見出し画像

GASLIT STREET C11 「バンシーと訴状」


「おはよう、オリンダ」

 支度を終えて、疲労で軋む躰を引きずりながらアイリスが階下に下りると、オリンダが台所から真顔を覗かせた。
 
「……おはよう」

 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中はやけに静かだった。
 アイリスは居間のテーブルに置かれた皿を見て眉を寄せる。ハムとチーズが挟まっている、サンドイッチのような何かがのっていた。かろうじてサンドイッチと呼べる代物ではあったが、パンの向きがバラバラで、具材もはみ出している。
 
「これ何、サンドイッチ?」

 アイリスは思わず訊ねた。
 
「見りゃ分かるだろ」
「オリンダが……作ったの?」
「まさか」  
「じゃあ誰が」

 アイリスの問に、オリンダは黙ったまま肩を竦めた。

「……あたし?」
「他に誰がいるんだ。夜中に物音がして何かと思ったら、虚ろな目をしたあんたが刃物持ち出してて肝が冷えた。声掛けたけど、例によって聞こえちゃいない」
「やだ、あたし寝ながらサンドイッチ作ったの?」
「何なら起きてる時より手際良かったぞ。出来上がりはアレだけど」

 にこりともせずにオリンダは言う。
 アイリスは何となくオリンダの目から視線を逸らせずに、机のサンドイッチを取り上げて口に運んだ。

「……味はイマイチ」
「時間経ってるからね。まぁ、夜な夜な食い物食べ漁るよりましか。──アイリス、座って」

 有無を言わせぬ雰囲気のオリンダに促され、アイリスはサンドイッチを皿に置いて椅子に座った。オリンダが向かいに座る。

「あんた、ローズの所でいったい何をやってんだ? こんなふうになったの、久しぶりだ」
「そうかな。半年前もこんなものじゃなかったかしら」
「……今朝、これが郵便受けに入ってた」

 言って、オリンダは一部の書類をテーブルの上に無造作に叩きつけた。厚めの白紙に、見覚えのある役所の印が上部に赤く押されていた。ページの一部には「器物破損」「不法侵入」などの言葉が太字で印字されている。
 アイリスは書類に並ぶ重々しい言葉を目で追ったが、何度読んでも視線が紙の上を滑るばかりで、まるで内容が理解できなかった。

「……これ、なに」

 そう口に出したアイリスの声は震えていた。
 
「訴状。法廷に呼び出される理由のある奴が貰う紙だよ。しかも『公衆の面前での危険行為』だってさ、いったい何やった?」
「ああ……ブロードウェイをワイヤーで横断した時ね。警察署に行ったは行ったけど、逮捕じゃなくて警告って……でも1時間もしないうちに伯父さまが迎えに来てくれたし、それで済んだ話かと」

 オリンダは呆れたように苦笑した。

「あんたって人は……」
「ねぇ──この出廷命令ってやつ、無視したらどうなるの?」
「本人不在で審議が進むんだ。簡単に言えば、あんたがいない間に勝手に裁判が進んで、どんどん不利になるってこった」

 アイリスは溜息を吐いた。考えてみれば、コーネリアスが行ったのは単なる保釈だったのだ。何某かの取引をして罪の疑いを免れた気でいたが、その認識は間違っていたらしい。
 アイリスはサンドイッチを掴んで立ち上がる。

「アイリス、どこ行くんだ」
「ニューヨーク」
「ここはニューヨーク州だ」
「市内に戻るの」
「市内に──戻る? はっ、あんたの家はここじゃないのか? あんたをローズの所に行かせたの、今んなって後悔してるよ。ローズが飛び降りろって命じたらほんとに飛び降りかねないね」
「飛び降りたくないからワイヤーを渡ったの」
「はは……笑える」

 オリンダは額を押さえ、力無く顔を伏せた。
 
「……やっぱり間違いだった。適当に職を探せ。家政婦でも家庭教師でも、給仕でも何でもいい。金が必要なら出すから。そりゃいくらでもってわけにはいかないけど、それでもマシだ。あんたに……」

 少し間を空けて、オリンダは言葉を次いだ。
 
「あんたに、死なれるよりは」

 言ったオリンダは言葉を詰まらせた。オリンダの目はこれまでに見たことのない心配の色を滲ませている。
 
「そもそも……最初にローズのところに行けっていったの、あなたなんだけど」
「そりゃ法を犯せって意味じゃない!」

 オリンダが声を荒げた。

「よりによって装飾用ワイヤーでなんて。どうして同じことをステージでやろうとしない? 自分の価値が信じられない? 金払って見に来る観客の拍手よりも道端でたむろしてる連中の愛想笑いの方が大事だってのか!」
 
 その勢いで立ち上がった瞬間、椅子が後ろに音を立てて倒れた。その音が部屋の中に一瞬だけ響き渡り、不快な沈黙が流れた。 
 オリンダははっと我に返ったように倒れた椅子を見る。

「悪い、……あんたが心配なんだ」

 言って、オリンダは椅子を戻した。アイリスは肩を竦める。

「……大丈夫よ。今日はちょっと、弁護士を探すだけ。そんなに大げさにしないで」
「あっそ。弁護士ね……そりゃ名案」

 アイリスは呆れるオリンダを振り返り、サンドイッチを一口頬張った。
 
「じゃあ、行ってくるから」

 椅子を直すと、オリンダはアイリスに背を向けてキッチンへ向かう。
 
「とっとと行っちまえ」
「1ドル50セント貸して……なんてね」

 オリンダは口をあんぐりと開けて振り返った。
  
「冗談じゃない。そんなんで雇えるほどニューヨークの弁護士は安かないぞ」

CHAPTER 11
TELL ME


 オフィスに電話が鳴り響いた。
 マンフレッドはタイプライターから手を離し、受話器を手に取る。

「はい、こちらニューヨーク・グローブ通信。……マンフレッド・ストラングは私ですが。……そうです」

 電話の主は、ホワイト・プレインズ駅の公衆電話からだった。

〈あー、どうも。あたしです。アイリス〉

 マンフレッドは声を低くする。

「君はあれから大丈夫だったのか?」 
〈ぜんぜん大丈夫じゃないし色々あったんだけど、後でちゃんと説明するわ。今日はそうじゃないの〉

 電話口の声は焦っているようだった。

〈いい弁護士を知らないかしら。早めに頼みたい〉
「何があったんだ?」
〈自宅に訴状が届いたの。対応しないと〉

 マンフレッドは眉頭を押さえて項垂れた。
 
「それはその……災難だな。えっと……君の伯父さんに頼めば?」
〈──どうもありがと。参考になったわ〉

 伯父の名を出した途端、マンフレッドが二の句を次ぐ前にその電話は切れた。
 
   ⚜⚜⚜

 アイリスは暗澹たる気分で教会の玄関を潜った。
 もうこれで3度目になるが、その度に別の用事でここを訪れている。午前の礼拝の時間なのか、静けさが満たす礼拝堂の中で、牧師が前で聖書を読み聞かせていた。
 まばらに信者たちの背中が並ぶベンチに、シャツにサスペンダー姿の、頭に包帯を巻いた男が座っているのが見えた。リチャードだった。牧師の言葉に耳を傾けているのだろう。
 目には昨日見たままの知的さが感じられた。アイリスはゆっくりと彼に近付いて、彼の隣のベンチに腰を下ろす。
 リチャードはアイリスに気付き顔を向けた。顔色はよさそうだ。

「来たね、アイリス」

 リチャードはどこか、からかうようにささやいた。アイリスは視線を落とし、心中で言うべき言葉を探した。だが、不思議なほど何の言葉も浮かばなかった。

「……礼拝中に話しかけて悪いけど、その……あなたに聞いてもらいたいことがあって」

 アイリスが言葉を選びかねているのを察してか、リチャードは顎をしゃくって上階を示した。

「……上に来れるか」
「ええ、──もちろん」

   ⚜⚜⚜

 それで、とリチャードはくつろいだ様子でベッドに腰を下ろす。アイリスは唇を結んだまま扉にもたれてリチャードを見ていた。

「その仏頂面は何だ? 悪いことでもあったか、それとも疲れてるのか」
「……両方」

 アイリスの答えにリチャードはなるほど、と頷いた。

「何かできることは?」
「……昨日言ったこと覚えてるかしら。記憶を取り戻す気があるならファイルを渡すから読めって」
「ああ、言われたね。調べ物への協力って話だ」
「じつは、用意できなかった」

 アイリスの言葉にリチャードはへえ、と苦笑する。
 
「それは残念」
「念の為に聞くんだけど、記憶はどう? 戻ったりしてない?」
「してないね、今のところは。……でも急がないんだろ」
「ええ、急がない。ただ、ひょっとしたら、自分が弁護士だったことを覚えてないかなって期待してただけ」
「ああ」
 
 リチャードは眉を上げて、肩を竦める。

「その頃の記憶ならぼちぼち。州法の知識や、事務所の場所がある通りの名前も覚えている」
「ほんとに?」
「……ああ、まあな」

 リチャードの言を聞いて、アイリスは彼の隣に腰を下ろす。そうやってから、媚びるようにリチャードを見上げた。

「あの……実は見てほしいものが」

 はあ、と頷くリチャードにアイリスはハンドバッグから取り出した呪いの紙を差し出した。

「これは……たまげたな」

 訴状を手に、リチャードは苦笑する。

「スカーズデール在住。金持ちだ」
「……いいから内容を読んで」
「失礼。……危険行為、器物破損、不法侵入に……公共の安全に対する脅威? すごい文言だな」

 リチャードは眉を寄せ、顎に指を当てて訴状を読み込む。
 
「なるほど。さては……君、人前で『クソ』って言ったな」

 余裕すら滲むリチャードの語調に、アイリスは小さく笑った。

「確かにそれはよく言うけど。……クソ野郎、クソ警察、クソ田舎。そのくらい普通でしょ」
「今ので3回分、罪が増えた。で……まずこの不法侵入。不審者に追われた、とある」

 そうなの、とアイリスは声を上げる。

「警察はそっちを追いかけるべきなのに。あたしを建物の屋上まで追いかけ回したのよ」
「仕方なく敷地に入ったわけだ。目撃者は」
「いたわ。屋上を見上げてる酔客たちがいた。あと……そうだ。カミーラが聞いてた。カールッチ・ビルの1階で謎の追跡者が噂になってたって」
「……いい情報だ、戦えると思う」
「すごい、弁護士っぽい!」
「不審者が誰だか、心当たりは」
「えっと……」
 
 アイリスは自身の調査する組織の構成員であろうことを、名前を伏せながらリチャードに伝えた。彼の記憶にまつわる単語を不用意に口に出すべきではない、という気がしたのだ。
 リチャードは別段気に留めず、次に、と項目を移した。

「器物破損。これはワイヤーが使えなくなった、と書いてある。原因は君が上に乗ったから。これは……どういうことだ?」
「書いてある通りよ。ワイヤーの上を渡った」
「綱渡りしたのか」

 そうよ、とことさら何気ないふうにアイリスが頷く。

「10年早けりゃ、あんなの逆立ちでだってできるわ」
「……君はサーカスの採用試験を受けるべきだな。とすると、次の危険行為が綱渡りってわけだ。ワイヤーはほんとに使えなくなった?」
「いいえ。留め具が緩んだとか難癖付けられて。『洗濯紐とは違うんだ』なんてその時は言われた。でも後になって、むしろ宣伝になったと会社の人が喜んでるって聞いたわ。人が乗っても大丈夫だったから。なんて言ったっけ……ドローチェだか、なんだかいう会社」
「じっさいは何も壊れてない。馬鹿馬鹿しい。ケーブルの会社の関係者に話が聞けそうだ。ただ……もしも落下したら大惨事なのは事実」
「大怪我ね」
「そう。ワイヤーの下にいる人達もだ」
「公共の安全を脅かすってわけ。……どうしよう」

 リチャードは顎に指をあてた。

「夜のブロードウェイの人たちに安全なんて気にするような理性があるとは思えないが……反省した態度を見せよう。判事の機嫌がとれれば起訴の取り消しだってあり得る」
「ほんと?」
「無い話ではない。間違っても『逆立ちでだってできる』なんて言うなよ。『ごめんなさい、本当に反省しています』と。親から最初に習う謝罪だ」

 リチャードの言葉にアイリスはうんうんと何度も頷いた。

「きっとできるわ」
「心配なら腕に書いておけ」
「職業紹介所をクビになりかけた時『ごめんなさい、私どうかしてたんです。もう二度としません』って謝ったから大丈夫」

 聞いていたリチャードは苦笑する。

「またやる奴ほどみんなそう言う」
「……ほんとにやらない人だってそう言うわよ」

 アイリスは口を尖らせる。さて、とリチャードが立ち上がった。
 
「まずはあの夜の騒動を目撃した人達をあたってみようか。……証言があれば優位に立てるだろう」
  
   ⚜⚜⚜

「ベネットさん、出掛けて来る」

 コートを羽織ったリチャードが身廊を歩きながら、ベンチのベネットに声を掛けた。ベネットはああ、と振り返る。

「大丈夫かね、体は」
「調子がいい。もしもの時はこの人がいるから大丈夫だ」

 言って、アイリスを振り返る。アイリスはベネットに笑顔を向けた。

「はい。引き摺ってでも連れて帰ります」
「引き摺る?」

 リチャードが怪訝そうに見るので、「ものの喩えよ」とアイリスは小声で付け足す。
 ベネットは柔和な笑みで頷いた。

「彼を頼みますよ。なんだか仲も良さそうだ」

   ⚜⚜⚜
 
 2人は教会を出た。日が中天に照る冬晴れだった。リチャードは包帯を隠すように帽子を目深に被る。

「──よう、リチャード」
 
 教会の玄関の横、壁に寄りかかるように座った髭面の男がリチャードに話し掛けてきた。リチャードはこれに応じる。

「やあフランク。おはようさん」
「調子はどうだ。一緒に飲むか?」

 言って、フランクは酒瓶を持った右手を挙げた。リチャードは頭の包帯を指さして首を振る。

「医者に止められてる」
「そんなのいい加減取っちまえよ。どうせ女の同情を買うための小道具だろ」

 なぁ、とフランクが同意を求めるように隣のアイリスに目配せする。

「怪我は本当だ。教会の前で嘘はつかない」
「だったらそんな美人といるのは危ねぇ。興奮して脳の血管が切れちまうかも」

 言ってフランクは爆笑した。リチャードは苦笑して、アイリスを見やった。

「フランクだ。僕の恩人。桟橋で釣りをしてたら溺れかけた僕を見つけたらしい」
「食えないが、大物を釣った」
 
 アイリスは屈んで、フランクに右手を伸ばす。それは信頼を込めて握り返された。

「アイリスです。ちょっとだけ、ウィッテンバーグさんをお借りしますね」
「ああ、好きなだけどうぞ。良いやつだ。ちょいと物忘れが激しいみたいだがな」
 
 先に言っておくと、とリチャードは道を歩きながらアイリスに声をかけた。

「僕は法廷には立たない。あくまでも手伝うだけだ」

 アイリスは裏切られた気分でリチャードを見返した。
 
「そうなの? どうしてよ」
「仮に弁護士資格が失われていたら、記憶喪失だとしても言い訳にはならない。利益相反の問題もある」
「利益、そうはん……なるほど。わかるわ。……残念」

 リチャードはアイリスに向き直る。アイリスは言葉通り、浮かない顔だった。アイリスは部屋でのやり取り以来、この男が法廷に凛々しく立っている姿を想像していた。
 だが、考えてみれば記憶喪失なのだ。どんなに頼もしく見えても怪我人であり病人だ。資格も関わる大事な場所に連れて行くのは酷である、と頭では分かっていた。

「……ほんとに駄目?」
「妙な期待をさせてしまって済まない」

 重く首を振り、リチャードはあくまでも固辞した。アイリスは肩を落とし、両手を挙げた。
 
「まぁ、仕方ないわ」
「……臆病者だと思うか?」
「まさか、そんなこと思うわけない。……手伝ってくれるだけで充分」

 アイリスの言葉に、リチャードは小さく頷く。
 
「……埋め合わせはする。信頼できる弁護士を紹介するよ」
「そんな、埋め合わせだなんて。あたしが勝手に付き合わせてるだけ。でも──ありがと」
 
   ⚜⚜⚜

 街路を歩く人々の笑い声や話し声が賑やかに響いていた。冬晴れの活気の中、商店のショーウィンドウには赤と金の飾りが煌めく。屋台や露天商はこの時期に合わせて、限定の焼き菓子やオーナメントを売り出していた。
 アイリスとリチャードは、人々がショッピングに精を出すデパートの前を歩く。
 聖歌隊のクリスマス・キャロルが、甘い匂いに混じって風に運ばれてきた。

「ホリデーシーズン真っ只中に訴状対応とは、泣けるな」

 リチャードは息を吐いた。彼の顔は半分帽子の陰に隠れていたが、その目元には薄い笑みが浮かんでいる。アイリスも苦笑を返した。

「はたから見ればそぞろ歩きしてるカップルと変わらないわよ」
「じゃあ離れて歩くか」
「……いじわる」

 前を通り過ぎるカップルが笑いながら手を取り合い、子供たちははしゃいで走り回っていた。デパートの前では赤いコートのサンタが子供を抱きしめ、その様子を写真屋が撮影している。
 不意にリチャードが立ち止まった。

「子供がサンタと撮影中」

 リチャードの示した先に、固い表情の少年の姿があった。

「ほんと。5歳くらいかしら」

 カメラを構える写真屋の後ろで、少年の両親が必死に『笑って』とジェスチャーしている。すると、2人の視界にサンタの衣装に引けを取らないほどの赤が見えた。

「──消防車だ!」

 少年が満面の笑みで、道を悠々と走る赤い自動車式消防車に目を奪われる。滅多にお目に掛かれない近代的な機械に、その目はキラキラと輝いていた。シャッターのタイミングだったのだろうか、少年の両親が苦笑を浮かべる。
 リチャードが笑った。

「写真屋も予想外だったろうな」
「ええ。目線が外れた」
「だが笑顔に関しては文句なしだ。きっと……いい写真だ」

 サンタの傍を離れ、両親の元へ駆ける少年を見ていたアイリスは、リチャードの顔を見上げた。

「子供が好きなの?」
「……大人よりは」
「あたしはどっち?」
「大きさだけ見れば大人だろう。中身は知らん」
「それはどういう意味かしら」
「言葉通りの意味だ」
 
 不意に目が合って、アイリスは「知ってる?」とリチャードに囁いた。とにかく何かを話さなければ、という気がした。

「マクダックス・デパートメント・ストアは毎年、髭の生えた白人男性を対象にサンタの採用活動をしてるの」
「へえ」
「昔マクダックスで働いてたのよ。それで、その時に思ったんだけど……不公平じゃない?」
「……どういう意味だ」

 リチャードは不思議そうな顔をした。

「女性や白人以外の男性がなれないなんておかしい」

 アイリスの言に、リチャードは呆れたように首を振る。

「それがサンタってものだろう。白い髭を生やした、白人の男だ」
「本物のサンタはね。あ、本物っていうのは本物っていう意味じゃなくて、概念としてのサンタのことね。……けど採用試験では役を決めるだけ。べつに黒人だって構わないじゃない。なんならあたしだって、髭をつければサンタになれるわ」

 どうかな、とリチャードは答えた。

「だとしても、ベストセラーにはなれないだろうな。髭をつけた君もそれはそれで見物だろうが」
「馬鹿にしてる?」

 リチャードは両手を挙げる。

「白人男性として語られるサンタ役に、敢えて黒人や女性を使う意味は無い。人に受け入れられてこそ、広告というものだ」
「あたしの実家近くの劇場では白人がわざわざ黒塗りまでして黒人の役をやってた。面白おかしく、商業的にね」
「ミンストレルのことを言ってるのか? あれはそういうショーだ。受け入れられているんだよ、多くの人に。サンタとして受け入れられているのは白人男性」
「ふぅん……それって」

 不公平、とアイリスは不満げに口を窄める。「あたしだってデパートのエレベーターを操作したい。女は採用してないって断られた」
「……君の主張の根幹にあるのはそれか」 

 リチャードは苦い顔をした。
 
「前言撤回、君は子供だ。とうてい常識的とは言えないことを口走るが、いざこちらから言い返そうとすると……ぜんぜん言葉が思いつかない」
「それは核心を突いてるからよ」
「人はそれを屁理屈と呼ぶ」
 
 言って、リチャードはデパート前のプラザで手を振る笑顔のサンタを見つめた。考え込むように顎に手を当てる。

「とは言っても……人が何かになりたいと言う気持ちに人種は関係ない。ある意味で、君にも一理ある」
「あら、間違いを認めるの?」
「僕は始めから差別主義者じゃないぞ。ただ、カネが絡むと多数派に阿る必要が生じる。君はそれを分かっていない」

 神妙な顔でサンタを睨みつけるリチャードに、アイリスは微笑を浮かべた。こちらから話題を振ったものの、ただの世間話で真面目な顔になるこの男が好ましく思えた。

「皆がなりたいものになれる新しい時代。想像するだけでワクワクするじゃない?」
 
 アイリスの言葉に、リチャードは嘆息した。

「……想像するだけならな」

 アイリスは思わずリチャードを見上げた。諦観めいたその言葉の奥に何かを感じたのだった。リチャードは弁護士だ。自分よりもはるかに多く世界の理不尽を目の当たりにしたのかもしれない、とアイリスは思った。
 
   ⚜⚜⚜ 

 2人は再び歩き出し、劇場街を北上する。

「──対策を本気で考えないと」

 リチャードが改めて真剣な表情に戻り、アイリスに向き直った。

「あのあたりじゃないか。例のワイヤーは」

 リチャードが示した先には、通りを跨いで設置されたワイヤーが空に並んでいた。左右の建造物の屋上どうしを結ぶようにして張られている。ワイヤーにはリースの飾りと、ライトアップ予定の星形のオーナメントが下がっていた。アイリスは頷く。
  
「そう、あの一番奥のやつね。あの時は何の飾りも無かった」
「……今は星だのリースだの、浮かれたものが沢山ぶら下がってる。頑丈そうだ」

 リチャードが感心したように言う。見上げながら、アイリスは眉を寄せた。
 
「──結構、高いのね」
「自分で登ったんだろ?」
「上から見下ろすのと下から見上げるのじゃ、全然違うわ」
「ふつう、上から見る方が高く感じるものだが」
「あたし麻痺してるのかな。まさか、ここまでのハイラインだなんて……」

 アイリスは思わず立ち止まった。
 ステージの支柱の間を渡ることは何度か経験していたものの、こうして観客の視点でワイヤーを見上げることは珍しかった。それが公道の真上となれば尚更である。

「あたしって……けっこう凄いかも」
 
 感慨深げに呟くアイリスに、リチャードは振り返って微笑を送る。

「正直な話、少し見てみたかった気はする。君が公共の安全を脅かすところを」
 
   ⚜⚜⚜

「ウィスキーにテキーラ入れてくれ」

 オリンダに言われ、ハンクは手際よくショットを用意してカウンターに出した。

「昼間から随分強いもん飲むな。──あいよ」

 ハンクは呆れたように呟く。オリンダはナッツをかじって酒を呷った。「あー、クソ」

 昼下がりのバーは、まばらな客がちらほらと席に座っているだけで、空気にはタバコの煙がかすかに漂っていた。日が中天に昇っていたが、店内は曇ったように薄暗い。オリンダはストゥールに腰掛け、グラスを抱え込むようにして前屈みで座っていた。
 カウンターの中のハンクは白いシャツにエプロン姿で、袖をまくってグラスを拭いている。

「荒れてるな、オリンダ」
「ああ……ちょっとな」

 ナッツを皿にかつん、かつんと絶えず当てながら、オリンダはグラスを睨む。

「同居人と気まずいんだ」
「へえ。誰だっけ」 
「クララだ」
「アイリスだろ? ──忘れたのか」

 ハンクの苦笑に、オリンダは深く息を吐く。

「……あいつ、少し前から従姉を手伝ってるんだ。それで市内に通ってる」
「家庭教師じゃなかったか?」
「とっくにクビになったよ。あいつはいつもそうだ、勝手なことして、人の怒りを買う」

 オリンダは低い語調で答えた。ハンクは拭いていたグラスを棚に置くと、両手をカウンターについた。

「……何があったんだよ」

 穏やかにハンクが言う。

「ローズって、仲のいい従姉がマンハッタンで活動家をやってるんだ。何だか言う、建築物保護の団体でね。今それを手伝ってるらしいんだけど……どういうわけか、その関係でウチに訴状が届いた」
「訴状だって? ……あれか。手柄欲しさに活動家の背後を付け狙ってるサツのせいか」
「……わからない。ただ、訴状にははっきりと書かれてた。器物損壊、不法侵入、公共の安全に対する脅威」
「その子、サフラジェットか?」
「あいつにそんな信念はないよ、政治的な主張も。正直よくわからないが、とにかく心配だ。あいつがローズの為にここまでする奴だとは、いや、少しは思ってた。でも、思っていた以上なんだ」

 オリンダは残りの酒を呷ると、「同じやつ」、と短く言って続けた。

「ローズってのは悪いやつじゃない。アイリスの数少ない友達で、月に何度か顔見せて家の外のベンチとか喫茶店で紅茶を挟んで世間話してるって言ってた。それが半年前、突然団体を立ち上げるのにアイリスを誘ってきた」
「半年前?」

 ハンクは訊ねながら、オリンダのグラスに酒を注いでいく。

「ああ。それから1ヶ月でアイリスはそこを辞めて戻ってきた。家庭教師の職を得て失ったのはその後。で、そのローズがまた助けてほしいってアイリスに手紙を寄越したのが少し前。行ってやれって背中を押したのはあたしだ。それからアイリスは忙しそうにしてたが、やりがいも感じてるみたいだし、あたしも放っておいたんだ。──それが、よくなかった」
「サツにパクられてたんだな」
「ああ。あたしゃもう、何が何だか」 

 言って、オリンダは首を振った。

「活動家なんて1セントにもならないことで、命まで張らないでほしいね……頼むから。誰か、あいつにまともな仕事を紹介してやってくれ」

 ハンクは苦笑した。

「……家政婦は」
「メイド服が嫌だとさ」
「……工場勤務」
「1日で飽きて辞めるだろうな。30分もったら良いほうだ」
「じゃあ……看護師は」 
「あいつに怪我人病人の世話させるのか。戦争でもない限り、やめといた方がいい」
「それか、あんたがやってる格闘教室を手伝ってもらうのは」
「2人で同じことしてどうする? 場所代はあたしが払ってんだ、その上あいつの給料まで払えって?」
 
 オリンダは再び大きな溜め息を吐く。ハンクは少しだけ考えて、まぁな、と頷いた。

「そりゃあ、活動ってのは確かに1セントにもならない。だが未来の人々に何物にも代え難い価値を生んでいるかもしれない。活動家ってのは、そういうものだろう」

 言われて、オリンダは渋面でハンクを見た。次いで、カウンターの向こうにあるカレンダーを見やる。
 ──1912年、12月。

「あたしが格闘教室を始めたのは、それのせいだ」

 オリンダはぼんやりとカレンダーを見つめながら呟く。ハンクは首を捻った。
 
「何のせいだって」
「サフラジェットだ。──1904年の3月。ニューヨークのど真ん中で、とんでもない数の婦人が五番街を占拠して、女性の権利を訴えた。スピーチに行進。どれも平和的だったが、警察の対応は酷いもんだった。でも婦人たちの中には柔術で対抗する人もいたんだ。……あれを見て確信した。あたしの特技は、彼女たちのためにあるって」

 言いながら、オリンダは脳裏にアイリスの姿を思い浮かべた。劇場街のワイヤーの上で、人々の注目を集めるアイリス。彼女はそこで、何かを叫んだだろうか。

「あいつ……劇場街のワイヤーに登ったんだってさ。すげぇだろ。恐れ知らずで……いや、恐かったはずだ。でも、それを乗り越える度胸があるんだ。あたしと違って」

 言いながら、オリンダは袖で目を拭った。
 自分はアイリスの事情を聞こうとしなかった。突然届いた訴状に動揺し、親友を失うことを真っ先に恐れた。

「8歳のガキの頃からそうだった。肝が据わってた。エンディコットの屋敷にいた頃も、宝物が奪われるまで耐えてたんだ。伯父の言いつけで仕方なくとはいえ、ハイスクールを卒業してみせた。それから燃えちまった実家のヴォードヴィルがあった場所に戻ったんだ。……そこに何があったと思う?」
「何があったんだ?」
「バーレスクだ。外見ばっかりキラキラで、裸同然の女たちが踊ってる代物さ。誰もパフォーマンスなんて見ちゃいない。でも、あいつはそこで働きたがった。自分の演技をするんだって」
 
 でも、とオリンダは続けた。

「あそこの連中は幕の下ろし方ひとつまともに知らない奴らだった。オケの音量はでたらめ、照明だってタイミング通りに点いたためしがない。それでもあいつは……アイリスは食らいついた。勤め始めて暫くしてから一度見に行ったけど、劇場は見違えてた。……あいつ、自分で照明だの幕だの操作して見せて、スタッフに教え込んでたんだ」
「そりゃあ凄い」
「なんたって劇場の子だ。それから自分で支柱やロープをこさえて綱渡りを見せてた。立派だったが、客の連中はそんなの見ちゃいない。アイリスに向かって、『脱げ』としか言わないんだよ。綱渡り師なんかお呼びでないって。でも無理なんだ……あの子が際どい格好なんてしたら、背中の火傷がイヤでも目に付く」

 堰を切ったように感情を込めて言った後、オリンダは息を吐いた。ハンクはオリンダの言葉の全てを理解したわけではなかったが、真に迫るものを感じて神妙に頷いた。

「……それでもチャンスってのは巡ってくるもんだ。ある時、タレントエージェンシーをやってるメルマンって男が劇場に来て、アイリスを引き抜いた」
「そりゃあ、すごい」
「──ブロードウェイだ。華々しくショーのパフォーマーに抜擢された。ジーグなんだかいう大物劇作家に売り込んで、うまくいったらしい」
「ジーグムンドか? だとしたら、たしかに大物だ」
「たしかそんな名前だ。全部が順調に進んでた。……けど、それが最初で最後になった」
「本番で、ヘマったのか」
「……逆だよ。予定に無い大技をこれでもかと詰め込んで、そいつの怒りを買った。あのクソ野郎、女風情が俺の本を蔑ろにするなってさ。それでそのショーだけじゃない、ブロードウェイ中の、ヤツの息が掛かった劇場全てから仕事を奪われた。──干されたんだよ。たったいちど、張り切っただけで」

 ハンクが眉を寄せた。アイリスの失望と憤りがオリンダの語調を通じて、伝わるようだった。
 
「落ち込んだ、なんてもんじゃない。食事も喉を通らない時期がしばらく続いた。……それからあいつは、パフォーマーとして給料を貰うのを諦めた。場末のバーやサルーンでダンサーやったりしながらチップで食いつないで、客から貰った煙草を吸うようになった。火が苦手なくせに。──危ないポン引きに会う度、あたしが教えた技で懲らしめてたらしい。でもいつしか、客前でパフォーマンスすること自体、なくなった」

 最後の方は消え入るような声で、オリンダは呟いた。

「それからだ……あの子は、夢遊病になった。半覚醒のままフラフラ出歩くやつだ。普通に考えたら精神病院、良くても外鍵付きの部屋に閉じ込めるのが主流らしい。でもあたしにそんなことできなかった。だって、あいつはどこまでだって行けたはずなんだ。心があんなに傷ついてさえいなきゃ、どこまでだって……」

 ナッツで皿を叩く音が大きくなる。顔を伏せたオリンダの目から、ぱたぱたと光るものが落ちた。ハンクは無言で、オリンダの背中をさする。

「今朝、あいつを突き放すようなことを言った。とっとと行っちまえって」
「……そうか」
「事情も聞かずにだ。ようやく前を向き始めたかも知れないあの子に。こっちの気も知らないで、楽観的に構えやがってって腹が立った。でも今考えたら、あれは気丈に振る舞ってたんだ。だって訴状にいちばんビビってたのはアイリスのはずだ」
「かもな」

 ハンクはオリンダの背中を軽く数回叩いた。オリンダは袖で涙を拭き、顔を上げる。
 
「……今日、帰ってきたらあの子に謝るよ。これからどうすべきか、落ち着いて一緒に考える」

   ⚜⚜⚜

「私はずっとここで帽子を売っていたんです。赤と緑の帽子。クリスマスらしいでしょ?」

 カールッチ・ビルの前で立ち話をしていた露店の女性にリチャードは話しかけたのだった。彼女はアイリスがワイヤーに登ったあの夜、ここから追手の姿を見たという。

「このビルの隣あたりから伸びるワイヤーね。屋上から綱渡りしてるって声が聞こえたわ。その時も、私はきちんと、言われた通りにここで帽子を売っていました。ねぇ、私って真面目でしょう?」
「ええ、そうですね。店主もすごく助かっていると思います」
「少しはお給料、弾んでもいいと思わない? ねぇ」
「はい、ほんとうに」

 リチャードは笑顔を引きつらせながら、世間話に飢えた女性へ相槌を送る。

「その時、つまり綱渡りが現れた時、あのビルの上に怪しい人影を見たというのは確かですか」
「ええ、見ていましたとも。何せ真面目に店番をしてましたから。ここから一歩も動かずにね。屋上にいた男たちはワイヤーを見て、渡るのを躊躇していたわ。そう、女性を追い掛けていたように見えないこともなかった」
「なるほど。……また、お話を伺うことがあるかもしれません。その時は連絡します」
「証言ってこと? お話できるかわからないですよ、だって」
「ええ。もしここの店番を頼まれていなかったら、の話です」

 リチャードはメモ帳にペンを走らせる。そしてアイリスを振り返った。

「──で、君は何してるんだ」
「かわいい?」

 赤いベレー帽を被ってポーズをとるアイリスを見て、リチャードは嘆息した。

「まだ言ってなかったか? これは君の為にやってるんだ」
「──すみませんでした、先生」

 アイリスは慌てたように帽子を置く。リチャードは隣に置かれた大きな羽飾りの派手な帽子を見やり、アイリスに目配せした。

「そっちを被ったらどうだ。まともに見える」
「……本気? もしその帽子を被るか食べるか選べって言われたら、あたしはケチャップを持ってくるわ」
 
 アイリスの冗談にリチャードは声を上げて笑い、こちらを睨めつける店番の視線に気付くと咳払いした。
  
「さて、次は……ワイヤーの会社か」

 アイリスはリチャードを見上げた。

「どこにあるの?」
「デランシー・ストリートだ、駅に広告が出ていたのを見ただろ?」
「よく周りを見てるのね。……すっごい」
「ここからだとかなり南下する。訴状の対応の為にマンハッタンを縦断とは心が躍るな」
「……ちょっと待って」

 アイリスはリチャードに声を掛けた。「ニューヨーク市保存協会の事務所に寄っていいかしら。様子を見たいの」
「……早く訴状対応を終わらせたくないのか?」

 リチャードは怪訝そうにアイリスを見た。「時間をかけないでほしいんだがな」
「ちょっと顔出すだけ」
「すぐ済むか? ……どこにあるんだ」
「実は、このビル」

 言って、アイリスはカールッチ・ビルの3階の窓を指差した。

   ⚜⚜⚜

 荒れ果てた部屋の惨状はそのままに、事務所にはカミーラが独り、ローズのデスクに座って入り口を睨んでいた。

「……おはよう、カミーラ」

 ドアを潜り、アイリスはカミーラを見る。カミーラは生気の抜けた人形のように、デスクで鉛筆を削っていた。新品の鉛筆の箱が開けられ、カミーラの脇には先の尖った鉛筆が並べられている。

「アイリスさん。おはようございます」
「何を……してるの?」
「鉛筆を削っています」
「そうだけど……なんで」

 カミーラは泣きそうになるのを堪えるように顔を顰めた。

「ひょっとしたらと思って事務所に来ましたが、ローズ会長はやっぱりいませんでした。当然です、酷い低体温症だったし、そんなにすぐ治るもんじゃありませんから。……でも私独りで病院に行ったって『部屋に入れろ』『入れない』の押し問答です。仕方がないからここで何かをしようと思って……鉛筆を」

 そこまで言ってカミーラは、アイリスの背後にいるリチャードに目を向けた。

「その人は? ……ああ、やっぱりいいです。どうせアイリスさんの『秘密結社』のメンバーなんでしょう」
「彼はリチャード。色々あって……そう、秘密結社の一員。マークは来た?」
「ここには今朝から私1人です。あの人だってどうせその辺をほっつき歩いていますよ、仲良しの記者さんと一緒にね」

 リチャードは事務所に足を踏み入れる。
 記憶にあるのか無いのか、部屋の中を注意深く見回すと、アイリスに視線をやった。

「秘密結社に入った覚えはないが。それに、低体温症って?」
「ああ……」

 アイリスは答えあぐねて言葉を探す。

「昨日の話なんだけど、協会の会長……つまりあたしの従姉のローズが昨日、ギャングに攫われてホテルに監禁されたの。それを、あたしの従姉の従妹が助けに行ったってわけ」
「……従姉いとこ従妹いとこって」
「それは──」

 アイリスが口籠る横でカミーラが呟く。

「アイリスさん本人」
「ああ……?」と、リチャードは今ひとつ事情を飲み込めないまま頷いた。
 アイリスは嘆息する。

「ローズは水路に監禁されたの。それで、低体温症に」
「それを助けたって? つまりあんたが、ギャングたちから彼女を救い出したのか」
「まぁ、多少の『話し合い』があったけど」

 リチャードはカミーラを一瞥する。彼女はすでに鉛筆を削る作業に戻っており、リチャードの理解を助ける役目を負う気はないようだった。

「……ギャングと『話し合い』をした翌日にしては、何というか」リチャードはアイリスに視線を戻し、その顔をまじまじと見る。「平気そうだ」

 アイリスは肩を竦めた。

「平気じゃないわよ夢遊病だし。──カミーラ、昨日のことで街の反応はどんな感じ?」
「夢遊病?」

 混乱するリチャードをよそに、アイリスはカミーラに訊ねる。
「どんな、と言われても」とカミーラは眉を寄せた。「とりあえず新聞の見出しはこうです。『ホテル・ハイタワー、暴徒化した市民により占拠』とかなんとか。ローズ会長のことは何処にも、何も書かれていません」
「伯父さまが何か手を打ったわね……」
「そうなんでしょうかね。──もういいですか? 私は鉛筆を削らないといけないので……」

 カミーラは鼻を啜ると、削り終えた鉛筆を脇に追いやり、また予備の鉛筆の箱を開けた。アイリスは目を閉じて首を振る。

「……はやくローズが戻らないと、事務所が尖った鉛筆だらけになっちゃう」

   ⚜⚜⚜

 ドロツェスキー・ワイヤー&ケーブル社は、外壁面に商業広告が所狭しと描かれた古いレンガ造りの建物だった。建物の端に階段のついた玄関ポーチが見え、リチャードはまっすぐにそこへ向かう。その背中を追いながらアイリスが訊ねた。

「何の用で来たって言えばいいの?」

 困ったようなアイリスの顔を見て、リチャードは息を吐く。
 
「あんたは話さなくていい」
 
「うわ、まただ」と、アイリスはリチャードの背中を平手で叩く。「弁護士っぽい」
「やめろ。これでも色々考えながら歩いてるんだ、余計な刺激を与えられると忘れちまう」
「得意だものね、忘れるの」
「──何とでも言え」

 扉を潜ると無愛想な白い廊下が伸びていた。玄関脇に控えた年嵩の警備員がすぐさまリチャードの元に寄ってくる。

「すみません、何か御用でしょうか」

 リチャードは毅然と答えた。

「──失礼、私はリチャード・ハインツ・ウィッテンバーグと申します。こちらのアイリスさんの代理人です。責任者の方はどちらでしょう」
「代理人?」と警備員は訝しげに言った。「弁護士ってことですか」
「まぁ、そんなところです」
「とてもそうは見えないが」
「見えなくても、そうなんです。それで、責任者は」
「事務室ですが……」
 
 返答を聞くなりリチャードは「こっちか」と唯一の扉に向かって歩く。

「待ってくださいよ、その先は」

 警備員の制止をよそにリチャードは扉を開く。そこは広い空間に構えられた工場だった。鉄骨でできた梁や柱には規則正しく電灯が並び、その下には圧延機や巻取り機、引伸ばし機が並んでいる。
 その間を作業員たちが忙しなく往来していた。

「危ないです、戻って」

 騒音の為に声を張り上げる警備員に、リチャードは振り返って大声で応じる。

「責任者に黙って弁護士を追い返すのは賢明とは言えないでしょう。すみません、少しの間で済みます」
「ああもう……事務室は右奥ですよ」

 不承不承、事務室の場所を示して警備員が下がる。アイリスは機械と機械の間に張られたワイヤーを指差して言った。

「見て。巨人を引っ掛ける罠みたい」
「……何だって?」
「巨人を、引っ掛ける、トラップみたい!」
「最悪の空間だな。騒々しいし、満員電車より窮屈だ」
「違う、巨人がワイヤーに引っ掛かって転びそうだねって!」
「悪いが何も聞こえない」

 作業員と機械の間を縫うように進み、リチャードは工場全体を監視するかのようにこさえられた、大きなガラス窓のある事務室の扉を数回ノックした。

「失礼します」

 ドアに背を向けて椅子に座る男の背中があった。
 簡素な木製のデスクの上に広げられた紙を丸めて、グレーのスーツ姿の中年の男が立ち上がる。

「何だお前。どこから入った?」

 リチャードが扉を閉めると、工場の騒音が嘘のように遠のいた。リチャードはアイリスを示して紹介する。
 
「私はこちらのミス・パメラ・アイリス・エンディコットの代理人で、ウィッテンバーグと申します。少しお話をよろしいでしょうか」
「何だって、エンディコット?」

 男──ドロツェスキーはその名前を聞き逃さなかった。
 顎に整えられた髭はスーツと同様にグレー、髪は薄いが目の光は生き生きとして見える。

「こりゃ驚いた。あの大層大きな企業さんとこのご令嬢がいったいこんな、しがないワイヤー製造会社に何の用だ? しかも、代理人なんか連れて」
「実は御社のケーブルについて、人が乗っても切れない、落ちないと評判を聞きました。それについてのお話なんです」

 リチャードの言葉を聞いた途端に、ドロツェスキーの顔に光が差した。
 
「ひょっとしてこないだの高所騒ぎを知ってるクチか? そうなんだよ、あれはウチのケーブルだ。……おい、ちょっと待ってくれ」

 ドロツェスキーはアイリスのことを指差して、笑顔を引きつらせた。

「こちらの女性は、もしかして」

 アイリスはそうです、と頷いた。そしてリチャードの了承も得ずに口を挟む。

「その高所ケーブル騒ぎを起こしたのがわたくしなのです」
「こりゃあ……」

 ドロツェスキーは言いながら、どういうわけかリチャードと木製のデスクの間に、不自然に割って入るようにゆっくりと移動する。

「……そのデスクに何があるの」

 アイリスが言葉を言うと同時に、リチャードはドロツェスキーを脇に避けてデスクの上の紙を開く。

「待て、そこには大事な帳簿が」
「──これは」

 そこにあったのは、広告ポスターの原案と思しきスケッチだった。ワイヤーの上に立って笑顔を振り撒く女性、その髪は風にそよぎ、ワイヤーにはリースや星の飾りが下がっていた。
 リチャードは不敵に笑う。

「これは、困ったことになりました。ねぇ、ミス・エンディコット」
「……は?」

 アイリスは首を捻る。ドロツェスキーはいやぁ、と困ったように苦笑いを浮かべていた。

「あの騒ぎを受けて、デザイナーに描いてもらったんだよ。またとないチャンスだってね」
「ニューヨーク州法公民権法の51条」
 リチャードはきっぱりと言った。「この広告はミス・エンディコットの許可を事前に得ていない。となれば当然、差し止めの対象になります」
「ああ、いやぁ……はは」
「同法の制定の決め手となった1902年の判決をご存知でしょうか? ある女性の肖像が無断で石鹸の広告に使用され、法廷で敗訴したのが発端ですが……これを重く受け止めた州議会は、直ちにこの法を制定した。今まさに、ここで起ころうとしていることだ」

 リチャードが憤りの表情で詰め寄る中、アイリスは広告の絵に目を落とす。ドロツェスキー社のロゴ、その下に笑顔の女が描かれている。
 アイリスが小声で呟いた。

「あたしのおでこ、こんなに広かった? それにこの時、ワイヤーの下には何も下がってなかったわよ」
「……アイリス、ちょっと黙っててくれ」

 アイリスの耳元で小言を囁くと、リチャードはドロツェスキーに向き直る。

「エンディコットさんからたった今、提案が」
「提案だと?」
「ドロツェスキーさんの広告案自体は非常に優れており、無駄にするのは心苦しいと。しかし描かれたワイヤーを見てください。あの日のワイヤーに装飾は無かった。明らかな誇大広告だ。無許可でここまで作成されている点を鑑みても……とうてい看過することはできない」

 そこへアイリスが口を挟む。
 
「──おでこの広さも」
「そう、おでこも。……ああ、もう」

 リチャードは仕方なく付け足した。ドロツェスキーは神妙に頷く。
 
「なるほど……」
「そこで、我々からひとつお願いがあります。彼女は率直に言って、今あるトラブルで困っています。ワイヤーに登った危険行為や、市の保有財産を損壊したとの嫌疑が掛かっている」

 しかし、とリチャードは続けた。

「実際にはワイヤーは壊れておらず新品同然。『使えなくなった』と言うのは市の都合によるものです。だってそうでしょう? 御社のワイヤーは人が乗ってもびくともしない。──違いますか」
「ああ、そうだ。こんな程度じゃ何も起きやしない。新品同然だろうな」

 よろしい、とリチャードは頷いた。

「あなたには、そのように声明を発表して欲しい。彼らは言うなれば、切れてもいないケーブルを切れたと言って貴方がたの名誉を不当に傷つけているも同じ。大変許しがたい行為であり、断固として抗議すべきだ」
「うむ……確かにそうだ。我々の知らない間にそんな事が」

 起きていたんです、とリチャードは神妙に頷く。

「もし言う通りにしていただければ、こちらの広告案については承諾があったものと見なしてかまいません。……どうです?」
「ああ、構わない」
 
 ドロツェスキーはアイリスの両手を握り、目を合わせて何度も頷いた。

「あなたの心労、お察し致します。いや、お役に立てるのならば、どんなことでも」

 言われて、アイリスは「そう?」と少し得意げに笑った。

「この広告自体は本当に素晴らしい出来ですから……これで貴方たちのワイヤーのシェアが拡大することを心から願っていますわ」
「いや、なんと寛大な!」

 予想しない材料があったお陰でこちらの思惑通りに事が運び、リチャードは満足そうに頷く。ドロツェスキーはアイリスの手を握ったまま興奮気味に続けた。

「じつを言うと、コーネリアス三世の経営手法には感銘を受けました。彼に倣って工場勤務者の賃金を1日2ドルから3ドルに改定したところ、生産性が上がったんですよ」
「やっぱりね、思った通りよ。──ねぇ、そんなことより」
 
 アイリスはひとつ、物言いたげにドロツェスキーを見た。

「やっぱり前髪でおでこ隠せない?」
「いや駄目だ、デザイナーが躍動感を表現したいと」
「ああ……そう」

   ⚜⚜⚜

 リチャードは窓際の客席に着くと、店員に声を掛けた。アイリスがそれに続く。

「コーヒーを」
「あたしもコーヒー。あとベーグルを」

 席についたアイリスが注文すると、ニューヨーク・デリの店員は申し訳無さそうに首を振った。

「終わっちゃったのよ、そのメニュー」
「ああ……そうだった。おすすめは?」
「今はローストビーフサンドね」
「じゃあそれを」

 リチャードが目を丸くしてアイリスを見た。

「食うのか」

 ええ、とアイリスは当然のように頷く。
 
「ニューヨーク・デリはレストランだもの。あなたも頼めば? お礼に奢るから」
「……マジか」
「マジよ」
「──僕もそれを」

 リチャードが店員に頼み、店員は笑顔でそれに応じた。程なくしてコーヒーが運ばれてくる。
 リチャードはそれを一口飲み下すと、大きな溜め息をついた。

「……あの広告に描かれた女の能天気な笑顔を思い出した」

 リチャードの言に、アイリスはくすりと笑った。
 
「ほんとうに助かったわ、ありがとう」
「ああ。あとはこれを君の『本当の』代理人に引き継ぐだけだ」

 リチャードがノートをひらひらと振った。アイリスはそうね、と小さく頷く。やはり彼自身は法廷に立つつもりは無いらしい。そのことに、今さらながら落胆の念を抱く自分が嫌だった。
 そこから二の句が浮かばずに、アイリスはコーヒーに口をつける。
  
「……路端でグリニッジ・ヴィレッジの若者たちが熱心にビラを配っていた」

 リチャードが口を開いた。
 
「──それが何?」
「受け取りに行かなくていいのか?」
「あたしは別に共産主義者じゃない」
「彼らだって自称してない。生活に苦しんだり、思想弾圧に抵抗しているだけだ。いちどワシントン・スクエアで彼らの声を聞くといい。道端で人種平等を語ったり、背の高い帽子を嫌ってる君と本質的には変わらないよ」

 リチャードの言い草に、アイリスは苦笑した。
 
「あたしはただ派手な飾り帽が嫌いで、肌色の濃い友達がいるだけ」
「……へぇ。友達」

 「そう、友達」とアイリスは頷きながら、今朝のことを思い出して胸が重くなる。

「……今、その友達のことを考えたね」

 リチャードが静かに言った。アイリスはリチャードを見返し、ええ、と呟いた。

「どうして?」
「後ろめたそうな顔をしてる。その人と何かがあったんだろう」
「……洞察されるのって、いい気分じゃないのね」
「じゃあ、この辺でやめておく。べつに興味も無い」

 真顔で言うリチャードから、アイリスは視線を逸らした。
 
「あんたみたいな人を、大勢弁護した」言って、リチャードはコーヒーを一口すする。「僕は昔、活動家を権力から守るためにタダ働きしてたこともある」
「……あたしは活動家じゃないったら」
「第二のエマ・ゴールドマンになれる」
「目指してない」
「なら、誰を目指してる?」
「わからない。……アイリスよ。もっと強くて、自由で、正しいことができるあたし」

 リチャードは不思議そうにアイリスを見た。
 
「ニューヨーク市保存協会は、その活躍の場ってところか?」

 問われて、アイリスは沈黙した。自分は何か、信念を持ってホテル・ハイタワーを守ろうとしている訳では無い。ただ、──彼女に誘われて入っただけなのだ。
 次にアイリスが「あれは」と口を開いた時、ちょうど2人の前にサンドイッチが運ばれてくるところだった。早いな、とリチャードは苦笑する。

「とりあえず、いただこう」
  
   ⚜⚜⚜

 リチャードはサンドを一口かじると、満足そうに頷いた。

「いいね、ボリュームがある」
「でしょう? ここの店、結構いけるのよ。劇場関係の人達が溜まり場にしてるみたいなのが、ちょっとヤだけど」
「……気まずいことでも?」
「べつに。──何でもないわ」

 言葉を濁すアイリスを、リチャードは怪訝な顔で見返した。

「……いや、気のせいか」

 アイリスは首を傾げる。リチャードは慌てたように手を上げた。「何でもない、ほんとうに」
 
 食べさしたサンドイッチを皿に置き、リチャードはアイリスに訊ねた。

「金。本当にいいのか」 
「いいのよ。伯父さんがいっぱいお金くれたの」
「何の金だ?」
「……わはんない」

 ローストビーフサンドを頬張りながら答えるアイリスに、リチャードはそう、と短く答え、自身もサンドに齧り付く。
 
「本当に、分からないのか?」
「保釈された夜に札束渡されて、これ何のお金なのってあたしも聞いたのよ。そしたら『知らん、自分で考えろ』って」

 聞いていたリチャードは息を吐いた。

「……それ、弁護士雇えって意味じゃないの」

 ローストビーフサンドを齧っていたアイリスの動きが止まった。暫く考えたあと、ふたたび咀嚼を始める。

「……伯父さまっていつもそうなの。言葉足らずで」
「言葉は足りなくても、金は足りてる」
「たしかに。言えてるわ」

 サンドイッチを食べ終えて、アイリスはどこか遠い目で窓の外を見るリチャードの横顔を見た。その視線に気付いたリチャードがアイリスを見て、肩を竦める。「……そろそろ話すべきか?」

 アイリスも肩を竦めた。「そうね」

「僕が何を話すべきか言ってみろ」
「例えば……記憶喪失のフリをしている理由とか」

 アイリスの言葉に、リチャードは苦しい笑みを浮かべた。

「……まいったな」その声には溜め息が混じっている。「なぜ気づいた」
 
「2人で話したわ。通りを歩いて、子供やサンタ、人種について語り合った。サンドイッチも食べた。事務所に寄ると言った時、あなたは難色を示した。面倒を避ける為に……それで何となく思ったの。あたしに何か隠してるって」
「……君を見くびっていた」
「よく見くびられる。女だから」

 息を吐いて、観念したようにリチャードが口を開く。

「白状するよ。僕は……記憶喪失なんかじゃない」
 リチャードは渋面のまま、頭を掻いた。「そうでもしなきゃ、どうにもならないと思った。……組織が、警察が僕を探している。彼らから逃げおおせるには、何も知らない人間の振りをするのがいちばんだと」

 アイリスの視線を意識しながらも、リチャードは冷めたコーヒーに目を落とす。

「覚えている。何が起きたのかも、何をしてきたのかも、すべて。だがそれを認めたら……僕はまた同じ場所に戻ってしまう」

 リチャードは詰まりそうな喉に残ったコーヒーを流し込んで、アイリスを見る。

「僕は真っ当な人間じゃない」

 沈黙が流れる。アイリスの目には複雑な色が浮かんでいた。それに気づき、リチャードは息を吐いた。

「……僕とアトラス不動産の関係を、すべて話そう」

   ⚜⚜⚜

 リチャードは昔を思い出しながら、遠い目で語り始めた。

「……僕は昔、悪ガキだった。いや、今でも充分ワルか」そう言って、リチャードは肩を竦める。「父が建設現場で大怪我をして、だんだんと酒に溺れて、心も病んでしまった。母は、ほとんど独りで僕と弟を養っていた。だが、やはり貧しかった。結局、乳飲み子だった弟は死んだ」

 リチャードの視線は絶えず遠いどこかを見つめていた。目を合わせないようにしているわけではない、単に昔を思い出しているのだ、とアイリスは思うことにした。

「それで、似たような奴らと一緒につるむようになった。仲間は4人いて、ガキ大将に、臆病者のチビ、それに要領の悪いトロい奴。そして……僕。毎日のように悪さばかりして、スリや窃盗で食いつなぐような生活だったよ。まずガキ大将が無鉄砲な計画を持ち出して、僕がそれを助けたり、あるいはブレーキをかけたりしてね。残りの2人はいつもおっかなびっくりで着いてきた」
「……あたしと同じね」
「同じ?」

 アイリスの一言に、リチャードはアイリスを見た。

「誤解されがちだけど、新しい悪戯を思いつくのはいつもローズの方。あたしはそれに乗ってる。まぁ、あなたみたいにブレーキって感じじゃないけど」
「そうか。仲が良かったんだな、ローズと」
「ええ、今も仲はいい」
「……羨ましいね」
 
 リチャードの語り口には、少年時代のやるせなさと、少しの懐かしさが混じっていた。口調もどこか、かつていたであろう少年の存在を感じさせる。

「母が病気で亡くなってから、僕の居場所はその集団だけになった。それが……いちばんトロかった奴がサツにパクられて事情が変わった。チビは早々に抜けていったよ。結局、残ったのは僕とそのガキ大将だけだった。それから『ファウラーズ』っていうギャングに取り入ったんだ。当時それなりに羽振りも良くて、……その頃はもう、まともな道に戻るつもりもなかったから」

 少しの沈黙の後、リチャードは顔を上げた。

「でも、あるときボスが僕の計算力を見込んで、教育を受けさせてくれたんだ」
「……ジョセフ・ハミルトン」

 渋面で話を聞くアイリスからその名を聞いて、リチャードは目を見開いた。

「ファウラーズを知ってるのか」
「何でも知ってるのよ。……続けて」 
「とにかく──それが転機だった。僕は読み書きの勉強をして、彼の下で法務の仕事を手伝いながら学んだ」

 リチャードの言葉には、遠い記憶と、それを事実として受け入れるまでの覚悟が感じられた。

「ガキ大将と2人、ファウラーズに入ってからは、正直言って楽しかった。好き放題やって、それなりに名も知られるようになったし、毎日が小さな戦争だった。……だが組織にはルールがあった。仕事を失敗すれば罰を受けるし、仲間同士でも油断ならない。そんな中で、ジョセフは目をかけて色々と教育してくれた。ギャングの一員として身に付けるような知識じゃなく、……もっと『まともな』教養ってやつ。おかげで、手下の中でもちょっとした相談役のような立場になって、法務の記録整理やら、取引契約の裏方もこなしてた」

 アイリスがリチャードの目を見つめて微かにうなずくと、彼もまた自嘲気味に笑った。

「でも……それは長く続かなかった。組織の内紛や勢力争いでジョセフが消えたとき、僕とそいつは行き場を失った。僕は教育を受けて、知識も得て、少しは『普通』に戻れるかもしれないと……そう思った。だが──奴は違った。僕と共に入ったはずの彼は、どんどんと深みに落ちていったんだ」

 リチャードの話に耳を傾けながら、アイリスは憂いを含んだ視線を彼に送った。リチャードの口元の笑みが、ある種の沈痛さを隠しているかのようだったからだ。

「内紛や摘発、めまぐるしく変わる潮の流れを前に、多くの構成員が、変化を感じていながらも自分の身の振り方を決められずにいた。その中で奴だけが、いち早く動いた。組織を再編し、表向きは普通の企業として存続する傍ら、きっちり裏の仕事も続けた」

 リチャードは肩を縮こめて、視線をテーブルに落とす。
 
「僕も手を貸そうとは思ってた。だが奴は僕の協力をどうしても受け入れようとはしなかった。ジョセフが姿を消す前から、僕のことをあまり良く思っていなかったんだと思い知ったよ。考えてみれば当然だ……自分たちが危険を冒して稼いだ金が、ジョセフの手で僕の教育に回されていたのを目の当たりにしていたからな」
「……あなたが羨ましかったのね」

 アイリスがぽつりと呟くと、リチャードはどうかな、と苦笑した。
 
「少しはそれもあっただろう。だが僕だって状況は決して楽じゃなかった。体裁はどうあれ、最初から正式な弁護士というわけにはいかなかった。かろうじて適性は認められたものの、ロースクールも出てない僕に回ってくるのはせいぜい喧嘩の仲裁程度だ」

 リチャードは皮肉げに笑う。

「それに比べ、奴は……ヴィクターはカリスマ的なギャングのリーダーだ」

 アイリスは沈黙したまま、顔を伏せた。リチャードのここまでの話を聞きながら、彼とヴィクターの関係をどこかで察してはいた。それでも、リチャードの言を受け入れるのには時間が掛かった。

「ヴィクターは僕の協力を拒んだ。組織は自分だけでやると言って、僕を完全に切り捨てたんだ。そこに羨ましいだとか、そういう感情は無かった。ただ必要が無いから関係を切ったんだ。……結局、ジョセフがいない僕なんて半人前だと分かっていたんだろう。ヴィクターはそういう奴だ。淡々と状況を察して、デカいことをやるのに最低限の荷を伴って行く」

 リチャードが語るヴィクターの姿は、冷徹な組織のリーダーそのものだった。

「それから僕は、細々とした法務やちょっとした相談を受けたりして食い繋いでいたが、ある時僕たちの間の溝を深めた出来事があった。1903年の立ち退きをめぐる訴訟だ。僕は連中のフロント企業、アトラス不動産との明確な利益相反だと知りながら住人側についた。……幸い、その前に僕はヴィクターとの関係を切り捨てていたし、そこについては問題なかった。ただしあれ以来……ヴィクターが僕を見る目は変わった。『不要な人間』から、『邪魔な人間』になった」

 おそらくそれは、リチャード自身にも当てはまったのだろう、とアイリスは思う。彼がヴィクターとの対立を厭わなくなったのには、ヴィクターとの理解に諦めが生じたからに違いない。
 
「もう、連中の元には戻らないと決めた。ヴィクターと僕は貧しさの為に邪な生き方をして、ヴィクターはその生き方を肯定した。……僕は、その生き方を否定することを選んだ。その上で、支え合いながら、できればそんな生き方を誰もしないで済むような世の中を作りたいと思った」
「……立派だと思うわ」

 アイリスが呟くと、リチャードは「ふっ」と小さく笑った。

「ワシントンスクエア近くにある法律事務所に世話になっていた頃、初めて世の中を変えようとする人々の力に触れた。あの辺、ヴィレッジはほかの地区とは違っていてね。整然としたアベニューやストリートに囲まれながらも、斜めに走る通りが無秩序に交差して、過去にあった集落の影響が今もそのまま残っている。地価が安いせいか、貧しい移民や労働者たちが寄り集まり、互いに支え合って暮らしていた。今の秩序を変えたいという彼らの強い思いにも触れた。……けれど、あそこも再開発の波に飲まれようとしていたんだ。アトラス不動産もその一味だった」

 苦々しげに言うと、リチャードは続けた。

「あの地域を守りたかった。そのために、僕は活動家たちの支援を後ろ盾に市議になり、ヴィレッジの建築物や街並みに敬意を払うための法案を考え始めた。古いものにも価値がある、ただ取り壊してしまうだけでは本当の意味での発展にはならないってことを、法で示したかった。……ヴィクター達に」

 そんな時だったんだ、とリチャードは言う。

「噂を耳にした。婦人団体からの支持を後ろ盾に、建築物保護の活動を始めた人が現れたと」
「ニューヨーク市保存協会」アイリスが呟く。「ローズやあたし達」
「そうだ。こいつは利用できる、そう思った。温めていた草案を手に協会を訪ねて、彼女たちと合議を重ねて……少しずつだけど、僕が考えていたことに近付いていた。そういう実感があった」

 でも、とリチャードは声を落とす。

「それが……ヴィクターにとって、越えてはならない一線だったらしい」

   ⚜⚜⚜
 
1912年 11月1日
ニューヨーク市 グリニッジ・ヴィレッジ

 それはハロウィンの夜のことだった。正確な時刻で言えば、すでに11月になっていた。
 深夜になってもなお、窓の外に浮かれた人々の喧騒が聞こえる。メインストリート沿いの公園で催しがあるらしかった。絶えず聞こえる人々の話し声。思い出したように、時折歓声が上がる。
 リチャードはその夜、独りで草案とにらめっこをしていた。シャワーも浴びず、寝間着にもならずにいたのは、ひどく予感めいたものを感じていたからだった。
 それが的中したと分かったのは、卓上電話機が鳴った時だった。

「……もしもし」

 この深夜に繋いできたのは、知らない住所だった。何処かの埠頭の近くだ。

「繋いでくれ」
〈──久しぶりだな。リチャード〉
 
 ヴィクターの声だとすぐに分かった。
 彼の仕事の邪魔とも言える活動を支援し、半身を浸けている身としては、この後に続くのはおそらく自身に対する批判や嫌味だろう、とリチャードは予想した。

「ヴィクターか。何の用だ」
〈……このあと、そっちへ行くよ〉
 
 ひどく淡々とした物言いだった。行っていいか、と了解を得ることもない。

「今からか?」
〈そう〉
「いったい、なんの用だ」
〈バンシーを追い払うんだ〉
「……詩的なことを言う」
 
 リチャードの言には沈黙が返ってきた。リチャードには電話口のヴィクターがどんな表情でいるのか、想像がつかなかった。どういうつもりでいるのか、あこぎな商売を辞めるつもりはないのか、聞いておきたい気がした。

「待つよ」

 それだけ一言伝えると、電話は切れた。ほどなくしてチャイムが鳴る。ドアを開けると、ヴィクターが玄関ポーチの柵に寄りかかりながら煙草を吸っていた。

「よう」

 声を掛けられ、リチャードは軽く溜め息を吐いた。

「……よう、じゃないだろう。こんな時間に。僕が始めた活動に文句でも言いに来たか」

 さあね、とつぶやいてヴィクターはちびた煙草を放る。

「夜の散歩をしないか。リチャード」
「……含みの多い言い方だな」 
「来るだろ?」

 低い声でヴィクターは言う。その言い方は、彼がタブーに挑戦する時、決まってリチャードに声を掛けてくる時の調子に似ていた。街路に並ぶガス灯が朧に彼の顔を照らす。眼窩の奥でわずかに光る目が、まっすぐにリチャードを見据えていた。

   ⚜⚜⚜

「24年前だ。覚えてるか?」

 海沿いにある海洋雑貨店の裏手、桟橋の欄干にもたれながらヴィクターが言った。

「俺はここから客船を見送った。タグボートに曳かれて、スタテン島とブルックリンの間へ進んでいた」

 リチャードはいや、と首を振る。
 
「僕はそれを見たわけじゃない。でも、エディスのことを……お前から聞いたのは覚えている」

 なんだ、とヴィクターは背中を丸めて苦笑した。

「忘れたのかと思っちゃったよ」

 言いながら、ヴィクターは声を上げて笑った。渇いた笑いは、暗く淀んだ海の上を撫でるように響いた。
 リチャードはヴィクターの後ろ姿を見ながら、その笑いにうそ寒いものを覚えた。顔が見えないのがなんとなく不気味で、リチャードも仕方なく欄干にもたれて隣のヴィクターを見た。
 ──彼の目は、微塵も笑ってなどいなかった。

「俺はエディスを諦めなかった。客船が沈んでからも彼女を探しに行った」
「ああ。……2人でボートを拝借して、沖へ出たりもしたな。覚えてるよ」
「──だったら何で、あいつらと組む?」

 ヴィクターの怒りの理由を、リチャードはその時に察した。エディスはかつてヴィクターの安らぎだった。今、彼女の存在はヴィクターの中で痛みと後悔の源である。

「あの事故は」リチャードはヴィクターに躰を向け前のめりになった。「エンディコットとは関係ないだろう。ガルガンチュアはインペリアル・オーシャニック・ラインのものだ。そもそもが、イギリスの船だった」
「だがその会社はもう無い。何故だか分かるよな? リチャード」

 詰め寄るヴィクターに、リチャードも額を突き合わせた。
 
「事業買収のことを言ってるんだったら──」
「当然のことか。なら何故、コーネリアス・エンディコット二世は航海の直前にインペリアルの株を手放したんだ? どうして事故直後にインペリアルの株を買い漁った? ……それだけじゃない。事故直後にウォール街のブローカーと連絡を取って、あの船に乗り合わせた実業家の会社の株ほとんど全てに手を付けていたことが分かった」
「確かに奇妙に見えるかもしれないが……ひとつひとつの行動は全て合法だよ」
 
 言いながら、リチャードも金持ちの論理を全て理解しているとは言いがたかった。いかに優秀な実業家だとしても、加えてその死によっていかに経営会社の株価が下がったとしても、──会社は一個人よりも遥かに大きいという事に大衆は気付くものだ。だからこそエンディコット二世は犠牲者の持ち会社の株価が下がったところを狙った。
 ──けれども、事故の前にインペリアルの株を売っていた事実はリチャードにも説明がつかなかった。

「エンディコット一族が盤石の地位を築くのに、」とヴィクターは低く言った。「あの事故は不可欠だった。インペリアルの事業を取り込んだからこそ、今の海運帝国があるんだ」
「……お前は」リチャードも低く返した。「ハイタワー三世に近付き過ぎたんだ」

 ヴィクターは舌打ちし、リチャードから視線を逸らす。リチャードは軽く息を吐いた。

「ハイタワー三世からファウラーズに寄越されたクソみたいな依頼を、お前は随分と進んで引き受けていたよな。お前とハイタワー三世の間にどんなやりとりがあったのか……お前自身から聞いたこともあった」
「ハイタワーはガルガンチュア号の沈没にエンディコットが関与した証拠を持ってた。奴の信頼を得れば、エンディコットの船を沈められるはずだった」

 あのなぁ、とリチャードは呆れたように息を吐く。

「ハイタワー三世は人を動かすのにそういう手を使ってきたんだ。金じゃなく、人の弱みや欲しいものをチラつかせて支配する。……ハイタワー三世がエンディコット二世の息子、エンディコット三世といがみあっていたのを知ってたか? はっきり言うが、奴の入れ知恵なんて憶測と呼ぶことすら躊躇われる代物だ。……人はそういうのを、陰謀論と呼ぶんだ」 
「……」

 長い沈黙があった。そのあとで、ヴィクターは瞑目し、何度も頷いた。

「分かった。お前の言いたいことは、分かったよ。──理解した」
「……そうか。分かったら、もうくだらないことで僕に絡むな」

 リチャードは苦笑し、踵を返す。

「帰ろう──もう遅い」

 ヴィクターに声を掛け、リチャードは通りに戻った。 

   ⚜⚜⚜

「──それから?」

 先を促すようなアイリスの言葉に、リチャードは困ったような顔をした。

「それからも何も。気づいたら教会の2階のベッドに転がされて、歯医者から手当てを受けていた」
「ああ、なるほど……」
「……なんかこう、固い物で後ろからガツン、といったんだろうな」

 リチャードが後頭部を打つ仕草をして、アイリスは思わず顔を歪める。

「つまり……その、ヴィクターの話だと、彼はエンディコットに恨みがあったってこと?」
「そうだ。それも、ハイタワー三世が彼に陰謀論を吹き込んでからの話だ。ヴィクターは内紛や抗争の混乱の中で自分の恋人を危険な目に遭わせまいとした。が……その結果、酷い後悔をする羽目になった。ハイタワー三世との出会いが、彼に憎しみの矛先を提供してしまったようだ。……自分以外の」

 アイリスは両手で顔を覆う。

「……あたしも、エンディコットだ。そして、あたしの父も」その声は震えていた。「あたしの劇場は燃えたの。……ファウラーズのせいで」

 リチャードは首を捻る。アイリスは続けた。

「父アルフレッドは、エンディコット二世の次男。でも家族からは絶縁されていたわ。それでバワリーに小さな劇場を持ってた。あたしはそこで生まれ育ったの。……1891年に火事で焼けた、あの劇場で」
「そう……だったのか。──残念だ」

 リチャードは重々しく首を振った。
 
「待てよ。あれは……そうか」

 リチャードが思い当たったように言った。

「ファウラーズのシマでの劇場火災、確かにあった。だがあれはファウラーズじゃない。ヴィクターが独断で起こした」
「……どういうこと」
「ハイタワー三世がエンディコットのはぐれ者を使って情報収集をしてるって話をヴィクターから聞いたことがある。どうも奴はそれに関わっていたらしい。例の劇場がああいうことになってから、ヴィクターはその話をしなくなった」

 アイリスは目を見張った。

「あたしの父が……エンディコットのはぐれもの」

 リチャードは神妙な顔で頷く。

「エンディコット本家やファウラーズとのこともある。アルフレッドは言わば、ハイタワーのスパイだったんじゃないか」

 言われたアイリスは、きつく目を瞑った。
 エンディコットでありながら、エンディコットの家を追放された父。彼が劇場を持ったストリートは、ハイタワー三世と繋がりのある無法者たちの縄張りだった。ハイタワー三世は父の存在を知り、それを都合よく利用した……。
 アイリス自身、エンディコットの名による恩恵は受けてきた。それは分かっていた。でも、とアイリスは思う。
 ──この名を持たずにいられたなら、父も母も、自身も、そもそもその恩恵に預かる必要など無く平和に暮らせたのではないか。そう思えてならなかった。

「エンディコット……あたしは、この名前に呪われてる」
「……かもな」
「──ねぇ」

 アイリスはリチャードをひたと見た。その目には憤りが混じっている。

「教会の前で嘘はつかないって言ったのに、隠してた」

 言われたリチャードは目を丸くする。

「ああ、たしかに言った。教会の前では嘘をついてない」
「教会の上でならいいって?」
「こっちも慎重だったんだ。僕が出入りしていた頃のニューヨーク市保存協会にアイリスなんて名前の奴はいなかったし、敵か味方か見極める必要があった。ファウラーズの手先は警察内部にだっている。身を守るためには身を隠して別人になりきるか、記憶喪失を装うくらいしかない。法廷に立つなんて論外だ」
「それで……まだ疑ってるの? あたしは敵?」

 アイリスがいっそう顔を歪めるのを、リチャードはいたたまれない気持ちで見返した。

「まさか。怖い紙を見せられて『助けて欲しい』とまで言われたんだ。あんな姿を見せられちゃ……少なくとも敵だとは思えない」

 そう、とだけ呟くと、アイリスはカップを持って唐突に立ち上がった。

「──店員捕まえてくる」

 リチャードに背を向け、アイリスは震える声で言う。

「コーヒーおかわりしたいのに、……全然来ないから」と、彼女はカップを持たない方の袖で顔を拭い、カウンターへと向かう。
 リチャードは固い顔で、その背中を見送った。

   ⚜⚜⚜

 電話のベルがけたたましく鳴り、ニューヨーク市保存協会に詰めていたマークとニコラは同時に壁掛けの電話へ視線をやった。ローズのデスクで鉛筆を削っていたカミーラは立ち上がり、受話器を外す。

「カールッチ・ビル3階、ニューヨーク市保存協会です」

 淡々とした語調で応対するカミーラを、マークは固唾を呑んで見守った。カミーラは受話器を手にしたまま、背中を壁に預けて寄りかかっていた。

「はい……はい。……わかりました」

 溜息混じりに「お疲れ様でした」と呟くと、カミーラは受話器を置いてマークを振り返った。促すようにマークが頷くと、複雑な顔のカミーラが口を開く。

「……現場の検証が終わったようです。やはり暴徒化した市民が行ったもので、それ以上でも以下でもないと」

 舌打ちをした協会員はニコラだった。

「クソ、俺のケガはどうしてくれるんだ。強盗も誘拐もニューヨークじゃ事件のウチに入らないってか?」

 ニコラは憤りを露わに首を振る。そのようだね、と諦観を滲ませて頷いたのはマークだった。

「この協会どころか警察内部にも連中の力が及んでるってのは、本当らしい」

 カミーラは黙ったまま受話器の横で棒立ちになり、俯いたまま何事かを考えている様子だった。

「……少し、出てきます」

 ぼんやりと呟いたカミーラが出口に向かう。ただならぬ様子のカミーラに、マークは「大丈夫?」と声を掛けた。

「ヴィレッジの教会へ行ってきます。クリスマスパーティの準備をしないと」
「こんな時にパーティの準備?」

 呆れたようにニコラが肩を竦める。

「よく気が回るな。会長も留守、事務所はこのザマ。……俺には無理だ、そんなことは考えられない」

 カミーラはニコラを一瞥し、「では、帰ってください」と小さく呟いた。
 
「そうさせてもらうよ」ニコラは鞄に書類を詰め、立ち上がる。「──お先に」

 カミーラはニコラの背中が部屋の外へ出ていくのを無言で見届けると、続いて自身もドアを潜る。部屋で1人になったマークは、閉じた扉に向かって独り言ちた。

「まぁ……僕らにはこれくらいが丁度いいか」
 
   ⚜⚜⚜

 それからすぐ後、カミーラの姿はホテル・ハイタワーの秘密の倉庫にあった。コレクションルームの壁に掛かった無数の仮面、そのひとつの前でカミーラは足を止めた。

「カム・ダフリ。話を聞いて」

 2本の鋭く湾曲した角の仮面の前で、カミーラは異国の言葉を口にする。その仮面の眼窩の奥に存在するはずのない、2つの黄色い眼が朧に光を放った。

「……何だよ、あんたか。もしかして、もう次のハロウィンか?」

 気怠げな、低い声が仮面の内側から鳴った。カミーラは仮面に耳を寄せる。
 
「違うの。ちょっと聞きたいのだけど、この間ホテルに入って荒らし回った連中を追い払ったのは誰?」
「ああ、そのことか……あいつだ、緑の目の」

 そこまで聞いて、カミーラはやっぱり、と頷く。

「彼に伝えてほしいの、助かったって。それとお願い。私の仲間がハイタワーの自室に入るのを許して」
「そりゃ無理だ……ヤツは喋らねぇ。笑うばっかだ。イカれてやがるからな」

 仮面はそう言って、声を上げて笑った。「用があるなら方法はひとつ。恐れ敬うこと、だ」
「どうも。……参考にするわ」

 仮面の部屋を去るカミーラの背中を、引き留めるように声が鳴る。

「待てよ。──さっき『追い払った』って言ったか? アイツ、たぶん何人かあっち側に引き込んじまったぞ」

 カミーラは眉を寄せて振り返った。

「それ、こっち側に戻すのはまだ間に合うかしら」
「爺さんと違って体は残ってるから大丈夫じゃねぇの? 知らねぇし興味も無ぇ」
「──わかった。ありがと」
「ハロウィンが来たらまた呼んでくれ。ありゃ最高だ」

 仮面の言葉にカミーラはふ、と笑みを漏らした。

「考えておくわ」

 カミーラの呟きに答えはなかった。仮面の眼窩からはすでに光が消えたていたのだった。


いいなと思ったら応援しよう!