松平信康は徳川秀忠だったかもしれない-上田攻めと関ケ原の遅参
大河ドラマ「どうする家康」では、伝承に沿って信康の切腹に路線ができておりますが、最近発見された資料には築山殿と信康の死が書かれていないそうです
信康の切腹に関する謎
通説では信康が粗暴であったり、母・築山殿(瀬名)が武田とかかわりを持っていたと、信長の娘で信康の妻だった五徳が手紙で伝えたことにより信康は切腹させられます。また築山殿も処分を受けるため、移動していた道中にて殺害もしくは自害したとなっています
信康の切腹については江戸時代以降に書かれたものが多く、最も近い時期に書かれたものとされるのが1622年に完成された「三河物語」です
これによると酒井忠次が瀬名と信康の不満を書いた五徳の書状を信長に渡し、信長が切腹を命じたとなっています
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