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「ありふれた演劇について」9

料理動画というものが苦手だ。ほんの数分であっても、その時間がまどろっこしい。たまねぎくらい自分の好きなように切るので、必要な調味料の配分だけ教えてくれ、と思う。使い慣れないソフトウェアの使用方法なんかも、たまにYouTubeで調べたりするけれど、それよりも一枚の記事にまとまっているものをざっと見てやるほうがずっと楽だ。

とはいえ、何でも時間というものに耐えられないというわけではなく、むしろ動物園のライブカメラなんかいつまでも見ていられる(個人的に好きなのは草津温泉のライブカメラだ)。アンビエントの音楽も聞く。ただぼうっと時間を過ごしていることもある。問題は言葉であると思う。料理動画を見るとき、あるいはソフトウェアの使用方法を見るとき、そこに言葉を読んでいる。動画の機微などはどうでもよく、ただ必要な情報だけが欲しい。それは動画であっても、言葉として認識され、自分の中に言葉として蓄積される。

自分の身体の中には言葉が溢れている(なにしろ30年以上も言葉に浸かってきたのだから当たり前だ)けれども、その言葉は決してリニアではない。それらは星のようにちらばっていながら、それぞれ記憶を持っていて、あちこち勝手に連結し、独自のネットワークを作っている。あたかも星座のようだけれども、そこに何座という名前を与えることなど難しいし、そもそも星座のように平面上に描けるものではない。同時にそれはただ頭の中で完結するものでもなく、身体とも同時に複雑に結びついている。ある言葉に触れたときに、ある動きが誘発されることがある。そのときその言葉と、身体にこれまで蓄積されてきた空間把握の記憶が偶然に結びついたように感じる。言葉は記憶を通じて、もはや言葉とも呼べないもの、身体の動きや音、視覚的イメージなども含め、様々な次元を越えた結びつきを形成している。

レシピをざっと眺めたとき、そこにある「塩ひとつまみ」という文字列が自分の指に塩をつまませ、想像上のスープに入れることによって現実に料理が完成する。これはただ、時系列の手順に従ったのではない。手順通りの指示に従うのは、とても窮屈に思えてしまう。

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