「ありふれた演劇について」29
円盤に乗る派の新作『仮想的な失調』がまもなく本番を迎える。少し特殊な形での創作を行っているので、これまでの過程を振り返ってみたいと思う。
今回は、演出にグループ・野原の蜂巣もも氏を迎えて、カゲヤマと共同演出の体をとっている。この体制は前回吉祥寺シアターにて上演した『おはようクラブ』(2020)に引き続きになるが、具体的なプロセスについては大きく異なっている。
『おはようクラブ』では、演出を「内面」と「外側/表れ」に分け、前者をカゲヤマが、後者を蜂巣氏が担当するという形をとった。戯曲の解釈や、俳優の演技における意識の部分をカゲヤマが演出したうえで、それを舞台において具体的な形にしていく作業を蜂巣氏にお願いするというプロセスだ。個人的には得るものの多い体験で、実際の上演も特異なものになったと自負しているが、両者の創作手順の差や、そもそも「演出」というものに抱いている前提の違いも浮き彫りになった。そのため、どこか「もっとうまくいったのではないか」という思いがあり、それを踏まえてまた違った形での挑戦の機会をうかがっていた。
運良く同じ吉祥寺シアターで再び上演ができることになり、企画が始まった今回の『仮想的な失調』では、全体の演出のプロセスを分担するのではなく、それぞれが独自のプロセスをとったまま、平行しつつ創作を行うという形をとることになった。2021年の夏、円盤に乗る場の近くの名店「どん平」でとんかつ定食を食べながらカゲヤマと蜂巣氏、乗る派メンバーの日和下駄の三人で話しながら出たアイディアが、カゲヤマがいわゆる「通常の」演出を担当しつつ、そのさらに上の次元での演出を蜂巣氏が担当する、いわば、自我に対して超自我があるように、演出に対する「超演出」を行う、というものだった。平たく言えば、現場ではカゲヤマが演出を行うが、蜂巣氏はカゲヤマに対して演出を施す、ということだ。この形であれば何らかのやりようがありそうだということで準備を進め、翌2022年3月から具体的なクリエイションがスタートした。
最初の期間はひたすらテクストを読みつつ、感想を言い合うということを行った。この場で出た感想はテクストの書かれたGoogleドキュメント上にコメントとして残され、その後のクリエイションの参考となった(テクストが共有されたときから、メンバーには自由にコメントを追記してよいということが伝えられており、最初の集まりの時点ですでにある程度のコメントが集まっていた)。何日かこの形での集まりを開催したあと、4月に入ってからより具体的なクリエイションを開始。最初にカゲヤマが「テクストを中心とし、俳優が受動的に(=観客に)なり、観客が能動的に(=俳優に)なる場を劇場に作り出したい」というビジョンを提示したが、具体的にどうしていくのかという部分は現場での話し合いを通じて形成されていった。
この間、蜂巣氏は一人の現場のメンバーとして加わり、演技や提案に対して自分の意見をフィードバックしていた。俳優以外の視点が複数提示されることによって、俳優もより積極的に創作に向かいやすくなっていたのではないかと思うし、テクストへの読解もかなり深まったと思う。4月の間はさほど広くない、円盤に乗る場での創作だったため、具体的な動き等は仮のまま、ラフスケッチのような状態で一通り最後までのパフォーマンスを作り上げた。
ちょうどこのくらいの時期に、蜂巣氏の主導でスタッフのミーティングが開かれ、イメージやモチーフについての提示があったのだが、ここで蜂巣氏の方から出たアイディアが「リアリティ」についてであり、同時に「後半になるにつれてリアリティが加速していく」という演出が私に対して施された。以後、舞台美術や衣装、照明や音響なども、このときの話をベースに進行していくことになる。
GWの長期休みを挟んで、広めの稽古場での本格的な創作がスタートした。舞台美術も決まりつつあり、具体的に舞台でどのようなことを起こしていくのかを形にしていった。創作のプロセスが加速していって、仕上げに向かっていく中で、蜂巣氏も稽古場でどのように振る舞うべきか悩んでいたようだったが(この点はそもそも私と蜂巣氏の間で、稽古場でのそれぞれの演出のありかたについての具体的な共通認識がうまくとれていなかったことが原因でもあり、それは私の責任だったと思っている)、全体での話し合いを何度か行い、意思決定についてあいまいだった部分を整理して、今では落ち着くところに落ち着いているのではないかと思う。
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