一つの身体、複数の意識、少しの風と好きな音楽
Adrianne Lenkerの2020年リリースアルバム'instruments'から'music for indigo'をヘッドホンできいている、午前3時半だ。
耳の箱庭で雨の音がしている。でもそれより強いのか、機嫌の悪そうな風が背中の窓の外でごおっと吹いた。その時何となく意識が離れたところで自分を感じている気分になった。
わたしの身体が居るのはこの片田舎の家の小さい部屋だけど、わたしの耳はこのAdrianne(ちゃんとした読み方がわからない)の世界に在って、意識も半分はそのなかに居る。わたしの目は光る画面のなかの仮想空間と仮想建物を俯瞰的に見ていて、そこにも意識が居る。でもこの現実の身体にも意識が居て、時折外の風や車の音を感じる。存在を感じている。
以前、臓器は自分の一部だが自分そのものではないのではないか、その証拠に臓器を意思でコントロールすることはできない、では自分とはなになのか、と思った時のことをノートに書いたが、そのときの不思議と少し似ている気がする。
わたしの身体はひとつで、そこから逃げることは出来ない。(わたしはしない)でもわたしの身体の一部一部はわたしの意識を切り取って、だから意識はそこらじゅうに在る。居る。時に電波に乗る。それはまるで自分の存在が切り分けられ、複数化するようで、そして各々で得たことが脳に収束して世界は多層化している、厚みを持つような気がする。時に面食らい、時に感動する。その繰り返し。
情報を感じ取る器官。情報の位置。種類。それによって受ける感覚の有無、種類。統合する脳。身体を機能させる心臓。全て自分であって自分ではない、ような。自分の思うように動くけれど自分そのものではなくて、意思や心のような見えない自分の意識の目的を達成させようと動く、意識の器であり匙のような身体。時にままならない、意識と身体の均衡。
技術は意識を身体から引き剥がした。建築は身体を受け止める。のかな。
風を感じるとき、わたしは静謐さを感じるように思う。どんなに騒がしくても、どんなに雑然としていても、ものごとや空間に少しの風を感じたとき、意識は一瞬身体を離れ、溢れる音の隙間で無垢な余白を見つける。胸がぎゅっとなるような横顔。そういう空間がすきだし、そういう音楽がすきだし、そういう人やものの一面がすきだ。意識も身体も同じ一瞬の風を感じている、そのときわたしはたったひとりのわたしである。とかね。
雑念混じりの遠回りな褒め方になったけれど、なにかを捉えると自分の記憶から似たものを探し思い浮かばせるような、ままならない脳を持っているので仕方ない。
Adrianne Lenkerのmusic for indigo、約20分の静謐で饒舌な世界が好き、というノートでした。