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GASLIT STREET C03 「危ないヤツら」


1912年 11月
ブロードウェイ109 ニューヨーク・デリ

 
 マンフレッド・ストラングは、その店のテラス席から眼前のビルを眺めていた。通信社で印字したゲラ刷りの原稿にペンで手直しを入れながらも、視線はたびたびこの3階建ての建物へと注がれる。記者であるマンフレッドの仕事は調査報道が主であり、取材と称して午前に社を出てはこのニューヨーク・デリで原稿を直すのが日課になっていた。
 店も同じなら席も同じ、当然そこから見える景色も毎日かわり映えがない。──と、その塩梅あんばいが違ってきたのは、数日前の事だった。
 
(今日もいるな……)
 
 雑踏を行く誰もが、露骨にカールッチ・ビルの前をけるようにして歩いていた。
 デリのテラス席と歩道を挟んで向かいにある、赤いひさしの窓が特徴的なカールッチ・ビルの前に、数人の市民と思しき人影が寄り集まっている。
 冬の冷え込みにも関わらず、薄手の作業着を纏った労働者然とした集団。立て看板を手にした者もいる。彼らは一様に、『ホテル・ハイタワーの保護停止』を主張していた。
 
「くだらないツアーを止めろ! ニューヨーク市保存協会は不要!」
 
 一際体格の良い、剃り頭の男が叫ぶように言う。それに続いて数人が、ぽつりぽつりと抗議の声を上げていた。
 剃り頭の男は黄ばんだシャツに、茶色いズボンをサスペンダーで吊っている。後ろ姿のため目鼻立ちははっきりしないが、時折しゃくれたあごけんのある目付きがちらりと見えた。
 集団は10人にも満たない。暴動と呼ぶほどの切迫したものではなかったが、それでも人々の目を引き、足を遠ざけるに足る状況だ。
 彼らが現れ始めたのは数日前。怒りの矛先ほこさきは、常にビルの3階にあった。看板も無い、急ごしらえの事務所……ニューヨーク市保存協会のあるフロアだ。そのほか、ビルには洋品店やスタジオ、町医者が入っていたと記憶しているが、この有様ありさまでは誰も寄り付かないだろう。
 マンフレッドが身を置くニューヨーク・グローブ通信もまた、ホテル・ハイタワーの解体を推進する立場だった。
 マンフレッド自身、ホテル・ハイタワーを「保護」するニューヨーク市保存協会の運営に公費が使われていることを批判的に取り上げ、またホテル自体も保護にあたいするものではないと記事の中で何度も批判した。だが、これは市民をきつける為にやったのではない、と誓って言える。
 
(ローズ)
 
 マンフレッドはビルの3階を見やる。いつもカーテンが閉まっているその窓に、今日は板状の木材が充てられている。割れた窓ガラスに、場当たり的な補強を施したのだろう。
 
(君が気付く前に、市民が目覚めてしまった)
 
 マンフレッドの立場からすれば、この状況を歓迎すべきなのかもしれない。だが、と思う。如何いかに正しい主張がそこにあったとしても、あのような暴力的なやり方が許されるだろうか。まして、物を投げ込むなど。
 せいぜい取材を行った程度の面識、といえばそうなのだろうが、マンフレッドの関心は常に、あの事務所にいるであろうベアトリス・ローズ・エンディコットへと向けられていた。彼女はこの状況をどう見ているのだろう。ローズはこの団体の代表。それでなくても、大企業の社長令嬢として嫉妬の対象として見られることもあるはずだ。
 この騒ぎが起こって、マンフレッドは何度も事務所を訪れたい衝動にられた。しかしその度に、自分にその資格はないのだと言い聞かせる。──その繰り返しだった。タイプライターで起こされた文字を目で追う作業を諦め、マンフレッドは原稿を机に置いた。
 ペンで乱暴に線を引き、そこへひとこと書き添えた。
 
〈間違っている〉
 

CHAPTER 3
PROTESTERS

  
 ふと、マンフレッドの視線はある人影を捉えた。1人の女が通りを歩いていた。
 歳の頃は二十半ばか。ジャケット、ドレスはいずれも黒に近い赤色で、黒い小ぶりの飾り帽を被っている。白い肌がいかにも映えて、まっすぐにカールッチ・ビルへ向かう姿が通りを挟んでもよく見えた。抗議の集団と鉢合ったかと思えば、歯牙しがにもけぬと言わんばかりにカールッチ・ビルの扉を押す。
 
「おい」
 
 聞こえたのは、先刻目に入った男の声だった。
 よく見ると、男は女の肩口を掴んで無理矢理その場に押しとどめていた。
 女は何事かを言い返していたが、何やら剣呑けんのんな雰囲気だ。
 
(女性が危ない)
 
 マンフレッドは僅かに逡巡しゆんじゆんした後、意を決して立ち上がり、テラスの柵を越えた。
 あの場に行って何ができるでもないが、このまま見過ごすことはできない。完全に無計画だった。
 通りを横断するマンフレッドの傍で車が急停車し、ブブッと低いクラクションが鳴る。
 
「おっと、失礼。すみません」
 
 方々に頭を下げながら通りを渡る。そうやって、ようやくもんちやくの現場へと辿り着いた。
 
「何やってる」
 
 マンフレッドが声を張ると、体格のいい男が振り返った。
 
「何だ兄ちゃん、俺らに用か」
 
 言って、威嚇するように睨む。深く窪んだがんから、ぎょろりとした目がこちらを向いた。
 
「よさないか。その人は、ただのビルの利用者だろう」
 
 内心恐ろしかったが、マンフレッドは挑むように睨み返す。男の腰にある道具袋に大工仕事用のものが見え、意識しなければ動揺を抑えられない程だった。
 男は含み笑いを浮かべる。
 
「協会の関係者かと訊いたら、この女が『関係者だ』と答えるんでな。ふざけたツアーについて、抗議してたところだ。あんたも知ってるだろ、あのホテルの」
「知っている。だがそれで、見ず知らずの女性に八つ当たりか」
「八つ当たりじゃねぇ。抗議だって言ってるだろうが」

 当然の権利だろう、と男は言って、なぁ、と同意を求めるように周囲の市民に目配せする。周囲に寄り集まっていた人々は力強く頷く者もあれば、この状況に恐れをなしているのか、目を泳がせている者もいた。意外にも肩口を掴まれたままの女はさして慌てる様子も無く、ただ目を丸くして大男とマンフレッドの顔を交互に見ていた。
 二の句を探していたマンフレッドの脇から、不意に声がした。
 
「市の許可があればな。許可証はあるか」
 
 声の主は警官だった。警棒を手にこちらへ向かって来る。
 
「許可証?」
 
 大男が目を剥いて警官を見た。
 
「事前に聞いてるのはホテルの前だったがね。それと、君たちの目当ては3階の事務所だろうが、このビルには他にも色々と店が入ってるんだ。君たちを怖がって客が寄り付かなくなってる」
 
 警官はその場の全員を見渡した。「訴訟されても文句は言えんな」
 
 市民たちは警官の言葉に、怯えたように互いに目を見合わせた。気後れしたように後退する者もいる。大男は女の肩から手を放し、小さく舌打ちをした。
 
「……場所変えるぞ」
 
 ばつが悪そうに言って、大男は踵を返す。遅れて取り巻きがその後を追った。
 
「大丈夫、お2人さん」
 
 警官はその場に残ったマンフレッドと女を見た。
 立ち尽くす女は何も言わない。マンフレッドが何かを言い掛け、警官が続けた。
 
「ああ、分かってる。あんなのに声掛けられたら、誰だって怖くて声も出ないよな。礼ならいい。これも仕事だ」
 
 勝手に納得した風に警官が言うと、突然、女が大股で警官に歩み寄る。頭一つ分上背の違う警官の胸倉を掴み、女は大きく息を吸った。
 
「遅い!」
 
 女は叩きつけるような口調で言う。
 
「あれのせいで怪我人も出てるのよ。警察は何を考えているの?」
 
 突き飛ばすように警官の胸倉を放すと、女はカールッチ・ビルの扉を押し、その間隙へと姿を消す。
 あつに取られるマンフレッドが警官を見ると、彼も呆然としていた。
 
「何だよ、ありゃあ」
 
 マンフレッドには女の発言の意図が分かった。この数日、ニューヨーク市保存協会の合ってきた境遇を考えれば、彼女の怒りは理解できる。
 だが、と思う。真に糾弾されるべきは自分なのだ、という気がした。市民の怒りが目覚めたのは、他ならぬ自分の記事が原因なのではないか。そう思わずにはいられなかった。

   ⚜⚜⚜ 

 数回のノックののち、事務所の扉が開く。
 弾かれたように数人が振り返り、部屋を覗き込んだアイリスは身を固くした。
 決して広くはない部屋の窓とカーテンは閉め切られ、そのうち一つは木製の板で塞がれていた。
 薄暗い部屋の一角に置かれた卓にローズの姿があった。身を寄せ合うようにして座る3人の協会員メンバーの姿も見える。
 
「アイリス。来てくれたのね」
 
 デスクの端にいたローズが声を漏らして立ち上がり、アイリスに駆け寄った。アイリスは事務所に入るやローズにひしと抱きつかれ、その背中をさする。半年振りに見るローズの姿は、ひどく疲れて見えた。あの時と同じ、首元に光る黒真珠のネックレスが、半年前の複雑な感情を思い出させた。
 
「──ローズ」
 
 アイリスはローズの栗色の髪を撫でる。
 協会を立ち上げた時、ローズはこれから自分が行う事への使命感と希望に満ちていた。それが今は、こんなにも──痛ましい。
 
「アイリスさん」
 
 紺の制服を着た女の協会員が声を掛けた。
 
「来てくださったんですね。──カミーラです」
 
 女性協会員のカミーラという名前には覚えがあった。
 人伝てで協会のことを聞き、自ら入りたいと言ってくれていたらしい人物だ。話に聞いてはいたが、会ったことはなかった。
 
「会うのは、初めてでしたね」
 
 アイリスが言うと、カミーラはどこかあどけなさの残る顔に笑みを浮かべた。
 
「朝からここに缶詰めだったんです。外の様子はもう、ご覧になりましたか」
「ええ、見ました。怖かったわね」
 
 アイリスが言うと、充血したローズの双眸そうぼうが見返した。
 
「アイリス……」
「──彼らはもう去ったわ。大丈夫よ」
 
 アイリスの言葉に、ローズは安堵したように頷く。
 
「追い払ってくれたの?」
「ええ、まぁ」
「いったいどうやって」
「口喧嘩ってやつよ。まぁ──通りすがりを2人ほど巻き込んだけど。大丈夫、怪我させたりしてない」
「……ありがとう、本当に。何て言ったらいいか」
 
 ローズが掠れた声で言って、目の端を拭う。そしてカミーラの他、2人の協会員を示して言った。
 
「こちらはマークとモーリス。マークにはもう会っていたわね」
 
 どうも、と笑顔を浮かべているのは、小柄な眼鏡の若者だった。モーリスは茶髪の巻き毛を肩まで伸ばし、顔立ちは中性的。少年のような見た目である。
 その横でマークが片手を上げた。
 
「やあ。奴らが入り口を塞いでたもんだから、なかなか出られなくてね。ここで人生を終えることを覚悟してた」
 
 ぼやくように言ったマークを、カミーラが肘で小突いた。
 モーリスと呼ばれた男は人の良さそうな笑みを浮かべる。「アイリスさんのことは、皆さんからのお話で。何でも大層、会長が頼りにしていたとか」
 
 言われて、アイリスはあわてて手を振った。
 
「それは買い被り過ぎ。あたしはただ、ローズの使い走りで」
「とんでもない」ローズが口を挟む。「アイリス無しで、こんにちの私達は有り得ませんわ。そしてホテル・ハイタワーも。今頃、取り壊されて別のものにすげ替わっていた事でしょう」
「ローズ、その事なのだけど」
 
 アイリスが言うと、ローズははっとしたようにアイリスを見た。何か、重い言葉を投げかけられるのを予感したような表情だった。
 カミーラが何かを察したように椅子を引く。アイリスがそれに座ると、ローズが幾分重々しい動きで向い合せの椅子に腰を下ろした。 
 アイリスはローズに掛けるべき言葉を慎重に選んだ。──結果、率直に思うことを口にした。
 
「あの人達……このビルの外に居た人達──の声にも、きっと利があると思っていたの。ホテルは不要、という彼らの叫びにも、耳を傾けるべきなのだと」
 
 市民の願いは、自分達の生活が良くなること。市民の血税を用いたホテルの保護は彼らの生活を圧迫させるだけだ、という意見にも、公共の組織として理解を示す事が必要だ。
 そう思われた──先程までは。
 
「今は、その考えが間違っていたような気がする」
 
 アイリスの言葉に、ローズは目を丸くしていた。
 
「──彼等は何処か、可怪おかしい」
「可怪しい?」
 
 ローズの言葉に、アイリスは頷く。
 
「抗議活動を行う市民たちは、まるで結束していない。先頭に立っていた男はかなり積極的で、主張の為には多少の暴力も辞さない、といった趣だった。ところが、取り巻きに目をやるとそうでもない。むしろ義務だからとでも言いたげに立っていて、警官に突つかれると明らかに狼狽うろたえていたの」
 
 ローズは小首を傾げる。
 
「それが、可怪しい」
「ええ。同じ主張をしているのに温度差がある。根拠は何だと聞かれても答えるのは難しいけれど」
 
 ローズは考え込むように眉根を寄せた。
 
「あなたがそう言うのなら、そうかもしれないわ。……じゃあ、彼らは一体」
「そうね。あとは雇い人なり、弁護士なりに頼るのが良いでしょう」
 
 言って、アイリスは後悔した。ローズが突き放されたような顔をしたからだった。
 自分はあれだけのローズの思いを受け取っていながら、見捨てるのか。ひとり、あの厭世的えんせいてきな屋敷に戻り、閉じ籠るのか。
 
「ただ、人が足りないようなら」アイリスは言い添える。「あたしでよければ……好きに使って」
 
 かつてのように気安げに言うアイリスを見て、ローズが安心したように笑った。
 
「ありがとう」
 
 ローズから再び抱擁ほうようを受け、アイリスはにゆうな笑みで頷いた。
 ──これでいいんだ、と思った。
 このままあの家に戻って無為むいに時間を殺すより、ずっといい。
 ローズの夢は自分の夢だ。ローズの為に自分は存在する──そう思える間だけでも、アイリスは自分が真人間でいられる気がしていた。
 半年前の自分が、そうであったように。
 
   ⚜⚜⚜ 
 
 アイリスは事務所をきよし、空をあおぎ見た。抜けるような青空に、蜘蛛の巣のような電線が張っている。
 ローズから頼まれたのは、ホテルからの備品の搬出作業だった。力を貸してほしいとは言われたものの、本当に力仕事とは予想外である。もっとも、アイリスが当面の頭数になるのだという事実だけで、ローズを安心させるのには充分のようだった。
 ドラムとトランペットの小気味よい音楽が聞こえていた。それで、カールッチ・ビルのスタジオに人が戻ったのだと理解した。
 五月蠅うるさい抗議の集団もいなくなり、解放されたように軽やかなメロディーだった。
 あの集団に包囲されている間、このビルの人々は捕虜のように縮こまることしかできない。
 アイリスは先刻さつきここにいた男の言葉をぼんやり反芻はんすうしながら首をいた。うなじの上でまとめられた、豊かな黒髪からこぼれたおくれ毛を、くるくると指に巻き付ける。
 
(あいつ、場所を変える、って言ってた)
 
 もし別の場所で同じことをするのなら、行く先はやはり。
 
「ホテル・ハイタワー」
 
 アイリスが独りごちると、背後でカールッチ・ビルの扉が開いた。出てきたのはマークだった。
 
「ホテルから手を引けって、そう言ってくれるもんだと思っていたよ」
「気が変わったの」
 
 アイリスが振り返ると、マークは渋面でアイリスを見ていた。
 
「そうらしいね、連中を見て気が変わったって。何故そうなるんだ」
「あれはどう見たって普通の市民じゃない」
「だったら尚更なおさら、得体が知れないだろう。ホテルをあきらめるべきだって言うのが、会長の為じゃないのか」
 
 それは、アイリスにも分かっていた。分かっていただけに、迷いもあった。
 けれども、夢の為にローズを支えるのだと決めた。彼女とは単に人生のあるいっときを共有しただけの仲ではない。もっと特別な絆があると、少なくともアイリスは信じていた。この男には知るよしも無いだろうが。
 
「あれが市民じゃないのなら、きっと誰かの思惑の為に動いてるんでしょう。そんなものにローズが耳を貸す必要がある?」
「誰かの思惑って、誰のだよ」
「知らないわよ。州議会の黒幕とか?」
 
 マークは少し黙って、だるそうに頭を掻く。
 
「似てるねぇ、君たちは」
 
 マークは背後で扉を閉め、アイリスへ歩み寄る。
 
「……何のつもり」
 
 アイリスは横に並んだマークを不思議そうに見た。彼は視線を空に向け、眼を細める。
 
「備品の運び出しを頼まれていたろう。ホテルに入るなら、鍵がいる」
 
 言って、ベストのポケットから銀色の鍵を取り出した。
 
「それはどうも」
 
 アイリスは手を伸ばし、鍵を受け取ろうとする。それと同時にマークはその手を引っ込めた。
 
「ちょっと!」
「着いてくよ。さっきの連中が気になるしね」
「行ったところで、彼らに対して何ができるでもないでしょう」
「それはアイリス、君だって同じだろう。昨日見せてくれた、お得意の読心術でも使う気かい」
 
 目抜めぬき通りを歩きながら、マークは尋ねる。高架駅に電車が到着し、金属の擦れる音が辺りに響いていた。
 
「あれはそんなんじゃない」
「僕はホテルが呪われてるなんて一言も言ってない。なのに君は見事に言い当てた。誰かに聞いた? まさか、観察と推理の結果だなんて言わないだろうね」
「そんな大袈裟なものじゃないわ。あなたの様子を見て、あたしがそう感じたの。それだけ」
 
 へぇ、とマークは胡乱げに呟いた。ふと、アイリスはホテルへ向かい掛けた足を止める。そしてマークを振り返った。
 
「あのさ、ほんとのところ、なんで着いてくるの? 鍵があれば済む話なんだけど」
 
 聞かれて、マークは人を食ったような笑顔を見せる。
 
「君には悪いけど、僕って一応ホテルの解体推進派だろ。解体反対派の君が余計な事をしないか、監視しないと」
 
 アイリスは黙ったまま、再び歩み始めた。自然と速足になり、背後でマークが慌てたように声を上げる。
 
「冗談だ、本気にするなよ。危ない相手がいるなら、誰かが付いていたほうがいいだろ」
 
 そう、とアイリスは短く頷く。
 
「よっぽど暇なのね。勝手にすれば……大して役に立つとは思わないけど」
 
 アイリスの物言いは厳しかったが、マークは動じる様子もなかった。その飄々ひようひようとした態度が、余計に腹立たしい。
 
「暇はお互い様だろ。君だって突然来いと言われて来たにしては、随分と探偵ごっこに乗り気じゃないか」
 
 普段は何を、と遠慮えんりよに尋ねるマークに、アイリスは目を合わせずに返答する。
 
「色々とやってますわよ。家庭教師とか……」
「へぇ。子供好きとは意外だねぇ」
「子供は好きよ。大人よりは」
 
 言葉を濁すアイリスに、マークはさして興味もないのかそれ以上聞かなかった。
 オリンダの安定した稼ぎに甘え、現状の暮らしのまましばらくはやっていけるだろう。しかし本来、オリンダがアイリスを養う道理など無い。
 いつかは愛想を尽かされ、見捨てられるのかもしれない。それで立ち行かなくなって初めて、何か手を打つのかもしれないし、そのまま野垂のたれ死ぬのかもしれない。別にそれでも構わない、という気がしていた。
 
「てっきり才能を活かして、占い師でもやってるんだと思ったよ」
 マークが茶化すように笑う。「手品師は? 読心術とか、そういう見世物を見たことがある」
 
 耐えかねて、アイリスはマークを睨めつけた。
 
「聞いてもいないことにいちいち指図をするの、やめてくれる?」
「悪かったよ。気になっただけだ」
「あんまり調子に乗ってると」
「乗ってると?」
「蹴っ飛ばす」
「はは。……怖」
 
 高架駅を過ぎ、劇場街に差し掛かった。右手には公園が、左手には歌劇場が見えた。花壇に囲まれた公園のベンチで憩う人々は、近場で買ったと思しきサンドイッチやホットドッグなどの軽食を手にしている。
 そして正面に見えるニューヨーク市水道局の向かって右横に、異様な形状の楼閣ろうかくがあった。
 公園を見下ろすようにそびえる14階建て、茶色い外観はゴシック建築のようだが、至る所に世界各地の建築様式を取り込んでいる。加えて最上階は不自然なほどに増築され、ハンマーのような形になっていた。
 かつて、資産家──ハリソン・ハイタワー三世が莫大な費用を掛けて建設し、自身の卓越性たくえつせいを具現していると称した建造物。
 外壁に自身の顔のレリーフを刻んで、行方不明となった今もなお、ハイタワー三世はニューヨークの街を見下ろしている。
 
「あたしからも聞くけど」
 
 アイリスはマークを見た。
 
「あのホテル……ホテル・ハイタワーが呪われてるって、何でそう思うの」
 
 アイリスは眼前の奇怪な楼閣を鼻先で示す。
 外見は異様で、そこに置かれた品々が曰く付きであることは知っていた。だが、それだけの理由で「呪い」を持ち出すほどの短慮たんりよが生じるだろうか。
 
「──たぶん僕だけじゃないよ、そう考えているのは」
 
 ややの間考え、答えたマークの言葉には妙な確信があった。
 
「ホテルツアーを持ち回りでやってるメンバーの中にも、奇妙な体験をした人が何人かいた。誰もいない場所で笑い声を聞いたり、勝手に物が動いてるのを見たりとかね。呪いって表現が適切かどうかは別として、あそこには何かある。気味が悪いって、協会を去った人もいたよ」
 
 何かある、という曖昧な表現に、アイリスは首をひねる。
 
「呪いという表現が適切かわからないのに、何故呪われてると?」
「知り合いの記者の言葉だ。あのホテルが呪われていると最初に言ったのは彼でね。彼とホテルについて調べて回ったこともあったな。その最中も、何かと変なことが起こった」
「……そう」
 
 アイリスは短く頷いた。
 ツアーが始まったのは協会を去った後だから、アイリスはその内実を知っているわけではない。マークが呪われていると断言するからには、それなりの根拠があるらしい。
 
「それでホテルから手を引け、と」
「エンディコット三世の願いでもある。僕は彼に言われて協会に入った。ローズの様子を彼に伝える為だけど、あわよくばホテルを手放すよう働き掛けられないかと思ってね」
 
 まあ、とマークは息を吐く。
 
「そんなことは全部、ローズにはお見通しだったみたいだけど」
 
 あっけらかんとしたマークの様子に、アイリスは失笑した。
 
「せっかくスパイとして入ったのに、形無しね」
 
 マークは顎を掻いた。「返す言葉がないよ」

   ⚜⚜⚜  
 
 ホテル前に集まった人垣を見て、マークは目をまたたいた。 
「なんか、増えてない?」
 
 ウォーターフロントパークの木立こだちの陰から顔を覗かせてみると、エントランス前に人垣があった。事務所前に集まっていた人数の倍はいる。
 
「ホテル前に最初からいた人達と、さっきの人達が合流したのかも」
 
 アイリスの言葉にマークはなるほど、と思った。「ツアー休止」の立て看板を持った女性の協会員が半ば辟易へきえきしたように彼等の応対をしているのが見えた。
 
「今からあそこに行くの?」
「だから、鍵だけちょうだいってば」
 
 木陰に隠れて様子を伺うマークを横目に、アイリスは何の気無しにベンチへ腰掛けていた。散歩の休憩でもするのだというその調子に、いささかの緊張感も見えない。
 マークは人垣に視線を移す。どこか草臥れたような彼等の様子は、いかにも金に困っている市民のように見えた。彼等の不満の矛先がニューヨーク市保存協会へ向いたのだと言われても納得できる。堅気に見えない人間が何人か居たところで、彼等の主張を間違っていると断じるのは早計なのではないか。
 そう思うのも、ホテルから手を引きたいという私情のせいなのだろうが。
 マークは木陰からアイリスに耳打ちする。
 
「ねぇ、こうして見ると、やっぱり彼らはただ生活に困った人たちに見えるよ」
 
 アイリスは首を横に振る。
 
「お金に困っているということは、お金で動くということかも。見て──子供までいる」
 
 アイリスはぐんしゆうの隅に立つ少年を見ていた。
 歳の頃は10そこそこ。そばかすだらけの顔に、ワーカーキャップの脇からぼさぼさの茶髪があふれている。状況に気圧されているのか、どこか所在しよざいげに立っていた。集団をにらみつけるように座っていたアイリスは唐突に立ち上がった。そしてマークへ一瞥もくれることなく、スタスタと歩み始める。
 
「おい、どうする気だ」
 
 マークの問いに彼女は答えない。

「ああそう。じゃ、おひとりでご自由に。僕は行かないから」

 マークが言うと、アイリスはくるりと振り返って手をあげた。

「じゃあこれは返してあげない」
「はぁ?」

 後退あとじさるアイリスの手元に下がった鍵を見て、マークはすぐさまベストのポケットを確認した。──先程まであったごく小さなふくらみが、忽然と消えていた。

「あ、おい。いつの間に──」

 視線を戻すと、アイリスは既にマークに背を向けて抗議集団の元へ向かっていた。腹をくくるしか無い、と思った。

   ⚜⚜⚜
 
「あんたらが何を考えているのか、俺にはわかってんだ!」
 
 男は声を張り上げた。眼前の女性協会員の身がびくりと跳ねる。
 
「しらばっくれてんじゃねぇぞ。俺たちから金を巻き上げて何の役にも立たねぇ金持ちの道楽に注ぎ込んでいるんだろう。さもなきゃ、自分たちの懐に入れてんじゃねえのか」
「ですから、あなた方のおっしゃる通りにツアーは中止にしておりまして、ですね……」
 
 恐る恐る口を開く協会員を、大男は嘲るように笑った。
 
「だったらなんだ。まさしく、後ろ暗い所があるんじゃねぇのか」
 
 狂乱めいた物言いの男を、止める者は誰もいなかった。そこへ赤いドレス姿の女が割って入る。──アイリスだった。
 
「妄言ね」
 
 と、言い切るアイリスの声は落ち着いていた。
 
「てめぇ、さっきビルにいた」
 
 目をいて睨みつける男をよそに、アイリスはホテル前に集まった人々を決然けつぜんと見渡した。
 
「これはいったい、何の騒ぎなのです」
 
 声を上げて、集まった人々の顔を見る。数名を除いて、多くの市民が気後れしたように半歩下がった。
 
「このような暴力的な運動は、政治的な表現とは呼べません。単なる犯罪です。スリや家庭内暴力と同じように」
 
 犯罪、という言葉にまたしても市民の何名かが顔を見合わせている。
 言葉が響いた様子のない数名を、アイリスは注意深く見た。顔に傷のある者、袖からタトゥーの一部がのぞいている者。この状況から考えられる結論は、いくつも無い。
 
「何をゴチャゴチャと言ってやがる」
 
 先頭の大男が突っかかる。アイリスは男に向き直った。毅然と、決意を持って見えるように。

「何の役にも立たない、と先ほど仰いましたね」
 
 ならば、とアイリスが続けた。
 
「ツアー目当てにこの街を訪れる人々がもたらす経済効果について、考えた事はおありかしら」
「はぁ? 何をワケの分からねぇことを……」
 
 アイリスの目に軽蔑の色が差す。
 
「お話になりませんね」
 
 突然のアイリスの登場に、協会員は目を白黒させていた。そしてそれが見覚えのある人物であることを察して、思わず声を上げた。
 
「あなたは……」 
 語気に驚きを交えながら、彼女──ヴァネッサは手のひらで口を塞ぐ。
 
「──先程から、後ろで黙って見ておられる皆様」
 
 アイリスは人垣を見渡した。その隅には少年の姿も見える。
 
「あなた方はこの男性よりも幾分、分別のある方々とお見受け致しますが。いったい何をしに参りましたの? 支援でしょうか、それとも見物?」
 
 支援だ、と袖口に入れ墨の見える男が口を開いた。
 
「当然だろう、抗議なんだからな」
「何に対する?」
「そりゃあ……」
 入れ墨の男は少し言い淀みながら、「俺達の税金が不当に使われていることだ」と返した。
 
「であれば後日、我々の活動がいかにニューヨーク市にとって有益であるか具体的な数字で示すと共に、公費が適切に運用されている旨を報告書にまとめ、それを以て回答と致します」
 
 アイリスは人垣に向かって声を上げる。
 
「ツアーは間もなく、再開されるでしょう」
「……お前、」
 
 先頭の大男がアイリスを睨む。
 
「何様だ。誰なんだ、お前」
 
 問われ、アイリスは軽くお辞儀をした。
 
「申し遅れました。私はニューヨーク市保存協会の共同創設者、パメラ・アイリス・エンディコットと申します」
 以後お見知り置きを、と。
 その口元に、笑みすら浮かべながら。
 
   ⚜⚜⚜
 
「あとはお願いね、ヴァネッサ。それと……マーク」
 
 ヴァネッサはアイリスの言葉に力強く頷いた。そして縋るようにアイリスの手を取る。

「ありがとうアイリス。相変わらず勇気があるのね」
「そう見えたならよかった。本当は怖くて」
「……二度も助けられたわ。あなたのおかげで、私は自分の居場所ができたの」

 そう言ってヴァネッサは笑う。アイリスも笑顔を返した。

「あたしはその言葉に助けられてる」
  
 マークはおい、とアイリスに声を掛けた。
 
「あの集団はどうするんだ」
「これ以上、彼らが勢い付くことはないでしょう」
 
 アイリスはホテル前の集団を一瞥した。
 言い負かされた抗議集団はよほど動きたくない事情があるのか、ホテル前に座り込んでいる。先頭にいた大男は別件がある、などと言ってこの場を離れてしまった。
 
「備品の運び出しは」と、マーク。
 
「備品?」 
 アイリスは首を傾げた。
 
「おかしなことを言うのね。ツアーはじきに再開される。なのにいったい何を撤収するの?」
 
 言って、アイリスは笑った。マークも苦笑を返す。
 
「強引だね、まったく。じゃ、鍵は返してもらう」
「もう返した」

 言われてマークはベストのポケットを触った。そこに小さな膨らみを認め、アイリスを睨む。
 アイリスは得意げに笑った。

「気付かなかった?」
「普通に返せよ。腹立つなァ」 
 
    ⚜⚜⚜
 
 日が沈むと、ニューヨークの街は赤や青のネオンに彩られる。ジョニーは公園の脇で、行き交う人々に声を掛けていた。
 
「お兄さん、いいスーツだね。でも靴がそんなんじゃ台無しだよ」
 
 ジョニーの齢は10。両親を早くに亡くし、街を彷徨っていた所を老人に拾われた。ハリー老人はジョニーに靴磨きの道具一式と、靴磨きの技術を与えてくれた。
 
「靴磨き、靴磨きはどう? 身嗜み整えていかない?」
 
 こんな時間まで路上にいたのは、昼間の失態を取り戻すためだった。
 実入りのいい仕事がある、と客に誘われて行った先で逃げ出してしまったのだ。
 仕事内容は至って単純、言われた場所で立っている。ただそれだけである。
 行った先はホテル・ハイタワーという廃墟のホテルだった。控えていた大男に指示を貰い、声を上げろ、非難をしろ、と言われた。同じ境遇らしき市民達は言われた通り、思ってもいない事を口にしていたが、大金の為とはいえ、ジョニーは気が進まなかった。
 そこへホテルの関係者らしき女が現れて、大男に向かって啖呵を切った。
 彼女の話の内容は正直理解ができなかった。それでも、ジョニーの中には不思議と「恥ずかしい」という気持ちを芽生えさせるに足る、決然とした語りようであった。
 座り込みはその後も続いたのだが、ジョニーはどうしてもその場にいる事ができず、金を受け取ることもなく立ち去ったのだった。
 
「これからデート? 靴の汚れは大丈夫? たった5セント、たった5セントでピカピカだよ」
 
 声を掛けるも、大半の人間には無視をされる。
 年嵩のハリーが自身を信用してくれているのに。
 期待に応えるための選択のはずが、大切な時間を浪費してしまった──早く取り戻さないと。
 
「ねぇ、5セントって片方の料金? それとも両方?」
 
 不意に掛けられた声に、ジョニーは振り返った。
 さっきホテル前に現れた女だった。
 切れ長の目がジョニーを見ている。先程民衆に向けていた冷たい目ではなく、柔らかい眼差しに思えた。
 
「あ……」
 
 と呟いた後、何を問われたかを思い出して答えた。
 
「片方だよ」
 
 聞かれた手前答えはしたが、恐らく客ではないだろう。
 
「こんな時間に客引きは危ないんじゃない。早く帰った方がいいわよ」
 
 別人のように優しい物言いに気恥ずかしくなり、ジョニーは頭を掻く。
 
「もうちょっと稼ぎたいんだ、帰る前に」
 
 そう、と彼女は頷くと、下げたポーチから硬貨を取り出す。
 
「いくらか渡すから、今日は帰りなさい」
「え……いいの?」
「そのかわり、ちょっと話を聞きたいんだけど」
 
 言いながら、女は悪戯っぽく笑った。
 
「いいけど……何」
「昼間のこと。君、ホテル前にいたよね?」
 
 やはりそのことか、とジョニーは嘆息した。

   ⚜⚜⚜
  
「あたしはアイリス」
「覚えてるよ、花の名前だよね。ばあちゃんが育ててた」
  
 少年はジョニー、と名乗った。
 アイリスはジョニーと共にウォーターストリートを歩く。この辺りにはまだガス灯も多く、夜道は他と比べて薄暗い。
 道路を挟んで向こうには柵越しに運河が見えた。船舶が留まり、いかにも港湾地区らしい趣があった。
 
「お姉さんはお金持ち?」
 
 ジョニーの質問に、アイリスは問い返す。
 
「お金持ちに見える?」
「うーん」
 
 ジョニーはアイリスの佇まいを改めて見た。「まあまあ見える」
 そう、とアイリスは頷く。
 
「じゃあ、うまく騙せてるみたいね」
 
 アイリスの言葉にジョニーは小首を傾げる。
 
「違うの?」
「ご想像にお任せします」
 
 それよりさ、とアイリスは話題を変えた。
 
「単刀直入に聞くんだけど、君はどうしてあそこにいたの?」
「実入りのいい仕事があるって、客に誘われたんだ。指定の場所に立ってるだけで、いい額がもらえるんだって」
 
 そう言って、その男は場所と時間を記したメモをジョニーに渡したのだ。
 
「これだよ」
 
 ジョニーはポケットから紙切れを取り出す。アイリスはそれを受け取った。
 
「パークアベニュー1番地、ホテル・ハイタワー跡。午前11時……」
「そこに行ったら、関係者らしい人たちが控えてた。その人たちから指示を貰えって話だったんだけど、正直あんまり気は進まなかったな」
 
 行って後悔したよ、とジョニーは吐き出すように言った。
 
「ホテルの人たちからしたら迷惑だろ。おれ、なんか悪いことしてるみたいで嫌になって、結局途中で帰ったんだ」
 
 そう、とアイリスは頷く。
 
「これを渡したお客さん、どんな人だった?」
「普通のおじさんだよ、白人。ベージュのコートに黒いスーツ。帽子も黒かったな。あと……」
「あと?」
 
 あ、と思い出したようにジョニーが言った。
 
「鼻の形がすこしヘンだ。鷲鼻わしばなっていうの? なんか、真ん中あたりがいかつい感じ」
 
 アイリスが頷く。
 
「なるほど、それはいい情報ね。他にはある?」
「他は……うーん、何も」
 
 ごめんなさい、とジョニーがびるので、アイリスは両手を振る。
 
「いいのいいの。参考になったわ」
 
 ジョニーは笑った。
 
「この辺でいいよ。家、こっから近いんで」
「そっか。急がないと、ご両親が心配しちゃう」
「両親はいないよ……師匠がいるんだ」
 
 へえ、とアイリスは感慨も無く言った。
 
「あたしには師匠もいない」
 
 アイリスは腰を落として、ジョニーと目線を合わせて笑う。
 
「いいでしょ?」
「いい……のか?」
「いつも公園の近くにいるんだ」
「ああ、うん」
 
 最後に、とアイリスはジョニーに向き直った。
 
「あいつらにはもう、関わらないでね」
 
 ジョニーは素直に頷く。
 
「言われなくてもそうするよ」
「あいつらはたぶん、君みたいな善良な市民を盾にしようとしてる」
 
 アイリスは笑みを消して、諭すようにジョニーの目を見た。
 
「君の隣にいたのは、平気で人を利用する人達。今はたぶん、目的達成の為の大義名分として。もしもこの先、暴力的なぶつかり合いが起きるとしたら、本当の意味で盾にされるかもしれない。自分の身は、自分で守って」
 
 ジョニーは固く、頷いた。
 
「じゃあ、またね」
 
 アイリスは手を振り、ジョニーに背を向ける。
 
「……ブラッド!」
 
 ジョニーが声を上げたので、アイリスは振り返った。
 
「なに?」
「そういえば、ブラッドって呼ばれてた。あのデカい男の人」
 
 それだけ、と言ってジョニーは笑った。
 
「ありがとう。君、最高」
 
 アイリスは笑顔を返す。
 
「……さて、と」
 
 踵を返し、ウォーターストリートを北上する。ジョニーを送るために南下した道を戻る形だ。
 ──彼らはやはり、何らかの目的でホテル前に人を集めていた。一般の市民を金で雇ってまでツアーを辞めさせたい理由が、あのホテルにはあるというのだろうか。
 アイリスは受け取ったメモをハンドバッグに仕舞い込む。
 路の途中、荒れた感じのする酒場の前を通りかかった。
 酔客たちが店を出て来て、何事かを大声で語りながら通りへ歩き出す。
 安酒やすざけに酔ったのか、ひとりの若い男がたたらを踏んで道路へよろめき出た。

「あぶねえ!」
 
 そこへ車両が通りかかるのが見えた。──反射的にアイリスは男の腕を掴んで引いていた。時速15マイルのオートモービルは速度を緩めることなく通り過ぎていく。

「いって……何すん──だ?」
「いや。危ないから」
 
 歩道に引き戻された若者はアイリスを見て、紅潮した顔を綻ばせる。

「君、優しいねえ。おまけに怪力だ」

 上司とおぼしき男が若者の肩に手を置く。

「怪我が無くて良かったなジェイク。にしても女に助けられるとは」
「君──名前は何? お礼がしたいなあ」

 聞かれて、アイリスは小さく答える。

「……アイリス・エンディコット」
「──へえ、アイリスねえ」

 機嫌良く頷く若者をよそに、上司らしき男の顔から笑みが消える。
 おい、と若者を揺さぶる様子はあたかも酔いが全て飛んだかのようだった。

「もうよせ、エンディコットって」
「え? ……何すか?」
「俺らの雇い主だよバカ。──失礼しました」

 上司に引きずられていく若者の背中を、アイリスは複雑な顔で見送った。
 ……エンディコットという名前ひとつで近づく者がいて、離れる者がいる。コーネリアス・エンディコット三世が合衆国有数の船舶会社の代表である以上、その財と影響力の大きさは港湾労働者たちに広く知られている。
 内実がどうあれ、その名に恐れをなす者もいるのだった。
 ふん、とアイリスはひとつ息を吐いて歩みを進める。

「こっちは帰りの電車賃すらないわよ……」
 
 子供の前で無用な見栄みえを張った結果である。情報代とはいえ、高い代償だった。
 ふと何かを考え、思いついたように振り返って声を上げた。

「ねぇ、お礼がしたいって?」

   ⚜⚜⚜ 
 
 バー店員のハンクは手札を眺め、太い首を軽く傾げてからテーブルにカードを伏せた。

「下りるよ。……俺は世界で一番ついてない」

 その言葉にオリンダが笑った。

「白人の男に生まれたってだけで、あんたは運を使い果たしたんだろ」

 ハンクは肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。アイリスに誘われて着いてきた、船人足のジェイクも同じく手札を諦めたように投げ出した。

「俺もだ。フォールド」

 残されたのはアイリスとオリンダだった。テーブルを挟む2人に緊張が走った。

「じゃ、あとはあんただけだ。──レイズ」

 オリンダが強気な笑みを浮かべながら賭け金を上乗せする。アイリスは積まれたコインを見据え、静かに言った。「嫌がらせ? どうせ大した手じゃない。……コール」

 やり取りを見ていたハンクが首を振って呆れたように言った。

「同居人どうしで取り合ったって意味ないだろ」

 オリンダは笑みを崩さずに言った。

「一緒に住んでようが貸しは貸しだ。容赦はしない」
「ここまで来たら、手の内さらしてもらうわよ」

 アイリスは静かにカードを裏返した。「9が2枚」
 アイリスの手札を見て、オリンダはゆっくりと手札を開く。「……7が2枚」

 固い顔のアイリスの口元に一瞬、笑みが溢れた。

「おっと忘れてた。──もう1枚」

 オリンダは隠れた手札からもう1枚の7を示し、満足げな笑みを浮かべる。7のスリーカードを見せつけられ、アイリスは顔をテーブルに突っ伏した。「あー、もう」

 ジェイクがアイリスを揶揄するように言った。

「おい……あの感じで誘っておいて、俺より弱いことある?」
「……勝負から下りたくせに偉そうなこと言わないで」
「俺は引き際を知ってるんだ。あんたと違って」

 オリンダはポットのコインを掻き集めて笑う。「同居人どうしで奪い合って何が楽しいって、負けず嫌いのコイツを負かすのが楽しいんだ。ハッハー!」

「ほら」と立ち上がったジェイクがアイリスの椅子を足で小突く。アイリスは崩れ落ちたまま、首を絞められた小動物のような声を上げた。

「……あぁぁ」
「あんたが負けたってことは俺ももうオケラだよ。帰っていいか?」
「あぁぁ……」

 駄目だよ、とオリンダが口を挟む。

「アイリスはいちどそうなったら暫く口を利かないんだ」
「えぇ……」
「もうひと勝負するかい? 金なら気にしないでいい、はなから取る気はないから」

 おい、とカウンターの向こうからハンクが声を上げる。

「俺からは取るのか?」

 オリンダは手をひらひらと振った。

「とりあえず今日のお代をチャラにしてくれりゃ、それでいいよ。こいつの分も」

 ジェイクは笑った。
  
「そりゃ助かるな。や、でも、そろそろ帰りたい……」

 オリンダは手を止めてジェイクをにらんだ。
 
「なんだ。アイリスにれてんじゃないのか?」
「違うけど」
「だったらなんでノコノコ着いてきたんだ」
「酔って車にかれそうになったのを助けられたんだよ。お礼がしたいって言ったら、帰りの交通費を出してくれって」

 ああ、とオリンダは訳知り顔で呟いた。

「倍にして返すとでも言われたか? ……まったく、こいつのカード遊びは下手の横好きだよ」
「……の、ようだね」

 テーブルに突っ伏す赤いドレスをちらと見やり、ジェイクは溜め息を吐いた。

「おい、アイリス。寝るなら帰るぞ」

 オリンダがアイリスをゆする。

「眠い。……あたし先、帰るからオリンダはまだいれば?」

 緩慢かんまんな動作で立ち上がるアイリスに、オリンダは妙に真剣な顔でいや、と首を振った。

「夜のあんたは独りにできない」

   ⚜⚜⚜ 

「あたしはもう大人よ。……いちいち送り迎えなんて、変に思われる」

 がいを歩きながら、アイリスは小さくぼやいた。そうだな、とオリンダは頷く。

「だがあんたはひとつ忘れてる。──あんたは変だ」
「べつに……死にはしないって」
「言い切れるか?」
「……」

 オリンダは低い語調で続ける。

「自覚は無いだろうけど、あんたの心は壊れてる。……気を付けるんだ」

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