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GASLIT STREET C01 「エンディコット」

 
1892年
ニューヨーク市 エンディコット邸

 エンディコットていの広々とした庭に、黄昏が落ちようとしていた。
 ──風が吹いている。物置の扉をがたがたと揺らす程の風だった。
 屋敷の薄暗い物置の中で、8歳のアイリスは震えながら小さな膝を抱えていた。ローズの姉たちは、遊びの一環いつかんとしてアイリスをよくこうした悪戯いたずらで困らせていた。

(これは、ただの遊び)
 
 初めの頃こそ、このたわむれをどう受け止めていいのか分からずに慌てたり、怯えたりを繰り返していた。無意味だと知っていながら、父を、母の名を呼び続けた。物置小屋の扉を叩きながらわめいた。
 だが、そのこと自体が彼女らの目的であることを悟った今、ただひたすら時間が過ぎるのを待つことが最善なのだと学んだ。狭く冷たい空間は薄い暗闇が支配し、アイリスはただ扉のすきからわずかに漏れる陰鬱いんうつな光を見つめていた。

(……これは、ただの遊び)

 自身に繰り返しそう言い聞かせながらアイリスは瞑目し、いっそう強く膝を掻き抱く。
──その時、物置の扉の隙間から温かな灯りが漏れた。

「アイリス、そこにいる?」

 聞き慣れた声が優しく響き、アイリスは顔を上げた。物置小屋のじようが上がる。扉の隙間から差し込む灯りの向こうに立っていたのはローズだった。手には小さなランタンが握られ、柔らかな光が2人を包んだ。

「また姉さん達ね。酷いことをして、ごめんなさい」

 言って、ローズはアイリスの隣に腰を下ろす。
 アイリスは驚きつつ、黙ったままそれを見届けた。2人の前に下ろされたランタンが、物置小屋の壁に多種多様な影を作り出す。

「なぜ、ローズがあやまるの」
「……私が、弱いから。あの人たちと同じだから」

 使用人の目を盗んで行われる悪事の邪魔をすると、ローズの姉たちが機嫌を損ねる。それでローズは、せつちゆうあんだろうか、アイリスと共にもることを選んだらしい。
 アイリスと同じ姿勢で膝を抱え、ローズは優しげな笑みを浮かべながらランタンの光を見つめていた。アイリスの視線に気づいて、今度はこちらに笑みを向ける。 
 アイリスは恐る恐る、ローズの手に触れた。

「ローズはあたしのこと邪魔じゃない?」

 アイリスが小さな声で尋ねる。

「邪魔だなんて思ったこと、一度もないわ。ダンスだって上手だし」
 
 と、ローズは笑顔で答えた。「たぶん、私が見てきた中でいちばん上手」
 
「でも、あたしのダンスは偽物にせものだって。あなたのお姉さんたちが言ってた」
「どうして?」
見世みせもののダンスは本物じゃないんだって。バレェとか、社交ダンスとか、ちゃんとお教室で習うものじゃないと」

 アイリスの言にそう、とだけローズは返答した。
 ローズは姉達のことも愛し、憧れている──そのことをアイリスはよく知っていた。だから、このような悪戯があったとしても、ローズの持つ家族愛に揺るぎは無い。
 だからこそ、と思う。
 自分は、この家に来るべきではなかった。
 大好きな姉達の嫌いな部分を否応いやおうなしに見ることになるローズの苦悩を思えば、そうに違いない。

「話してくれる?」

 不意にローズの唇が動いた。

「──え?」
「アイリスがもともと住んでいた、お家のこと。劇場だったのよね」
「ああ……」
  
 2人はその後、ランタンの明かりの下でただ話をしながら時間を過ごした。アイリスは元いた劇場での家族や、パフォーマーたちのことを話した。ローズは庭の花のことや、いつか行きたい場所の話をして、アイリスを笑わせた。
 アイリスは、いつの間にか心に閉じ込めていた生家の思い出を、ローズに話していた。

「──それで、お父さんが急に牛の着ぐるみを作り出したの。流行りのサーカスに影響されて、『うちでは牛を使うんだ』って。『中には誰が入るの』ってお母さんが聞いたら……『オレが入るぞ』だって」

 アイリスの昔話に、ローズはくすくすと笑った。

叔父おじさんたら、面白い人」
「それでお母さんが縫い物を手伝って、ついに完成。お父さんが牛の着ぐるみを着て四つん這いになって、いざ舞台に出たんだけど……」
「けど?」
「滑って転んで、舞台から落ちたの。演技どころじゃなかったけど、お客さんにはうけたからまぁ……成功かな」

 ローズは声を上げて笑った。

「あとこんな話も。手品師にスリの手口を教えてもらったのだけど、彼によれば、ポケットに忍ばせる2本の指の引き上げ方が大事で……」
 
 話すアイリスも楽しんでいた。暗くて狭い物置の中がいつの間にか、秘密基地のように感じられる。
 ねぇ、と不意にローズがアイリスの手を強く握った。
 
「私がいつでも一緒にいる。何があっても味方」

 だから、とローズは言う。

「この家を出るなんて言わないでね。アイリスが施設に送られるなんて、私はいやよ」

 アイリスは目を見開いた。

「……うん」

 アイリスは頷きながら、息苦しさを感じていた。

「出て行くなんて、言わないわ」
 
 この返答が本音でないことを、たぶんローズも理解している。
 ──だから余計に、つらかった。

CHAPTER 1
ENDICOTT

 
 そのストリートは、ブロードウェイとほぼ平行に並ぶようにしてマンハッタンを南北につらぬいていた。
 まいが互いに競い着飾るように、あるいっときまで2つの通りは成長と発展を繰り返す。19世紀もなかばを過ぎた頃から、住人の暮らし向きに違いが出はじめた。際限さいげんなくあふれた人と物の流れを整える為に高架鉄道がかれる頃には、姉妹の分断は決定的なものとなった。
 ブロードウェイと同様に栄えたその幹線道かんせんどうは高架鉄道の開通を機に、煤けた大気とかまびすしい騒音の為さらに衰退した。着飾った者や富める者、その全てがよりよい環境を求めてそのストリートを離れ、代わりに住み着いたのが移民や労働者だった。
 ブロードウェイが富める者の為の娯楽を与える場所なら、この場所の娯楽は常に大衆の為にあった。
 19世紀末になるとその趨勢すうせいは決していた。高架鉄道が蒸気式から電気式に代わろうが、お高くとまったあらゆる娯楽はすでにこの通りから姿を消していたのだった。

 アイリスの父親、アルフレッド・エンディコット二世がこのストリートに劇場を持ったのは1882年のことだった。エンディコットは実業家の家系で、アルフレッドの祖父、アイリスにとってはそう祖父そふにあたるコーネリアス・エンディコット一世がイギリスからニューヨークへ移住したのがその始まりだった。
 曽祖父の手腕しゆわんは確かで、海運と呼ぶには粗末な船舶一隻から始まったエンディコット家のビジネスは(創業開始を厳密に説明するなら、借りた10ドルで製作した手製のトロッコでの荷物運搬から話さなければならないだろう)、コーネリアス・エンディコット二世に家業が引き継がれる頃には鉄道、出版、鉄鋼業など多岐たきに渡り成功を収めていた。
 後に家業を継ぐ予定だった兄のコーネリアス・エンディコット三世に比べれば、アルフレッドに求められたものはそれほど多くはなかった。兄を手助けする役割を程よくこなしさえすればいい、ある意味で鷹揚おうような身分だったと言える。しかし、ある日突然ブロードウェイのパフォーマーの女と共に駆け落ちし、会社の持ち物である船をたんに無断で銀行の融資を受けたとなれば話は別だった。
 「然るべき罰を」とコーネリアス・エンディコット二世は言ったが、兄のコーネリアス・エンディコット三世がそれを留めた。
「彼の行いは決してその場しのぎのことではなく、自身の商才を試すのに必要だった」と父親を説得したのだった。
 かくしてアルフレッドは、何のとがめも無しに自身の居場所である劇場と伴侶はんりよであるオリヴィアを得た。代わりにエンディコット本家との縁を失った。オリヴィアとの間に一人娘のパメラ・アイリス・エンディコットが生まれたのは、2人のとうこうから2年後のことだった。

   ⚜⚜⚜
 
「私の前には常に道が用意されていた。地図には従うべき航路があり、それと針盤しんばんを頼りに、ただ進めと言われてきた。だが私は、それを不自由だとは思わない」
 
 劇場のオーナーでありプロデューサーだったアルフレッドの口癖だった。
 
「私にはいつだって、道を外れる自由が残されていた」
 
 アイリスの初めての稽古は7歳の頃だった。はじめは遊びの延長で、おどりの真似事をしていた。
 母親のオリヴィアは劇場のパフォーマーだ。
 ワイヤーの上で自在に演技する、人気の曲芸師であった。アルフレッドが観劇で見かけた彼女に惚れ込み、なかば駆け落ちのように結婚したのだった。事実、アルフレッドはヴォードヴィル劇場のオーナーとして成功した後も、エンディコット本家から勘当かんどうされたままだった。
 躍りや曲芸、アイリスは小さな体に大いなる才能を秘めていた。オリヴィアと同等か、あるいはそれ以上に。
 母がそうしているように、傘を手にワイヤーを渡る。
 しなる細い綱の上で、跳ぶ。踊る。身を反転させる。
 高い所が怖いと思うことが、アイリスには無かった。
 
「素敵。まるで子鳥のようね」
「君に似て、すぐに人気になるぞ。最年少のスターだ」
 
 父と母はアイリスを、将来の花形ともなり得る逸材として熱心に教育し、アイリスもそれにこたえるように成長していった。
 ──だが、アイリスの初舞台は叶うことはなかった。
 1891年の冬──劇場はごうの底に沈んだのだ。

   ⚜⚜⚜

 舞台から立ちのぼった煙は次第に黒雲こくうんと化し、火の手が劇場に広がる。逃げるように促されたが、アイリスは立ち尽くしていた。炎が舞台の装置や壁面に食い込み、美しく彩られた舞台は次第に崩壊する。熱風が舞台袖に迫り、燃える木材やがれきの音が聞こえた。
 焼け落ちた木の板がアイリスの背にぶつかり、熱さで我に返った。
 
「何やってんの! 逃げるよ!」
 
 叫んだのは雇われの雑役ぞうやくの女だった。彼女は倒れ伏したアイリスを助け起こすと、半ば抱えるようにしてそのまま通りに出た。
 劇場の屋根が倒壊したのはその直後だった。
 闇夜に包まれた街で、劇場の外観が照らし出されていた。美しい街の光ではなく、建物を内側からじゆうりんする真っ赤な炎によって。駆けつけた消防団の数は2、彼らは火を消す前にどちらの団が消火に取り掛かるかを決めるために殴り合った。
 自身の故郷が失われる様子を、パメラ・アイリス・エンディコットはただ見つめていた。
 光が、景色が滲んで、自分は泣いているのだと気付いた。

   ⚜⚜⚜

「こちらは新発売のフェイスパウダーです。お客様にお似合いの華やかな色ですよ」

 ブルーミング・デールズの、化粧品売り場の甘ったるい匂い。5歩先を歩く十代の娘たちの、喧しい声。
 おべっか上手な店員が、客に新色のフェイスパウダーを勧めていた。 
 売り場をぼんやりと歩きながら、休みの日はやっぱり好きになれない、とアイリスは思った。毎週のように、行きたくもない従姉いとこたちの外出に付き合わされる。
 アイリスの、8歳という年齢。
 大人から見れば庇護ひごが必要な年齢だが、さりとて付きっ切りというわけではなく、こうして年の近い少女達に付き添う形であればある程度の放置も許容される。それでこの家の親たちは、年頃の娘たちに下の娘や姪の世話を任せ、任された姉達は買い物に連れ回すのだ。好きにもなれない他人の世話にならなければならない現状が、アイリスにはもどかしかった。
 けれども、生まれ育ったあの家はもう無い。家だけではない、今着ている青いチェックのワンピースも、その襟に結び付けられたシルクのリボンも、身に纏うもの全てが他人からの施しによるものだ。
 ──情けなく、悔しく、悲しい。
 
「アイリス」
 
 不意に商品棚の脇から肩をつつかれて、アイリスは振り返った。アイリスとお揃いで色違いの、赤いチェックのワンピース。一番下の従姉のローズが、アイリスのスカートのすそを引っ張っていた。
 頬を薄桃色うすももいろに染め、細い指でデパートの出入口を示して、
 
「外、行こうよ」
 
 声をおさえてローズが言った。
 ローズもまた、姉たちの買い物を楽しいとは思っていないようだった。
 彼女らに着いて行けば、まるで着せ替え人形のように色んな服を着せられることを知っているからだ。人目を盗んで売り場から抜け出すアイリスを羨ましそうにいつも見ていたローズが、今日は自分から声を掛けてきた。
 アイリスは先を行く6人の従姉いとこ達に目をやる。会話に夢中になりながら、階段を上がるところだった。
 アイリスはローズのいる商品棚の陰にさっと滑り込んだ。
 
「──作戦成功」
 
 ローズの声に、アイリスは小さく笑った。
 
「冒険の始まりね」
 
    ⚜⚜⚜
 
 ──1892年、ニューヨーク市マンハッタン。
 路地裏はいつも冒険の香りがする。
 
「──追手よ! 敵の罠だったの!」
「敵ってだれ?」
「ローマ帝国! 捕まったらヨボヨボのおじいちゃんと政略結婚させられちゃう!」
 
 なにそれ、とアイリスは笑った。
 ローズが好き勝手に考えた設定で、2人は狭い道を走る。ローズが使う「ローマ帝国」という設定には特に意味がない。世の中の理不尽を象徴する時に彼女がよく使う言葉だ。
 先を行くローズの髪が揺れていた。色が明るい栗色であることをのぞけば、その豊かさも、さらさらとした質感もアイリスのものとよく似ていた。
 アイリスはローズの想像が好きだった。ローズが本で読んだ物語の世界を2人でけるあいだ、アイリスは多くの不安を忘れる事ができた。
 過去と呼ぶにはあまりにも鮮明な、喪失そうしつの記憶や。
 今の家で暮らすうち心に堆積たいせきしていく、泥のような感情を。
 人の多い明るい大通りとは裏腹に、路地裏は暗く、人も少ない。煙草と、埃と、水はけの悪い地面に溜まってよどんだ水の臭いがする。それでもアイリスには、デパートのそれより遥かにましに思えた。
 道の脇、両の壁にもたれかかるのは皆、大人の男たち。労働者、浮浪者、そのどちらもが疾走しつそうする2人の少女にろんな視線を送っていた。
 
「痛っ」
 
 路地裏を飛び出した先で、ローズが転んだ。アイリスがあわてて駆け寄る。
 
「ローズ!」
 
 ローズは通行人にぶつかり、水溜まりで転倒したのだった。ぶつかられた男はばつが悪そうな顔をする。
 
「子供がこんなみちでいったい何をやっている。危ないじゃないか」
「ご、ごめんなさい」
 
 怒鳴られて、ローズは身を震わせた。座り込むローズを、アイリスはのぞき込む。
 
「大丈夫? 怪我はない?」
「……うん」
 
 かすれた声でローズが頷いた。服は汚水に濡れ、目に涙を浮かべている。怪我は無くとも、大丈夫なはずがない、とアイリスは思った。ローズを助け起こし、ぎゅっと抱きしめる。
 
「ごめんね……あたしのせいだ」
「違うわ、誘ったのは私だもの」
「ううん、あたしが悪いの。毎回あたしが叱られるんだから──そういうことなのよ」
 
 ローズはいい子だ。七姉妹の末っ子で、両親に愛され、姉達に愛される、美しい少女。明るく、礼儀正しく、本が好きで、想像力がある。
 エンディコット家のれいじようとして、いずれは社交界の花としてその名が知られるようになるだろう。
 まさに、非の打ち所の無い少女だった。
 ──ただひとつ、アイリスの事を慕っている、という点を除いては。

   ⚜⚜⚜

 気が付くと、道行く人々の様子が騒がしい。
 ローズの手をひきながらアイリスが耳を澄ますと、遠くにドラムやラッパを鳴らす音が聞こえた。それを目掛けて道の人垣ひとがきが移動しているようにも見える。

けて。ここは今からパレードの通り道だ」

 街頭で人を集めて小銭を稼いでいた大道芸人が突然現れた警官達に追い立てられ、道を空けるように退いていく。ストリートに異様な緊張感が走った。
  
「あれは、何かしら」

 声を上げたのはローズだった。「──地球?」
 
 ローズの示したものは、大通りの南側からこちらに向かってゆっくりと迫ってきた。ローズが表現したように、それは明らかに地球をかたどっていた。球状のフロートがオーケストラ隊を引き連れて、ローズ達の方に向かって来ている。地球儀のような地軸は無く、代わりに白磁はくじのように白い剣が真っ直ぐ球を貫いていた。

「通りは封鎖だ。渡るなら今しかない」「何だよ、横暴だな」
「聞こえただろう、パレードだって」
 
 アイリスはローズの手をひいて、ストリートの隅へと後退した。往来おうらいする人々が不平や不満を言いながら道を空けるのを見てそれにならったのだ。
 ローズがアイリスを振り返る。

「パレードだって。行ってみない?」
「──え?」

 首をかしげるアイリスに、ローズは続ける。

「近くで見たいの」 
 
   ⚜⚜⚜

 澄んだ冬の空にオーケストラの音が響いていた。
 地球のフロートは内側から開き、中にいた女性が抱えるほどの大きさの真珠をがいの人々に見せる。
 アイリスとローズは人垣の先頭に立ち、肩を寄せ合いながらその様子を見ていた。
 フロートに続くのは異国風の衣装に身を包むマーチングバンドだった。リズミカルな音色と共に、フロートから花火が上がる。

「すごいわ……」

 ローズが興味深げに呟く。
 驚いたのはアイリスも同様だった。同意するまもなく、バンド隊の後ろに中国風のドラゴンを操る大勢のパレード隊が続く。白昼堂々、通りを封鎖して行われたパレードは周囲の人々の反感を買いながら、しかし同時に興味を引いていた。
 奇妙な衣装を身にまとった人々がダンスや歌、軽業を披露するたび、次第に周囲の声には称賛が混じり始める。
 パレードの最後尾、最後の一団にその人物はいた。アフリカ風のカラフルな衣装に身を包んだ男たちが「H・H」の紋章旗を掲げている──その中央。
 荘厳できらびやかな装衣に身を包んだ彼は、鋭い眼光と豊かな髭を蓄えた威圧感のある人物だった。巨大な象にまたがり、凍えるような大気の中で背筋を伸ばす姿はきように満ちて、白い髭は陽光に眩しい。
 その姿を見れば誰もが、彼こそがこの祭典のかなめであると知れただろう。
 
「王様みたい」

 ローズがうっとりとつぶやく。アイリスは苦笑じりに答えた。

「アメリカに王様はいない。……いちばん偉いのは大統領」
「アメリカの、じゃないわ。彼はきっと世界の王様」

 なにそれ、と呟いたアイリスの声はおそらく、祈るように手を組んでパレードに見入るローズの耳には届かなかった。
 
 その時見たものは、ニューヨークいちばんの大富豪、そして探検家のハリソン・ハイタワー三世。彼の「ホテル・ハイタワー」が開業した記念のパレードだった。
 そしてその時初めて、ローズはハイタワー三世と邂逅かいこうしたのだった。
  
   ⚜⚜⚜
 
「また、あんたなのね」
 
 従姉のひとり、リリーが厳しい声でアイリスに言った。
 デパートに戻ると、姉達が血相けつそうを変えてローズの元に駆け寄り、ローズの惨状を見てくちぐちに「まぁ」だの「なんてこと」だの声を上げるのだった。
 
「ローズ、酷い格好よ。いったい何をしていたの」
 
 リリーの問に、ローズは大きな目に涙を浮かべる。
 
「私がアイリスを誘ったの。外へ出ようって」
 
 退屈だったから、とリリーに答えるローズの声はめいりようだった。それだけ正直に言ったとしても、ローズであればきゆうだんされない。
 
「駄目じゃない、勝手に出ていっては。さぁ、こっちへおいで」

 姉達は呆れながらもローズをいたわる。おかげでローズは落ち着いたようだった。それで、とリリーはアイリスに向き直った。むちのような声。氷のような視線は、明らかにせんの民に向けるものだった。
 
「あなたが庭の木に登っているのを真似して、ローズが怪我をしたのを覚えているわね」
 
 はい、とアイリスはうなずく。
 
「あのね。はい、じゃなくて。あなたのせいでローズが危ない目に合うのは、一度や二度ではないの。そしてその度に叱られるのは、私達なのよ」
 
 たたみかけるように言われ、アイリスは唇を噛んだ。
 
「……はい。ごめんなさい」

 リリーは立てた人差し指をアイリスの額に突きつける。

「今度同じようなことがあったら、あんたは物置に閉じ込めておくからね。いい?」

 はい、と頷くアイリスの額を軽く押して、リリーは指を離した。帰りましょう、と従姉達はきびすを返す。

「さっき、パレードを見たのよ」
「パレード? ……ああ、きっとハイタワーね。今日ホテルがオープンするって。記念の舞踏会ボールが開かれるのよ」
「お姉さま、彼を知ってるの?」
「今どきお父さまを舞踏会に呼ばなかった人だもの。覚えているわ」
 
 親しげにローズが姉達と会話している。アイリスはローズよりも幾分いくぶんながの目を、よりいっそう細めた。
 ローズを囲むようにして歩く従姉たちの背中を見つめながら、アイリスは思った。
 ……自分は物置に閉じ込められている方がいいのかもしれない、と。

   ⚜⚜⚜
 
 生家であるヴォードヴィル劇場の火災で両親をうしなったアイリスは、当時劇場で雑役をやっていたオリンダと共にエンディコット本家の預かりとなった。その家には家業を継いだ実業家コーネリアス・エンディコット三世とその妻、そして7人の娘たちが暮らしていた。
 突如とつじよとして縄張りに現れたアイリスを8人目の姉妹として迎え入れるはずはなく、そこでの日々は過酷なものだった。従姉達がアイリスをものにする理由はいくらでもあった。
 連れ立ってきた雑役の女の、黒い肌。
 背中に残る不気味な斑紋はんもんじようの火傷。
 勘当されていた父親の過去。
 育ちの違い。
 ただ一人、末っ子のローズだけは違った。アイリスをづかい、話し相手となり、アイリスの身の上話を好んで聞いていた。異郷から来た旅人のように、ただ物珍しかっただけかもしれない。
 それでもアイリスは嬉しかったし、ローズは心の支えだった。
 
 貧困とも飢えとも無縁のエンディコット邸を出ることを決めたのは、アイリスがそこへ来てから半年後のことだった。
 もうこの家では無理だ、とアイリスが思ったのは、アイリスの名入りしゆうほどこされたワンピースが暖炉に捨てられているのを見た時だった。せいである劇場の焼け跡から持ち出せた、奇跡的に残っていたいくつかの形見のうちの一つであり、アイリスの宝物だった。従姉のうちの誰かの仕業だろう、とは思ったが、別に誰でも良かった。
 この家を出ます、とようのコーネリアス・エンディコット三世に伝えると、「施設に送ることになる」とおどかされた。
 それでも構わないと口では伝えたが、アイリスは前日に脱走をくわだてるつもりでいた。1892年のニューヨークで、子供ひとりが姿を消すことなど容易たやすい。
 そんなアイリスのはらもりをさつしてか、ローズはコーネリアスに直談判じかだんぱんを起こした。

「アイリスが安心して暮らせる場所を用意してあげて。そうじゃなかったら私……」

 お父様とは一生話さない、と。
 ローズの涙ながらの訴えに、伯父は心を動かされたらしい。

 かくして、アイリスはオリンダと共に、ニューヨーク市外の一軒家で暮らすこととなった。

   ⚜⚜⚜

1912年 11月
ウェストチェスター郡 スカーズデール
 

 マンハッタンの大都市を北に外れた自然豊かな郊外。
 背の低い草でおおわれ、取り残されたように所々背の高い草がれを成している。陽の照り返しで銀色に輝く草の間をうようにして、その男は歩いていた。
 歳は三十代半ば、濃紺のうこんのコートに身を包み、帽子も被らずボサボサとした金髪を寒風になびかせていた。
 傾斜のせいか、あるいは預かった言伝ことづてをどう伝えたものかと思案していたせいなのか、足取りはのろのろと重い。丘の上に、背の低い灰色はいいろ石塀いしべいに囲まれた三角屋根の一軒家が見えた。
 白い壁に赤い屋根の2階建て。小さく、古い家だった。
 脇にぽつんと自立した郵便受けがあった。ふところにある2通の文をここに入れて立ち去れば用は済む。
 それでもこうして玄関まで来てしまったのは、この屋敷に住む女の暮らし様に対する単純な好奇心のせいだった。
 玄関にベルは無い。代わりに、重い木製のドアの中央にたたがねがあった。
 男はひとつ息を吐くと、それに手を伸ばした。
 
   ⚜⚜⚜
  
 かん、かん、かん。
 かわいた音がして、アイリスは読んでいた本から目線を上げた。本を閉じ、デスクを離れ、玄関へ向かう。ドアを開ける前に、アイリスは音の主へ声を掛けた。
 
「どちら様?」

 アイリスはドアに耳を寄せる。ややあって、男の声が答えた。

「マーク・オーメン、といいます。ニューヨーク市保存協会の」

 長々とした組織の名を聞いて、アイリスは思い当たる。マークは続けた。

「アイリスさんあてに伝言を預かってまして。2人のエンディコットから」

 2人のエンディコット。アイリスはそれが誰を意味しているのかをすぐに察した。しかし、何の用があってのことかは分からなかった。マーク・オーメンという名に覚えはなかったが、口ぶりから関係者であることは明らかだった。アイリスは錠を上げ、ドアを開ける。

「やあ、どうも突然。すみません」

 上背うわぜいのある若い男が立っていた。濃紺のコートに、黄土色のネクタイをゆるりと締めている。明るい金髪が風で無造作に乱れていた。コートの左ポケットには金色の糸で「ニューヨーク市保存協会」と立派なワッペンが付いている。

「あなたがパメラ・アイリス・エンディコットさん?」
「……そうですけど」

 答えを聞き、ほっとしたようにマークはがんした。

「よかった。家を間違えたかと」

 家を間違える。その意をアイリスはんでいた。「エンディコット」を名乗っていながら、随分とつづまやかな生活を送っているな、ということだろう。家に続く路地は道に沿って並ぶ住宅どうしの間にある。家並みはどれも上等な高級住宅、エンディコットというからにはそのどれかなのだろうと思う者が多いが、実際のアイリスの住まいは一見すると左右どちらかの家の裏手に続きそうな小道の奥にある粗末な一軒家だった。 
 アイリスは挑むような心持ちで、しかし外目には柔らかい笑みを浮かべて返す。

「伝言、とのことでしたけど」
「ああ」
 
 マークは懐から文を取り出した。
 
「2通あるんだ。手短なのと、少し長くなりそうなのが」
 
 そうですか、と色の無い声でうなずき、アイリスは中を示した。「……どうぞ」
 
 部屋着姿のアイリスにうながされ、マークは玄関を抜けて居間を一望した。中央に質素な丸テーブル、その脇には2人掛けのカウチがひとつ、暖炉を向くようにして置かれている。奥にはキッチン、置かれた家具はいずれも古く、手入れはされているが立派とはがたい。
 かれを組み合わせたようなみすぼらしいコート掛けをげんに見ながら、マークは自身の外套コートを掛ける。来客のろんな目線にもアイリスは慣れていた。エンディコットという名前を知る人間の多くが、この屋敷の内実ないじつを見て驚く。
 
「ここには独り?」
 
 マークは居間の景色からアイリスへ視線を戻す。アイリスは落ち着き払っていた。
 
「いつもはあたしの他に、同居人がひとり。オリンダが」
 
 アイリスが椅子を引くと、マークは掛けた。
 
「お茶でも入れましょうか」
「いや。おかまいなく」
「それで──伝言とのことでしたけど」
 
 正面の椅子に掛けたアイリスは先刻せんこくと同じ文言を繰り返す。催促するような言い方になった。
 
「ひとつは、あなたの伯父であるエンディコット三世から」
 
 それはアイリスでなくとも、誰もが知る名前だった。
 交通機関や新聞社など、コーネリアス・エンディコット三世は自身の事業を数多あまたに展開し、巨万の富を築いている。今やニューヨークでいちばんの富豪とも言われていた。
 
「こちらの方は手短でね」
 
 マークは言って、懐の文を開く。
 
「親愛なるパメラ・アイリス・エンディコット。冬の訪れとともに、心からの挨拶を送る。個人的な事情で貴女の生活の様子を預かり知ることができなくなり、心苦しくてならない。貴女のような才女を──」
「あの」
 
 手紙の内容をさえぎり、アイリスが言った。
 
「こういう言い方はどうかと思いますけど、伯父はそこまで言葉を尽くすたちではなかったと思います」

 マークはアイリスを見返し、意を汲んだようにああ、と頷く。
 
「お察しの通り、この感じだと……彼の新聞社の記者にでも書かせてるのかな」 
「できれば、要点を言ってもらえると」
 
 アイリスの言葉を心得たようにマークは頷き、手紙をぱらぱらとめくる。
 
「かいつまんで言うと……君の暮らし様を知るすべが失くなってしまった。理由はわかるだろうけど。だから連絡が欲しい。金がいるならその一言でもいい」
 
 アイリスはマークの言葉を聞き、何の感慨かんがいもなくそうですか、と頷いた。
 
便たよりが欲しい、ね……)
 
 ぜんとした様子のアイリスに、マークは苦笑する。
 
「言いたいことは分かるよ。手紙を社員に代筆だいひつさせる奴が、相手には便りを求めるのか……そんなとこだろ。そう悪く思わないでよ。特に今は、いちばん可愛がっていた飼い犬に裏切られて傷心しようしんちゆうなんだ」
 
 他人事のようなマークの言葉に、アイリスはむっとした。
 彼の言う飼い犬とは、エンディコット三世の末娘、ベアトリス・ローズ・エンディコットに他ならない。父娘の関係は良好だった──ローズが団体を立ち上げるまでは。彼女が立ち上げたニューヨーク市保存協会は、わばエンディコット三世にたてく為の組織だ。エンディコット・グランドホテル建設計画のとんは、間違いなくニューヨーク市保存協会の功績こうせきのひとつだろう。
 そして、ローズは協会の立ち上げ人であると同時に、会長なのだ。
 そのローズを「エンディコット三世の飼い犬」と呼んだこの男に、アイリスはしように腹が立った。
 だいいち、マークは協会の活動を誇りとしているようには見えなかった。彼が身にまとう協会の制服である紺のベストのボタンは解れかけ、ネクタイも締まりが無い。
 少なくともアイリスは、こういう身なりの協会員メンバーを見たことがなかった。
 
「あいにくお金には困っていません。この家……伯父さまが下さったこの家で暮らしている限り住居費は掛かりませんし、私と同居人の稼ぎも、2人で暮らすには充分ですから」

 金に困ってはいない、というのは嘘だった。もとよりアイリスは伯父からの支援をほどこしとは思っていない。いずれは返すつもりでいるのだ。
 あくまでも、つもり、なのだが。
 
「そう。なら、そう伝えるけど。じゃ、これは渡しとく」
 
 アイリスは味気ない封書を受け取って、テーブルの隅に置いた。
 
「伯父とはどんな関係?」
「事業を起こすときに色々と助けてもらってね、恩人なんだ。あの人からの頼みは断れない」
「なるほど」アイリスは封書を見つめる。「それで」
 
 切れ長のアイリスの目が、マークの方を見た。
 
「もうひとつの方は」
「……我らがニューヨーク市保存協会の代表、ベアトリス・ローズ・エンディコット会長からだ」
 
 マークの声が、少し低くなった。
 
「こちらの方がずっと大事なんだろうと思う。君にとっても」
 
(ローズ)
 やはり、とアイリスは思った。

 そもそも今もアイリスと関わりを持っているエンディコット家の人間は、伯父のコーネリアス・エンディコット三世と、従姉のベアトリス・ローズ・エンディコットの2人だけだ。マークという男の身なりからも、伝言というのはニューヨーク市保存協会に関わる何かなのだろうと察しはついていた。ローズが何故、こんな男を使いに選んだのかは謎であるが。
 マークは先程と同様に、懐から封書を取り出した……のだが、それを開けることはせずに、ぽつりぽつりと話し始めた。
 
「君がニューヨーク市保存協会の立ち上げ人のひとりであることは知ってる。今から半年前の春。ローズと君の2人で知り合いじゅうをあたり、人員を集めて回ったそうだね」
「ええ……まあ、そうですね」
 
 頷きながら、アイリスは小首を傾げた。「協会の信念に賛同してくれそうな方の所へ行って、お話しをしました。それが何か」
 
 聞いていたマークは納得したように頷く。
 
「なぜ会長が君を頼るのか、僕にはわからなかったんだ。今の君は立ち上げ人でこそあれ、協会の人間ではないからね」
 
 アイリスは頷く。
 
おつしやるとおりです」
「それに君の名前を出すと、多くのメンバーが複雑な顔をするんだ。立ち上げ当時は相応のらくがあったってことなんだと、そう承知しておくけどね。『アイリスの暮らし様について他の方々には他言無用』と、会長に釘まで刺された」 
 
 アイリスは眉をひそめた。
 それはローズなりのづかいなのだろう、と思う。ローズの身内として活動する自分と、こうしてかつかつ暮らしの自分とのかいを、協会の人々がどう受け取るのか心配しているのだ。なるほど、アイリスの中で腑に落ちるものがあった。先程玄関の扉を叩いた者がアイリスの事をよく知る協会員の声であったなら──自分は扉を開けられただろうか。
 だからこそ、この新参者をここへ寄越よこしたのだ。
 マークはさて、と息を吐く。
 
今更いまさら説明するまでもないけど、ニューヨーク市保存協会は、ニューヨーク市内の価値ある建造物を保護する、という信念のもとで集まった団体だ。歴史的、あるいは文化的に有意義な建造物のすべてが保護の対象になり得る。市の公認も得たことで、公費を使えるようにもなった」
「……そう聞いています」
「僕はよく知らないけど、その頃に君はいなくなっていたようだね」
 
「はい、身を退きました」アイリスはきっぱりと言った。「ここでその理由を言う気は無いけど」
 
 マークはそう、と苦笑した。
 
「それで、名目上めいもくじようは建造物の保護団体として活動しているわけだけど」
 
 名目上は、の部分を強調するマーク。「会長の興味の矛先ほこさきはあるホテル跡に向かっている。ホテル・ハイタワーはご存じ……だよね」
 ええ、とアイリスは頷いた。
 
「ローズがあの団体を立ち上げたいちばんの理由は、『理不尽な悪評によって解体されつつあるホテル・ハイタワーを保護する』というものでした。当時はエンディコット三世がホテル・ハイタワー跡を解体し、エンディコット・グランドホテルを建てようとしていましたから。私はホテル・ハイタワーを守りたいと言うローズの為、まさにその日に協会を立ち上げる手伝いをしました」
「今、あのホテル・ハイタワーでもよおし物をしていてね。……していた、が正しいか」
 
 マークはポケットから小さな紙を取り出した。チケットのようだった。差し出されたそれに、アイリスは視線を落とす。
 ──恐怖のホテルに残された壮大な謎。タワー・オブ・テラー。
 アイリスは顔をしかめた。
 
啓蒙けいもう目的のツアーをやっているとは聞いたけど、──恐怖のホテル?」 
「13年前に起きたオーナーのハリソン・ハイタワー三世失踪事件になぞらえて、そう名付けたらしい」
 
 ハリソン・ハイタワー三世失踪事件。1899年の大晦日おおみそかに起きた、オーナーである大富豪ハリソン・ハイタワー三世の謎の失踪。当時、その元凶がホテルにある偶像の呪いだと騒ぐ者たちがいた。世間はあの事件以来、閉鎖されたホテル・ハイタワーを恐怖のホテルと呼んでいた。
 何の前兆もなく起きた落雷、そして停電。
 その時ホテル全体が緑色の光に包まれた、との目撃談まであったという。 
 
「そのホテルツアーが今、ある事情で休止を余儀よぎなくされた」
「……ほんとに呪われてた?」
 
 アイリスが冗談めかして言うと、マークは一瞬、ぎょっとしたような顔をする。そしてすぐに首を横に振った。
 
「いや、まさか。実は数日前から、協会の拠点のそこここで抗議活動が行われるようになったんだ。規模は10人足らずなのだけど、事務所やホテル前なんかに集まって『公費を使った下らない催しは止めろ』、といった具合にね」
「抗議」
 
 アイリスは繰り返す。マークは頷いた。
 
「先日、とうとう石なんかが投げられて、メンバーのひとりが怪我をする事態になった。おかげでツアーは休止、会長は各方面にお詫びと報告書を書いているよ」
 
 マークは封書を開けずに、アイリスへ差し出した。
 
「彼女は君に、何をどうしてほしいとか、そういうことは口にしていない。ただ、いつかのように共にいてくれることを願っているみたいだ。あまりに忙しくて、自分でここへ来ることすら、ままならないようだけど」
 
 アイリスは差し出された封書を受け取り、開けた。便箋には、手書きの綺麗な文字が並んでいた。

親愛なるパメラ・アイリス・エンディコットへ

驚かせてしまってごめんなさい。
私は今、あなたの知恵と力を必要としています。あなたには、他の人には見えないものが見える。 
アイリス。 あなたは今も変わらず、家族以上に、私の心の中で特別な存在です。 
この半年、会う事はおろか、手紙さえも出せずにいたことをお詫びします。 私たちの協会の発足以来、多忙を極めているのです。 
そして今、非常に大きな危機に直面しています。どうかお力を貸してください。 できれば明日にでも、協会の事務所に顔を見せてください。 

心より、ローズ

 それは、文面の短さとは裏腹に、ローズの切実な思いを感じさせた。
 あのエンディコット邸で地獄のような日々を過ごす間、ずっと傍で支えてくれたのはローズだった。幼いアイリスがあの屋敷を出て行ってからも、ローズはアイリスの元へ足しげく通って話をし、遊び、共に時間を過ごした。
 ローズが何か始めるという時に、力を貸さない理由をアイリスは持たなかった。……半年前までは。
 
 
「ひとつ、個人的なことを言うと」
 
 マークが付け足す。
 
「僕自身は、ツアーをやめるべきだと思っている。抗議の声があるという事を、会長は少ししんに受け止めた方がいいんだ。ホテル・ハイタワーだって、果たして、あそこまで体を張って保護すべきものなのか」
 
 苦笑するマークの言葉に、アイリスは顔を上げた。
 その通りだ、と思う自分と、間違っている、と思う自分とがいた。正しいと思うことに向かって走り続けるのがローズの強さだ、とアイリスは思う。しかし同時に、ローズには融通ゆうずうかない所があった。「我は世界を真珠貝あこやに見立て、つるぎを以てこじ開けん」とする、ハイタワー三世の精神には及ばないものの。
  
「ツアーを続けるべきかどうか、ここで論じるつもりはありません」
 
 アイリスが口を開く。
 
「ローズが私を必要としているのであれば……考えておきます」
「そうか、よかった」
 
 考えておく、という言葉を好意的に受け取ったらしく、マークはやんわりと笑んで立ち上がる。「ならそのように伝えるよ。邪魔したね」
 外套掛けへ向かうマークに、アイリスは待って、と声を掛けた。
 
「確かめていないことが」
「……そうかい?」
  
 アイリスは頷いて、続けた。
 
「あなたは協会の活動に誇りを持てていない。服装を見れば明らか。そして活動に消極的。これは言動をみれば明らかです。そんなあなたが、どうして協会に?」
 
 マークは一瞬、言葉に詰まる。
 
「そりゃあ……なんでそんな事聞くの?」
「コーネリアス・エンディコット三世。彼の命令で協会にいる。そうですね」
「ああそうだよ。でもなんで」
 
 マークはエンディコット三世に借りがあると言っていた。アイリスは答えず、マークに続ける。
 
「あなたはツアーをやめるべきだと言いました」
 
 マークは活動に消極的だった。その彼が、ツアーは止めるべき、ホテルは手放すべきだと言った。一見、矛盾はないように見える。けれども、引っかかるものがあった。
 
「協会の活動に無関心。そんなあなたが、ツアーをやめさせることに対して、ある意味で積極的なのは何故です」
 
 エンディコット三世の命令で協会に身を置くなら、そういう意見を持っていても不思議はない。けれども、もっと重要なことがあった。
 
「なんだよいきなり……」
 
 ひとつ呟くとマークは押し黙り、アイリスから視線を外した。
 言いあぐねる様子のマークに、アイリスは告げた。
 
「マーク・オーメンさん。あなたは……あのホテルが呪われていると、そうお考えなんですよね」
 
 マークは目を見開く。まるで、自身の秘めた心の内を、言い当てられたかのように。
 
「なぜ……そんなことが言えるんだい」
「それは、あなたが『呪い』という言葉にひどくおびえていらしたから」
 
 切れ長の瞳に見据えられ、マークは喉を鳴らした。
 人員と寄付をまたたく間に集め、わずか数日でニューヨーク市保存協会を立ち上げた力。
 ──その正体が、これなのだ。
 
   ⚜⚜⚜
 
 オリンダが扉を開けると、アイリスは午前に見た時と全く同じ場所、姿勢で本を開いていた。
 外は暗くなり、テーブルランプに明かりが灯っている。
 
「……あきれた」
 
 オリンダは年嵩としかさらしく静かに言う。自然と溜息になった。
 
「まさかと思うけど、アイリス。あんた何も食べていないんじゃ」
「おかえり、オリンダ」
 
 アイリスはたった今帰宅した、恰幅かつぷくの良い同居人の女に声を掛ける。「……そうだけど」
 
 オリンダは買い物袋を下ろし、外套を掛けながら「なんか、適当に作るわ」と返した。

「え、いいの?」
「あんたが考え事で一日使うなんて珍しいことじゃないからね。その代わり、明日は頼むから自活してよ。あたしばっかり肥え太ってあんたに餓死されたんじゃ、さすがに寝覚めが悪い」

 オリンダはふと、アイリスの向かいの椅子が今朝と違う位置にあることに気付いた。
 
「……ローズが来た?」
 
 オリンダの問いに、アイリスは首を振った。
 
「ローズじゃない」
「もしかして男? 男か」
「……そうよ。将来を考えてお付き合いしてるの」
「朝からじろぎ一つしない女に興味持つなんて。相手は置物か何か?」
「冗談よ?」
「わかってるよ」
 
 軽口を叩きながら、オリンダは買い物袋を持ってキッチンに入った。パントリーに日用品と食品を規則的に入れ、使えそうなものを適当に選ぶ。
 
「……教室の方はどう?」
 
 アイリスの質問にオリンダはまぁまぁね、と返事をした。
 
「活動家の間で評判がいいみたい。お陰様で繁盛してる」
 
 オリンダは近場でビルの一室を借り、「女性の為の格闘術」の教室を行っていた。ニューヨークへ渡る前、故郷の南米で習得する機会のあった格闘技だ。祖国で虐められていた自分に、師範が身を守る方法を教えてくれた。そのことを、オリンダはもう遠い昔のことのように感じる。
 今その技の一部はニューヨークの婦人達に受け継がれ、高慢な男達を固い石畳に叩きつけるのに一役買っているらしかった。
 
「あたしがダンス教室やるより、よっぽど良かったみたいね」
 
 アイリスが感慨もなく言うので、オリンダは笑った。
 
「今からでも替わって差し上げましょうか」
「イヤです、絶対」
 
 アイリスは眉を寄せてぼやくように言った。
 
「舞台に立てないパフォーマーが、いったい何を教えるっていうの……」
「立たないだけだろ。実力はあるのに」
「……分かってない。芸能界ってものを」
 
 オリンダは水を張った鍋を火に掛ける。ふとアイリスの読んでいる本が目に入った。
 本の間に別の紙をはさんでいる。数行の文が書かれた手紙のようだった。それでようやく、アイリスが「騎士道、華やかなりし頃」ではなくその本の間に挟んだ手紙の方を見つめているのだと気付いた。
 
「……あら、手紙だな?」
 
 オリンダがシンクで豆を洗いながらくと、やや間があってアイリスが答える。
 
「伯父様と、ローズから。さっき、2人の知り合いだって人が来て置いてった」

 なるほど、とオリンダは頷いた。
 
「謎の客人の正体はローズ親衛隊のメンバーってわけか」
「さぁ? ……どうでしょう」
 
 言葉をにごすアイリスに、オリンダは首を傾げた。
 
「後で読むけどいい?」
「お好きに」
 
 短い返答を聞いて、オリンダは煮立った湯に豆を入れた。
 2人から、というのは当然、別々に二通の手紙があったのだろう。ローズは最近顔を見ていないものの、少し前までは頻繁ひんぱんにアイリスをたずねて来ていた。じようで頭が良く、好ましい人物だったとオリンダは記憶している。
 何やら団体を立ち上げるとかで、アイリスがローズと2人忙しくしていた時期があったから、その関係だろうか。
 考えていると、当のアイリスが口を開いた。
 
「……明日、出掛ける」
 
 ふぅん、とオリンダは鼻を鳴らす。
 
「いいんじゃないの。ここにいたってどうせ持て余すだろ。ついでにまたローズ親衛隊に入れてもらいなよ」
 
 ちやすように言ったオリンダに、アイリスはむっとしたように返す。
 
「やだよ。あそこの人達、色々あること無いこと言っちゃったんだもん。勧誘する時に」
「何だよそれ」
「思ってもない調子の良いこと言って勧誘しちゃった……ただ、それだけ」
「へえ。いったいなんて言った?」
「……ホテル・ハイタワーをニューヨークのビッグ・ベンにしましょうって」
 
 オリンダは呆れたように笑った。
 
「そりゃ無理あるわね。しかも、それで当のあんたが辞めたもんだから、気まずいんだ」
「うっさい」
 
 アイリスの悪態を聞き流し、オリンダはトマトソースの缶を手早く開け、鍋に流し込んだ。
 アイリスは昔から人の考えを見抜くのが得意だった。きっと、団体立ち上げの時にその特技を遺憾なく発揮したのだと思う。空回りが過ぎて、かえって居づらくなってしまったのだろうか。
 
「ひとこと謝れば、済む話じゃないか」
 
 そう言ったオリンダの声は恐らく届かなかった。アイリスを一瞥いちべつすると、耳をふさいで机にしていたからだ。

   ⚜⚜⚜ 
 
 出来上がった豆のスープをアイリスが食べる間、オリンダは暖炉の枠に寄りかかって手紙を読んでいた。
 
「お金に困ったら言ってくれ、だって。お優しい伯父様だこと」
 
 オリンダは笑った。
 
「便りのひとつぐらい安いもんじゃない。送ってあげたら?」
 
 おどりしそうなオリンダの様子に、スプーンを持ったアイリスはしやくを止めることなく喋りだす。

「ろーせ今らけらよ」
「食いながら喋るな、何言ってんだかさっぱりだ」 
「どうせ今だけだよ。あのオヤジ、ローズに嫌われて立つ瀬がないんだ。それであたしを通じてローズを監視しようって腹でしょ」
「……じゃ、お金を無心するなら今がチャンスってことじゃない。──あとなぁアイリス。どんな形であれ、世話になった相手を『あのオヤジ』呼ばわりはあんまりだ」
 
 アイリスがにらむので、オリンダは手紙を持った手を下ろし、肩をすくめた。
 
「でも、これはあたしからの苦情でもある。このあいだ家政婦をクビになって以来、ろくに仕事も探そうとしないあんたの無気力さに対してのね」
「家政婦じゃない、家庭教師」
「どっちだって変わんないだろ今無職なんだから」
 
 言われて、アイリスは痛い所を突かれたように唸る。
 オリンダは言葉を続けた。
 
「伯父さんには色々良くしてもらったじゃないか。あたしらの劇場が燃えた後すぐ、引き取って屋敷に置いてくれたろ」
「……そうだけど」
 
 アイリスの実家は劇場だ。
 父のアルフレッド・エンディコット二世が所有する劇場の2階。そこに、母のオリヴィアと、8歳の自分との3人で暮らしていた。
 1891年の冬──劇場が燃えた日の夜の事を、アイリスは今でも覚えている。
 立ち上る黒煙、劇場を蹂躙する炎。何もできずに立ち尽くすアイリスの手を引いて逃げたのが、劇場の雑役をやっていたオリンダだ。
 火元は父親の部屋の倒れたランプ。
 火事で両親を喪い、路頭に迷うか施設へ行くかという所で、アルフレッドの兄、コーネリアス・エンディコット三世がオリンダもろともアイリスの身を預かる事を申し出た。アルフレッドの死を契機にパフォーマー達は散り散りになっていたし、頼れる先はそれしかなかったと言っていい。
 しかし、エンディコット邸での生活も決して楽ではなかった。
 
「あの家での生活は最悪だった。忘れたの?」
 
 アイリスが言うと、オリンダはまさか、と呟く。
 
「忘れるもんか」
 
 エンディコット邸には、7人の姉妹がいた。そこに突然、8人目の姉妹としてアイリスが放り込まれたのだった。
 今にして思えば当然だが、当時の彼女らはアイリスの存在を決して歓迎しなかった。末っ子のローズも既に9歳で、突然縄張りに現れたアイリスはその家で明確な異分子だった。そんな中、ローズだけはアイリスを認めてくれていたのだった。
 アイリスがエンディコット邸を出たのは、それからわずか半年後だ。
 今度こそ施設へ送られるかと思われた所を、ローズのお陰で、そうならずに済んだ。
 老夫婦から格安で手に入れたという郊外の一軒家を伯父に与えられ、オリンダと2人でそこに暮らしている。
 
「そりゃあ」
 
 オリンダはさとすように言った。
 
「あのクソ屋敷はなかなかのもんだったけど。それとこれとは話が別だ。なんのうしだても無く街に追い出されること考えたら、この環境は天国みたいなもんだろ。だいたいアイリス、あんただって本当は施設に入れられるところだったんだ。あんたが里親候補の連中相手にびが売れたとは思えないね」
「……ずいぶん伯父さまの肩を持つのね」
「それにお忘れかしら。あなたのお歳までこんなところでんでいるのを良しとするなんて、普通のお金持ちのお宅じゃあり得ない」
「うっ……」
「あんたと同い年で子供が2人以上の主婦を教室で4人知ってるよ。──ああ、リジーのとこに先月また生まれたから5人か?」

 アイリスは両耳をふさぐ。オリンダは苦笑した。

「都合が悪いとすぐそうするくせ、やめな。面白いけど」

   ⚜⚜⚜
 
 逃げるように自室に戻ったアイリスは、部屋に灯りを入れ、部屋着で寝台にぎようした。花と植物の有機的な模様の壁紙が張られた部屋。かつての住人だった老夫婦の寝室を、今はアイリス一人が使っている。
 家具はベッドと机、本棚とクローゼット。洒脱しやだつな作りのそれらはいずれも最初からこの屋敷にあったものだ。
 アイリスは手に持っていた本を胸の前に置き、両手でひしと抱いた。子供の頃、父親に買い与えられた本。生家の焼け跡から奇跡的に見つかった、数少ない遺物の一つだった。
 今はそこに、従姉妹からの手紙が挟まっている。
 アイリスは思い立ったように身を起こして、寝台の脇にしゃがみ込む。うように姿勢を低くし、寝台の下に両手をもぐり込ませた。
 暗がりから引きずり出されたのは木箱だった。
 小さな子供がそうするように、アイリスは仰々ぎようぎようしく「宝箱」の金具を外し、ゆっくりとふたを持ち上げる。
 劇場の写真や新聞の切り抜き、畳まれた劇場のポスター。焼け焦げた、「アイリス」の名入り刺繍の布切れ。
 いずれもアイリスの生家にまつわる物たち。
 アイリスは手紙を畳んで本に挟み、宝箱に入れた。そのまま蓋を閉じようとし、思いとどまる。
 手紙だけを取り出して、自身の胸に押し当てた。
 ──家族以上に、私の心の中で特別な存在です。
 ローズの手紙の文を思い返し、アイリスは瞑目めいもくする。
 
「あたしにとっても……そうだったんだ」

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