『なぜか惹かれる言葉のつくりかた』の文体の話
3月1日に書籍『なぜか惹かれる言葉のつくりかた』を上梓しました。noteで『そのプロジェクトに役立つ(かもしれない)「編集力」』マガジンにまとめている記事をもとに、より言葉に特化した視点で書き下ろしたものです。
noteが若い編集者に向けて書いたものだとしたら、書籍は編集者やライターではない人、でも仕事で文を書くことになってしまったような人に向けています。だからというわけでもないのですが、noteは「である調」で、書籍は「ですます調」で書きました。
すると、同じことを書いているはずなのに、構成が変わり、内容まで変わってくるんですね。スーパーに例えると、「である調」は、野菜について、魚について、肉について‥とコーナーごとに四季の品揃えを説明していく感じ。「ですます調」は、スーパーの入り口から出口まで目に入るものを流れで説明し、それを春夏秋冬繰り返す感じ。前者がブロックを積んでいくのだとしたら、後者はらせん状に上がっていくイメージです。
ところで、先日、ツイッターで鴻上尚史さんのこんな投稿を見かけました。
で、引用リツイートしました。
書籍に比べ雑誌では「表記の統一」が“当たり前”です。表記の統一がされていない、例えば同人誌的なものは、ページごとに違う表記がけっこう引っかかって読みにくいものです。そんな「表記の統一」が“当たり前”の雑誌でも、署名原稿であるエッセイやコラムは、作家の表記を優先します。コラム内で表記がばらつく場合も、著者にだまって統一することはあり得ません。
少し話がそれますが、『Hanako』創刊時には、椎根和編集長の意向で、天皇と呼ばれる伝説の校正者Mさんが中心となって、徹底した『Hanako』オリジナル表記をつくりました。例えば、電話番号の表記でも、03-1234-5678とハイフンでつなぐのか、03・1234・5678とナカグロでつなぐのか、使用フォントと級数(文字の大きさ)で、暗いところでも可読性が高いのはどれか何度もテストをして決めたものです。外来語は本来の発音に近い表記にしようと、「ジャグジー」は「ジャクージ」になったり、「エンターテーメント」は「エンタテインメント」になったり、それこそ後の主流表記になったものもたくさんあります。『Hanako』のアイデンティティと言っていいぐらい、表記を重要視し、こだわった統一だったのです。
今は雑誌はじめ多くの表記が、「新聞常用漢字表」に則っていると思います。全体的に、漢字をひらがなに“開く”(といいます)傾向もあります。そして、残念ながら、「表記の統一」が校正者任せで機械的になってきた感も否めません。
ただ、声を大にして言いたい。編集者は表記にこだわってほしい。編集者は著者と話してほしい。編集者は校正者と話してほしい。
「ダメ」と「だめ」と「駄目」のニュアンスがわからなければ、著者に聞けばいいのです。その使い分けに意味があるか著者と話します(怒られるかもしれないけれど)。使い分けを決めたら、それを校正者に話します。「だったらココは駄目じゃなくてダメでは?」などと校閲してくれるのが校正者です。
雑誌編集者だって、「今回のこの特集では、いつも漢字表記する、この言葉をカタカナで統一したい」ということだってあっていいと思います。強調したい言葉をカタカナにする、“ ”(カッコ)に入れるなどなど。つまり、その言葉を強調したい理由があるから表記にこだわるわけで、それは内容の根幹だったりするわけです。
私が引用リツイートした投稿を先輩編集者の中西大輔さんがさらに引用リツイートしました。
これは、「表記の統一」以上に驚くことです。「である調」と「ですます調」を書き換えるのは単に語尾だけの問題ではありません。中西さんの投稿どおり、「書く内容が本質的に変化する」からです。だから、「である調」か「ですます調」か、書く前に決めておくべきで…(もうこんなお説教は要らないですね)。それからちなみに、「である調」は正確には「だ・である調」です。
書籍『なぜか惹かれる言葉のつくりかた』を読んだかたから、「ギラついていなくて控えめで、読んでいて心地よかった」と言っていただきました。とても、うれしい。完全に「ですます調」のおかげです。文は人を表すから、私まで「控えめで優しい人」になった気分。noteの記事も「ですます調」に書き換えようかしら。