのようなかすかな声だが、追ってきていることは確実だった。
 アイリスは壁に沿って左折し、足元に転がる投棄物を飛び越えながら走った。
 その先にも曲がり角があったが、ばたばたと慌ただしい無数の足音が前方から聞こえ、廻り込まれたことを悟る。
 足を止め、周囲を見渡した。ビルの壁に沿って雨どい用のパイプが這っている。その上には非常階段。
 考えている暇は無かった。
 思うに任せ、パイプを掴む。
 そのまま壁を伝って、パイプをよじ登った。
 幼少から、高い所を怖いと感じたことは無かった。……けれども。
 
(落ちるのは、怖いな)
 
 いくらも経たないうちに追手の声がした。
 
「女は上だ」
 
 パイプを掴んだままアイリスは体を左右に揺すり、勢いをつける。壁を蹴り、そのまま非常階段の柵に飛び移った。
 柵をよじ登り、越えて、着地する。 
 荒くなった息を軽く整えて、階段を駆け上った。
 錆びた階段越しに階下を覗くと、パイプをよじ登ろうとする追手が見えた。
 
「このビルだ。屋上へ向かったぞ」
 
 他の何人かは路地を去る。建物内の階段を使う気であろうことが分かった。
 分かったところでどうにもならない。
 アイリスはそのまま外階段を駆け上がり、屋上へ向かう。
 ほどなく屋上に着くと、貯水タンクが見えた。
 アイリスは貯水タンクに駆け寄ってそれを支える鉄骨の脚に掴まり、屋上から身を乗り出して通りを見下ろした。
 ガス灯の薄暗い光に照らされた通りが見えた。人通りは少ない。
 
「──どうしよう」
 
 心中の声が漏れた。
 飛び降りることもできなければ、建物の階段を使うわけにもいかない。
 鼓動が耳元で鳴るかのような焦燥感。
 
「女だ。上にいる」
 
 階下から声がした。間近にいると思うほど、声は明瞭に聞こえた。アイリスは身を退いて貯水タンクから離れた。震える手を胸に当て、狼狽する自分を落ち着ける。声の方を振り返ると、建物の側面にある外階段を上がる2人の男が見えた。男たちはアイリスの姿を認め、走り寄って来た。

「──可愛がってやんな」
 
 一人が言い、(逃げ場がない)言われた男がアイリスに向けて飛び掛かる。(逃げ場が)
 男はアイリスの腕を掴もうと手を伸ばす。 
 相手は女、悲鳴を上げて逃げるだろうと思われた──だが、アイリスの姿は男の視界から突如として消えた。
 覚悟したのとどちらが先か、体が瞬時に反応した。
 男が掴むより早くアイリスは上体を反らし、そのまま手をついて逆立ちする。地面を蹴り、腕を目一杯伸ばした勢いを乗せて、アイリスの足が相手の首筋を突く。
 相手は顎を仰け反らせて倒れた。もう一人がぱっと後退する。倒れた男は首を押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。

「ふざけんな! 何笑ってやがる!」

 男は叫んだが、アイリスは笑ってなどいなかった。歯を食いしばって立ち上がる姿がそう見えたらしい。
 ──逆立ちすると、「巨人」になれるの。
 再度、アイリスは二本の腕で逆立ちする。視界が反転、見下ろす者は見上げ、見上げる者は見下ろす。男の顔を見据えたまま、アイリスは間合いを詰めていく。
 見たことのないアイリスの不気味な動きに、男は明らかに狼狽していた。
 闇雲に振り下ろされた男の腕を両腿で挟み込む。そのまま両足を大きく引き倒した。
 体重と遠心力で男は地面に叩きつけられる。次いで、瀕死の獣のような呻き声が聞こえた。
 アイリスは即座に身を起こし、逆方向に全力で走った。建物間の段差を飛び越え、反対の通りへ。
 仲間を呼ばれればひとたまりもない。

「……待て、クソが!」
 
 制止の声を無視して、見つけた広告の看板の脚に掴まり、通りを見下ろす。(劇場街)
 
 通りを雑踏がひしめいている。眩いネオンが照らしている。ここで助けを乞えば、あるいは──。そう思った時、あるものが目に入った。
 屋上に設置された金具から、通りを挟んだ向こう側のビルまでワイヤーが伸びていた。
 
(これ、ローズが言ってた)
 
 ──あれは……電飾用のワイヤーね。もうすぐクリスマスだから。
 
 事務所でローズから聞いた。屋上どうしを繋ぐワイヤーには、電飾やリース、大きな星の飾りが吊り下げられる予定なのだ、と。
 複数の靴底が金属の階段を叩く音が背後で聞こえ、アイリスは振り返る。さらに数人の追手が今いるビルの屋上に迫っていた。
 冷や汗が浮かんだ。退路が無い──ただ一つを除いて。
 
「大丈夫……アイリス、いけるわ」
 
 自身に言い聞かせるように言って、アイリスは息を吐く。
(よし)
 上着と靴を脱ぎ捨てる。上着が無ければ、協会の制服であることは悟られない。意を決して屋上の縁の向こう側へ、ワイヤーの上へと足を踏み出した。
 
   ⚜⚜⚜

 頭上の電飾用ワイヤーの上に人影が現れた。
 夜のブロードウェイを歩く通行人がひとり、またひとりと足を止めて頭上を指さす。
 街の明かりに照らされたその人物は、白のブラウスに紺のキュロット姿。
 風でふらつく様子も無く、一歩ずつゆっくりと進んでいる。バランスをとるように両手を動かすその姿もどこかしなやかで、今にも踊りだしそうな風情だった。そうしているうちに、たちまち人だかりができた。
 
「あれは何の曲芸?」「この高さで物怖じしないのは大したものだ。どこが雇ってるんだ?」
 
 見れば、女が渡って来たビルの屋上に数人の人影が見える。
 
「あれは関係者か。一体なんの見世物が始まるのかね」
 
 酔客たちが好奇心を露わに人影を示した。当の彼らは人垣を見下ろすと、ばつが悪そうにビルの屋上へ姿を消していった。

   ⚜⚜⚜
  
 アイリスはひとつ息を吐いて、人垣を見下ろす。
 ──観客たちの好奇の視線。
 その熱さは、冬の風と緊張で凍りそうだったアイリスの心を溶かしていく。
 アイリスはワイヤーの上を進む。背筋を伸ばし、両腕でバランスを取る。(視線はまっすぐ、お腹と頭はワイヤーの上……)ブランクの割に、基本的な動作は体に染み付いているようだ。

 中ほどまで来たところで数回、くるくると横に回転するようにステップを踏んだ。
 堅牢なワイヤーがしなり、観客が歓声を上げた。よほど注目を浴びると都合が悪いのか、追手は去っていた。
 
「随分とシャイなのね」
 
 アイリスは演技を終えるつもりでキュロットの裾を持つと、ワイヤー上でお辞儀をする。
 拍手が雨のように鳴った。ここまで、アイリスは自分が笑顔を浮かべていることに気付かなかった。
 
「──おいあんた、何やってる!」
 
 観客の中、警棒をこちらに向ける警官の姿を認めてアイリスは奥歯を噛んだ。警官は険しい顔でアイリスに告げる。
 
「今すぐ降りてこい。話を聞かせてもらうからな」 

   ⚜⚜⚜
 
「利き足で立ってみて。立ち上がる時はまっすぐ、頭から天井に伸びるロープを想像して。……そう、いいわ。安定してる」

 採光窓から暖かな午後の光が差していた。
 オリヴィアの声に従い、少女は練習用ワイヤーの上に立った。「アイリス」の名入り刺繍が施されたワンピースを着た少女の表情には緊張が滲んでいた。練習室の脇で、アルフレッドが壁にもたれてそれを眺めていた。古い壁にはポスターが貼られている。かつてこの劇場で芸を見せたパフォーマーたちの名がそこに刻まれていた。

「頭とおへそは常にワイヤーの上を意識して。……力みすぎ、リラックス」

 ぐらぐらと軸足が大きく揺れて、アイリスは「わっ」と声を上げた。後ろに倒れそうになるアイリスをオリヴィアが支える。「呼吸が固いわ。でも、それ以外は上出来ね」
 
 言うと、オリヴィアはアイリスを床の上に下ろした。アルフレッドがにこやかにアイリスに歩み寄る。

「初めてで大したものだよ。きっと劇場の花形になる」
「気が早いわ、まだ7つよ。……さぁ、今度は利き足と逆の足で立ってみて」

 アイリスは緊張が解けたように両親を見上げた。

「はやく歩いてみたい」

 妖精のように縄を渡る母親の姿を念頭に浮かべ、アイリスは呟いた。オリヴィアは苦笑する。

「すぐにできるわ。利き足で立って、逆の足で立つ。それが交互に出来るようになれば、歩けるようになる」
「わかった。……頑張る」

 アイリスは真面目な顔で頷くと、再びワイヤーと向き合った。アルフレッドは声を掛ける。

「まずはうちの劇場からだ。そして、いずれはニューヨーク……いや、世界へ羽ばたくんだ」

 アイリスを支えるオリヴィアは苦笑した。

「だから、気が早いのよ。──そう、反対の足を上げて」

 利き足と逆の足を軸足にして、アイリスはワイヤーの上で静止した。上手、とオリヴィアは笑む。

「衣装を考えなきゃね」
「……本気かい? 育ち盛りだぞ」

 アルフレッドはオリヴィアの肩に手を乗せ、呆れたように言った。

「今用意したってすぐ小さくなるだろう。気が早いのはどっちだい」

   ⚜⚜⚜
 
 薄暗い取調室で、アイリスは警官と相対していた。
 
「──ミス・エンディコット」
 
 中年警官のダニエル・ロウズは机の上でその名刺をしばらくこねくり回すと、それをファイルに挟んだ。
 
「あんたカールッチ・ビルの前で会ったな。市民ともめてた女、あんただろう」
 
 ロウズの鋭い視線がアイリスに向いていた。アイリスは負けじと睨むようにロウズを見返す。
 
「そうだけど。何で取り調べ? あたしは縄の上にいただけ。ニューヨークじゃ空き巣だって犯罪のうちに入らないって聞いたわよ」
「……身元の確認が必要でね。あと、突き飛ばされた仕返しだ」
「あの時の事、根に持ってるんだ」
「少しは。それから──空き巣は犯罪な」
 
 腕を組んで不機嫌そうにむくれるアイリスに、ロウズは溜息をつく。
 
「なんであんた電飾用のロープの上なんかに登った。あんな、危険な場所に」
「危ない奴らに追われてて仕方なく、ロープの上に逃げただけ」
「──危ない奴ら?」
「アトラス不動産の奴ら。探られたくないことを探ったせいで、怒らせちゃったみたい」
「それが奴らだって証拠は」
「ないけど」
 
 アイリスの言に、ロウズは呆れたように苦笑した。
 
「いいか。普通の人間は危ない奴らに追われたからって、ワイヤーの上に逃げたりしないんだよ。俺の経験上、こういう時期にそういうことをする奴は、ホリデーシーズンに浮かれてハメを外しすぎたか、たんに目立ちたい奴だ」
「あたし、普通の人間じゃないの。劇場でも飲み屋でも、パフォーマンスで食べてた時期がある」
 
 なるほどな、とロウズはファイルにペンでメモ書きをつける。
 
「じゃあパフォーマンスはそれ用のワイヤーでやるべきだったな。あの縄は装飾に使う予定だったが、留め具が緩んでもう使えない。ドロツェスキーの特注ケーブル……電飾やらなんやらゴチャゴチャ吊り下げるんで、頑丈じゃなきゃならない。まかり間違っても縄が切れて通行人に怪我があっちゃあならないんでね。洗濯用ロープとは訳が違うんだよ」
「……ごめんなさい」
「ふん、やっと謝罪が聞けたな」
 
 ロウズは納得したように何度も頷く。
 
「あたしじゃなくて、アトラス不動産の奴を逮捕してよ──」
 
 小声で言ったアイリスの言葉に、メモを書き留めるロウズの手が止まった。
 
「……ヴィクターが悪さをしてるって証拠は、何一つ無いんだろう」
 
 言って、再び手を動かす。
 アイリスの切れ長の目が、何かに思い当たったようにロウズを見た。
 
「なんでヴィクターの名前が出てくるわけ──?」
 
 ヴィクターは表向き、アトラス不動産のただの株主のはずだ。ロウズは咳ばらいをするが、何も答えない。
 アイリスは覗き込むようにロウズの顔を見る。
 
「何か知ってるのね」
「……別に」
 
 言ったロウズの視線がファイルの上、一点で止まっている。握られたペンは何かを書き留める様子もなく、ただその場でトントンと跳ねるばかりだった。嘘をついている、とアイリスは直感した。
 
「本当の事を教えて」
 
 アイリスはさらにのぞき込むようにロウズの顔を見上げた。傍から見ればほとんどアイリスが聴取をする側になっている。
 ロウズは躊躇い、そして観念したように両手を上げた。
 
「俺は末端だから……あくまで噂だぞ。ヴィクターって奴、あいつは市警の上層部と懇意にしてる。毎年クリスマスになると、クリスマスカードを贈る仲だって話だ」
「要するに、どういうこと?」
 
 ロウズは舌打ちして首を振った。
 
「分かんねぇヤツだな。ヤツは市警の上層部なんかを買収してるんだと。……俺から聞いたって誰にも言うなよ」
「信じられない」
 
 アイリスは嘲るように嗤った。
 
「じゃあ、抗議集団に及び腰だったのは」
「あれは紛う事なき善意の集団だから衝突は避けろ、と上から指示が出てた。どんなに強面が揃っていても手は出すな、とな。俺があんたに声を掛けたのは、それなりに勇気が必要な事だったんだよ」
「……そう」
 
 アイリスは低い声で言った。「裏組織に買収。あなたたちはまだ、そんなことをやっているのね」
 
 警察組織の腐敗──そんなものはとっくに根絶されたものだとばかり思っていた。
 
「まぁ、大袈裟に言えば、だ。買収なんて言っても何でもかんでも許しちゃあない。あいつらの仕事がやりやすいように、ちょっと目溢しするくらいのもんだ」
「そんなの同じ事よ」
「俺だって、腹に据えかねているさ」
 
 すると、取調室のドアがノックされる。ドアの間隙から別の警官が顔を覗かせた。
 
「パメラ・アイリス・エンディコットさんに迎えが来てます」
 
 警官はロウズに何やら耳打ちする。
 
「わかった。──聞こえただろう、話は終わりだ」
 
 言って、ロウズが立ち上がる。アイリスは両手を机に叩きつけるようにして立ち上がった。
 
「こっちの話はまだ終わってない」
「じゃあ好きなだけここにいろ」
 
 ロウズは顔を向けないまま、アイリスに言った。「と、言いたいところだが、この時期は馬鹿が多くて後がつかえてる。──さっさと帰れ」
「……迎えって誰」
 
 ロウズは呆れたように振り返り、アイリスを見た。
 
「聴取を切り上げてまで応じなきゃいけない迎えなんて大体察しが付くだろう。──なぁ、ミス・エンディコット」
 
 そう言い残し、ロウズはそそくさと立ち去った。

   ⚜⚜⚜
 
 分署を出てすぐ、黒塗りのロールス・ロイスが停車しているのを見て、アイリスは顔を歪めた。
 
(これって)
 
 優美な曲線と装飾を見れば、誰の目からも高級車だと分かる。光沢のある漆黒のイギリス車は、控え目な街灯に照らされ鈍く輝いていた。
 アイリスは嫌な予感を覚えながら、車に近付いた。
 
「お待ちしておりました」
 
 降車した運転手がドアを開け、アイリスを中へ促した。アイリスは僅かに首を傾けて、車の中を覗き見る。待ち受けていた人物の姿を捉え、やはり、と胸中で嘆息した。
 
「伯父さま」
 
 革製のシートには、豊かな白髪と髭を蓄えたコーネリアス・エンディコット三世が硬い表情で座していた。促されるままアイリスは車に乗り込む。運転手がドアを閉めると、外界の音が一瞬で遮断され、静寂が訪れた。
 エスコートを終えた運転手が運転席に戻る。
 それと同時に出してくれ、と運転手に短く言うコーネリアスの声が聞こえた。
 
「承知しました」
 
 何処へ向かうのかも告げられぬまま、車は動き出した。 
 
「……酷い格好だな」
 
 コーネリアスはアイリスを一瞥して呟く。言われたアイリスが改めて自分の装いを見ると、ブラウスやキュロットのあちこちに茶色い染みや汚れがあった。どうやら逃走したときに付いたらしい。
 対するコーネリアスは、仕立てのいいスリーピースのスーツに、繊細な模様が入ったクリーム色のアスコットタイが胸元を飾っている。「威厳」を形にしたような装いであった。

「気分はどうだ」
 
 問われたアイリスは伯父と目を合わせられず、運転席のダッシュボードの木目を睨みつける。
 
「悪くないわ。連行される罪人みたいで」
「みたい、ではなく実際そうなんだ。……何があったのかは聞いている。何故こうなったのか、説明してもらおうか」
「ニューヨーク市保存協会の手伝いをしていたの。それで、ちょっと……手違いがあって」
 
 言い淀むアイリスにコーネリアスは顔を顰め、大きく息を吐いた。
 
「ローズが置かれている状況は方々から伝え聞いている。抗議集団と対立しているそうだな」
「あれはただの市民じゃないわ。耳が早いばっかりで、何も見えていないのね」
「……市民じゃないだと?」
「あいつらはアトラス不動産の連中。中には危ない奴もいる。手を打たないと、ローズが大変なことに」
「そんな虚妄に縋った結果があの迷惑行為か。理由はどうあれ、あんな危険な真似はもうやめなさい」
 
 アイリスはコーネリアスを見る。コーネリアスは険しい顔のまま、前方の窓を見ていた。伯父に話してもきっと理解されないだろう、と諦観にも似た感情を抱き、アイリスは息を吐いた。
 
「──わかったわ」
 
 車はマンハッタンの夜の街を北上していた。おそらくこのまま、アイリスを家まで送り届けるつもりのようだ。
 
「お忙しいんでしょう。わざわざ伯父さまが迎えに来てくれることないのに」
「私はお前が心配なんだ、アイリス」
「伯父さまが心配してるのはあたしじゃなくてローズ」
 
 アイリスの言に、コーネリアスはひとつ咳ばらいをする。
 
「ローズと同様に、だ。淑女としての良識の無さで言えばむしろ、ローズ以上に心配と言える」
「……なんであたしやローズがこんなことする羽目になったのか。伯父さまは考えたことないの?」
 
 返答はなかった。
 
「お前を必要以上に糾弾するつもりもない。……だがもしまた同じようなことになれば、迎えは無いと思いなさい」
 
 言って、コーネリアスはアイリスに目を向けた。
 
「他人の悪ふざけに構っていられるほど、私は暇じゃない」
 
 アイリスは目線を逸らした。興味もない窓の外の景色をじっと見つめる。
 
(あたしは他人)
 そんなことは分かっていた。(あたしは、この家の人間ではない)
 
 ローズ達の持つ「エンディコット」の名と、自分の持つそれとでは意味合いが違う。アイリスは今更それを羨む気などなかった。小さな頃からエンディコット邸は他人の家だったし、彼らがいかに物持ちであろうとも、しがらみも多いことを理解していた。自分のような器の小さい人間には耐えられないだろう、とアイリスは思う。
 
(だったら……こんな車に乗せないで)

   ⚜⚜⚜
  
 アイリスはそれから終始無言のまま、とうとう車がアイリスの自宅近くの街路に停車した。都市と違ってこのあたりは街灯も少ない。夜が訪れ、周辺一帯は月明かりだけが頼りだった。
 運転手のエスコートを待たずにアイリスは車を出る。
 
「──待ちなさい」
 
 コーネリアスはアイリスを呼び止めた。アイリスは家に向かいかけた足を止めて振り返った。
 
「……何」
「ローズのことだ。手を打たなければ危険だと言っていたな」
 
 コーネリアスは言って、開けた車の窓に顔を寄せる。
 
「その必要はない。……ローズは事務所を畳むことを考えているそうだ」
「……え」
 
 ──アイリスは身を凍らせた。
 様々なことが頭をよぎった。このところローズに会って話す時間はあった。ローズが自分の意志であの事務所を畳むなどアイリスには考えられなかった。最後に会ったとき、ローズはホテルを必ず守り通すという決意を語っていたのだ。
 その決意を揺るがすだけの何かが起きたのだとしたら、原因は自分にある。軽率にも危険な誘いに乗り、ローズに心配を掛けたことだ。そしてそれを、コーネリアスの口から告げられたことがアイリスにとっては何より重大だった。
 
「なぜ、なの」
「抗議に耳を貸さず、多くの人が傷付いている現状をあの子なりに憂いている。いい勉強になったな」
 
 アイリスの「なぜ」は何故ローズが事務所を畳むことを考えたのか、と何故それをコーネリアスが知っているのか、という2つの意味を含んでいたが、前者の意味で捉えられたらしかった。
 コーネリアスは、聞き分けの悪い子供を諭すような口調で続ける。
 
「危険な真似はしない、と口では言っていても、素直に従うお前ではないだろうから伝えておいた。悪いことは言わん……もう止めておけ。これ以上場をかき乱しても無駄骨になるだけだ。いいな」

 言って、コーネリアスは懐から紙幣を取り出す。アイリスは差し出された札束を前に顔を顰めた。

「──それ何のお金?」
「知らん。自分で考えろ」

   ⚜⚜⚜

 玄関から物音がし、ほどなくして扉が開いた。
 
「おかえり、アイリス──」
 
 帰宅したアイリスの姿を見て、オリンダは息を呑む。扉の間隙からよろめくようにして現れたアイリスは生気を欠いていた。纏った服は所々に土色の染みをつくり、表情には空虚さが漂っていた。
 オリンダはカウチから慌てて立ち上がり、アイリスに歩み寄った。アイリスの両肩に軽く手を乗せて、伏せられた顔を僅かに覗き込む。
 
「何があったのか、教えてくれるね」
 
 問われたアイリスは顔を上げた。
 
「ローズが……活動を辞めるの」
 
 アイリスの返答は薄氷のように落ち着いていた。しかしその両手は、縋るようにオリンダの服を力強く掴んでいた。

   ⚜⚜⚜
 
「ローズが事務所を畳むと、伯父さまから聞いたの」
 
 アイリスは、今までオリンダには語らずにいたニューヨーク市保存協会を取り巻く状況について、掻い摘んで説明した。拠点に現れる抗議の集団、その陰にいる悪徳不動産と、それを操るヴィクター。
 彼の誘いに乗った結果、協会の人間に多大な心配を掛けたことも。
 
「伯父さまの話は……正直、信じたくない。だってあたしに助けを求めたのはローズ。あたしはそれに応えた。なのにローズが戦いを勝手に終わらせようとしているなんて」
 
 リビングのテーブルの上で組んだ手を、アイリスはぎゅっと握る。暖炉の枠にもたれて話を聞いていたオリンダが口を開いた。
 
「じゃあなんでローズは今、ホテルの保護を諦めようとしてるのか分かる? あんたを呼び戻してまで、打ち込んでいたものを」
「それは……」
 
 言いかけて、アイリスは口をつぐんだ。オリンダは首を横に振る。
 
「──あんたが心配なんだと思うよ、アイリス」
 
 オリンダの言にアイリスはかもね、と相槌をうった。
 
「全てはローズの為、ローズの為。そうやって躊躇いなく危険を冒すあんたを見て、ローズは怖くなったのかも。あたしだったらそう思う」
「それじゃあ、どうすればいいの」
 
 アイリスは頭を抱えた。オリンダは息を吐く。
 
「したいようにすれば?」
「あたしはローズの為にできることをしたいだけ」
「あんたの為に同じ事を考えた結果、ローズは協会を畳むことにしたんじゃない」
「そんなこと、あたしは望んでないけど」
「大事なのはあんたがどうしたいか。ローズの為じゃない、あんたの意志だ」
 
 オリンダは諭すように言う。アイリスは首を横に振った。

「あたしは自分の夢を語れるほど真人間じゃないわ。自分の夢を持てるのは恵まれてる人だけよ。あたしはずっと空っぽ。あの劇場が無くなった、あの日から」

 言いながら、アイリスは自身の言葉で勢い付いたかのように感情を露わにする。
 
「両親はあたしが舞台に立つことを望んだ。だから曲がりなりにも舞台に立った。ローズがホテルを守りたいって言ったの。だから一緒にここまでやってきた。あたしは、夢を叶えたの。──他人の夢だけど、それでよかった」
 
 ローズと協会を発足したあの日から、道は自明のものとなった。保護下に置かれたホテルはかつての栄華を取り戻す。ローズの貢献は人々に知れ渡り、協会の地位は確固たるものになる。
 しかし現実は、何一つそのようになっていない。
 光に溢れていたはずのローズの未来はヴィクターによって阻まれ、真実は闇に閉ざされる。
 
「協会の活動を諦めるなんて間違ってる。ローズは進まなきゃならないの……未来の光に向かって」
 
 未来は光に溢れている、とオリンダは言った。アイリスはその言葉を念頭に、確信を持って言った。

「未来は光の中に、真実は闇の中にある。──だとしたら、光に進むのがローズの役目で、闇に潜るのはあたしの役目」
「ああ……そうかよ」

 オリンダは息を吐いた。
 自分の娘ならば、無理をするな、と一声かけただろう。自分の夢を持て。他人の為に生きるな。
 だがアイリスは娘ではない──戦友だ。

「だから特別なんだ。あんたはさ」
 
 他人の夢の為になら、どこまでも強くなれる。アイリスがそう自覚するのならば、否定するつもりはない。
 でも、とオリンダは言い添えた。

「忘れるな。行くとこまで行ったら必ず戻って来るんだ。光の当たる所に。いいね?」

 オリンダの言葉に、アイリスは頷いた。

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