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GASLIT STREET C04 「彼は消えた」


1905年
ニューヨーク市 ウォーターストリート

 
「歩くなら付き合えよ。適当な店で一杯やろう」
 
 リチャードは同僚のハワードに誘われ、夜の街を歩いていた。暗がりに浮かぶ店の灯り、その中のひとつに目当てをつける。
 
「……にしても次から次に、退き拒否の弁護なんてよくやるよ。お前意外と、体力あるよな」
 
 ハワードの言葉にリチャードは「そうか?」と返事を返した。
 
「金にもならねぇし、何ていうか……正義感ってやつか?」
「根まで掘らずにいられないたちでな。最初の訴訟、示談金にしては値が高かった……あの不動産は何かを隠してる」
 
 2人はレンガ造りの古いビルの前で立ち止まった。看板に龍の装飾が施され、活気が扉越しにも伝わる。
 ハワードが扉を開けると、賑わう酔客たちの声と共に漏れたラム酒やウィスキーの匂いが鼻をいた。
 壁に取り付けられた油灯ランプが暗く照らす、10卓ほどの客席。入口に近い店の左側にバー・カウンターがあり、ストゥールが並ぶ。カウンターに並ぶリキュールのボトルに混じった中国酒、奥の鏡にも──やはり龍の文様。
 壁際では数人の中国人男性が親しげに会話を交わし、反対側では派手な赤紫色の服の、エキゾチックな女性たちが笑顔で水夫をもてなしていた。
 
「お2人?」カウンターの内側にいたアジア系のマスターが、カウンターの仕切り台を上げる。「ラッキーだね、いい席が空いているよ」
 
 50代だろうか。前掛け姿のマスターは店の奥を示し、人の良い笑みを浮かべる。
 
「ステージの前だ。ちょうど今からちょっとしたもよおしがあるよ」
 
 見ると、店の規模のわりに大きめのステージが設置されていた。
 
「で、注文は?」
「じゃあ、ビールを2つ」
 
 ハワードが注文を済ませると、2人はステージのすぐ前のテーブルについた。
 リチャードは赤茶色のカーテンに仕切られたステージを落ち着かない様子で見る。
 
「まるで……雑技団でも出てきそうなぜいだ」
 
 リチャードの言葉に、ハワードは笑った。
 
「確かに、そういうのも一部にいるだろうな」
「一部?」
「パフォーマーだよ。どこから来ようが、ニューヨークでスターになるにはのし上がらなきゃならない。労働者ばかりのこの通りで、それでも僅かなチャンスを掴むために舞台に立つ。……スターを夢見てね」
 
 難しい顔をするハワードを、リチャードはげんに見返す。
 
「……ここにはよく来るのか?」
「ああ、ダンサーの中に滑車かつしやみたいな脚の女がいてな。実を言うと、それが目当てだ」
「滑車。想像がつかないな」
「──パメラ・スターレイ、白人だが一見の価値ありだぜ。劇場街でパフォーマーやってたって話通り、重力を無視してるかのような動きをする。ああいうのがこんな飲み屋でひっそりやってるんだから、現実ってのは厳しいよな」
「名前が大袈裟なせいだろ。スターレイって」
「それは言うなって。俺が言いたいのは、だ……みんながみんな夢をかなえられるわけじゃないってこと。知識だとか、技術だとかじゃどうにもならないこともある。特に、女はな」
 
 そう、と頷いたところで、給仕がビールを持ってきた。2人は同時にそれをあおって、息を吐く。
 
「……妹が大学を放学になった」
 
 ハワードの言葉に、リチャードは目を見開く。
 
「妹って、ポキプシーの大学に行った?」
「そうだ。彼女なりに夢持って、理想の環境を得たって舞い上がってたのは一年前。自分より熱いものを持った仲間に恵まれて、励みになると思ってた。……よくよく聞いたら、同室の革命家志望にすっかり引いちまってな。大学で、自分の居場所を無くしてた」
「……大変だな」 
「誰もが夢を叶えられりゃ良いさ。でも現実はそう甘くない。どんな環境にいたって人は、簡単に目標を見失う」
 
 だから、とハワードは続ける。
 
「こういう場所で頑張ってる奴らを見ると、励まされる。余計にな」
 
 その時、部屋の照明が僅かに暗くなる。給仕が油灯の明かりを絞るのが見えた。店内の喧騒が消え、音もなく開くカーテンに客たちの視線は一斉に注がれた。
 ──深く、柔らかなきんの音色が聞こえた。
 現れたのは、3人の踊り子だった。
 薄絹の衣装を纏い、左右の2人がふわり、ふわりと風に漂う花のように舞う。柔らかく、優雅な舞いだった。
 中央の踊り子──パメラは、似たような動きで舞いながらも、その中に大胆にさと力強さが感じられた。躰をぐんと伸ばして跳び上がり、軽やかに回る。するりと後ろに倒立し、その勢いで回転する。
 滑車のようだ、というハワードの言葉の意味が分かった気がした。
 仄かな灯りに照らされたパメラ。時折見せる自信に満ちた笑みは、目の下に施された赤い花弁のメイクのせいか、どこか挑戦的に思えた。

 
「どうだったよ」
 
 ハワードの問に、リチャードは素直に感心の声を上げた。
 
「滑車と呼ばれる意味が分かったよ。大したダンサーだ」
 
 小さな舞台を下りた彼女──パメラは、テーブルを回って笑顔を振りまく。客席での彼女は幾分いくぶん小柄に見えた。
 
「ありがとう」
 
 小さな籠にチップが入れられる。
 やがて、2人のテーブルにもやって来た。
 
「やぁ。いっぱいのチップを自慢しに来たね」
 
 ハワードが満足気に声を掛ける。パメラは愛想よく笑った。
 
「いつもありがとう」
「ああ。今日もよかったよ──ほら」
 
 ハワードがチップを入れる。それに合わせて、リチャードもチップを入れた。
 
「2人して、さっさとあたしを追い払いたいのね」
「そんなんじゃない。彼──ここが初めてでね、紹介したい」
 
 ハワードはリチャードを示す。パメラはこちらを見やると、目を細めて右手を差し出した。
 
「パメラ・スターレイよ。ご贔屓に」
「ああ、どうも。リチャードだ」
 
 リチャードはパメラの手を握り返して名乗ったが、パメラは何かに気付いたように奥の客席に視線をやると、すぐにテーブルを離れた。
 
「ごめんね──ちょっと」
 
 パメラはストゥールに腰掛けた客の間からカウンターへ手を伸ばし、チップの入った籠をマスターに渡す。
 
「……どうしたんだ」
 
 リチャードが怪訝そうに呟く。
 
「さあな」
 
 ハワードは肩をすくめてビールをあおった。
 パメラはまっすぐに歩き出し、店の隅で話し込んでいる大柄の女のもとに歩み寄っていた。──単なる直感だったが、リチャードはその女に剣呑な何かを感じたのだった。
 リチャードは酒を呷るとテーブルを離れる。
 
「ちょっと、様子を見てきたほうがいいかもな」
  
 パメラはその女に近づき、静かに声を掛けていた。
 
「──ここで何を?」
 
 大柄な女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに冷笑を浮かべた。

「あんた、パフォーマーだろ? 人の仕事に口を挟まないでくれるかい」

 パメラはその言葉を聞き流し、女の渡したチップを手にした踊り子に目をやった。踊り子は明らかに困惑しており、チップを手にしたまま身動きが取れずにいた。

「チップにしては、多いわね」
「黙んな。私はただ、とっても魅力的な彼女にもっと良い仕事を紹介しているだけさ。……あんたみたいなガキは舞台ででんぐり返ししてるのが似合いだよ」
「ここの子たちを娼館に斡旋したの、あなた?」

 パメラは優しい笑顔を見せたが、その目には鋭い光が宿っていた。踊り子はその目を見て、少しだけほっとしたように見えた。女は不快さを露わに、パメラを睨み返す。

「お客に向かって……それは随分なご挨拶ね」

 女がゆっくりと立ち上がる。それと同時に、壁にもたれて談笑していた男たちが無言で身を起こした。カウンターにいたマスターの苦笑が見える。
 
「やれやれ……」

 パメラを囲むように男たちが動き、店内の空気が張り詰めた。

「このガキ、よく見りゃ使えそうな顔してる。……あんたたち、連れて行くよ」

 女の合図とともに、男たちが店を出た──パメラを伴って。酔客たちは酔いから醒めたように、その様子を見届けていた。

「おうい、リャン」
「……何」

 マスターに声をかけられ、脇でグラスを拭いていた黒髪の若い女が顔を上げた。

「悪いけど、見てきてくれないか。──あのお客たちが心配だ」

 リャンと呼ばれた若い女は嘆息し、カウンターの仕切り台を上げて外へ出た。

「大丈夫なのか、あの2人」
「……マスターがあの様子だ、大丈夫だろ」
「俺、行こうか」
「よせよせ」
 
 リチャードの心配をよそに、ハワードはビールをあおる。しばらくして、再び店の扉が開いた。
 戻ってきたのはパメラと、リャンの2人だけだった。
 2人の姿を確認すると、マスターはほっとしたように軽く頷いた。パメラの微笑みとリャンの冷静な態度が、事態をすべて物語っていた。

「……な? こういう店の日常さ、知っておいたほうがいいよ。リチャード」

 ハワードの言葉通り、店内は再びざわめきを取り戻し、客たちは酔いを楽しみながらも、どこか安堵したような様子を見せている。ハワードはビールを片手に、2人の無事を確認し、何事もなかったかのように飲む。
 その様子を、リチャードは不思議そうに見た。
 マスターはタオルで手を拭いながら2人に近づき、穏やかに尋ねた。

「どうだった?」

 パメラは肩をすくめ、リャンの方をちらりと見てから答えた。

「あの連中、しばらくは戻ってこないと思う。見た? あたしの華麗な『人間ジャグリング』」

 リャンは静かに頷き、パメラを睨んだ。

「……無茶はいいけど、ほどほどに。警備員が職を失うわ」

CHAPTER 4
GONE


1912年 12月
ニューヨーク市 シティホール
 
 ニューヨーク市庁舎は白い石造りの、おごそかな建物だった。
 玄関を入ったところは円形のホール、左右に分かれた大階段が、上部で一つに合流する豪華な構造だった。階段の下には特設の舞台が設置されている。ニューヨーク市の紋章が掲げられ、その周りにはアメリカ国旗とニューヨーク州旗が飾られていた。
 シャンデリアの照らす光の中、舞台には任命を控えた議員達が、舞台の下にはマスコミ関係者が集まっていた。
 演説台に立ったのは、礼服姿の市長だった。
 自信に満ちた微笑みを浮かべ、演説台に両手を置く。
 
「親愛なる市民の皆さんに向け、まずひとつ重要な決定をお伝えいたします。本日、私たちは新たな都市開発委員会の委員長を任命することとなりました。この人物は、市の発展と繁栄において、重要な役割を果たすことが期待されます」
 
 市長に会場の注目が集まる中、舞台上に控えた議員の一人が立ち上がった。
 角ばった顔に刻まれた深い皺は長い経験を思わせ、濃い髭はその輪郭と眼光を際立たせている。短く整えられた髪はグレーがかっていた。
 彼は壇上に立つとわずかに笑み、市長と固い握手を交わす。
 
「フィニアス・J・ウィザーズ氏を都市開発委員会の委員長に任命します。彼は確固たるリーダーシップと経験を持ち、市の将来に対するビジョンを持っている。──まさしく、市の発展と市民の利益を最優先に考える人物と言えるでしょう」
 
 舞台へ向けて拍手が沸いた。フィニアスは壇上で掌を広げ、その拍手を制した。
 
「ご紹介に与りました、ウィザーズです。名誉ある役職に任命されたことを光栄に思います。より良い未来と、より良い街にすることを、ニューヨーク市の皆様にお約束します」
 
 端的に挨拶を述べ終えた次の瞬間には、すでにフィニアスの顔から笑みは消えていた。演説台を降りると、控えていた議員たちの賛辞を聞くこともなく、そそくさと舞台を下りる。
 
「さっそく仕事に取り掛かるようですね。熱心な男です」
 
 繕った笑みを浮かべて市長が言う。
 会場は和やかな笑いに包まれた。

   ⚜⚜⚜ 

 任命式を終えてオフィスに戻ると、ソファに男が座していた。
 棚から勝手に取り出したであろうグラスにスコッチを注いで、彼はゆったりとくつろいでいる。
 大きな窓越しに、ビル郡の間隙からブルックリン橋が見えた。男はフィニアスの姿を認めると、立ち上がって笑みを浮かべる。
 
「──就任おめでとうございます。委員長殿」

 グラスを上げる男を一瞥すると、フィニアスはふん、と鼻を鳴らして不愉快そうに顔を歪めた。
 
「どうせ任を受けるなら、もう少し早ければよかったものを。かえって腹立たしいくらいだ」
 
 低い声で言って、フィニアスは整理された書類やフォルダの積まれたオーク材のデスクに向かった。
 
「こんなところに現れて軽率だと思わんのか。ヴィクター」
「冷たいなぁ、固い事言わないでくださいよ。せっかく立ち寄ったってのに……ねぇ」
 
 言って、ヴィクターと呼ばれた鷲鼻わしばなの男は小さく笑う。ほら、ともう1つのグラスを渡されたが、フィニアスは手を振って固辞こじした。
 ヴィクターは残念そうに息を吐いて、グラスをローテーブルに置く。
 それより、とフィニアスは口を開いた。
 
「頼んでいた件はどうなっている」
 
 フィニアスの言にヴィクターは頷いた。
 
「あんたの指示通り、数日でツアー中止にまで持っていった。これであとは瓦解を待つのみ……と言いたいとこなんだけど──実を言うと邪魔が入ってね」
「何があった?」
「協会員を名乗る女が仲裁してきたらしい。名簿に名前のない奴。……どこの誰だか」
「まったく。抗議など回りくどいことをせずに、襲撃のひとつでも起こしたらどうだ。どうせ手も足も黒いのだろう」
 
 フィニアスの厳しい語調に、ヴィクターは苦笑した。
 
「先生ったら言うねえ。……にしても、ホテルに倉庫があるなんてあんたは一言も言ってなかったじゃない。何で教えてくれなかったの」
「私は名前を貸しただけだ。肝心なことはみな、ハイタワー三世が独りで握っていた。名前を貸せと言われれば、従うしかない。……わかるだろう」
「ハイタワー三世──彼の秘密主義にはうんざりするね」
 
 フィニアスは唸った。
 
「ホテルが廃墟のまま残るのは構わん。当初の予定通り、エンディコットの新事業に使われるも良かろう。問題は、あれがあのままの姿で注目を浴び続けることなのだ」
 
 言って、フィニアスは壁に貼られたニューヨークの地図を見た。
 地図の上には手書きのメモや注釈が書かれており、それぞれの建物や地域に関する情報が整然と整理されていた。刺さったピンはフィニアスが関わった公共の建造物や開発プロジェクトを示している。
 貼られたメモの一枚に記された「ホテル・ハイタワー」の文字を、フィニアスは忌々いまいましげに睨みつけた。
 ……ホテル・ハイタワー。
 かつて、その増築や改装に際してフィニアスは多くのことに目を瞑り、オーナーの指示に従った──従わざるを得なかった。事実、あのホテルは州の定める安全基準のうちいくつかを通過していない。
 オーナーが消えたのちに上がったエンディコット・グランドホテルの開発担当に自身の名が再び挙がったことは「あれ」を消し去る千載一遇のチャンスだった。
 それだけに、ニューヨーク市保存協会の存在は痛手だと言わざるを得ない。
 
「もしもあの時に今の地位があれば、あんな連中の妄言などねじ伏せられたというのに……」
「手は打ちますのでご安心を。邪魔が入ったと言っても、大したことじゃあない」

 そう言ってローテーブルに空のグラスを置くと、ヴィクターはフィニアスに背を向ける。

「──すぐにホテルは手に入りますよ」

 そう言い残し、ヴィクターはオフィスを出ていった。
 
   ⚜⚜⚜ 
 
 アイリスはホテル前にいたブラッドのことを思い返していた。
 短く剃った頭。しゃくれた顎と険のある目付き。
 その男がアイリスに詰め寄る。 
 ──何をごちゃごちゃと言ってやがる。
 粗野な言葉遣いだ、と思った。
 普通の市民が義憤の為に声を荒げるのとは明らかに違うものを感じた。
 それは、恐怖と暴力で人を支配する。
 
(よく思い出して……)
 
 体格はいい。
 労働者のような格好をしているが、本当にそうだったか。ベルトに何か付けていた。皮の道具袋だ。それに、ひときわ目立つ鉈も下がっていた。大工道具のように見える。だが、それは何に使うもの?
 その鉈が、木材ではなくもっと別のものに振り下ろされるのだとしたら。
 ブラッドが鉈を抜き、扉を壊す。鍵を壊す。それが容易に想像できた。仮に本気のもみ合いになれば。
 抜かれた鉈が、まっすぐにアイリスへと振り下ろされる──。
 
  
 アイリスは目を開けた。
 仰け反った拍子に、リノリウムの床に倒れた。
 オリンダが格闘技教室に使っている練習場。採光窓から朝の光が差している。人のいない早朝に、アイリスはたったひとりで床に座って考え事をしていたはずだった。息苦しさを覚えて、アイリスは身を起こす。大きく息を吸って、吐いた。薄い布でできた服が汗で湿っている。無意識に、背中に遺る火傷の跡を指でなぞった。
 どうやら、想像力を働かせ過ぎたらしい。
 
 
 不意にスタジオの扉が開く。オリンダが呆れ顔で入ってくるところだった。
 
「勝手に鍵持って出ていったクソガキめ」
 
 糾弾する物言いだったが、語調は落ち着いていた。
 
「──ごめん」
 
 アイリスはあわてて立ち上がり、汗ばんだうなじを掻いた。
 
「せめて一声掛けな。スタジオの鍵を持ち去るのはいいけど、──問題は、鍵を持ってった時のあなたが『起きてたかどうか』ってこと」
「……起きてたよ」
「なら、いいけど」
 
 アイリスがスタジオの鍵を持って早朝に出ていくことは度々あった。しかし声を掛けずに出て行くことをオリンダは嫌った。
 
「生徒さんが来るまで時間あるし、踊って見せてよ」
「……やだぁ」
「どうせ先刻までやってたんだろ」
 
 オリンダはアイリスが纏う、薄い伸縮性のある布地の服を見て言った。

「黙って鍵を持ち出した罰だよ」
 
 言われて、アイリスは口を尖らせる。
 
「もう、人に見せる気ないの」
「華々しく舞台デビューだってしてたじゃないか」
「何年前の話?」
「ブロードウェイだぞ」
「それは通りの名前」
「パメラ・スターレイ。笑っちまう名前だけど」
「だから、もう人に──」
「いいから」
 
 オリンダの言葉に、アイリスは不承不承頷いた。
 
「もう……ちょっとだけだよ」
 
 言ってアイリスは部屋の中央に立ち、目を閉じた。
 
 アイリスはゆっくりと腕を広げる。彼女の体は曲線美を描きながら、空中に浮かぶかのように踊り始めた。
 アイリスの躯は柔軟だった。足先から指先までの各部位が協調し、緻密な動きを作り出している。
 跳躍に回転と、アイリスの体は自由自在に動き、やがては倒立、倒立前転と動きも激しさを増していった。
 地に掌を当て逆立ちをしたかと思えば、くるりと脚を回して着地する。そのまま2回、3回と時計の針のように転回した。
 大きな舞台に立ったのは一回きり、それ以後は小さな劇場やサルーンを転々とし、ダンサーの中でも軽業を担当したと聞いていたが、今はすっかりそういう仕事から身をひいてしまった。
 確かにダンスの中に軽業師のテイストがあり、見ていて飽きない。
 
「自分で思っているほど悪くないんだから。自信を持ちな」
 
 オリンダはアイリスに言う。
 数回目かの逆立ちの時、アイリスは不意に動きを止めた。
 
「自信はあるの。ただ見せたくないってだけ」
 
 逆立ちのまま、よたよたとアイリスはオリンダに歩み寄った。

「もういい?」
 
 わずかに紅潮した顔でアイリスが尋ねる。オリンダが手を振って頷いた。
 
「いいよもう──許す」
 
 許しが出たのでアイリスはくるりと脚を下ろして立ち上がった。
 オリンダはアイリスに向かってほら、とタオルを投げた。アイリスはそれを受け取り、体の汗を拭う。
 
「今日もローズの所へ?」
「うん」
 
 アイリスが頷くと、オリンダはそう、と僅かに笑みを浮かべた。
 
「何をやってるのか今ひとつわかんないけど。何かに打ち込んでるってのは、いいことだね」
 
 オリンダを見て、アイリスは体を拭く手を止めた。
 
「あのさ、……オリンダ」
「何?」
 
 アイリスは視線を逸らす。
 
「あたしの病気のことを気遣うなら、あのことに触れないで。舞台デビューのこと」
 
 言われて、オリンダは目を丸くした。首を掻いて、溜息混じりに言う。
 
「……悪かったよ」
 
   ⚜⚜⚜
 
「これで君の望み通りかい」
 
 ──曇天の朝。
 ニューヨーク・デリで記事の原稿にペンを入れていると、不意に声を掛けられる。
 マンフレッドは視線を上げた。金髪の、痩せた男が立っていた。
 
「マーク」
 
 見知った男の名を呼ぶ。
 マークが当然のようにマンフレッドの正面の席に着くので、マンフレッドはテーブル一杯に広げた資料を申し訳程度に片付けた。
 
「デリで会うのは久しいな」
「この頃バタバタしていてね」
「……望み通り、とは?」
 
 マンフレッドは先刻のマークの言葉を繰り返す。マークはああ、と気のない声を出した。
 
「このところの抗議活動は知ってるだろ。これでホテル・ハイタワーの解体に一歩進んだんじゃない?」
 
 マークは明るい調子で言う。その声に何かうそ寒いものを覚え、マンフレッドは恥じ入るように俯いた。
 
「君の仲間には、すまないと思っている」
 
 すると、マークはひとつ息を吐いた。
 
「まさか、自分の記事のせいだなんて思ってる?」
「ああ。ホテル・ハイタワーは、取り壊すべきだ……そんな記事を、これまで幾度も書いてきたからな」
「確かに。けど、ニューヨーク市保存協会の見解はどうやらそうじゃない」
 
 マークの言葉に、マンフレッドは首を傾げた。
「というと」
「会長様が助っ人を呼んでね。立ち上げに関わった人らしいんだけど、その女性が『ただの市民による抗議じゃない』と断言しているんだ」
 助っ人、とマンフレッドは繰り返す。
「断言する以上、根拠はあるんだろうか」
「うん。それがどうも『言われてみると』という程度のものなんだけど、市民達のあいだに温度差があるんだ。抗議に積極的な人とそうでない人のあいだに乖離がある。……そして、積極的な人達に見られる共通の特徴が」
 
 マークは声を潜めた。
 
「堅気に見えないんだってさ」
「それは」
 
 マンフレッドも声を潜める。マークと額を突き合わせる形になった。
 
「その女性が勝手に言っているだけだろう」
「僕も抗議集団の姿を間近で見たけど、確かにただの市民に見えない人たちがちらほらいたんだよ。あながち間違いじゃないかも」
「本気なのか」
 
 ああ、とマークは固く頷いた。
 マンフレッドは顎に手をあて、考え込む。
 
「もしこの件に無法者が関わっているとしたら、目的はホテル・ハイタワーってことになる。だが、なぜ」
 
 さあね、とマークは肩を竦めた。
 
「僕たちがどうすべきかって事を考えたら、はっきりしてるだろ。静観を決め込んで、ローズがホテルから手を引くのを待つ。無事にホテル・ハイタワーの保護が解除されて、取り壊される。代わりに、大きなビルが建つ」
「……」
 
 黙り込んだマンフレッドを見て、意を汲んだようにマークが言った。
 
「そしてローズは大きな挫折を味わい、心に傷を負う」
 
 ──まさしくそうなのだ、とマンフレッドは思った。
 ホテル・ハイタワーを保護するのは間違っている。
 ハイタワー三世の悪行の記念碑たるあの建造物、そして──呪いの偶像。このニューヨークの街にそれらを残しておくべきでないことは明らかだ。
 1899年の大晦日、ハリソン・ハイタワー三世はあのホテル・ハイタワーで行方不明になった。その原因は呪いの偶像「シリキ・ウトゥンドゥ」。ローズが主催しているホテルの観光ツアーは、多くの人間をそんな危険な呪いにさらす愚行である。
 ツアーなど廃止され、ホテル・ハイタワーは取り壊すべきだ。
 ──にもかかわらずマンフレッドは、今起こっている事態を許容することができない。
 自然な流れに身を任せ、市民の怒りを受けたローズ達が活動を辞めさえすれば良いはずなのに。
 ローズが暴力的な何かに晒される事態を、マンフレッドは許すことができなかった。ましてその相手が、無法者であるというのならば、尚更。
 
(わかっている)
 
 マンフレッドは記事の原稿を見下ろし、呟いた。
 
「マーク、ひとつ頼まれてほしい」
 
 言われて、マークは顔を上げた。
 
「何なりと」
 
 口の端を上げて笑うマークに、マンフレッドは言った。
 
「僕に、その女性を紹介してくれないか」

   ⚜⚜⚜ 
 
 ニューヨーク市保存協会の事務所には、ローズひとりが詰めていた。メンバーの多くが、今朝はツアー再開に向けた準備のためにホテル・ハイタワーへ向かっている。
 アイリスはタイプライターに向かうローズを横目に、木板のはまっていない方の窓を開けた。眼下に広がるブロードウェイの街路とアイリスの間には、蜘蛛の巣のような電線があった。
 ブロードウェイの朝の空気に向かって、アイリスは煙草の煙を吐き出す。
 ──抗議集団の姿は見えなかった。
 目線を上げると、巨大なビル群が曇天の空へ向かって伸びていた。加えて今、通りの左右にある建造物には、屋上どうしを結ぶように堅牢な縄が張られている。
 
「……マンハッタンの空は狭いわね」
 
 ぽつりとアイリスが呟いた。ローズは顔を上げ、そうね、と気安げに笑った。
 
「ウェストチェスターに比べれば、たしかに窮屈かもね。──アイリスったら、またそんなもの吸って」
「ねぇ、あのワイヤーは?」
 
 アイリスはローズを振り返って窓枠に寄りかかり、窓の外に見えた縄を示した。
 
「あれは……電飾用のワイヤー。もうすぐクリスマスだから、リースとか、星の飾りとか、とにかく色んなものを吊り下げるの」
 
 ふうん、とアイリスは相槌を打つ。ローズが指を休めてアイリスを見た。

「協会の制服。とっておいてあるから、よければ着て」
「それって、あたしに戻って欲しいってこと?」 

 アイリスの問に、間を置いてローズは頷く。

「……もちろん」
「間があったわね」
「気のせいよ?」
「そんな……あてにされてもね」

 言って、アイリスはちびた煙草を灰皿に押し付けた。

「考えとく」 
「ツアーは再開できそうだけど、そのためにうんと忙しくなる。たぶん今まで以上かも」 
「ローズは大丈夫?」
「大丈夫。怖いものなんて無いわ」
 
 あなたがいればね、とローズは目を細めて笑うので、アイリスも力無く笑みを返した。
 ふと、本棚に置いてあるアヒルのぬいぐるみがアイリスの目に入った。

「これ、なに? かわいい」
「カミーラが買ってきたの。マクダックスで一目惚れだって」

 ふぅん、とアイリスは鼻を鳴らすと、何かを思い付いたようにアヒルを腕に抱いて、ローズを振り返る。

「──さぁ皆さん、今日は劇場に特別なゲストが来ています。彼の名前はクワッキー。……さぁクワッキー、皆さんに挨拶をして」

 ローズは笑いながら首を傾げた。

「──何? 何か始まった?」
「グワッ! そうねクワッキー。こんにちはって言ってくれたみたい。クワッキー、最近どう? 何、パンくずを食べ過ぎて太っちゃった? ……グワッ」

 アヒルの声を真似て、アイリスはクワッキーの相槌を入れる。ローズは観念してタイプライターを脇に避ける。「これは最後まで付き合わないと駄目ね」
 
「貴方も分かってるみたいね、食べ過ぎは駄目よ」

 すると突然、アイリスの腕の中でアヒルが暴れ出す。

〈何だよさっきから! 僕が太ってるだって、それ、君が言わせてるだけじゃないか!〉

 アヒルが流暢に喋りだし、ローズはゲラゲラと笑った。アイリスの腹話術だった。口がモゴモゴと動いており、どうあっても完成度は低い。

「あなた、喋れたの!」
〈そうだよ。僕は喋れる。君より僕のほうが主役に相応しいと思わない?〉
「ぐわっ」
〈ほら見ろ、今度は君が僕の真似してる。じゃあアイリス、皆さんにさよならの挨拶を言って〉
「ぐわっ」

 アイリスとアヒルは揃ってお辞儀をする。ローズは苦笑して手を叩いた。

   ⚜⚜⚜ 
 
「半年前にこの団体を立ち上げた時」

 ローズが不意に口を開いた。 

「私と一緒に友達を説得してくれたわよね。その時のこと、覚えてる?」
「ええ。覚えてる」
「私が諦めそうになった時、あなたは勇気付けてくれた。とりあえず今日一日だけでも頑張ろう、って。それで、なんとか団体立ち上げの要件を満たした時、飛び上がって喜んだ」
 
 聞いて、アイリスは懐かしそうに頷く。
 
「歴史や建築、不動産に詳しい人なんかを人づてに教えてもらって……」
「そうだったわね。懐かしい」
 
 ローズは少し言いづらそうにして、あのね、と呟いた。
 
「あの後、協会を去っていくあなたに、何も言えなかった」
 
 ローズの含みのある言い方に、アイリスは小首を傾げた。
 
「どうしたの」
 
 ローズはデスクから立ち上がり、アイリスと向き合うようにして窓枠に寄りかかる。伏せた目は街路を見下ろしていたが、どこか遠い場所に思いを馳せているようにも見えた。
 
「言い出せなかったことがあって」
 
 ローズは紅い唇を軽く噛んだ。言い出そうにも、まだ何処かに躊躇いがあるのかもしれない。何を言えばいいのか分からなくて、アイリスは押し黙ったままローズを見ていた。
 
「ずっと前。まだ私達が一緒に暮らしていた頃、あなたの宝物が暖炉に捨てられたのは覚えてる? しゆう入りの服のこと」
 
 遠い昔のこと、だった。アイリスは意外な言葉に目を丸くする。
 
「覚えてるけど……ずいぶん昔のことよ」 
「あれは、私のせいなの」 
「……どういうこと?」
 
 うん、と頷いて、ローズは顔を伏せた。
 そのまま自分の爪先つまさきを見つめている。
 
「私の姉達がね、あなたに何かをプレゼントしたいって言い出したことがあって。それで聞かれたの。アイリスが欲しがりそうなものとか、大切にしているものとかについて。私はあなたのことで、大好きな姉たちの嫌いな部分を見るのがずっと辛かった。姉達があなたとの関係を見直す気なんだって思って、その時に、言ってしまった」
 
 アイリスは家族との思い出を大切にしている、と。
 名前の入ったワンピースを、大切に仕舞い込んでいるのだ、と。
 姉達の思惑にローズは気付いていなかったのだ。
 
「私のせいでああなってしまった。私の為に頑張ってくれるアイリスを見ていると、嬉しくて、でも、同時に辛かったの。私はこんな風に大切にされる資格なんてないのにって。もっと、早く言うべきだったわよね」
 
 消え入るようなローズの声。
 アイリスはそう、とただ頷いた。
 
「嫌いになった?」
 
 泣きそうに笑うローズを見て、アイリスは何を言うべきかわからなかった。わからなかったので、そう答えた。
 
「……わからない」
 
 でも、とアイリスは続ける。
 
「昔の思い出は確かに大事だった、あの頃のあたしには。けど今はローズの方が大事。だってローズはあたしの支えだもの。あの頃も、今も変わらない」
 
 アイリスは絞り出すように、言葉を紡ぐ。
 
「ほら、あたしって特に、自分のやりたい事とか夢とか無かったからさ。ローズの夢を、自分の夢にするのもありかなって、考えてたし……」
「アイリスのそういうとこ、よくわかるよ」
「うん。だから」
 
 気にしないで、とアイリスは笑った。
 ローズも安心したように笑顔を返し、目の端を指で拭った。
 
「ありがとう」

   ⚜⚜⚜
 
 アイリスは靴磨きの少年ジョニーから預かったメモをローズに見せた。そこにはホテル・ハイタワーの住所が書かれている。
 
「ホテル・ハイタワーが睨まれているのは何故かしら。何か思いつくこと、ある?」
 
 アイリスの問いに、ローズは呆然とメモ書きを見下ろす。
 
「ひょっとして、」
 
 ローズは不安そうな顔つきになった。
 
「……お父さまが」
「それは違うわ」
 
 ローズの言葉を、アイリスははっきりと否定する。
 
「伯父さまはローズを危険にさらすような真似はしない。絶対に」
 
 ローズは安心したように息を吐いた。
 
「アイリスがそう言ってくれてよかった。お父さまは確かに酷い人。でも、だからといってあんな危ない人たちに頼るなんてこと、する人だと思いたくないわ。……ああいう人たちに付け入る隙を与えてしまっているのは、私たちがまだまだってことね。きっと」
 
 うーん、とアイリスは唸る。
 
「そういう話でもなくて」
「思いつくことといえば……そうだ」

 ローズは本棚の書類入れに歩み寄った。 

「私の計画では今頃、ニューヨーク市保存協会はもっと確固たる地位を築いているはずだった。協会ができた日、ホテル・ハイタワーはまさに解体が始まろうとしていたわ。お父さまの手によって」
 
 ローズは書類を一式、引き出した。
 
「私には時間が無かった。そんな時に浮かんだ妙案が、歴史的建造物を保護する法律を作ることだった。協会はそれまでの時間稼ぎになるし、いずれは法律の施行に責任を持つ機関として存続する予定だった」
 
 けれども、そうはならなかった、とローズは言う。
 ローズがアイリスに見せたのは、ある法律の草案をまとめたファイルだった。
 
「それは?」
「ニューヨーク市建築物保護法。ある程度の築年数を持つと同時に、歴史的な価値を認められた建築物の扱いに対して制限を設ける法案よ。起草を引き受けてくれたのは、ウィッテンバーグ議員」
 
 デスクに書類を広げ、ローズはアイリスの隣に掛ける。そして、指で起草者の名前を示した。
 
「……リチャード・H・ウィッテンバーグ……?」
「実績づくりの一貫で引き受けてくれたの。法案可決に向けた合議を何度か行い、その日も開かれるはずだった」
「はずだった」
 
 アイリスの言に、ローズは頷いた。
 
「三度目の合議の日に、彼は現れなかった。1か月前──私も会議室にいた。一緒にいた議員……ウィザーズ議員が懐中時計をじっと見ていて、『彼のために我々は待つべきか』って疑問を会場に投げかけていたわ。それで、法案の重要性よりも、欠席者に対する失望がその場を支配しはじめた」
「こういうのって、発起人がいなくなっても別の誰かが引き継ぐものじゃないの」
 
 アイリスの問に、ローズは首を振る。
 
「彼は無党派だった。だから、そういうわけにもいかなくて」
「その、ウィザーズって人は?」
「ホテル・ハイタワーの建設時に開発に関わった人。エンディコット・グランドホテルの時にも名前が挙がったみたいだけど……正直、そういう感じじゃないというか」

 ウィザーズ議員は端的に言うと開発推進派で、ホテル・ハイタワーを守るよりも新しい物を建てたい思惑があるらしかった。
 ──そのまま合議は延期となり、起草者が行方不明のまま、法案は凍結してしまったのだという。

「アイリス?」

 考え込むアイリスの顔をローズが覗き込む。アイリスはファイルからローズに視線を戻した。

「あたしが言いたいこと、分かる?」
「ひょっとして彼が関係してる? 昨日までの騒ぎに」
「分からないけど……調べてみないと」

 ホテルにまつわる異変が起きている。
 たとえ些細でもこのつながりを辿れなければ、綱渡り師として失格だ。
 
   ⚜⚜⚜
  
 なぜ今、ローズ達が狙われなければいけないのか。
 それを知るにはまず、物事の発端を知る事だ。
 ──ニューヨーク公共図書館。
 広大な広間の壁には、古い書物の知識と歴史を思わせる重厚な本棚がずらりと並んでいた。天井からはシャンデリアがいくつも吊られ、巨大な採光窓と共に等間隔に並んだ長い読書テーブルを明るく照らしている。テーブルの人々は背筋を伸ばし、または背もたれに寄りかかりながら、いずれも自分の世界に没頭していた。
 そこかしこでページをめくる音、鉛筆を走らせる音が聞こえる。
 アイリスは広間の隅、新聞架の前でアーカイブを漁っていた。
 今から1か月前に姿を消した議員について、情報を集める為だった。
 
(……この街では、行方不明なんてありふれてるのかしら。なんにも記事がないわ。やる気あるの?)

 1892年に雲隠くもがくれを企てていたことは棚に上げて、アイリスが胸中で悪態をつく。 
 小一時間ここにいるが、別段大きく取り上げている新聞は見当たらない。あてが外れた気分でいると、ふとある記事が目に入った。
 ニューヨーク・グローブ通信──「ホテル・ハイタワーの関係者、またしても失踪」。
 アイリスは新聞架から記事を引き出し、閲覧台に広げた。
 ──1912年11月1日以降、1人の議員が公の場に1度たりとも現れていない。その人物の名はリチャード・H・ウィッテンバーグ。
 写真を見る。細い頬に、整った顔立ちの男だ。
 彼は失踪したまさにその日、自身が発起人であるニューヨーク市建築物保護法案の合議に参加するはずだった。
 一定の要件を満たす建築物に対して、その扱いに制限を設ける法案。殊更ことさらに言えば、ニューヨーク市保存協会によるホテル・ハイタワーの保護を事後に合法化するものである。
 
「これはホテル・ハイタワーに関係する者のうちで、ハリソン・ハイタワー三世に次いで2人目の失踪者であり……」
 
 ここまで読んで、アイリスは目を疑った。
 
(──偶像の呪い?)
 
 それは、記事を書いた者の正気を疑いそうになる結びの文句であった。アイリスは思わず苦笑した。
 
(いったい誰なんだか。こんなオカルト記事を書いたのは)
 
 アイリスはその他、目に付いた文章を拾って頭に入れることにした。
 彼は党派を持たず、地元市民の支持を得て当選。人権派弁護士として、開発による立ち退きをめぐる裁判で、かつて住民側に付いて勝訴。
 
(やり手なのね)
 
 開発を巡ってウィザーズ議員と対立。その名には聞き覚えがあった。合議の場にいたとローズが言っていた。
 フルネームはフィニアス・J・ウィザーズ。
 名前をなぞりながら、アイリスは深く考え込んだ。
 彼がウィッテンバーグ議員と対立していたとして、失踪と何か関係があるのだろうか。思想が相容れないとしても、その相手を物理的に排除するなど、アイリスには考えられなかった。そこまでする理由が、ホテル・ハイタワーにあるとは思えない。あるとしても、その理由をアイリスは知らない。
 そもそも、とアイリスは思う。
 ホテル・ハイタワーをどうにかしようというのなら、ニューヨーク市保存協会の立ち上げ以前の方がずっとやりやすかったはずだ。
 1899年に閉鎖され、以後13年もの間放置され続けたホテル跡。開発の対象とするならば、その間にいくらでもやりようがあったのではないか。所有者不在のまま放置されていた廃墟なのだから。
 
(──いや。違う)
 
 アイリスは別のアーカイブに手を伸ばした。手に取ったのはやはりニューヨーク・グローブ通信。1912年5月4日の、エンディコット・グランドホテルの計画が取り上げられた記事だった。当然ながら、同日秘密裏に動いていたローズやアイリス達のニューヨーク市保存協会のことは載っていない。
 紙面ではホテル跡の土地をエンディコット三世が買収し、すでに解体の段取りに入っていることが伝えられていた。
 周到に進んだ土地の購入。ニューヨーク市保存協会が無ければ、このまま彼のホテルが建っていた。
 
(買収が行われたということは、所有者がいたということ)
 
 現在のホテルはニューヨーク市保存協会の保護下にある。協会が排除されるとなれば、保護は解除され、所有権はエンディコット三世に戻る。これではまるで、エンディコット三世が黒幕のようではないか。
 ──何故、こんなやり方を?

   ⚜⚜⚜
  
 アイリスはホテルの土地についてローズに訊ねるつもりでカールッチ・ビルに入った。事務所の扉を開けると、室内の協会員が一斉にアイリスを見た。
 ローズは席を外しているようである。
 
「アイリス」「アイリスさん」
 
 声を揃えたのはマークとカミーラだった。
 丁度良かった、とでも言いたげにアイリスを見た後、声が揃って互いに顔を見合わせる。
 
「何、2人とも」
 
 アイリスが恐る恐ると、マークは後でいい、と先にカミーラを促した。カミーラはアイリスに駆け寄る。
 
「こんなのを考えてみたのですけど」
 
 満面の笑みで言って、カミーラはタイプライターで作成された簡易的な企画書をアイリスに見せた。アイリスは顔を近付けて文字を追う。
 
「……クリスマスの食事会?」
 
 うんうんとカミーラは何度も頷く。
 
「家の無い人とか、家族と一緒にご馳走が食べられない人達に向けて、協会員が手作りのご馳走を振る舞うのです。街の人達に対する我が協会のイメージアップですよ!」
「なるほど……」
 
 開催場所はウォーターストリートにある教会だった。ビルの1階を間借りしているらしい。
 
「人手がいるので、ぜひ、あなたも!」
 
 それって、とアイリスは何となく嫌な予感がしてカミーラに訊ねる。
 
「もしかして、料理するってこと……?」
「はい! もしくは、道行く人に声を掛けるんです。一緒にご馳走を食べませんか? イエス様はあなたを愛しています、と」
「あー……うん」
 
 どちらも勘弁願いたい、と胸中で呟きながら、アイリスは取り敢えず頷いた。
 
「考えておきます」
「よろしくお願いします!」
「はい……」
「あと、これも」
 
 カミーラが数枚の紙片をアイリスに手渡した。
 手に取ったアイリスの目に入ったのは、自身の名前と、ニューヨーク市保存協会のロゴだった。アイリスはカミーラを見る。
 
「これ、名刺?」
「はい。肩書もちゃんと入ってます」
 
 言われて視線を落とすと、筆記体で「ニューヨーク市保存協会・共同創設者」と明記されている。
「抗議集団にたんを切った時のやつです。ヴァネッサから聞きましたよ」
 
 なんとなくおもゆい気がして、アイリスは首を掻いた。
 
「うわー、ありがとう……でも肩書が勝ちすぎてない?」
「気にしないでください。ヴァネッサはマネージング・ディレクターですが、本人曰く書類に判子を捺すだけで何の書類かも分かってないって言ってました」
「それはそれで……」
 
 どうなの、とアイリスは呟く。名刺を睨みながらアイリスがうなっていると、マークがアイリスの眼前で手を振った。
 
「こっち、いいかな」
「え……ええ」
「なんか調べ物してたんだろ」
「そう。そうよ、42丁目の図書館で」
 
 またなにがしかの面倒事を言われるのを恐れてか、アイリスは気後れしたように身を屈めている。
 マークは笑った。

「怖がるなよ、カミーラみたいな意地悪は言わない」
 
 マークはおおぎように咳払いをして、「単刀直入に言うよ」と前置いた。
 
「実は君に会ってほしい人がいるんだ」

   ⚜⚜⚜
 
 小雨降る中、アイリスはマークと並んで走った。
 濡れた地面を叩く2人分の足音が鳴る。マークに案内されたのは、カールッチビルの向かいにあるニューヨーク・デリだった。ニューヨーカーに人気の、歴史ある惣菜屋兼喫茶店である。
 明るい店内のストリートに面した部屋の壁には、舞台衣装や衣装画が掛けられていた。反対側にはカメラや撮影用具。
 周囲を怪訝そうに見まわし、アイリスは眉を寄せた。

「ここ、仕立て屋? それとも写真屋?」
「両方だね。デリがいつも混んでるからって、間借りして一部を客席に改装したらしい。最近の話」
「──へえ」
「……苦手だったか?」

 マークがアイリスに目配せした。

「いい内装だと思うわ。好き」
「店じゃなくて事務所だよ。ニューヨーク市保存協会の人達。従姉の手伝いをしてるだけの君をすっかり身内扱いしてるし。迷惑じゃないかと」
「……楽しそうで何より」

 笑って答えるアイリスを、マークは苦い顔で振り返った。

「何かとげがあるんだよなぁ。──あ、いたいた」 

 マークが手を挙げると、部屋の角の客席にいた人物が立ち上がった。
 それはアイリスが見覚えのある人物だった。

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