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「ありふれた演劇について」12

高校生のときの話だが、通学のためにバスに乗る4、50分くらいの時間がちょうどよかった。乗り換えもなく、行きはほぼ必ず最初から、帰りは最低でも行程の半分は座ることができた。そのくらいの時間であれば、ポータブルMDプレーヤーでアルバムを一枚ぶん聴けた。Twitterもまだこの世になく、車内でやれることは少ない。音楽や本に集中するにはとても良い時間だった。

いつからか、帰りのバスで戯曲を読むのが習慣になった。部活も引退して、受験勉強がまだ本格的に始まる前の時期だったと思う。演劇部の部室や図書室から一冊ずつ借り、車内で読む。記憶にあるのは、別役実、寺山修司、野田秀樹、如月小春、鴻上尚史、シェークスピア、チェーホフ……などなど、地方の高校ではありがちなラインナップで、当時もうすでに古典と言って差し支えないものばかりだ。そしてそのバスに乗る4、50分くらいの時間というのが、戯曲を読むのにちょうどよかった。現代演劇の一般的な長さのものであれば、全部読み終えることができた。

一枚のアルバムを聴くように、最初があって終わりがあり、そこにまっすぐ向かっていくものという戯曲のイメージは、自分にとってはこの体験によって形成されたように思う。移動するバスの推力やエンジンの振動と共に、本の中で劇は終わりへと向かい、読み終えた瞬間、そこの風景は最初とはすっかり違っている。学校は市の中心部近くにあったし、家は田園の広がる郊外だった。その戯曲を読む前の自分には戻れないのと同じように、もうあの学校にいた時間に戻ることはできない。冬なら日も暮れている。

つまり、自分は演劇における時間性というものを、上演そのものにではなく、戯曲のレベルから考えているのかもしれない。とはいえ、そんなことは珍しくもなんでもなく、多くの劇作家は無意識であれ同様に考えているだろう。ただ、そこに「移動」という概念が明確にくっついているのは、あるいは特徴的なケースと言えるかもしれない。自分の書く戯曲にはやたらと移動が出てくる。劇が進むにつれて、ある時間が過ぎ、別の場所に来ている。その「別の場所」というのは抽象的なレベルであってもいい。同じ場所のはずだが、すっかり別の場所になっている、ということでもいい。戯曲というのはとにかく、「もう戻れない」場所につれていくための装置なのだ。自分はそう思っている。

その「もう戻れない場所」とは一体何なのか? ということを説明するためには、どういう方法で読者(観客)を連れて行くのか、という問いに答えなければならない。その答えがそのまま、連れて行くその場所を示すことになるだろう。方法はいくつか考えられる。言葉そのものによってであるとか、物語によってであるとか、あるいは劇構造であるとか、寓意であるとか……。いずれにしても、態度を定めることが重要だ。中途半端な態度ではいけない。戯曲を書くと決めた途端、様々な構造がそこに立ち上がってしまう。戯曲はそれを無視できない。覚悟を決めて戯曲の森に入ってくような感じ、というのを書くときにはいつも感じる。

戯曲には時間が流れているが、同時にそれは空間のようでもある。それはすでにあるものとしてそこにある。言葉がまだ生まれる前の、「戯曲空間」とでも言うべきような空間だ。そこには配役表が、場面設定が、ト書きが書かれる準備ができており、台詞を待っている。その空間は閉じており、必ず終わらなければならない。登場人物はその役として台詞を言うという論理があり、この台詞を言っていたのは実は別のこの人だった、とはならない。戯曲に書かれたものは決して読者を裏切ることはない。Aが入場したのならそれは間違いなくAが入場したということで、後になって実は最初からいなかったのだ、とはならない。戯曲が書かれる空間はいつもこういう空間であると決まっている。

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