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GASLIT STREET C08 「1888年」


「ごめんください」
 
 ──翌日の朝。
 女の声とともに玄関の叩き金が打たれ、アイリスは玄関に向かった。アイリスはその声の主を知っているような気がして、嫌な予感を覚えた。

「どちら様?」
「私よ。凍えちゃうから早く入れてちょうだい」
 
 微かに苛立ちを込めて促され、仕方なくアイリスは錠を上げて扉をうっすらと開く。
 
「ハーィ。ごきげんよう」
 
 間隙から気取ったショートボブと色の強い化粧の笑顔が見えた。──従姉のリリーだった。
 
「……さよなら」
 
 問答無用でアイリスが閉めようとした扉は、リリーの白い手袋の手に阻止された。
 
「ちょっと、閉めないでよ」
「何の用なの」
「いいから入れてってば」
 
 こじ開けられた隙間からヒールの靴がねじ込まれ、アイリスは観念してドアを開けた。
 
「まったくもう」

   ⚜⚜⚜
 
 リリーは品定めするかのように居間を見渡すと、ふうん、と鼻を鳴らし、悪気も無く呟いた。
 
「ローズから聞いてはいたけど、冗談みたいな家に住んでいるのね」
「……あたしが知ってる冗談みたいな家は」
 
 アイリスはキッチンへ向かう。「8歳の頃に過ごしたああいう家のこと。──お茶淹れる」

「ありがと。あらまあ……コートは上等」
「上着が良ければそれでいいの。下着まで見せ合うような仲の人なんていないんだし」
 
 リリーは外套掛けに自分の白いファー付きのコートを掛けると、勧められてもいないリビングの椅子に座る。

「よく住んでるわ、冬なのにやたら外は鬱蒼としてるし。もう、草の露で服が汚れるかと」
「余計なお世話」
「こんな場所にもう何年? 他所でやり直そうと思えばいくらだってできるでしょうに。知ってる? お父さまはコネチカットにも土地を持ってるのよ」
「へえ……」
 
 アイリスは紅茶を用意しながら、リリーの言葉を聞き流す。

「よほど好きなのね、マンハッタンが。結局、あの屋敷を出てからもつかず離れずにいるんだもの」
 
 もの言いたげに突き出されたリリーの唇には滴るようなワインレッドの紅が差されている。化粧の強さや大きめなアクセサリは最近の流行りだろうが、それを除けばほとんど昔と雰囲気は変わらない。身を竦めて座る様子はどこか不満げである。
 
「あたしがマンハッタンを好きかどうかは別として、マンハッタンを好きなんていう奴と仲良くなる自信はないわ。……それで、いったい何の用?」
 
 リリーの前にカップを置き、アイリスは向かい合うように腰掛ける。「わざわざ訪ねてくるなんて。顔を見るのも10年振りくらいじゃない?」
「あら。そんなことないわ」
 
 言ったリリーの表情に意味ありげな笑みが浮かんだ。
 
「どのくらい前かしら。あなたをマクダックスで見掛けた」
「──そう?」
 
 僅かに声が上ずった。アイリスは首を捻ってみせたが、心当たりは大いにあった。
 
「ええ。レジ打ちのお仕事、辞めちゃったのね」
「……」
 
 アイリスは無言で嘆息した。マンハッタンで仕事していた頃、デパートの開店と同時期の募集で接客に携わった。ある時、売り場でリリーを見かけたことがあった。もっとも遠目であったし、買い物中のリリーはアイリスのことなど目もくれず、見たとしてもとうに忘れているのだと思っていた。
 
「逃げるみたいに売り場からいなくなっちゃって。あなたは昔から変わらないわね」
「……いい思い出のひとつもあれば、話し掛けたのでしょうけど」
 
 そう返すアイリスのしかめっ面に気付いたのか、リリーは伏し目がちに紅茶を一口飲み下し、息を吐く。
 
「顔を見ておきたくて」
「え……あたしの?」
 
 リリーはこくりと頷いた。
 
「パリに行くの。しばらく戻らない」
「長いの?」
「長いっていうか、いつになるのか分からない。ひょっとしたら戻らないかも」
「へぇ」

 アイリスは別段興味もなく頷く。
 
「だから出る前に、あなたに言っておきたかった。……悪かったわ」
 
 リリーの言葉に、アイリスは目を丸くした。意外な言葉を聞いたものだ、と思った。次いで、渋面を作る。
 
「それは何に対する謝罪でしょうか」
「言わせる?」
「分からなきゃ、許しようもないわよ」
「確かにそうだけど。……ほら、一緒に暮らしてた頃。冷たくしちゃったなって、ほんの少し」
「ほんの少し、ね……」

 ふうん、とアイリスは鼻を鳴らす。

「余所へ行く前に、すっきりさせたいってわけ」
「──否定はしないわ」

 リリーは視線を逸らし、控えめに頷いた。アイリスは嘆息する。
 
「色々と言いたいことがあった気がするけど、忘れちゃった。だから今はお望み通りの言葉をあげる。──もう気にしてない」
「……そう」

 リリーは複雑な顔で頷く。
 
「あたしもあの時は……お世辞にも素直で可愛い少女とは言えなかった。迷惑かけたと思う。ほんの少し」
 
 アイリスが肩をすくめると、リリーは小さく笑みを返した。
 
「可愛い少女である必要なんてない。あなたはそれに気付いていただけ。──たぶん、あたしより先に」

 言ったリリーは悔しげに見えた。
 負けを認めるかのようなその姿が、リリーのこれまでの苦渋を現しているように思えた。傍目にはどんなに奔放に見えても、相応の悩みを持って生きてきたのだろう。女に生まれ、理不尽を感じない者はいない。
 当の自分はエンディコット邸を離脱したが、結果手にしたのはこの世捨て人のような生活だ。
 他人からあれこれ言われないのと引き換えに、家族から、社会から隔絶された寂しさを感じないと言えば嘘になる。

「主の庭に咲く百合の花であれ、か」
「……え?」

 ふと聞こえたリリーの小声にアイリスが首を捻ると、リリーは小さく笑った。
 
「なんでもないわ。……ダージリン、おいしい」
 
 紅茶を口に含んだリリーがふっと笑った。
 アイリスはこれまでよりほんの少しだけ親しげに、リリーに笑みを向ける。

「それより、船出はいつ? 花でも贈ろうか」
「見送りには来てくれないのね」
「あたしの見送りなんて嬉しくないでしょ」
「冗談よ。でも花はもっと嬉しくないわ。そうね……贈るならシャンペンにして」
 
 アイリスの笑顔が引きつったのを見て、リリーが両手を挙げて舌を出す。
 
「これも冗談。シャンペンなんて、あっちに着いたらいいのが沢山あるから。毎日のように飲めるし」
「はぁ……何しにいくんだか」
 
 アイリスが呟くと、リリーはいやに真面目な顔で言った。
 
「あまり明るい旅立ちじゃないわ。……上手くいこうとしていたことが上手くいかなくなって。仕方がないものね」
 
 経験からくるものだろうか。リリーの声には熱が籠もっている気がした。

「もしかして、厄介事?」

 アイリスの言葉に、しばしの沈黙の後、リリーはたぶん、と頷いた。
 そう、とアイリスが呟くと、リリーはぽつり、ぽつりと言葉を拾い集めるように語り始めた。

「……婚約者がいたの。名前はエドワード・モンゴメリ。ニューヨークで名の知れた美術商。パリで学生の時にちょっと知り合ったその人と、偶然ボールで再会したの。優しくて、仕事に誇りを持ってる。素敵な人」

 アイリスは頷く。思い出しながらも顔を綻ばせるリリーの様子から、彼がどんな人物なのか想像を巡らせた。

「フランスやイタリアの良家と色んな手蔓を持っていて、口が上手で、確かな目を持ってた。ニューヨークでの評判は上々。お父さまも喜んでた」 
「いい話だものね」
「そう。でも、ある時……色んな顧客から『贋作を取引しているのは本当か』って問い合わせが入るようになったの」

 リリーは声を落とした。贋作、とアイリスが繰り返すと、リリーは大きく首を横に振った。

「もちろん、そんなのでたらめよ。彼がするなんて考えられない。でも、『真贋を証明する書類が偽物だ』とか、『存在しない作品を売っていた』とか悪い噂が立つようになったの」
「それは、いつ」
「去年よ。……お父さまはお怒りになって、私がいくら説得しても、『噂が立つだけでも駄目だ』と言って聞かなかった。婚約は解消されて──それで彼はフランスへ行った。私を置いて」

 アイリスは眉を寄せる。
 つまり、リリーは自分を置いていった元婚約者に会うのだ。 

「彼を……追うのね」
「そう。父には止められたけど、話が本当なのか確かめないと。彼は無実だと言ってた。ニューヨークでは無理でも、あっちでならキャリアを立て直せるはず。……ううん、立て直すわ。私が支える」

 リリーは決然と言う。アイリスは神妙に頷いた。 
  
「……私、もう行く。気が済んだから」

 言って、リリーは立ち上がった。 
 コートを着て、玄関へ向かう前に姿見と対峙し、髪を数回撫でつけ、持ち上げ、あらゆる角度から服の具合を確かめるように一周した。

   ⚜⚜⚜
  
 玄関を出るリリーの背中に、「ねえ」とアイリスの方から声を掛けた。

「何?」
「ありがと。わざわざ来てくれて」
 
 小さく言うアイリスにリリーは振り返って笑った。
 
「電話で話せればよかったんだけど、あなたの家に無いんだもの。かといって手紙に書くのも恥ずかしいじゃない」
「……ごめん。電話、なんとなく苦手で」
 
 わかるわ、とリリーは頷く。
 
「電話って声が老けて聞こえるのよね」
「別にそのせいじゃないけど……」
「それじゃあ、私が言うのも変なのだけど、ローズが無茶しないようお願いね」
「そう言われてもね。どちらかというと、あたしの方が無茶して怒られてるし」

 聞いて、リリーはふっと笑った。
 
「あなたはいいのよ。ローズの代わりにせせこましく動いてるのでしょう?」

 リリーの言葉に、まあね、とアイリスは頷く。

「……思えば昔、何処へ行っても『成り金の娘』なんて言って私達を笑う人がいた。両親はそんなの相手にするだけ無駄だって言ったけど、内心……どうして言い返してくれないんだって、ずっと不満だった。だからあなたが代わりに怒ってくれた時、ちょっと嬉しかった」

 リリーの話は、アイリスには覚えがなかった。
 
「……それ、いつ?」
「ロシアンバレェ。一緒に通ってたじゃない。あなたは不承不承、って感じだったけど」
「……ああ、そういえば屋敷を出てからも何年か通ったっけ」
「両親の言う通り、ああいう手合いに怒ったって何にもならない。我慢して、愛想振り舞いてたほうがよほど賢い。それは分かっていたわ」

 でも、とリリーは続ける。 

「馬鹿なあなたが同年代の子を相手に、顔真っ赤にして怒って。あの時は思慮の無い子って思ってたけど、今にして思えば、私はあれに救われてた」
「──それ、褒めてる?」

 アイリスの苦笑に、リリーも苦笑を返した。
 以前は憎らしかった従姉の訳知り顔が、今は不思議とありがたく思えた。

「ニューヨークに戻ったらまた、紅茶淹れてね」
「……考えとく」
「あなたもいい人、見つかるといいわね」
「それはどうかな……」

 アイリスは顔を伏せて首を振る。

「あたしは……1人で大丈夫よ」
「アイリス」

 リリーはいつかのように人差し指を立てると、アイリスの額に突きつけて言った。

「独りで大丈夫な人なんて、どこにもいないわ」


CHAPTER 8
1888
 


 埠頭からほど近い広場、ホレイショー・スクエアの中央に飾られた巨大なモニュメントの脇にヴィクターは佇んでいた。
 いつからここに立っているのか、いつ手元の煙草に火をつけたのか、ヴィクターは覚えていなかった。
 モニュメントは巨大なプロペラの形をしていた。
 ──否、それは船のプロペラそのものだった。
 1888年、サンディフック岬のその先で、大波に攫われた客船の残骸だ。
 街の喧騒は遠く、ただあの日の悲劇を刻み込むかのようにそのモニュメントは冷たく輝いている。
 船着き場に汽笛が響き渡く。ヴィクターは眉を顰めた。見送りの客に船を降りるよう促す汽笛。
 それは遥か遠くで鳴っているようで、ごく間近に聞こえるようでもあった。
 忘れたはずの経験が、不意に思い出される。忘れてはならないと、絶えず戒めるように。その繰り返しだ。
 船室を後にし、タラップを下りる自分。タグボートが大型客船を外洋に向かい曵いていくのを、埠頭から眺めた時に感じた安堵と不安。
 帰りの酒場で聞こえた、事故の報せ。
 混乱する港。そこに飛び交う怒号、そのひとつは自分自身のものだったかもしれない。行方不明者の欄からいつまでも消えない名前。事故から数日間、人の寄り付かない海岸をひとり彷徨い、流れ着く亡骸の顔を検めて廻った記憶。
 想像力の豊かな連中が「悲劇の客船は犠牲者を乗せ、今も海底を航行している」などと言っているらしい。残念ながら浅瀬までこのプロペラがやってきたということは、波を受けた時に相応の衝撃を受けて大破したはずだ。
 沈没後に水圧で内破した可能性もある。いずれにしろ、無傷のまま海底にあるとはとうてい思えなかった。
 米英合同の公聴会により、事故の原因は突発的な大波だと断定された。構造的な欠陥も、人為的なミスも公的には認められなかった。
 あの事故が、劇的に自分を変えてしまった、とヴィクターは思う。

「──さて」
  
 ヴィクターは懐から出した懐中時計を睨むと、煙草を投げ捨て、靴の裏を押し当てた。
 ──もう、おべっかや物売りで小銭を稼ぐのも、穏便な手を使って相手の降参を待つのも飽きた。

「……宝探しといこうか」

 君と僕、どちらが早く見つけるかな。

    ⚜⚜⚜

 ローズは数人の協会員と共にカールッチ・ビル3階の事務所にいた。
 抗議団から石を受けた協会員も、今日は頭に包帯を巻いてその場に詰めていた。カミーラを含んだ全員がデスクにつき、異様な緊張感があった。部屋に詰めた協会員のひとり、モーリスが明るく呟く。
 
「今朝はホテル前も静かだったみたいですね。あいつらがいないみたいで」

 そうね、と相槌を打つローズの表情は重く、どこか決然としていた。

「マークがまだみたいだけど、いいわ──始めましょう」

 不意にローズは立ち上がり、協会員たちを見渡す。
 カミーラはローズを見上げながら、ローズの次の言葉が「協会の活動を諦める」という意味合いの言葉であることを想像し、身をこわばらせる。
 ローズはひとつ息を吐くと、話し始めた。
 
「──皆さん、私たちが直面している状況は厳しいものです。市民からは耐えず抗議の声が届き、ときに私たちの仲間が傷つきました。ですが、これで終わりにするわけにはいきません。私たちはここで、諦めてはいけないのです」

 ローズは声に力強さを籠めて言った。
 各人の顔を順に見つめ、その決意を伝えるように続けた。

「私たちの活動は、たんにホテル・ハイタワーを保存することではありません。これはニューヨークの歴史と文化を守るための戦いであり、未来を形作るものでもあるのです。過去の失敗や困難に屈するのではなく、新たな気持ちで再び──立ち上がりましょう」

 その場の全員がローズの言葉に大きく頷いた。ローズは一度言葉を切り、深く息を吸って語調に力を籠める。

「今日、この場所で誓います。私はこの街の歴史を守り抜くために、全力を尽くす。これまで以上に団結し、行動を起こしましょう。ニューヨーク市保存協会は再び生まれ変わります。これまで以上に強く、揺るぎない組織として」

 彼女の言葉に、デスクに詰めていた協会員たちの顔に次第に決意の色が戻り始めた。
 ローズは笑みを浮かべて、ぱん、とひとつ手を叩いた。

「さあ、まずはツアーを考えましょう。より良いものにするのです」
 
   ⚜⚜⚜

 アイリスの姿はカールッチ・ビルにあった。協会の事務所を訪れるつもりで来たものの、3階の廊下で逡巡を抱えたままアイリスは立ち尽くしていた。
 ──本当に、ローズはここを畳むつもりなのだろうか。
 ローズの口から聞いたわけではなかった。たんに伯父が言っているだけで、本人にその気はないのかもしれない。
 だがもしそれを直接ローズから聞いた時、自分は平静でいられるだろうか、とアイリスは思う。

(ローズに会う。勇気を出すの)

 このままここにいても答えは得られない。アイリスは思い切って扉へ歩み寄り、ドアノブに手を掛けた。  
 幸いドアを潜ってすぐに、アイリスは答えを得ることができた。
 
「秘密の倉庫の有り様があまりにも雑多すぎやしないか? 改善するならそこだ」「けど、ありのままを見せたいって意見ももっともだよ」

 入口近くのデスクで、協会員たちが活発な議論を交わしていた。アイリスの姿を認めると、いずれの者も気まずそうに笑みを浮かべる。

「あ……どうも」

 アイリスが協会を去る日に、私語を咎めた覚えのある2人だった。そのうちの一人の頭には包帯が巻かれていた。窓から飛び込んだ石を受けた協会員は彼なのだろう。
 ホテルの見取り図らしき絵を囲みながらカミーラ達と話し込んでいたローズが、デスクから立ち上がってアイリスに手を上げた。

「アイリス、よかった。来てくれた」
「……話し合い中かしら」
「ええ。ツアーをより良いものにするためのね」

 言って、ローズは楽しそうに笑っている。アイリスはうっすら口を開けたまま、呆然とローズを見返した。

「どうせだから仕舞ってあるコレクションも並べよう」「正気か? メトロポリタン美術館だって収蔵品を一度に並べたりしないぜ」

 入口の協会員の議論が再開されているのが聞こえた。ローズの言葉の意味を飲み込むまでに時間が掛かり、アイリスはようやく口を開く。

「やっぱりツアー、諦めてなかったんだ。よかった」
「……もしかして、父から何か聞いた?」
「えっと、まぁ」
 
 アイリスは気の無い返事を返す。「そう、色々とあって」
   
「なら父の早とちりね。昨日父に弱音を吐いたのは事実。けど、それは今朝撤回しておいたから」
「そう、だったのね」
「心配かけてしまってごめんなさい」
「……あたしもローズに心配かけた。ごめん」

 ローズはぎこちなく笑顔を返す。「じゃ、お互い様ってことね」
 
 言ったローズの瞳にかつてのような自信と生気が戻っている気がして、アイリスは安堵した。
 そういえば、と声を上げたのはカミーラだった。

「アイリスさんに先日お伝えしたクリスマスパーティーの件なんですけど……会場が使えなくなってしまったんです。協力を申し出てくれた方のご家族の事情が立て込んでしまって」 
「では、中止に」

 アイリスの言葉にカミーラはううんと唸った。

「代わりになりそうな場所を探せればいいのだけど……」
「代わりの場所か……あ」
 
 アイリスの念頭に浮かんだのは、アトラス不動産の標的になっているニューアムステルダム・グレースだった。地域住民に愛され、信仰の要となっている。

「ウエスト・ヴィレッジの教会。結構古い建物だけど、地域社会の要……あそこなら、もしかして」
「アイリスさん、心当たりが?」
「多分。できるかどうかは相談次第だけれど」

 よければ空いた時間にでも行こうと話すと、カミーラは二つ返事で了承した。

「ねぇ、アイリス。あなたからも何か意見は無い?」

 ローズから突然聞かれ、アイリスは虚を突かれたように自分を指差す。

「あたしから?」
「そう。ツアーについて」
「……ああ」

 少しの間考えると、アイリスは現時点で自信を持って言えるただ一つの意見を口にした。

「──強いて言えば、タワー・オブ・テラー。名前のセンスがイマイチね」
 
   ⚜⚜⚜

「なぁ、あんた。何処へ行くんだ」
 
 事務所を出た廊下で、アイリスを呼び止める声があった。包帯の協会員がアイリスを追って来ていたのだった。
 アイリスは振り返って答える。
 
「向かいの店で人を待たせてるの」

 協会員は眉根を寄せた。
 
「ひとつ言わせてくれ。もし……変なメモ書きを受け取っても、もうフラフラ出て行かないでほしい」
「それって、あたしに説教してる?」
「説教じゃなくて心配だ。──ただし、会長がな。あんたはここへ戻ってきて、俺達を助けてくれた。俺をこんなふうにした連中を追い払ってくれた。それには本当に感謝している。ただもう、あんたが危険な目に合うと会長が悲しむ」
「言いたいことは分かるわ。でも、それをあなたに言われるのはどういうこと?」
「あの人に直接言わせたくない。またあんたと揉めるのを見たくないからな」

 そう、とアイリスは嘆息した。

「あたしがそんな人間だと思うんだ」
 
 彼は眉を寄せた。
 
「……俺はあんたが嫌いだ。でも、会長にはあんたが必要だ。だから──気をつけてくれ」
「わかった、気をつける。……あなた名前なんだっけ」
「……ニコラだ」
「ニコラ。あたしも短気を起こしていなくなったことは謝る。悪かったわね」
「その言葉、会長にも伝えようか」

 ニコラの言葉に、アイリスは溜息を吐く。

「それは自分で言うからいい」
 
  ⚜⚜⚜

 マークとマンフレッドは、例によってニューヨーク・デリのテラス席で額を突き合わせていた。
 
「つまり、権利書に名前のあった謎の人物ハモンドの正体は、フィニアス・J・ウィザーズ議員の元秘書」
 
 マークは言いながらマンフレッドのメモを覗き込む。マンフレッドは頷いた。

「ああ。これがウィザーズの意思なのか、ハモンドの独断なのかは分からないが。アトラス不動産との関わりが、ホテル・ハイタワーの土地に関わる不正な取引き絡みであることは間違いないだろう」

 そうか、とマークは溜息を吐く。
 その様子にどこか安堵が滲んでいるような気がして、マンフレッドは小さく笑った。

「僕の記者根性に感謝したか?」
「まあね。いささか心許ないけど、こっちにも武器ができた」

 それより、とマークは切り出す。

「この件が片付いたらどうする気? 忘れたわけじゃないだろ。君のミッションはホテル・ハイタワーを解体させること。仮にこの情報を使って連中を追い払ったら、また振り出しだぞ」
「承知の上だよ。確かに解体は遠ざかるだろうが……この件でニューヨーク市保存協会に貸しを作っておくことは別に無駄じゃない。──と、前向きに考えておくことにする」

 自信無さげに小声で言うマンフレッドに、マークは苦笑した。

「君に借りができたなんて、そんなまともな考えを彼らが持つと思う?」
 
 マークの言にそうだな、とマンフレッドは苦い顔をした。そこへ、不機嫌そうに割って入る声があった。

「──聞き捨てならないわね」

 テラスの柵の前に立ち、子を叱りつける母のような按配でアイリスが2人を睨みつけていた。

「彼らにだって、受けた恩くらい。ちゃんと覚える頭はあります」

   ⚜⚜⚜ 

 今度はアイリスを交えて、マンフレッドがテーブル上の資料から事実関係を整理した。 
  
「これからひとつずつ裏を取っていく。だが概ね全ての出来事の発端は、ホテル・ハイタワーの権利に関係する不正売買……その中心にいたハモンドという人物にあるだろう。そして彼は、ウィザーズ議員の元側近だ」
 
 マンフレッドの言葉に、アイリスは考え込むように目を細める。隣のマークは肩の力を抜いたように伸びをした。
 
「でもこれで、やっとこっちに武器ができたって感じだ。仮に君が危ない目に合ったとして、ハッタリでも不正の証拠を掴んだと言い返せる。だろ?」
「……ええ、確かに」

 頷くアイリスだが、表情には不安が滲んでいた。
 たとえマンフレッドの言が確かだとしても、現状ホテル前に集まっている市民はもはや、ただの市民だ。
 アトラス不動産とフィニアスらの共謀を暴いたとて、抗議集団がこのままホテル前に残る可能性は高い。
 アイリスの物憂げな表情を汲んでか、マークが言い添える。
 
「調査はフレッドに任せて、僕たちは協会としてできることをしよう。少しでも市民のイメージを良くするんだ。それで世論を落ち着かせるしかない」

 マークの提案を、釈然としない顔で聞くアイリス。マンフレッドが首を傾げた。

「……まだ何か、気になることが」
 
 アイリスはいいえ、とかぶりを振る。「ただそれらが、本当にホテルの抱える秘密の全てなのか、と思うと……そうではない気がして」

 マンフレッドの言が確かであれば、全てが暴かれた時、ヴィクターもフィニアスも共に破滅を迎える。
 あの男に──アイリスの両親を死に追いやったあの男に、報いを受けさせることができる。
 

(でも……本当に?)

   ⚜⚜⚜

 カミーラは波止場近くにある車乗り場のベンチに腰掛け、ぼんやりと通りを眺めていた。潮を含んだ風を受け、時折身をすくめてはコートを掻き抱く。

「カミーラ?」

 不意に声を掛けてきたのは若者だった。食材の入った紙袋を抱えてカミーラの方を見ている。見覚えのある顔に、カミーラはあら、と思わず声を上げた。
 
「ミケーレなの? 久し振りね」

 カミーラが返すと、彼は小さく笑った。

「誰かを待ってるみたいだ」
「ええ、協会の仲間。もうすぐ来るわ」

 そう、とミケーレは小さく呟く。黙ったままその場に佇むミケーレに、カミーラは腰掛けたベンチの、自分の隣を示して声を掛けた。

「……座ってもいいわよ。もし急いでないのならね」

 カミーラの申し出に、ミケーレは目を細めて笑った。

「お言葉に甘えて」
 
   ⚜⚜⚜

「まだ協会にいるんだね」
「当然よ、楽しいもの。これからクリスマスの企画の為にヴィレッジへ行くの」

 へぇ、とミケーレは頷きながら、その目には心配の色が浮かんだ。

「……大丈夫かな」
「どういう意味かしら」
「いや。ハロウィンの二の舞になりはしないかと思って。ハロウィンパーティーの後のウォーターフロント・パークはひどい有り様だっただろう。飾りに出してたハイタワー・コレクションが無傷だったのは、はっきり言って奇跡だ」 

 そうね、とカミーラは頷く。

「でも大丈夫よ。ハロウィンのとは違って、今度は人々の生活に根ざした硬派なイベントだから」
「へえ、そう」

 じゃあよかった、とミケーレは笑う。カミーラはどこか釈然としない気持ちでミケーレを見た。

「最近はどうしてる?」
「デランシー・ストリートの寮に住んでる。シアトリカル・レジデンスだ」
「……よくわからないわ」
「狭いけどいい所だよ。天井裏の住人が少しやかましいけど。──僕が入る前から、部屋にリスがいるんだ」

 カミーラは笑った。

「可愛らしい同居人ね」
「こないだ天井に空いた穴から顔を出したリスとばっちり目が合ったよ。『お前は誰だ』とでも言いたげだった。そのうち、人間の方が包囲されそうだ」

 ミケーレは苦笑して肩をすくめる。カミーラはそうなの、と小さく頷いた。
  
「ミケーレ、仲間に入る気はない? 来年もハロウィンはあるかもしれないし、組むならあなたがいいわ」
「……どうかな。僕はしがない俳優志望だ、こないだ出たのもあくまでその一環だった。……金もない、物持ちだって良くはない。役に立てないよ」
 
 そう、と肩を落とすカミーラを見て、慌てたようにミケーレが言い添える。

「でも、君が望むなら」
「無理しないでいいわ。入りたくなったらでいい、声をかけて」
「……うん」 
「それで、俳優志望から見た私のステージでの司会ぶりはどうだった?」

 突然の批評を求められ、ミケーレは目を丸くする。
 
「どうと言われても。実を言うとあまり覚えてない」
「まぁ、ひどい」
「いや、印象が無いわけじゃなくて……すごく、楽しかったんだ。楽しすぎて、よく覚えてない。僕は楽しくて、君も楽しそうで。君って真面目に見えたから」
「真面目に見えるんじゃなくて、真面目なのよ」
「ごめん。いい司会ぶりだったんじゃないかな」
「……それは、良かった」

 カミーラは笑ったが、それがミケーレには少し悲しげに見えた。何に由来する表情なのか、ミケーレには分からなかった。

「……引き止めてごめんなさい」
「いや、いいんだ」

 まるで別れを告げられたかのような気分で、ミケーレは重々しく立ち上がる。後ろ髪を引かれる思いで、ミケーレは振り返る。

「協会での日々を楽しんで。カミーラ」
「ええ。あなたも、頑張って」

 去っていくミケーレの背中を見ながら、カミーラは小さく鼻をすする。──いい司会ぶりだった。真面目な協会員が、仮面を着ければ楽しいパーティーの愉快な進行役。
 自分の仮面の奥にある秘密がその程度のものである、と彼は思ったのだろうか。

「あなた、いい俳優にはなれないわ」
 
 仮面の奥にあるものが、ただの真面目な女に見えたのなら。──私がただの人に見えたようならば。
  
   ⚜⚜⚜

「アイリスさんにクリスマスイベントの会場候補を紹介いただくなんて、思ってもいませんでした」

 ミッドタウン・キャブを足にニューアムステルダム・グレース教会へ赴くあいだ、カミーラが苦笑してアイリスに言った。
 言われて、隣の座席のアイリスも苦笑を返す。

「あまりあてにしないで。今から行くとこは色々と訳アリだから。……あと悪いのだけど、あなたが話を聞く間、あたしは他の人に話を聞くつもり。それでもいい?」

 アイリスの言を聞いて、カミーラは笑った。
 
「ああ、やっぱり。裏がある」
「裏?」
「アイリスさんは裏で何をしているかわかりませんもの」
「……ここだけの話、あたしは地下組織を率いていてね。次の市長選に猫を候補に出す計画を立ててるの。猫の方が人間よりまともな政策を考えるから」
「それは確かに。猫ならきっと勝ちますね。……これは聞いていいことなのか分かりませんけど」

 カミーラはそう断って、アイリスを見た。

「昨日、劇場街で騒ぎがあったのです。高所に女の人が登って、警官が注意していたと」
「ああ……」
 
 頷いたアイリスは視線を逸らし、窓の外に立ち並ぶアパート群に目を向ける。
 
「ひょっとしたら、アイリスさんと関係がありますか」
「どうしてそう思うの?」
「私はただ、カールッチ・ビルの下の階でそういう事があった、という話を聞いただけです。女の人は誰かに追われていたんだ、とか噂に尾ひれも付き始めたみたいで」

 カミーラの問に、アイリスは瞑目して首を振る。カミーラは笑って両手を挙げる。

「……すみません、変なことを聞きました。いくら怖い人に追い詰められたからって、普通はそんな事しませんよね。そんな、おかしなこと」

 余計な想像を働かせました、とカミーラは恥じ入るように言った。どんな想像をしたのか、聞かなくともアイリスにはわかった。おそらくは実際にその通りなのだ。
 アイリスは肯定も否定もできずに、いいの、とだけ呟いた。

  
 教会に着いて車を降りると、「すべての人に開かれた場所」の看板通り、樫の扉が大きく開かれていた。
 扉を潜ると、等間隔に置かれたベンチに信者たちが座り、十人ほどが静かに祈っているのが見えた。前の床にも数人が跪き、祈りを捧げている。アイリスは伏した信者の肩に手を乗せ、聖書を読み聞かせているベネットの姿を見た。
 アイリスらは声を掛けず、後方のベンチの脇に立ってその様子を見ていた。
 アイリスに気づいたベネットは小さく笑むと、聖書を開いて信者に見せ、読んでいた箇所を指で示して寄越した。信者は聖書を受け取り、ページを目で追い始める。
 ベネットは人の良い笑みを浮かべ、アイリスの方へ歩み寄った。

「またお会いできて嬉しいですよ、アイリスさん。こんなに早く再会するとは思いませんでしたがね。……そちらは?」
「こちらは同僚のカミーラです。実は、こちらの教会にお願いがありまして」
 
 紹介されたカミーラが事の次第を伝えるのを、ベネットは何度も頷きながら聞いていた。
 
「なるほど……そういうことなら、いいですよ。実を言うと、毎年似たようなことをやっていたんです。ただ人手は足りないし、悪質なオーナーに目を付けられるしで今年はどうかな、と考えていたところでした。現に、感謝祭の時はそれらしい催しもできず……」
「それはちょうど良かったです!」カミーラは両手を合わせて目を輝かせた。「では是非、ご一緒しましょう!」

 アイリスはその様子を見て小さく笑む。

「では、この件はカミーラが進めますので。……ところでベネットさん、もしよければ信者さんにもお話をお窺いしてもよろしいでしょうか」
「お話って、アトラス不動産のですか? ええ、彼らさえ良ければ。……ああ、そうだ」

 思い当たったようにベネットは手を叩いた。
 アイリスは首を傾げる。

「あなた方が来たら知らせるようにと、頼まれていたんだった。上階に住んでる居候の話を覚えていますか?」
「怪我をされている方の話ですか? ええ。たしか、記憶が曖昧だから、と」

 ベネットは頷いた。

「今朝は体調が良いみたいで、もしあなた方がまた来るようなら是非話したいと言っていて。なんでも昨日、ニューヨーク市保存協会の人が来たんだと伝えたら、彼の中の何かに引っ掛かったみたいなんです。……無理強いはしませんが、起きてるうちに会ってやってもらえませんかね」
「ええ……もちろんです」

 アイリスは頷きながらも、釈然としない気持ちでいた。記憶の無い人間が、名指しでニューヨーク市保存協会と話したがっている。
 ベネットはアイリスと同じ考えを持ったようだった。

「大袈裟な言い方ですがね。ひょっとしたらあなた方とのやりとりが、記憶を取り戻す助けになるのではと思いまして」
  
   ⚜⚜⚜

 階段に足を乗せると、古い木材の軋む音が耳を突いた。上階へ上がると、細長い廊下が続いている。廊下の左手には部屋のドアが並び、右手には陽光の差す窓が並んでいた。
 アイリスは閉ざされたドアが並ぶ壁に、唯一開け放たれたドアを見つけた。アイリスは閉じたドアを左手に見送りながら、開いたドアへ誘われるように歩みを進める。
 ──アイリスは部屋を覗き込んだ。
 ベッドの上にいる男の姿が目に入った。頭に包帯を巻いた彼は身を起こし、手元の本に視線を落としながら、深く何かを考え込んでいるようだった。
 部屋の中は薄暗く、曇った窓ガラスから漏れ込む淡い光が男の輪郭を照らしていた。
 アイリスは声を掛けるべきか躊躇しながら、そっと一歩踏み出す。
 男が驚いたように顔を上げ、アイリスの方を見た。
 目鼻立ちを間近で見たアイリスは、思わず身を竦める。
 
「リチャード……」

 ──リチャード・H・ウィッテンバーグ。
 そう声に出そうとしたが、その先は声にならなかった。図書館のアーカイブで目にした写真と同じ、整った細面の顔。彼は視線をアイリスに向けたまま目を見開いていた。
 2人は沈黙する。風が木製の窓枠を軋ませる音だけが部屋に響いた。
 ……やはり生きていたのだ、とアイリスは思った。
  
「いきなり名前で呼ぶのか」
 顔色も変えずに、彼は口を開いた。「君は僕の奥さんか何か?」 
「……は?」

 リチャードの言にアイリスは困惑した。言葉の意味をアイリスが理解する前に、リチャードは首を振って息を吐く。
 
「違うなら違うと言ってくれ。聞いているかも知れないが、僕は今ちょっと記憶が曖昧なんだ」
 
 言って、視線を本に戻す。
 
「いきなり女性が目の前に現れて、意味ありげに自分の名前を呼ぶものだからそうなのかと。──忘れて」

 アイリスは苦笑する。今の自分の呟きがそんな響きを持っていた自覚は無かった。アイリスはとりあえず頷くことにする。

「いきなり名前を呼んじゃってごめんなさい」
「……君は、僕を知っているんだな」
「知っている、と言っていいのか分からないけど……あることを調べているうちに、あなたの名前を図書館の記事で見付けたの。──あたしはアイリス」

 アイリスは歩み寄って名刺を差し出した。リチャードは染みと皺だらけの本を脇のテーブルに避け、名刺を受け取る。
 避けた本には「意志としての世界」とタイトルが書かれていた。

「……そんな本読んでたら、治る怪我も治らなそうよ」
「ああ──これ」アイリスの言葉にリチャードは相槌を打つ。「部屋の本棚にあった。他にも教訓めいた童話だの、心理学の入門書があったな。……一通り読んでしまって、最後にこれが残った」

 言って、彼は息を吐く。
 名刺に目を落としたリチャードは、「ニューヨーク市保存協会……」と呟いて眉間に皺を寄せた。曇った窓から差し込む光のせいか、その顔はひどく陰って見える。

「そう、ニューヨーク市保存協会。何か覚えてる? 思い出せることは」 
「……少なくとも、君のことは知らないな。元々知り合いだったものが思い出せなくなっているのか、本当に知らない人間なのか。今の僕には、両者の区別がつかないが」
「あなたと会うのは……これが初めてのはず」
「なら、よかった。忘れてるわけじゃないのか」

 リチャードはアイリスを見た。

「ニューヨーク市保存協会、……の方は、聞いたことがある」
「──本当に?」
 
 アイリスは期待を込めて訊ねる。

「じゃあ、ベアトリス・ローズ・エンディコットはどう? あと、そう……ニューヨーク市建築物保護法、それから──」
「待ってくれ。……すまない」

 リチャードが渋面で首を横に振り、アイリスは我に返ったように口を噤んだ。

「ごめんなさい。あたし、つい興奮して」
「そうじゃない。僕の問題だ」

 リチャードの言葉に、アイリスは首を捻った。
 
「君はきっと、僕の記憶を取り戻す手助けをしてくれるつもりでいるんだろう。何か調べていて、その過程で僕を見付けたのかもしれない。……ただ、こう言うと変に聞こえるかも知れないが、僕は今こういう状態になって──ほっとしているんだ」
「ほっとしてる──?」
 
 そう、とリチャードは頷いた。
 
「何か……ひどく後悔の残ることをしていた。それが何なのか思い出せない。自分という存在が、白紙に戻った。そんな気がする」
「それで、このまま思い出さない方がいいと?」
 
 そうだ、とリチャードは頷く。
 
「悪いな。推測では、君の調べ物には僕の記憶が頼りだと見たが」

 リチャードに訊かれて、アイリスは口を閉ざす。
 じっさいのところ、そうなのかもしれない。今すぐにこの場でリチャードの職業、直前まで関わっていたことや、危険な目に合った理由と思しき事柄について伝えることで、リチャードの記憶が戻るのならばそうすべきだと思う。けれども、「記憶を失ってほっとしている」と率直に言われた今、それを伝えることに意味が見出せなかった。
 アイリスは笑顔をつくり、いいの、と一言呟いた。
 
「今のままで幸せなら……無理に思い出すことない。あなたにそんな義務はないし、あたしに強要する権利もない」

 言いながら、アイリスは自分の言に驚きもしていた。協会を取り巻く窮状を打開する術を目の前の男が握っているかもしれない。となれば、義務はなくとも、権利はなくとも、必要な情報を引き出さなければならないと思うし、今までの自分ならそうしてきた。
 にもかかわらずアイリスは今、自分がそうする気にはなれなかった。(なんで)
 アイリスは思考を振り払うように、小さく首を振る。
 
「でも記憶を取り戻したくなった時は、いつでも力になるから」

 自分の内にある何かを押し殺すように言ったアイリスを、リチャードは不思議そうに見返していた。
 
「今のままで、幸せなの?」 
「……そういうことだ」
「でもニューヨーク市保存協会と聞いて、あなたは何かに引っ掛かっていたんでしょう? ベネットさんから聞いたわ。それってきっと、あなたの中に記憶を取り戻したいという気持ちも少しはあるんだって、あたしは思うの」
「……なるほど」

 リチャードは頷いた。

「否定はしないでおくよ」

 じゃあ、とアイリスは背を向けた。

「あとでなにか、役立ちそうなファイルを持ってくる。その気になったらでいいから、目を通して。……ウィッテンバーグさん」

 ことさらにそう言ったのは、また名前で呼ぶことに気後れを覚えたからだった。リチャードは心得たように頷いた。
 
「その気になったらな。それと──リチャードでいい」

 リチャードは言って、ベッドに手を着いた。「下まで送る」
 
「いいわ、無理しないで」

 アイリスは制止するが、立ち上がろうとしたリチャードはその場で体勢を崩し、たたらを踏むようにしてベッドの柵に縋った。

「リチャード。駄目だってば」
「……目眩がしただけだ」

 アイリスがリチャードに駆け寄り、腕を支えてベッドに座らせる。リチャードは顔を歪め、大きく息を吐くとわずかに笑んだ。

「朝から動き回って、肝心な時にこれだ」
「──お医者さんは何て?」
「よく休め、と言っていたよ。医者といっても歯医者らしいんだけど」
「じゃあ休むことね。……読む本もしばらくは童話にしたら?」

 アイリスの軽口にリチャードは「悪くない」と苦笑した。

「どうも、親切な人。もしも体力が戻ったら一緒に食事でもどうかな」

 リチャードはアイリスをひたと見た。アイリスはリチャードを見返す。

「──なぜ?」
 
 アイリスの問いにリチャードは苦笑する。
 
「なぜ、ときたか。それは食事に誘われたアメリカ人女性がする質問じゃないな。──分かった、答えはいい」 

 アイリスはややの間考えた後、じゃあ、とリチャードに答えた。
 
「あなたの記憶が戻った後に決めさせてくれる?」
「……調べ物への協力が条件ってことか。あまり悠長にしていられないな」
「そうじゃない。一見して世捨て人のようなあなたに恋人や奥さんがいたら、あたしが恨まれちゃうから。できればその辺、ちゃんと思い出してからにして」

 まるでそのことに思い至らなかったのか、リチャードはああ、と膝を叩いた。

「たしかに」
「……たしかに、じゃないわよ」

 アイリスは溜息と共に言い捨てて、立ち上がる。

「その気になってくれたのは良かった。……とにかく、また来るから」

 そそくさと戸口へ向かう背中越しに掛けられた「待ってる」の声に、アイリスは一瞬足を止めかけたが、振り返らずに部屋を出た。
(これ以上ここにいると、いけない)
 足元がふわりと浮くような感覚を抑え込み、焦燥と共に廊下を歩く。自分が何のために此処に来て、何のためにあの男に聞き取りしていたのかが分からなくなりそうだった。

   ⚜⚜⚜

「何かいいお話は聞けましたか」
 
 帰り道、教会の身廊を歩きながらカミーラが何事かを訊ね、アイリスは首を傾ける。
 
「──え?」
「もう。私をほうって信者の人達に聞き込みをすると言っていたの、アイリスさんじゃない」
 
 ああ、とアイリスは気のない返事を返す。
 
「まぁ──ぼちぼちかな」
 
 言葉を濁すアイリスに、カミーラは拗ねたように口をすぼめた。
 
「いいですよ、はぐらかしても。どうせ私は、蚊帳の外です」
 
 早足で身廊を抜け、カミーラはドアの前でくるりと振り返った。「……私だって危ない所に登っちゃうんだから」
 アイリスは息を吐いて苦笑する。
 
「だから、あたしはワイヤーなんかに登ったりしないって」
「私はワイヤーなんて言葉、一言も言ってませんわ。……引っ掛かりましたね」
「あっ」
 
 アイリスは口を押さえ、眉を寄せた。カミーラは得意げに笑みを浮かべている。
 
「こんの……小娘」
「痛い」
 
 アイリスに膝を足で突かれ、カミーラは逃げるように教会を出た。

   ⚜⚜⚜

 事務所に協会員を2人残し、ホテル・ハイタワーへ向かったのはローズとモーリスだった。会議で決まったおおよその事項が現地で行えるかどうか、見ておく必要があった。

「慎重に行きましょう」
 
 徒歩で向かう道すがら、モーリスは言う。

「朝のホテルには抗議団はいませんでした。とはいえ、今いないとも限りません。少しでも何かおかしいと思ったらすぐに引き返しましょう」

 低い語調のモーリスに、ええ、とローズは頷いた。
 実際のところ、いくらローズ達がツアーを行おうと市民たちをどう納得させるかという問題は依然つきまとう。
 抗議団と鉢合わせた時に、彼らを説得する材料をローズは何一つ持っていなかった。
 幸い、ホテルに着いて、モーリスの言葉通りに何も変わった様子は見られなかった。

「……杞憂だったみたいね」

 ローズの言葉にですね、とモーリスは胸を撫で下ろすように言う。

「一応、庭園を回ってホテルに入りましょう。万が一があるといけません、バックヤードを通ります」
「ええ。そうしましょう」

 モーリスの申し出を断る理由は無かった。ローズは横目でホテルの正面を見ながら、中庭へ続く門の錠を外した。バックヤードへの扉は瞑想の庭園と呼ばれる無数の彫像の庭を抜けた先、インドの庭園の中だ。
 彫像のひとつ、インド神話の女神ターラー像を超え、2つの石柱に挟まれた入口を抜けてインドの庭園に入る。
 この時、ローズは石柱の裏から伸びる男の腕にも、着いてきているはずのモーリスが3歩後ろで立ち止まって含み笑いを浮かべていることにも気付いていなかった。
 厚みのある手がローズの顔を覆い、首元にも何者かの手が掛かる。突然気が遠くなり、ローズの視界は闇に覆われた。

   ⚜⚜⚜

 誰かに呼ばれた気がして、ローズは目を開けた。
 モーリスと共に庭園に入り、そこで何か、黒いものに覆いかぶさられた記憶だけがあった。
 ──首が酷く痛んだ。
 視野の何処にも光が見えない。この空間が何なのか分からなかった。急に我に返り、血の気が引く。

(ここは──)

 周囲の冷気にも関わらず、どっと汗が吹き出した。
 身じろぎをしたが、体の自由が利かない。
 硬く冷たい石の床に座らされているのか、半身は凍えるように冷たかった。
 体を揺すってみて、どうやら両手の縄が鋼鉄の梯子に括られていることが分かった。
 ──ぴちゃん。
 かすかに水の滴りと揺らぎの音がした。
 カビの臭いを感じて、自分が今いる場所とよく似た光景を思い出す。

(地下水路……?)

 ホテル・ハイタワーにある地下空間。ハイタワー三世が自分の集めたコレクションを隠した秘密の倉庫の、更に下。
 ニューヨーク港に直通する地下水路は、ハイタワー三世が税関の目を盗んで物品を邸宅に運び込む為に作られた。使われていた当時、倉庫に収まりきらず水路に放置された物品も多くあったが、現在その多くは満潮時の水没の為に原型を留めていない。
 そこまで考えて、ローズはあることに思い至った。

(水没──)

 悲鳴のような声が出たが、猿轡に阻まれてくぐもった雑音になった。
 投げ出されていた下半身を動かし、膝をゆっくりと持ち上げる。白いドレスは水に濡れ、不快な重さを持って皮膚に張り付いた。
 ──半身の凍えは、石の床の為だけではなかった。
 ローズは渾身の力でもがいた。
 余計に掛かった負荷で縛めが腕に食い込み、苦痛のために視界が涙で滲んだ。
 ──ぴちゃん。ぴちゃん。
 無音の孤独と不快な湿気の中で、ローズを嘲笑うかのように水の滴る音だけが響いていた。

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