「ありふれた演劇について」40
もう一か月ほど経ってしまうが、4月の末に、渋谷コントセンター主催の『テアトロコント vol.61』に呼ばれ、「カゲヤマ気象台のコント」名義でコント作品を上演した。
以前に円盤に乗る場で「お笑い研究会」という集まりを何度か開催し、研究成果やコントの試作品をイベントで発表したりもしていたが、なにしろコントという名目で本格的に上演を行うのは初めてで、悩みや苦労も多かったが、いろいろと勉強になった。
最終的にはなるべく普段の作風を踏襲しつつ、自分が趣味的に「ユーモラス」だと感じられる要素を盛り込もうと思い、小津安二郎の人情喜劇(『人情紙風船』)や、マルクス兄弟のナンセンスでインモラルな展開をイメージに置きつつ、「ゲムゲム」という謎の存在によって人々の生活が脅かされる荒廃した世界観を描いた。戯曲は公開しているので、どういう内容か気になる方は是非読んでみてください。
『テアトロコント』は1回の公演につき、演劇団体のほか2組の芸人が出演し、休憩をはさみつつそれぞれ約30分のコントを上演する。上演順は、芸人→演劇団体→芸人となることがほとんどのようだ。客層は、あくまで体感だが、お笑いのファンが半数以上を占めると思われる。会場は映画の上映にも使われる場所であり、舞台は間口に対して奥行きが非常に狭く、気密性は高く、音の反響はほとんどなく、客席はふかふかだ。つまり、あらゆる面で普段の公演とは条件が異なる。そしてなにより、「これはコントである」とあらかじめ宣言がされている。
確かに、普段でも「これは演劇である」と宣言された条件で作品を発表してはいるものの、基本的に小劇場で上演をしているので、種々の幕が引かれ、プロセニアム・アーチのあるような「まさに劇場である」といった場所ではあまり公演を行わない。そもそも、演劇というジャンルには「これは演劇である」ということを疑う実践が多く行われてきたので、「演劇である」ということの束縛は、決して頑強なものではない。それに対し、「コントである」という事実は、やはりなかなか揺らぎようがない。よく言われることであるが、コントに来る観客はやはり「まさにコントを見て、笑おうと思って来ている」のである。
「これはコントである」と宣言され、それを補強する空間で発生する状況の中で、自分が普段演劇でどういうことをやっていて、それがどういう風に変質するのかを観察することができた。それは自分にとって非常に貴重な体験だった。端的に言えば、自分は普段から演劇の中で現れるものを「本質的なもの」と「非本質的なもの」に分けているのであり、そのあり方は「演劇」と「コント」では大きく変わってくる、ということだ。
演劇は多くのひとが関わるため、常に矛盾を内包する可能性を帯びている。俳優Aと俳優Bの戯曲の解釈が違う場合、観客はどちらの解釈に準じて作品を見ればいいかわからなってしまう。これに対してよくとられる解決方法は、大きく分けてふたつあるだろう。ひとつは、折り合いをつけるなり妥協するなりして、「ひとつの解釈に定めてしまう」方法だ。
多くの演劇作品においては、このプロセスに演出家が介入し、方針を定めていくことになるだろう。ある演出家は自分の解釈を指針とするだろうし、ある演出家は対話の場をファシリテートして矛盾を解決しようとするだろう。この方法は演劇の場に限らず、近代的な社会においては日常的にとられるものであり、現代を生きる我々にとって非常に理解しやすいものではないだろうか。
もうひとつの方法は、「矛盾があることも含めて作品にしてしまう」ことだ。意見の対立がそのままコンセプトになっているような作品も考えられるし、その衝突を止揚させてどちらとも違う、第三の表現を導き出すこともあり得る。そして、「矛盾があってもなくても、作品の本質にとっては関係ない」という態度ももちろんあり得る。前述のとおり、私が普段の上演に際してとっているのは、基本的にはこの態度だ。
たくさんの、様々な人が集まりながら独自の雰囲気を保っている公園や飲食店を想像してみてほしい。そこでは、設えや制度によって時間や空間が構築され、一定の強度を持っている。そのため、そこに集まった人々がある程度自由にふるまっても、その場所らしさが壊れてしまうということはない。ここで言う「その場所らしさ」を演劇における「作品の本質」に、人々のふるまいをそのまま「作品に関わる人々のふるまい」に置き換えてみれば、私の言わんとしていることが何となくイメージできるのではないだろうか。そこでは、人々のふるまいが多少ちぐはぐで(矛盾して)あっても、場所らしさ(作品の本質)にとっては関係がない。
演劇の場においては、現実と同じように空間があり、時間が流れている(当たり前のことだが)。そしてまた現実と同じように、様々な人間がそこでふるまっている。大事なのは、作品の本質を担保する「場」なのであって、その中での具体的なふるまいについては、その「場」そのものを破壊してしまうものでなければ問題はないし、むしろ、矛盾すら孕んだ様々なふるまいが同時に見られることは、逆説的に「場」の強度を示すことにもなるだろう。
もちろん、俳優をはじめ関係者は「場」=「本質」の構築を行いながら、同時に非本質的な部分でもふるまう必要がある。この達成の過程については、私の演出力不足もあってなかなかすんなりとはいかないことも多いのだが、これまで作品ごとになんとかある程度は実現できてきたのではないかとは思う(関係者には毎回苦労をかけていると思う)。
さて、コントの話である。先ほども書いたように、コントの場ではこの「本質的なもの」と「非本質的なもの」の関係が大きく変わることになる。端的に言ってしまえば、それが「笑い」と見なされるや否や、即「本質」となってしまうのだ。これも、コントに親しみのある方にとっては当たり前のことなのかもしれないが、上記のようなプロセスで制作をしてきた自分にとっては非常に衝撃的な体験だった。
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