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「ありふれた演劇について」22

演劇というものをこれまで、通過するものとして捉えてきた節がある。どこに通じているかわからない穴に入って、真っ暗な中を進み、全然知らない場所に出る。この通路そのものが演劇だというようなイメージだ。マリオの土管のようなものに近いかもしれない。場合によってはかなり先のステージまで進める。そこは見たこともない景色で、元に戻ることもできない。1時間や2時間、暗い客席でじっとしながら、その通路を通過する。劇場を出ると違う景色が広がっている。同じような実感を持っている人は多いのではないかと思う。この体感は、生きることそのものに似ている。成長して、学校を出たり、違う街に来たり、人と出会ったり、様々な体験をすること自体が通路を通過することであって、その合間合間に違った景色が見える。当たり前だが、元に戻ることは不可能だ。一般的に人は遠くの場所に憧れるものだが、それは空間的な遠さに限らず、こうした体感としての「遠くに来た」感じも含まれるだろう。人生は歩みになぞらえられる。だとすれば演劇を観るのも遠くへ歩んでいく行為だ。それを実感できるのがよい演劇だと思うし、それを求めて劇場へ足を運んでいる。

最近気になっているのは、この通路の通りやすさについてだ。抽象的な言い方になってしまうが、今まで、スッと通れるような通路を作ろうとしてきた。入りやすい入口があり、目の前のものを追っていれば、最後まで進むことができる。障害物もないし、ある程度居心地もいい。要素は明確で、余計なものもない。それが理想だと思っていたし、一貫してそういうものを目指してきた。それが良くなかったと言うつもりはない。自分は自分のやってきたことにそれなりに自身を持っているけれど(映像を観返したりすることはほとんどないが)、そろそろ違う感覚を求めているように思う。つまり、通りづらい、あるいは「通りごたえ」のある、場合によっては障害物にもぶつかるような、そういう作品だ。「中身」と言ってもいいし、あるいはそれは創り手側の自意識とか、エゴの表出とも言えるかもしれない。もしくは観客や、あるいは俳優の自意識と衝突するような何かかもしれない。

これまでの作品に、自分の自意識やエゴが介入していなかったと言うわけではない。しかしこれまでは、そうしたものを作品にとっては非本来的なもの、なくても構わないが、どうしても介入せざるを得ないからあえて排除もしなかった領域のように捉えてきたと思う。私性のようなもの、例えば作家である自分にまつわる固有名詞とか、具体的なエピソードとか、そうしたものも反映されていたけれど、それはむしろ通路の通りやすさを担保するような、ひとつの要素として扱っていたように思う。私性はありつつ、エゴというものとは違うものだったのではないだろうか。今気になっているのは、このエゴが入り込む領域についてだ。

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