「学校という箱の価値」を考える
自由に外出もできない中ですが、最近立て続けにオンラインのミートアップとか講演会とかに参加をしたり、個人的にzoomでお会いしたりしています。むしろ、新しい知人がたくさんできたような気がします。
そんな中で、最近改めて感じているのは「学校という箱の価値」です。
「学校」という箱は、特に小中学校は、自力で通える範囲に存在する、学びの機会を保障する場所、であると思っています。そこに行けば、教科書が無償で配られ、学習環境(先生という、教えてくれる「ひと」や、理科室や音楽室、グラウンドなどの「設備」)がある。それだけでも十分な価値があると思います。先生や設備の当たり外れがあることは否めませんし、子ども個々の学びのスピードや学び方の多様性に合っているかと言われたら「うーん」となるわけですが、それでも、日本全国で、学習指導要領に基づいた最低限の教育は行われていると思います。「そんなの当たり前だ!」と言われそうですが、それすら、まだまだそろっていない国がたくさんあると思います。
でも「学校でなければ学べないのか」と言われると、「何を学びたいのか次第かな」と私は答えると思います。
昨日、Teach for Japanの講演会をオンラインで見ていて、参加者の皆さんからのまさに多様な質問に、いろいろ考えさせられました。
昨今の「緊急事態宣言」で学校に行くことができない子ども達のために、オンラインで学習できる動画サイトなどがたくさん紹介されていますが、子ども達がみんなそれをやっているのかと言われたら、それは???だと思います。実際に、私が参加している学び直しサークルでも、サークル活動日はオンライン学習サイトを使って子ども達が学習していますが、その日以外にサイトが使われている様子はありません(スタッフなので管理画面を見ることができるのです)。
それはなぜなのでしょうか?
そんな疑問を、昨日、私も講演者にぶつけてみました。すると、返ってきた答えは「自分のことを見てくれている安心感、が、学習意欲につながるのではないか」でした。
なるほど!目から鱗でした。なぜなら、その言葉の中に「学校という箱の価値」を感じたからです。
確かに、学校に行けば、時間割があって、先生がいて、ある意味、半強制的に学ぶ内容が決まります。一人一人の習熟度は確認されたりしませんし、一斉授業になってしまうことは多いでしょうが、45分(50分)の時間の中で、子ども達は自分で問題を解いたり、考えたりして、友達と意見を交換したり、先生から助言をもらったりして、安心した環境の中で学んでいくことができます。その安心感があれば、頑張れるのかな、と思ったのです。
GIGAスクール構想の中で、オンラインで個に応じた学習が今後進んでいくとは思いますが、「それなら先生は要らないか?」というと、そうでもなくて、
「次はこれをやってみよう」
「今どこまで解けた?ヒント出すから、この後は自分でやってみようか」
「ここでつまずいたということは、きっと、この単元の理解が不足しているから、○○まで戻ってみようか」
もしかしたら「ほら、起きて!」というのもあるかもしれませんが(笑)。
温かな声かけは、やっぱり人間の先生ができることなのかな、と思うのです。
そんな先生が、自分の力で通学できる範囲にいるということが、一つの価値なのではないか、と、昨日の講演会を聞いて、考えていました。
知識・技能を身につけるだけなら、テクノロジーに任せればいい。オンラインのタブレット学習で、知識習得率は格段に上がると思います。でも、「学びに向かう力」や「人間性」、「判断力」や「表現力」は、血の通った関係性の中で学ぶことで向上するのではないか、と私は思います。
AIに任せられることと、任せられないことがあると思います。生徒達の生き方を、生徒と一緒になって考えていく、生徒が苦しい時には、インタラクティブな対話を通して、親身になって考えていく、それが、人間の先生ができることだと思います。
魅力的な教師でありたいものです。