GASLIT STREET C05 「過去が背を焼く」
かつて、人が川を越えるには船を必要とした。
川沿いに多くの倉庫街や船置場があるのはそのためだ。陸地どうしを結ぶ巨大な橋が掛かり、その上を車や列車が往来するようになって、水上交通の重要性が薄れていくとともに、使われなくなった倉庫も数を増していった。
そのいくつかはウォーターフロントの住民たちの機転や工夫によって、レストランやショップに改装され、役割を変えて人々の生活に根付いている。
一方で、人目を避けるようにしてひっそりと佇む倉庫群の中には、ただの無害な抜け殻のようでいて、腹に暗いものを抱えた人々の集まる巣窟があった。ハドソン川沿いにある、凡庸な名を冠したこのレンガ倉庫もまた、そうした場所の一つである。
木箱の山積する倉庫の一角に、鉄骨とカーテンで仕切られたスペースがあった。
昼であるにもかかわらず薄暗い倉庫内で、その場所の明かりだけが朧げに灯っている。
「昨日邪魔してきたって女が、まだ何か探ってるって?」
デスクに腰かけたヴィクターが脇に控えた大男に問う。
「ああ。あの場にいた奴に聞き込みしている姿を、仲間が目撃してる」
問われた男──ブラッドが直立したまま答えた。ブラッドの背後には、さらに数人の屈強な男が控えている。
「どこの誰だろうねぇ」
呟いて、ヴィクターは懐から煙草とマッチを取り出した。
「そういえば君、そいつから名前聞いたって言ってなかった?」
「……名前?」
「アラ、覚えてないの。……まあいいよ、知ってそうなアテはあるしね」
ブラッドは首を傾げ、後ろを振り返った。ブラッドと目が合ったのは、腕に入れ墨のある男だった。
男は口を開く。
「──パメラ・アイリス・エンディコット」
火のついたマッチを持ったヴィクターの手が止まった。
「──へぇ。ほんとに」
「確か……そんな名前でした」
入れ墨の男は深く頷いた。ヴィクターは視点を虚空に向けたまま、深く考え込む。
ブラッドは眉間に皺を寄せた。
「知り合いか?」
「どうだろうねえ。誰だったか……」
ヴィクターは意味ありげに笑みを浮かべながら煙草に火を点けて、立ち上がった。
手下を見やり、溜息と共に煙を吐く。
「そいつぁほっとこう。ツアーの方も、今まで通りでいい。なるべく市民を焚きつけろ」
「……大丈夫なのか」
ブラッドが返すと、ヴィクターはあしらうように手をひらひらと振った。
「ウチは他にも地所を抱えてるだろ? そっちをおろそかにする訳にもいかないしね」
言って、ヴィクターはブラッドの肩越しに手下たちを見やった。
「君たちも、たまにはやればできるってとこ見せてよ」
「は……はい」
「行ってらっしゃい」
ヴィクターの言葉に頷き、立ち去る手下たち。
一人になった倉庫の隅でヴィクターは、久しく聞いていなかったその女の名を口にする。
「アイリス……なるほど。まさに一族総出ってわけだ」
口元に浮かぶ笑みは冷酷で、どこか楽しげなものだった。
CHAPTER 5
BACK BURNS
その男にアイリスは見覚えがあった。高い鼻に細い眉の、気真面目そうな男だった。
彼はアイリスの姿を認めると、客席のテーブルに散乱した書類を纏めて立ち上がった。
「初めまして。私はニューヨーク・グローブ通信の記者、マンフレッド・ストラングです」
マークがアイリスを示しながら、マンフレッドを見た。
「こちらはアイリス。ローズの親戚の」
アイリスはマンフレッドに笑顔を返す。
「パメラ・アイリス・エンディコットです。先日はどうも」
軽い会釈を受け、マンフレッドは目を見開いた。
「……そうか、あの時の」
知り合いかい、とマークは交互に2人を見た。ああ、とマンフレッドは頷く。
「カールッチ・ビルの前で抗議集団の男と揉めていましたね」
「ええ。そこへ、あなたが助けに入ってくれた」
「もっとも、その必要はなかったようですが」
マンフレッドが済まなそうに言う。
「とんでもない。心強かったですよ、とても」
やんわりとアイリスは笑んでみせた。
「そう言ってもらえてよかった」
マンフレッドは気恥ずかしそうに頭を掻いた。──彼女にどことなく雰囲気が似ている、と思った。
アイリスとマークは適当に珈琲を注文すると、マンフレッドに促されて客席に着く。
「わざわざお呼び立てしてすみません。友人のマークから貴女の事を聞きました。本来は私の方から行くのが筋でしょうが、あの事務所へ私が行くと、どうも皆様の気分を害するようで」
マンフレッドの含みのある言に、
「彼の新聞社は、ニューヨーク市保存協会に批判的なんだよ」
と、マークが補足した。
アイリスは感慨を見せず、ただ頷く。そして、おもむろに取り出したシガレットケースから煙草を取り出した。
「……それで、オカルト記事を掲載する大衆紙の記者さんがあたしに何の用でしょうか」
笑みを消したアイリスから出たのは、棘のある言葉だった。
マンフレッドは目を見張る。マークもきょとんとしていた。
「まさか、読者だったの?」
シガレットホルダーに煙草を挟むと、アイリスはマッチでそれに火を着ける。
「調べ物をしていたら目に入っただけです。呪いなんて言ういい加減な結論で結んだ、短慮としか言えない記事がね」
言うアイリスは不服そうな表情で煙草を吸い、首のおくれ毛をくるくると指に巻き付けていた。
その姿に先程「心強かった」と笑みを浮かべた女性の面影はない。
マンフレッドの記憶に強く残った、警官を突き飛ばした時のアイリスだった。
「僕は、その」
マンフレッドは動揺を悟られまいと努めたが、とうてい成功したとは言い難かった。
「ホテルのツアーに反対の立場をとっている人間だが、同時にローズの知人で。昨今の騒動に、心を痛めているんだ」
何とか意味のある言葉を紡ぐマンフレッドに、マークは苦笑した。
「要するに君と同じ。ローズのファンだよ」
言われて、アイリスは品定めをするようにマンフレッドを見た。
「大衆新聞の記者と一緒にしないでください。それも、恥ずかしげもなく1日中客席を占領しているような人と」
はあ、とマンフレッドは目を丸くする。
「なぜ、それを?」
「新聞の予報通りに午後から雨です。傘も持たずここにいて、濡れた様子も無いようですから、朝からここにいたのでしょう」
「だとしても、そのように言い切るのは……」
失礼ではないか、という言葉をマンフレッドは飲み込んだ。
呼びつけたのは当のマンフレッドであり、目の前の女性は曲がりなりにもそれに応じたのだ。
「──それはさておき」
口を開いたのはマークだった。2人はマークを見る。
「ローズを思う嫌われ者が3人。仲良くやれそうだね」
⚜⚜⚜
「それで、手伝うというのは具体的にどういう手伝いをしてくださるの?」
アイリスは疑わしげにマンフレッドを見る。
「私は記者です。担当は調査報道、ことにハリソン・ハイタワー三世についての記事は全て私が手掛けています。先程あなたがおっしゃった、その」
マンフレッドは逡巡した後、「オカルト記事も含めて」と言って額を掻いた。
つまり、とマークが言い添える。
「ホテル・ハイタワーについては、彼以上に詳しい記者はいないんだよ。この世に」
「そうです。もし貴女が望むならば、惜しまず情報を提供したい」
アイリスはマンフレッドの言葉を聞き終えると、カップの珈琲を一口飲み下してから、息を吐いた。
「議員が消えた事件については、どのくらいご存じなんですか」
アイリスに言われ、マンフレッドは聞き返す。
「議員って……ウィッテンバーグ議員のことですか」
「あなたが書いたのでしょう、リチャード・H・ウィッテンバーグ氏が失踪した事件の記事は」
事件、と繰り返し強調するアイリス。マンフレッドは何事かを予感した。
「であれば、記事にあったことが私の知る全てです。ですが、貴女は彼の失踪と抗議集団に何らかの関連性を見ているのですか」
「そのつもりで言いましたけど、そう聞こえませんでしたか」
「な、なるほど……」
ですが、とアイリスは気落ちしたように言う。
「何も知らないのであれば、仕方がありませんね──」
マンフレッドは頭を掻く。
「他に、何か気になる事は」
「気になることといえば、そう」
思い当たったようにアイリスが言う。
「ホテル・ハイタワーの以前の所有者について、何かご存じではないでしょうか。ホテル・ハイタワーは今、ニューヨーク市保存協会の管理下にあります。それ以前は、直近だとエンディコット三世の持ち物だったはずです」
マンフレッドは頷く。
「彼がいったいどうやってホテル・ハイタワー跡を買い取ったのか、ご存じではないですか?」
マンフレッドは首を捻る。そこへマークが口を挟んだ。
「それについては、僕やローズの方が詳しいよ」
ああ、とマンフレッドが頷く。
「君は不動産畑の人間だったな」
「うん。厳密にいうと、あの土地がエンディコット三世の持ち物だったことは一度も無い。彼は当時、ほんの小さな不動産会社を隠れ蓑にして、乱立していた権利書を買い漁っていた。どの権利書が本物か分からない状態でまさに裁判で争われていたんだけど、そんな時にエンディコットの名前を出したら揃って値段を吊り上げられちゃうだろ」
「たしかに」
マンフレッドが相槌を打つ。アイリスも無言で頷いた。
「だからエンディコット三世は隠れ蓑を使って、本物だろうが偽物だろうが買い叩いたんだ。何を隠そう、ローズの提案でね」
「ローズの?」
アイリスは声を上げた。
複雑そうな顔でマークは頷く。
「もちろん、エンディコット・グランドホテルの為じゃない。彼女はホテル・ハイタワーをそのままホテルとして再開させる気でいた。父親に騙されたんだよ。彼はその計画に乗った振りをして、『買収はうまくいかなかった』と嘯き、ローズが他の仕事に忙殺されている間にホテルを取り壊す算段を立てた」
アイリスは神妙な顔で頷いた。
それ以後はアイリスも知っていた。
騙されたことを知ったローズは怒り、悲しみ、決意する。父親の魔の手から、ホテル・ハイタワーを守るのだと。
「これがすべての経緯なのだけど、アイリス。何か気になることが?」
マークはアイリスを見た。
アイリスはひとつだけ、と呟く。
「エンディコット三世が、いったい誰から土地を買収したのか、ということ」
「うん。そういうことなら、登記を見た方が早いんじゃないかな。権利や譲渡に関する情報が、過去のものも含めて確認できるはずだよ」
ただ、とマークはアイリスを見る。
「ニューヨーク市の慣行によれば、それを見るには身分証が必要だね」
「ああ……」
聞いて、アイリスは先程貰った名刺を取り出す。ニューヨーク市保存協会・共同創設者、である。
「これじゃダメかな」
「うーん。公認とはいえ、この協会はまだまだ無名だし、これだと、『アイリス・エンディコット、無職』と大差ないよ」
「ひどい。いちおう、今のホテルの管理組織なのに」
「あのね……大事なのは、それがニューヨーク市にとって信頼できる身分証なのかってこと」
2人のやりとりを聞いていたマンフレッドが、大きく咳ばらいをした。
「僕は無職じゃないぞ。社員証だってある」
任せてくれ、と言うマンフレッドの言葉に、アイリスはしぶしぶ頷く。
マークはくつくつと楽しそうに笑った。
「君の記者根性が感謝されるなんて機会は、これが最初で最後かもね」
⚜⚜⚜
事務所に戻ると、ローズが独り、疲れた顔でデスクについていた。
「ローズ。いたのね」
アイリスはそう声を掛けて、露を払い、外套と帽子を脱ぐ。
日は落ちかけ、部屋は暗かった。
「ごめんアイリス。ひょっとして探させた?」
「ううん。でも、何処へ行っていたの」
「……父のところ」
え、と思わず息を呑んだ。
今のローズが父親と直接話すことに、どれほどの覚悟が必要だっただろう、とアイリスは想像したからだ。
「何か話は聞けた?」
アイリスの問いに、ローズは深く息を吐いた。
「抗議の話は、父の耳にも入っていたわ。それで、市警の委員長に相談していたらしいの」
「では、彼らとは無関係なのね」
ローズは頷いた。
「でも、市警は彼らをただの市民と見てる。対応は期待できそうにないわ」
「そう……」
「もう辞めろ、手を引け、とも言われたわ。今私がやっている活動は、社会貢献でも何でもない、自己の問題に対する逃避なんだって」
アイリスは黙って聞いていた。それは自分自身に対する言葉にも聞こえたからだった。
「私はそんな風には思わない。これは逃避じゃなくて選択よ。それも、正しい選択……」
語調に悔しさを露わにしたローズが、目に涙を溜めながら、しかし決然と立ち上がる。
「私は絶対に守り通したい。ホテルも、この協会も」
アイリスはローズに歩み寄った。そしてローズの手を取り、固く握る。
「……そうね」
「裏切ったのは父の方。私は、間違ってない。そうよね? アイリス」
聞こえた声は、掠れていたが、力強い。
「──うん」
アイリスは思う。
父親と彼女は結局のところ──よく似ている。
⚜⚜⚜
戸が開く音がして、オリンダは玄関を振り返った。
アイリスが帰って来たのだった。彼女は外套を掛けると、居間のテーブルにぐったりと座り込む。暖炉の前のカウチに座っていたオリンダはアイリスに声を掛けた。
「おかえり。……どうした?」
「いろんな人と話しすぎて、疲れた」
「暗い女の悲しい性だね。……暖炉に寄りな。暖かいよ」
オリンダの言葉に、アイリスは眉をひそめる。
「いい。あたしが火を苦手なの、知ってるでしょ」
「よく言うよ。煙草は平気なくせに」
風邪ひくよ、との言葉にしぶしぶアイリスは立ち上がり、オリンダの横にすとんと腰を落とした。炉の火がぱちぱちと音を立てていた。アイリスはぼんやりと火を見つめる。
火の温度を体で感じながらも、同時に心中では冷たいものを感じていた。それは底冷えするような恐怖と、悲しみ。
「火はあたしからみんな奪っていった。家も、家族も。手元に残った、宝物でさえも」
「知ってる」
「こうして見える明かりも、音も落ち着かない」
「だろうね」
「いつか、また奪いに来るんじゃないかって思う」
「……何が」
オリンダは僅かに眉を顰めた。
「過去の炎が。あたしを追い掛けて、追い詰めて、あたしの大事なものを──さらっていく」
見慣れた炉の火にさえ怯えてしまうのは。
火種が何であれ、幼いあの日に見たものと本質的に何の違いもありはしない、同じ火だからだ。
「アイリス」
オリンダはアイリスの頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でた。
「目を閉じて」
オリンダの肩にもたれ、アイリスは目を閉じた。
「夜空に光る星を見たことがありますか? パメラ・スターレイさん」
「……ありますけど」
「うちの格闘教室にくる御婦人が、天文学者の講演で聞いたらしいんだ。星の光ってのはね、何年も昔の光なんだって」
そう、とアイリスが頷く。オリンダは続けた。
「何年も前の光が、今あたしらの目に映ってる。一見、過去の出来事が今も残っているように見えて、実はその星自体がもう消えちまってることだってある」
「……うん」
「けどね、その光が今見えるのは、未来に向けて星が燃え続けていたからなんだ。アイリス。未来に向かって生きているんだよ。過去をどんなに気にかけてたって、未来で輝くために今を生きることはできる」
大丈夫、とオリンダはなだめるように言う。アイリスはオリンダの言葉に聞き入っていた。
「何を感じる? アイリス」
目を閉じたアイリスに、オリンダは訊ねた。
「……暖かさ。あと目蓋の向こうにある、明かり」
「それは未来の光だ。そう思っておきゃあいい」
オリンダはアイリスに語りかけた。
「大丈夫か?」
うん、と頷き、アイリスは甘えるようにオリンダの膝に頭を乗せた。
「あたし……半年間も何やってたんだろ」
暖炉の火を見つめながら、ふとアイリスがオリンダに言った。
「なんて?」
「あたしが無気力に暮らしている間に、ローズは必死で頑張ってた。エレベーターが止まってツアーが休止になった時も、ホテルでおかしな現象が起きて大勢のメンバーが協会を去った時も、あたしはそこにいなかった」
「ローズがそう言った?」
オリンダの膝枕の上で、アイリスは頷いた。
「ローズはそれを責めたか?」
アイリスは浮かない顔で首を振る。それは問題ではないようだった。オリンダは含みのある表情で、そう、と頷く。
「あんた、後悔してるんだ。協会を去ったこと」
「……そうかもしれない」
アイリスは思う。
あの時に自分が協会を去らなかったら、今どうなっていたのだろうと。アイリスが去って程なくして、協会は公認を得た。
精力的に活動し、ツアーを企画する。
ローズ一人で見事に成し遂げたことを嬉しく思う反面、ローズが遠い存在に感じられて恐ろしくもなった。
「あたし、ローズの力になってると思ってた。けどいつからか……協会の皆が自分らしくいられる場所を邪魔してしまっていたの。ニューヨーク市保存協会が公認を得たのは、あたしがいなくなってからだし」
「……アイリス、あんたがいなくなってすぐにあの集団が大躍進したなんて本気で思ってるのか? ローズたちの団体が認められたのは、それまであんたの助けがあったからじゃないのか」
アイリスは自嘲気味に笑った。
「あたしはそんなに凄い人間じゃない。でも、ローズがあたしにそれを望んでる。あたしはローズが望む自分になりたくて、そういう人間なんだって思い込みたくて……時に、焦ってしまうのよ」
「そんなの、単純だろ」
アイリスは首を傾けて、オリンダを仰ぎ見た。
「単純って?」
「そうだよ。ローズが望むあんたになり続けるなんて、単純なことさ」
「ローズが望むあたしって?」
オリンダはアイリスに笑い掛ける。
「──パメラ・アイリス・エンディコット。ただ、それだけだ」
聞いていたアイリスは、ふっと小さく笑った。
「分かんないって」
言いながら僅かに鼻を啜るアイリスの頬に、オリンダはキスをする。
「──アイリスらしくいればいいってことさ」
オリンダの知る限りで笑うのが下手だったアイリスの、こうした時に見せる屈託の無い笑顔が好きだった。
彼女が19の頃に上がった舞台での演技を見た時、驚いたことを覚えている。それまでオーディションのときでさえ上手な笑顔を作れなかったアイリスが名のある劇場で、大勢の前でパフォーマンスを見せた。
ワイヤーの上で見せたアクロバット。それはよくある綱渡りなどではなく、綱の上で走る、踊る、回ることを何の恐れもなくやってのけた。
また、ひとたび舞台に下りればくるりくるりと縦横に回り、跳び、ジャグリングの腕も並のものではなかった。
観客全員が彼女の虜になった、とオリンダは感じた。アイリスは自分を見ていたのはせいぜい観客の半分程度だと言って聞かなかったが。
あれを最後に、アイリスは大きな舞台には立たなかった。どうもプロデューサーの指示に背いて、予定のない大技を披露していたらしかった。
その後はサルーンや小劇場を転々とし、ささやかな見世物をするようになった。パフォーマンスで給料を得ることを諦め、飲み屋で籠を持ってチップを集める日々も長くは続かなかった。いつの頃からか、そういう事も無くなった。
──あたしは舞台に立ちたいんじゃない。あたしが生まれた、あのヴォードヴィル劇場の舞台に立ちたかったの──家族に囲まれて。
そう語るアイリスに舞台への未練は無く、家族を偲ぶ孤独ばかりが蟠っていた。
どこまでも過去に憩うアイリスを、オリンダは責めることができなかった。自分の娘ならば「もっと前を見ろ」と鼓舞したのかもしれなかったが、アイリスを娘だと思ったことは一度もない。
初めて会った時から「オーナーのお嬢様」であり、雑役であったオリンダにとって彼女の成長を見守る事が幸せである一方、どう育ったとしても自分が責任を負うことはない、というある種の隔たりがあった。
この隔たりがあればこそ、かえってアイリスもオリンダも互いに気を許すことができたのだろう、と思う。
だから、幼少時の喪失から立ち直れず、いつまでも倦んでいる彼女を責める気にはならなかった。
「……アイリス」
小さく声を掛けたが、アイリスは穏やかに寝息を立てていた。
オリンダは苦笑する。
(やれやれ)
⚜⚜⚜
その朝、ウォーターストリートの一角に聳えるビルの前で、数人の通行人が足を止めた。
一階部分の教会の入り口横、青い柱に貼られたポスターに見入っている。
カミーラは彼らの姿を認めると、親しげに声を掛けた。
「おはようございます。クリスマスにご馳走を食べましょう。お金はいりませんよ!」
「ん、ありがとう。気になっただけだ」「ああ。どうも」
気後れしたように去っていく人達の中、一人の老人がポスターを凝視したまま、カミーラに訊ねた。
「お金はいらないのかい」
老人は刺すような冬の寒さにも関わらず、薄いつぎはぎだらけの上着を着ている。カミーラは頷いた。
「ええ、いりませんわ」
「……それはありがたい」
老人はカミーラを見て、何事かを言おうとして口をモゴモゴとさせた。が、結局黙ったまま背を向ける。
「久しぶりね、アーチー」
背後から掛けられた声に、アーチーの肩が僅かに跳ねた。
「──覚えていたかね」
アーチーは振り返る。カミーラは訳知り顔で、アーチーを見返していた。
「ホテルの倉庫にたびたび忍び込んでいらっしゃるご老人でしょう。私に色々と教えてくださったわね。数々のハイタワーコレクションが辿ってきた歴史について」
「その通り……覚えていてもらえて光栄だ」
「また、内緒のツアーをお願いしたいものだわ」
カミーラが赤い唇を綻ばせると、アーチーは残念そうに首を振る。
「そういうわけにはいかなくてね。この頃のホテル・ハイタワーは、どうにも近寄り難い」
「そう……ですわね」
カミーラは苦笑したのち、困ったように口をつぐむ。
「ローズは大丈夫かい」
「会長? そうね。やっぱり、思い詰めているみたい」
「……そうか。いや、思い詰めている、という程度のものならいいんだが。──君はどう思う」
「どう、と言われましても。私には少しでも市民の方々に受け入れていただけるよう、こうして心に寄り添う催しを考えること位しかできませんわ」
「そうか。……まぁ、できればハロウィンの時のような大騒ぎは御免だがね。あれは13年ぶりに肝が冷えた」
言われて、カミーラは苦笑した。
「13年、ですか?」
アーチーは瞑目し、すぐに笑顔を作る。
「いや、こっちの話だ。とにかく……ありがとう。と、私が礼を言うのも可怪しな話だが」
アーチーの言にいいえ、とカミーラは首を振った。
「可怪しいとは思いません。あなたがホテルを愛していること、ホテルのコレクションと共に多くの魂が眠っていること。全て承知しておりますから」
全力を尽くします、とカミーラは大きく頷いた。
アーチーは何度も、噛み締めるように頷いて、もう一度「ありがとう」と呟いて、その場を去った。
カミーラはアーチーを見送ると、貼られたポスターを見る。
(こんなこと……意味がないのかもしれない)
ホテルツアーの抗議がただの市民によるものではない、というアイリスの見方が正しければ、こんなことは無意味なのだろう。
だからといって、カミーラは諦めたくなかった。
カミーラはこの街と、街に生きる人間たちが好きだった。抗議の集団が何であれ、現状に対してカミーラができることは、街の人間を笑顔にする催しを考えることしかない。
戦うことでなく、笑い合うことで解決できればいいのに、とカミーラは思う。
⚜⚜⚜
「アイリスさん」
雑踏の中で、よく通る澄んだ声だった。
アイリスは声の方に目をやり、見慣れた紺の制服姿を認めて軽く手を挙げた。
「カミーラ」
朝のウォーターストリートは潮を含んだ風を受け、重い冷気に包まれていた。
催しのビラらしき紙片を手にしたカミーラはアイリスに駆け寄り、その装いを見て瞬いた。使い込まれた濃い青のウールコートの下に、ニューヨーク市保存協会の紺のキュロットが伸びている。
靴は愛用らしい茶色い編み上げブーツだった。
「これから事務所へ参りますの。アイリスさんもご一緒に如何です?」
「ええ。是非」
「……私達の制服、着ていらっしゃるのですね」
言われて、アイリスは気恥ずかしそうに首を振る。
「ちゃんと手続きも踏まずに、まずいかな」
「いいえ。仲間が増えたようで心強いですわ。それに、よく似合っておいでです」
「ありがと」
そういえば、とカミーラは話題を変えた。
「ホテルの話は聞きました?」
「……いくらかは」
「今、抗議の集団は人数を2、30程に増やしています。残念ながら、ツアーは再開できていません。当然、行政に私達の報告書は届いておりますし、報道にもなっています。ですが世論に私達の誠意がどの程度届いているのか──正直な所わかりません」
「そう……」
やはり、とアイリスは思った。
一筋縄ではいかないことは予想していた。ローズのことなので、当然纏めた報告書に不備や不正は無いと思われる。それでも市民達からしてみれば、数字を恣意的に用いれば結論は如何様にもなるのだ。
アイリスは渋面を作る。
「端から正論で勝負できる相手でないのは分かっていたわ。やはり原因を突き止め、根本から除かなければ」
「……できるのでしょうか、そのようなことが」
「その為の小間使いよ」
言って、アイリスはカミーラに向けてにこやかにお辞儀して見せる。
カミーラは小さく笑った。
「……頼りにしています」
⚜⚜⚜
カールッチビルに入って、カミーラはすぐに洋品店の年嵩の女店員に呼び止められた。
「ああ、あなた。丁度良かった」
声を掛けられ、アイリスとカミーラは立ち止まる。
「その制服、3階の人でしょ。悪いんだけど、頼まれてくれるかしら」
アイリスとカミーラは顔を見合わせる。
女店員の申し出はどうやらカミーラの制服を見てのことらしい。カミーラは答えた。
「どうかなさいましたの?」
「それが。ニューヨーク市保存協会の『アイリス』って人に渡せって、これを預かったのよ」
言って女店員は手に握った紙片をカミーラに手渡す。
「帽子を被ったよくわからない男の人でね。あんまりお客さんの事を悪く言いたかないんだけど、なんか変というか、怖い感じだった。……その、アイリスって人? 大丈夫かねぇ」
カミーラはどうも、と言って紙片を受け取るとアイリスを見た。アイリスは眉を顰めて小さく頷き、紙片を開くようにカミーラを促す。
紙片に書かれた文字が目に入り、アイリスは瞠目した。
「これは場所かしら。ウォーターストリート、リバティ・ランディング・ダイナー横、車を用意する……あっ」
読み上げるカミーラの手から、アイリスは紙片を毟り取った。メモ書きの文字を凝視して、声を震わせる。
「この文字……」
そこに書かれていた文字は、ジョニーに渡されたメモのそれとまったく同じ形をしていた。
⚜⚜⚜
ウォーターストリートのその場所は、海縁にあるダイナーだった。
波止場にある機械修理小屋の、通りに面した側をフードスタンドとして、裏手を実際の修理作業場として使っているものだ。
「船舶用エンジン修理所」の看板を隠すように「ダイナー」の看板が貼られ、店前のテーブルでは非番の船乗りたちがたむろしている。
それを横目に、アイリスは辺りを見回した。
車を用意するとのメモ書きの通り、「ビッグシティ・ヴィークル」の標識が付いた街灯脇で車両が待機していた。
そしてそれは、こともあろうにツアーバスであった。車体は鮮やかな緑色、フロントのグリルには「ゴッサム・ツアー」と書かれている。よもやハンバード社の主催するニューヨーク観光に招待されたわけではあるまい。
そんなことを考えていると、運転席を降りた運転手がアイリスを見て手を上げた。
「こんにちは。あなたがパメラ・アイリス・エンディコットさんでしょ? こりゃあ、別嬪さんだ」
労働者風のその男は、髭を蓄えた顔に人の良さそうな笑みを浮かべて歩み寄る。
「どうも、こんにちは」アイリスは応じながら首を捻った。「何で分かったの?」
「あなたのお知り合いさんから、お代はもう頂いてますよ。この度はビッグシティ・ヴィークルをご利用ありがとうございます」
さぁ乗って、と半ば強引に促され、アイリスはバスに乗り込んだ。
⚜⚜⚜
バスはウォーターストリートを横道に逸れ、デランシーストリートに入った。
道路のすぐ上を高架鉄道が走り、線路の軋む音が辺りに鳴り響いている。
「しかし意外だなぁ。エンディコットさんもウチを使ったりするんですね」
人を避けてのろのろとバスを走らせながら、運転手はにこやかに言った。
「てっきり自家用車を使ってるもんだと思ってました。資産家のご令嬢さんですよね? ひょっとして、お忍びですか」
口数の多い運転手だった。お忍びならば間違いなく使いたくない。
アイリスをエンディコット三世の身内と知ってか知らずか、まくしたてるように問い詰めてきた。
「すみませんけど……人違いだと思う」
渋面でアイリスが呟くと、はて、と運転手は首を傾げた。
「あれぇ、そう聞いてたんだけどなぁ。いや、これは失礼」
運転手は苦笑して頭を掻く。アイリスはひとつ後ろの後部座席から、胡乱な眼を運転手に向けた。
「先程言っていましたけど、誰かに頼まれてあそこで待っていたんですか」
「ああ、はい」
そうですよ、と運転手はあっさり頷く。
「迎車の予約を貰ったんです。普段は電話で受け付けてるんですけど、その人は直接事務所に来ました。わざわざ前金まで持ってね。こっちとしちゃあ、待ちぼうけになったって前金がありゃあ文句はないもんで」
「どんな人が来たんですか」
「どんなって聞かれてもねぇ。帽子被ってコートを着た、普通の男の人ですわ」
「というか……これってツアーバスですよね。いったい何処へ?」
アイリスが当然の疑問を口にすると、運転手はまたもや首を捻った。
「お客さん、なんにもご存知ないんですか。ウチはビッグシティ・ヴィークルといって、稼働率の低い自動車を貸してもらって、有償で人の足になるんですよ。車種は問いません。中にはポリスワゴンなんてのも。囚人輸送に使う代物ですね」
はあ、とアイリスが頷く間も、運転手は言葉を続ける。
「ほら、昨今は自動車を持った人たちが増えましたでしょ。それで、購入したはいいけど全然稼働してないなんていう車も各家庭や事業所に出始めてましてね。それに目をつけたオーナーが、私みたいな御者くずれの輩を集めて始めたサービスなんです」
バスはブロードウェイに入る。人通りが増え、クラクションを鳴らしながらも運転手は声を張って喋り続けた。
「車を貸す側も、使わない車をただガレージに置いておく位なら、貸し賃で小銭を稼ごうって腹なんです。どうです、なかなか賢いでしょう」
「あのー……」
矢継ぎ早に解説する運転手を遮り、前席の背もたれに顎を乗せたアイリスが声を上げる。
運転手は振り返った。
「はい?」
「それで、何処へ」
「──ああ、ああ、すみません。いや、そうこうしているうちに、見えてきましたね」
運転手が鼻先で示したのは、遊園地のアーチ状の入口だった。アーチの両端は白い塔になっていて、屋根は涼し気な青緑色。至る所に電球の装飾が施されている。
くぐった先に、同じく白と青緑で統一されたアトラクション用の建造物や出し物の小屋が見えた。
「ニューヨーカーに大人気。大人も子供も玩具と友達になれる、トイビル・トロリーパークです。──なんて、この辺じゃ有名ですがね」
観光ガイドのように得意げに言った後で、運転手は照れくさそうに頭を掻いた。
バスはアーチ門のすぐ前で停車した。
「お待ちの方は、寄席の屋外ステージにいらっしゃるそうですよ」
先に降りた運転手はアイリスの降車をエスコートすると、「またのご利用を」と一言添えて見送った。
「……どうも、ありがとう」
運転手にはチップを渡して、アイリスは入り口に向き直った。
路上に遺るトロリーの線路が、吸い込まれるようにアーチ門の向こうに続いている。
──そこには別世界が広がっていた。広場の中央に聳える時計を囲むように植栽、ベンチが置かれ、さらにその広場全体を囲むようにアトラクションや見世物小屋が囲んでいる。
建築は全ての配色が、くずかご、植木鉢の一つに至るまで白と青緑に統一されていた。
マンハッタンの雑多な風景の中でその遊園地の景色は、一層異質に思えた。
賑わう人混みの流れを横切りながら、アイリスは寄席の舞台を探した。入口をくぐって右のすぐ脇にそれはあった。白塗りの壁と緑の柱に囲まれ、舞台上は赤いカーテンによって仕切られて見えない。人気の見世物なのか、10ばかりの人だかりができていた。
アイリスはステージの前で足を止めると、人だかりに紛れ、周囲を見渡した。赤い風船を手に、両親と歩く子供。次はどこに行こうかとそぞろ歩きする若者たち。その一人ひとりの顔や様子を、アイリスの視線が注意深く撫でた。
(何処に)
アイリスは自然と息を殺していた。
ジョニーやアイリスにメモを残した謎の人物が、この近くにいるのだ。
「──この前、ここで面白い興行を見たよ」
ふいに脇から声がかかり、アイリスの肩が跳ねる。振り向くとアイリスのすぐ横に、長身の男がいた。
黒いコート姿の男は、唐突にそこに現れたかのようだった。アイリス自身の影であるかのように、気配もなくそこに立っている。
「ジャガイモ頭の人形が舞台に立って話すんだ。まるで、人間みたいにね」
軽い調子で男は話す。深々とかぶった帽子に阻まれ、表情は判然としない。だが間近にいたことで、鼻筋の中央が盛り上がった鷲鼻であることだけは見て取れた。
⚜⚜⚜
「アイリスはいる?」
マークは事務所の扉を潜る。
事務所にいたのはカミーラとモーリスだった。
「あの、いません……実は今朝、人に呼び出されて」
言ったカミーラの目には不安が滲んでいた。
マークは眉を顰める。
「人って、……誰に」
「わかりませんわ。下階の人に差出人不明のメモ書きを渡されたのです。けれど、アイリスさんにはそれが誰だか分かっているようでした」
「それで、君は行かせたのか」
マークは責めるように言う。
カミーラは目を伏せた。
マークはマンフレッドから、ホテルの登記簿に並ぶ名前を聞いていた。それは、アイリスに必ず伝えなければならない名前だった。
「アイリスは、虎の尾を踏んだのかもしれないんだ」
傍らのモーリスが眉を寄せる。
「……虎の尾って?」
⚜⚜⚜
舞台の赤いカーテンが開いた。
そこに立っていたのは、聞いたとおりにジャガイモ頭の人形だった。目をぱちりと開け、人形は見物人に向かって手を振って見せた。
〈やぁみんな。こんにちは! トイボックス・プレイハウスへようこそ! オレの話が聞きたいかい?〉
人だかりから歓声が上がった。
「こりゃあ、すごい!」「生きてるみたいだ」
アイリスは目線を舞台に向けながらも、神経は隣の男だけに集中していた。
「全部、あなたのせいなの?」
アイリスの問に、男は嘯く。
「あれ、人形劇には興味ナシ?」
「……とぼけないで」
アイリスは語気に怒りを滲ませて言う。男は笑った。
「いや、実を言うと心当たりがありすぎてね。どれのことだろう」
「ローズの事務所やホテルに人を集めて、あたしたちの活動を邪魔してるでしょう。それに、ウィッテンバーグ議員のことだって」
なるほどね、と男は頷いた。
「私たち、ね。すっかり彼らの一員に戻り咲きだ」
「──何?」
「聞いたよ。君はあの団体の為に随分と尽くしてたんだって? 俺はあの団体のメンバーを全員知ってる。顔、名前に職業、家族構成……策を練るのに必要なことは全て。ああしてホテル前で抗議を行うの、いい考えだと思ったんだ。ホテルを手放した協会は存在意義を失い、程なく瓦解する──そういう算段だったんだ」
でも、と男は続ける。
「協会の人間でもない部外者の君が突然現れて、随分と引っ掻き回してくれたね。今も何やら調べまわっているご様子」
「それで? なぜあたしを呼んだの。手書きのメモなんて、足がつくに決まってるのに」
アイリスの問いに、男はああ、と呟いた。
「手書きだろうがタイプライターだろうが同じだよ。追おうとする奴は誰だろうと、こうして呼び出すつもりだったからね」
「……呼び出して、脅す?」
男は答えずに、ははっと笑った。
何が可笑しいのか、と声を上げそうになる。だが男は人形劇のジャガイモ人形に目をやっていた。
〈おれの友達は嬉しい時に『うぅ~』って唸るんだ。みんなもやってみないか? うぅ〜!〉
あれはいいね、と男は人形を指さした。
「見て、観客参加型だ。俺もやりたくなるよ」
「……馬鹿にしてるの?」
「ああ、してる。少し君について調べたんだよアイリス。立ち上げに貢献してきたあの団体を、君はあっさりと抜けたそうだね。いや、君は捨てられた……用済みとばかりに。それが何だってまた、あの連中に協力してるのかな?」
「あんたには関係ない。抜けるのも入るのも、あたしの勝手でしょう」
はあ、と男は薄ら笑いのまま息を吐いた。
「けどさぁ……あのベアトリスって会長も食わせ物だよねえ。君を散々利用して団体を立ち上げたくせに、今じゃ自分ひとりで女王様気取りだ。……可哀想に」
男は芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「君を使い捨てたあの団体に一泡吹かせてやってるんだ、感謝されてもいいくらいだと思ったんだけどなぁ」
「感謝ですって? 馬鹿にするのもいい加減にして。あなたに一体ローズの何が分かるっていうの?」
「知らないけど。君こそなんでそこまで協会に肩入れするのさ。ひょっとして……お友達と何か企んでる?」
問いの意図を図りかねて、アイリスは男を睨んだ。
「まぁいいよ。君がどういうつもりでいようが、今や俺たちは市民の代弁者だ。今朝も市民がホテル前に集まっていたぞ」
男は笑みを浮かべて、静かに続けた。
「彼らは気が付いたんだ。自分たちの生活苦が、間違った事をしている誰かさんの所為だってことにね。俺たちはそのきっかけを与えたに過ぎない。──もはや、正義はこっち側にある」
「ローズは間違ったことなんてしてない。市民と対立があったとしても」
アイリスは男をひたと見た。「議員が一人消えたのは単なる偶然? あなたの仕業じゃないの」
男は感心したように言った。
「ああ、そうそう、それ。大正解」
「……否定しないのね」
「奴は俺の仲間が片を付けた。つまり、奴はもう脅威じゃない」
「普通、ちょっとカマかけたくらいで白状しないものよ」
「あんたが相手となると、普通と事情が違うもんでね」
今まで舞台の方を向いていた男が、アイリスに視線を向けた。
「そろそろ、俺達の話をしよう」
初めて男と目が合った。
鈍く、吐き気がこみ上げる。それが何に由来するものなのか、アイリスは己を分析しかねた。
「さすがにもう、人形劇を見て喜ぶほどの子供じゃないか」
「──どういう意味」アイリスは顔を歪める。「あなたは……誰」
「君の劇場に大切な客人がいたね。覚えていない?」
男は帽子を外す。細く、光の無い眼がアイリスを見ていた。
冷たいものが背筋を走る。
「アルフレッド・エンディコット二世の特別な友人、ジョセフ・ハミルトン。君の母親を近くで見る為に、いつも特別な席に通されていた。劇場の事も、いたく気に入っていたよ。……あの男は、俺のボスだった」
──特別な客人だ。覚えておきなさい。
父親の声が脳裏で蘇った。細い眼鏡、ギラギラとした目、白い髭を持つ老人、ジョセフ・ハミルトン。彼の脇にいつも控えていたのは、鷲鼻の若者だった。
男はアイリスに顔を近付ける。
「俺は、あの夜も劇場にいた」
アイリスは身を凍らせたまま、男の冷たい目を見返した。鷲鼻が狙いを定めるように、アイリスの間近にあった。
──君のお父さんは何処かな。ちょっと挨拶したいんだ。
自分の両肩を抱き、アイリスは半身で一歩、男から遠ざかる。アイリスの心臓が、早鐘のように打っていた。
「だがその日、ジョセフはいなかった。そのことを君に聞かれもしたなぁ……」
懐かしむように男は目を細めた。
──今日はハミルトンさん、いないんですね。
脳裏でかつての自分の声が木霊した。
アイリスはもう一歩後退する。ひどく眩暈がした。
「君のお父上は残念なことに、俺たちの信頼を裏切ったんだよ。だから仕方のないことだった。でも後悔がないと言えば嘘になるかな。実はあの劇場を燃やした夜、通りで泣いている小さな女の子を見かけてね……君だったんだよねぇ、それが」
男は口の端を上げて笑う。
「あの夜、君もご両親の元に連れて行ってやれてたら、きっと寂しい思いをせずに済んだ。……悪かったよ、ミス・エンディコット」
歯の根が合わない──アイリスは震えていた。
記憶力はいい方だった。なのになぜ、今の今まで忘れていたのだろう。あの夜のことを。
〈ところがその時、助けようとしたカウボーイまで穴に落っこちた!〉
舞台の人形が声を上げて笑った。つられて見物人もどっと沸き、アイリスの肩が跳ね上がる。
「……君のご両親は、火災で亡くなったんじゃない」
アイリスは、男の方を向いたまま入口へ足を戻した。
震えで足元がおぼつかない。背中を向ける余裕も無かった。それは恐怖の為だった。
「ホテルのことは諦めた方が賢明だねぇ。さもなきゃ、また誰かが消えることになる」
男は笑みを崩さずに言った。
「君も、大人にならなきゃ」
聞き終えるが早いか、アイリスは潜ってきたばかりのアーチの先へ駆け出す。
忘れていたのだ。恐怖のために、あるいは喪失の衝撃のために。
(父の部屋が火元だった。そしてあの男は、最後に父の部屋へ向かった)
追ってきたのだ、とアイリスは思った。
──過去の炎が、導火線をつたい、アイリスの元に。
⚜⚜⚜
マンフレッドはニューヨーク・デリのテラス席でマークを待った。マークが事務所にいるアイリスをここまで連れて来ることになっていた。
マンフレッドはメモ帳を開くと、そこに控えた名前を睨みつける。
ホテル・ハイタワーの不動産登記情報から拾い上げた複数の項目、それは偽物かも本物かもわからない権利書のいくつかに記された共通の名前。その人物たちは複数の買手に、ホテル跡の区画を巧みにバラして土地を売っていた。
資産管理者代理人、エドワード・ハモンド。
そしてその名前とともに並んで載っている「アトラス不動産」「ヴィクター・モンロー」の名前。
(彼らはおそらく、ローズと同じ事を考えた)
小さな不動産を隠れ蓑にして、不正な方法で押収した土地をそれとは知らせずに他者に売り付けていたのだ。
ふと、通りの向こうにあるカールッチビルの扉が開く。マークが出てきたのだった。
マンフレッドが手を上げると、マークは通りを渡ってテラスの柵越しに声を掛ける。
「問題発生だ。アイリスが消えた」
「……何だって」
「説明は後だ。彼女は何者かに呼び出され、リバティ・ランディング・ダイナーに向かった。ひょっとしたら、車に乗せられたかも」
行こう、とマークが腕を振った。マンフレッドは帳面をさらって鞄に突っ込み、立ち上がる。
柵を越え、マークと並んで駆け出した。
⚜⚜⚜
マンフレッドが足を止めたのは、ウォーターストリートの波止場だった。
「──このあたりか」
息を整えながら、マンフレッドは後に着いて来たマークへ訊ねた。そうだ、とマークは頷く。周囲を見渡すも、目に入るのは港湾労働者や日常の買い物をする者ばかり。アイリスの姿は無かった。
「マーク。彼女が書置きを見たのはいつだって?」
「えっと、十時くらいかな」
マンフレッドは懐からロスコフの懐中時計を取り出す。
「午を過ぎている……さすがに、近くにはもういないか」
マンフレッドは絶望的な気分でマークを見た。マークも憮然と腕を組み、溜息をつく。
「──マーク!」
靴音とともに2人に近づく人影があった。
マークは振り返る。……カミーラとモーリスだった。
「カミーラ? それにモーリスも。なぜここに?」
「私もアイリスさんを探そうと。……待って、この人」
カミーラはマンフレッドを胡乱げに振り返った。
「カミーラさん、お知り合いですか」
モーリスが首を傾げる。マンフレッドは身構えた。
「あなた、娯楽新聞の記者でしょ。私たちのことを悪しざまに書いて、いったい何のつもりなの」
言って、カミーラは思い当たったように眼の色を変えた。
「まさか、あなたがアイリスを? ──そうなの、マーク」
「いや、誤解だよ。彼は今アイリスと協力関係だ。一緒に彼女を探してくれている」
「信用できるもんですか。だいたい、あなたが無責任な記事を書きさえしなければ、連日の抗議だって──」
「いい加減にしなさいって。それよりローズは知っているのか? アイリスのことを」
マークの言に、カミーラとモーリスは顔を見合わせた。
「ま、まだ……」
「それはいけないな。戻ってこのことをローズに伝えるんだ。君が行かないなら、この記者をローズのもとに向かわせるぞ」
「え?」
カミーラは顔を上げ、マンフレッドを睨みつける。
「いけません! そんなことは!」
踵を返し、カミーラは駆け出した。
「──絶対に行かせませんわ!」
去り際、唾棄するように言い捨てる。
「ま、待ってくださいよ!」
遅れて、モーリスがその後を追った。小さくなっていく背中を見つめ、マークは頭を掻いた。
「……ごめんよ。あの人たぶん、自分を責めてるんだ」
「いや、大丈夫だ。この手合いには慣れている」
マンフレッドは苦笑する。
「アイリスを見たって人が、一人でもいるといいんだが」
「どうかなぁ。時間が経ちすぎてる」
言って、マークは目を泳がせる。ふと、ある一点で視線を止めた。
「──待てよ」
マークは歩みだした。
「どうした、手掛かりか」
「いや、ただの直感だ」
マークが足を止めたのは、ビッグシティ・ヴィークルの乗り場だった。
一人の男がバスのすぐ脇で煙草を吸っていた。
「すみません、ちょっといいですか」
マークが声を掛ける。
「お尋ねしたいことが」
運転手と思しき髭面の男は、怪訝に2人を見返した。
「何だよあんたら。警察か何かかい」
「いえ、そういうわけでは。実はある女性を探していて──今朝の十時過ぎ、この辺りで青っぽい服の女性を見かけませんでしたか? うちのメンバーなんですが、どうもこの辺で車を使ったようで」
言われて、男は確信を籠めてああ、と頷いた。
「あの人か。アイリス・エンディコットさんでしょ?」
マンフレッドは身を乗り出した。
「ご存じなのですか?」
「ああ、うちの車を使ったよ。迎車の予約が入って、たしかにアイリスさんをここで迎えるようにとの注文でしたよ。……綺麗な人だったなあ」
「それで、いったいどこへ」
マンフレッドの問いに、男は勿体ぶるように肩をすくめた。
「お客さんの事だから、あまり詳しく言うのもな。ところで私ね、今日あがったらダイナーで一杯やろうと思ってんですよ……」
マンフレッドは短く息を吐いた。時間が無いんだ、と言い掛けた時、横からマークが口を出す。
「いいね、一杯おごるよ。勿論チップとは別だ」
懐から取り出した硬貨を男に握らせ、マークは言い添えた。
「僕も口は固いんだ。たぶん気が合いそうだね」
「へへ、どうも。すいやせん……」
運転手は硬貨をポケットに入れ、歯の抜けた口を綻ばせる。
「アイリスさんはトイビル・トロリーパークで降りられましたよ。お連れが屋外ステージでお待ちになってると、そう伝えました」
「確かですか」
マンフレッドの言に運転手は大きく頷いた。
「ああ。なんなら、送って行きますかい」
運転手は露骨に機嫌良く言う。マンフレッドはマークと顔を見合わせ、頷いた。
「お願いします」
⚜⚜⚜
マンフレッドとマークは遊園地の前で降車した。
運転手にチップを渡し、マンフレッドは敷地に入る。
白と青緑の建築に囲まれた広場を見渡し、アイリスの姿を探した。
「……いないな」
マンフレッドは深く息を吐いた。
「屋外ステージってあれかな」
マークが赤い幕の掛かった寄席の舞台を指さした。マンフレッドは頷く。
「行ってみよう」
公演時間を過ぎているのか、カーテンは閉ざされ、舞台の周囲に人はいなかった。
「変わったところはないみたい……どうする、フレッド」
「聞き込むしかないだろうな」
「聞き込むって、誰に」
マークの問いに、ううむとマンフレッドは唸った。
〈──オレの話が聞きたいかい?〉
ふいにカーテンが開く。ぎょっとして2人は振り返った。ジャガイモ頭の人形が顔を覗かせ、マンフレッド達を見ていた。
〈もしかして探し物? 大切な玩具をなくしちゃったのか?〉
「いや……」
虚を突かれ、マンフレッドは言葉に窮する。
「女性を探していて……」
〈ああ、人探しか!〉
「そうそう!」
マークは人形に向かって指を差して笑った。
アイリスの特徴を伝えたマークが聞き込んでいる間、人形の表情はせわしなく変わり、大きく身振り手振りを交えていた。マンフレッドは無意識に吊り紐を探そうと人形の上方を見るが、不思議なことにそれらしいものはない。
新手のからくり人形だろうか、とそんなことを思った。
〈それでその女の人は逃げ出した! オオカミに追いつめられる寸前の、獲物みたいにね〉
そうか、とマークは人形の言葉にうなずき、マンフレッドを振り返る。
「アイリスはいないみたいだ。アーチ門から出ていったのを見ていたそうだよ」
「この人形が。それとも、人形遣いが」
「……どっちでもよくない?」
人形は笑顔を作り、カーテンの向こうへ消えていく。
〈そういうこと。じゃあサヨナラ、お2人さん!〉
マンフレッドは呆然と立ったまま、カーテンに手を振った。
「僕は夢を見ているのか」
「頼むよフレッド、これでまた振り出しだ。アイリスは遊園地から出ていった、その先はわからない。入れ違いで事務所か、……ひょっとすると、家に戻ってる?」
「連絡取れるか」
「アイリスの家に電話は無いよ。面倒だけど、行くなら場所は分かってる」
「何処に?」
マークは頭を掻く。
「スカーズデールだ、行ったら驚くぞ。高級住宅と高級住宅の間の細い道を辿る。するとおおよそエンディコットと縁があるとは到底思えない、慎ましい家が見えてくる。興味あるだろ?」
「……行こう」
そう答えて、マンフレッドは頷いた。
⚜⚜⚜
遠く見える摩天楼の群れに、黄昏が落ちようとしていた。
アイリスは自室の寝台に座り込んで布団を羽織り、窓から外を眺めた。
──ただ呆然と、抜け殻のように。
あらゆることが思考の埒外にあるようで、文字通り何も考えられなかった。
部屋の中央に脱ぎ捨てた服。
力任せに閉めたがために、反動で少し開いた部屋の扉。
この部屋に戻るまでの過程すらも、ろくに脳裏に残っていない。
ただ一つ覚えていたのは、自分が逃げ出したことだった。覚悟を持ってあの場へと赴き、それが打ち砕かれた。
あの男の眼を見て、すべてが一気に思い出された。
ヴォードヴィル劇場に時折姿を見せていた怪しげな客と、その傍らにいた男のこと。
劇場が焼けたあの夜、あの男に父の居場所を聞かれたこと。
「あたしは……なんてことを」
自分の言葉が、両親の命を奪った。
忘れていたのではなく、その事実から目を逸らし続けていた。
火が怖ろしいのではなく。過去を直視できなかった。
そして今、下手人を前にアイリスは逃走した。
過去と向き合うことを拒んだ──またしても。
アイリスは忍び泣いた。自身の膝に顔をうずめて。
(あたしは……)
何にもなれない、と思った。
ローズの望むアイリスに。
自分の望むパメラ・アイリス・エンディコットにさえも。
⚜⚜⚜
閉じた幕が目の前にあった。
客席の一つに腰掛け、アイリスは立ち枯れた森のように静かな暗闇の中にいた。演じる者、観る者、その何れをも欠いた劇場はただ暗いばかりの空洞だった。──火災で失われたはずの場所。
アイリスは、顔を伏せたまま、始まるはずの無い演目が始まるのを待っていた。しんと静まり返った空間に、自分の押し殺すような息遣いだけが聞こえている。
(ああ、これは夢だ)
劇団は主を失い、瓦解した。今や誰がどこで何をしているのか定かではない。もしもあの時の自分に力があれば、またいつかこの場所で──いや、ここでなくとも、再び彼らが集まって演技できる場所を作れたのだろうか。
唐突に、音もなく幕が開いた。
煌びやかな光の舞台が現れ、その光は客席に並んだ赤いシートを照らし出す。舞台の中央には、黒いタキシード姿の父アルフレッドが立っていた。
微笑みを浮かべ、アイリスを見つめている。
「お父さん──」
アルフレッドは手を広げた。その瞬間、舞台全体が星空に包まれ、天井にまでも無数の星々が輝き始める。
アイリスは魔法使いのようなアルフレッドの姿に見入った。記憶にある父よりも若々しく、そして堂々としている。
「ご来場のお客様。今宵は特別な夜です」
アルフレッドが口を開いた。
オーケストラポーチから響く音楽が、僅かにその音色を抑える。
「この舞台は、愛と夢と奇跡が織り成す魔法の場所。共に、この素晴らしい瞬間を分かち合えることを嬉しく思います」
穏やかで、力強い口上だった。
「……えっとー」
父親の笑顔が若干、ひきつる。天井近くに目配せして、広げた手で必死にジェスチャーをしていた。
「おい、照明……! はやく……!」
天井から一筋の光が差し込んだ。父親の顔に安堵が浮かび、アイリスは思わず笑う。
舞台の支柱の間の張ったワイヤーに立つ、白い羽根の衣装を纏った女が照らされた。
くるくるとステップを踏みながら、手に持った白い杖を優雅に振ってバランスを取っている。
「お母さん──」
オリヴィアが空中で舞うたびに、煌びやかな衣装や背中の羽根が光を反射した。母は得意げに笑う。まさしくステージに愛された者の笑顔だった。
白い杖が大仰に振られる。すると舞台の壁に、光の絵が描かれた。
ピクニックをする、麦わら帽子の両親。
2人の間でふざけて見せる、幼い自分自身の姿がコマ送りで映し出される。
演技の練習風景。オリヴィアに支えられながら、初めて縄の上に立った。アルフレッドは拍手を送り、アイリスを力いっぱいに抱きしめる。
幻灯機で投影されたスライドの中で、幸せな時間を過ごす家族の姿が、生きているように動いていた。
⚜⚜⚜
アイリスはノックの音で目を覚ました。
──というより、厳密に言えば、寝台に座り込んだまま硬直している自分に気が付いた。
ほんの一瞬、見当識を失いかけた。
前方に開いた状態の部屋の扉を叩く何者かの姿が視界に入った。
「アイリス。起きたか?」
すっかり日が落ちたのか、部屋の景色は青い闇で満たされていた。廊下から漏れる明かりで、朧げにオリンダの顔が見えた。
アイリスは無言のまま寝台から立ち上がりかけて、躰の異常に気が付いた。
──裸足の足が、土埃と夜露に濡れていた。
「久しぶりね、こんなに長いのは」
オリンダの言に、全てを察した。
眠りについたまま、アイリスは家の外に出たのだ。呆然と掌を見つめながら、アイリスは訊ねる。
「あたし、何してた?」
「別に何も。階段を降りてきて、起きたのかと思って話しかけたけど返事が無かったから、例のアレだと思って」
「……そう」
「リビングを横切って、自分で錠を上げて、外へ出たからついて行った。でも家の前で銅像みたいにしばらくぼんやりしたあとベッドに帰ってった。それだけだ」
何でもないふうに言う。そうそう、とオリンダは続けた。
「男が2人訪ねて来た、さっき。アイリスはいますか、だとさ。部屋で寝てるって伝えたら帰ったけど。いつの間にあんなハーレム状態に?」
目をこすり、アイリスは黙ったまま頷く。返答を寄越すのも億劫な気がした。
「約束でもしてたのか? 男との約束すっぽかすなんて駄目だ」
「うん。ごめん」
「あと2人同時ってのも、どうかと思う」
「……うん」
オリンダは息を吐いた。
「アイリス」改まったようにオリンダは言う。「……死ぬなよ」
驚いて、アイリスはオリンダを見返した。
「その……あんたのツラが、今にも死んじまいそうだったから」
そう言ったオリンダの表情はどんなだったのだろう。逆光のせいで判然としなかった。
「何があったのかは知らないけど、あんたの心がダメージを受けてるのは分かる。でも、あんたがいなきゃあたしは駄目だ。……それに」
オランダは熱を込めて言う。
「あたしがせっかく拾った命なんだ、粗末にするな。投げやりになるな。ローズの為であれ、なんであれ」
何と答えていいのか分からず、アイリスは顔を伏せた。
それが頷いたように見えたのだろうか。オリンダはひとつ息を吐いて、いつもの調子で言った。
「──夕飯にしよう」