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「ありふれた演劇について」28

先日、6月に吉祥寺シアターにて開催する円盤に乗る派『仮想的な失調』の情報が公開された。チケットも現在発売中です。

今回の作品は能(「船弁慶」)と狂言(「名取川」)のふたつの古典作品をベースに戯曲を執筆したが、これはなんとかして「物語を語る」ということがやれないかと思って選択した。「名取川」に関しては、昨年参加した「Creator's Cradle Circuit(3Cs)」というプロジェクトでも取り組んだもので、ルーイ(タイ)でのオンライン発表ではバンコクのアーティストKwin Bhichitkulさんと、東京でのパフォーマンスではダンサーの山口静さんと共同制作を行った。これらの制作ではいかにパフォーマンスを通じて「物語を語る」ことができるかを模索してきたが、今回はそれを語るための戯曲をいかに執筆できるかを個人的なテーマにした。

もちろん、戯曲はただの読みものでなく、上演のためのテクストにもなる。だからこのとき戯曲に要請されるのは、いかにして「物語を語る」ような上演を誘発することができるか、ということだ。あらゆる言葉、構成、設定が、上演のために意識されなければならない。3月上旬ごろにひとまず初稿を書き終え、ゆるやかに1ヶ月半ほどアトリエで俳優とリハーサルをしてきたが、少なからず手応えを感じてはいる。これからテクニカルスタッフとも一緒に実際の劇場に向けて仕上げていくことになるので、まだ未知の部分も多いが、どうなるか楽しみではある。

「物語を語る」ということについて、演劇なのだから物語を語るのは当たり前ではないかという感想を持たれる方もいるかもしれない。たしかにそうなのだが、自分で物語を背負いつつ、しっかりと物語を語るのは大変なことだ。物語と自分との関係性をあいまいにしたままであれば、比較的語るのは容易かもしれない。これまで自分は、多少物語を語ってきたとはいえ、自分の背負うことのできない領域については消極的に避けてきたようにも思う。今回自分の挑戦したことは、物語というものについてしっかりと正面から見つめ、関係性をできるだけあいまいにせず、背負うものはしっかりと背負い、背負えないものは積極的に距離を設定しながら、これまで自分が扱うことのできなかった「物語」を書くことだ。そのとき、古典作品はよい手がかりになってくれた。私と観世信光(「船弁慶」の作者とされている人物)、あるいは義経や静御前、比叡山の坊主との間の距離は決して曖昧ではなく、明確に存在するからだ。

そしてここで語られる物語は、私個人だけでなく、同時に観客にとっても明確な関係性を持っていなければならない。もちろん観客一人一人の個人についてなど知りようがないので、どういった関係性が生まれるかは結局のところわからない。しかし何らかの明確な関係性が生まれることを、せめて期待しなければならない。そして観客が能動的な姿勢でこの物語についてアプローチしたときに、演劇の、演劇としての意義が生まれるのではないかと思っているし、むしろ現代において演劇の、あるいは劇場のもつ価値というのはほとんどそれくらいしか残っていないのではないかとすら感じている。

観客が能動的に物語についてアプローチするとはどういうことか。やはり、その入口には言葉がある。言葉を口にすることがすべての始まりであるし、もしかしたらそれで十分なのかもしれない。演劇を観終わった観客がたった一言、家に向かう道すがらにでも劇中の台詞をつぶやいたのなら、その演劇は十分に使命を全うしたと言っていいだろう。奇跡的なことではあるが、しかしまったくあり得ないことではない。なぜかと言えば、演劇は観客に対して、台詞を口にするのとほとんど同じような体験を与えることができる。そこから実際に口にするかどうかは、ほんのわずかな差でしかない。ある演劇を観たときに、何かの台詞が頭にこびりついて離れないという体験をしたことのある人は少なくはないだろう。そのとき観客は言葉に対して、そして向こうにある物語に対して、能動的にアプローチしていると言える。

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