「ありふれた演劇について」36
円盤に乗る派や円盤に乗る場について、「コレクティブなのか」と問われることがしばしばある。あるいは、テキストや会話の中でコレクティブとして紹介されたりもする。いちいち訂正したりはしないけれども、少なくとも円盤に乗る派はコレクティブであると名乗ってはいない。ただ周りを見回せば、自ら「コレクティブである」と名乗る演劇団体の数は以前に比べて確実に増えている。
円盤に乗る派は「演劇プロジェクト」を標榜している。「劇団」や「カンパニー」など、演劇団体を指す単語はいくつかあるけれど、団体としてのコンセプトが比較的はっきりしていて上演以外の活動もやっているので、「演劇プロジェクト」という呼び方は自分としてはしっくりきている。ある時期を境に演劇界では「劇団」という昔ながらの呼び方を避ける動きが出てきたが、そこには旧世代の演劇団体のイメージを払拭したいという意向が働いていたと思う。そういう意味で最新の呼び方は「コレクティブ」になるのだと思うし、新しい集団の形を模索している演劇団体のことを指してコレクティブだと言うような風潮すら感じられる。
コレクティブという単語について、自分は「独立した複数の個人が集まった集団で、内部に強い権力構造を持たない」ものであると捉えている。創作の集団であれば、各々が単独で作品を作ることのできる個人が複数人集まったものというイメージだ。しかし演劇の団体においてこの条件を満たすのは難しい。そもそも演劇に携わっている人間は、そのほとんどが自分ひとりでは作品を作ることができないからだ。
演出家は俳優がいなければ上演を立ち上げることはできないし、俳優も俳優で戯曲や演出が必要だ。舞台美術家も照明家も、独立した作品を作ることは(普通には)できない。劇作家は単独で「戯曲」という独立した作品を制作することが可能に思われるが、一人だけそれができても仕方がない。複数の劇作家からなる集団であればコレクティブを形成できるかもしれないが、少なくとも現在日本で活動している演劇集団のほとんどはそのような形を採用していない。演劇の多くは「誰か一人の人間が書いた戯曲を、様々な職能を持った人間たちが分業しつつ上演として成り立たせるもの」として存在している。
俳優が自ら脚本を書き、演出して上演することも可能だろう。しかしそれなら演出家だって自ら舞台に上がることもできる。劇作も演出も演技もそれぞれ別の能力なので、全てを兼ね備えた人間の数は自然と限定されてしまう。だから演劇は、結局誰かが作品をまとめ上げるための責任を負うことになる。要はプロデューサーが必要になるのだが、独立した「プロデューサー」という役職がいない場合、それは演出家が兼ねる場合が多い。あるいはいたとしても、演出家の意向がプロデュースに反映されやすい傾向がある。もちろんここには必然性はない。本来であれば演劇に関わる誰もがプロデューサーを兼ねてもよい。しかしおそらく多くは慣例によって、演出家が作品全体をまとめる作業に介入し、「自らが監修した作品である」と判を押すことになる。
個人では演劇という作品を成立させることは困難だし、(作品ごとであれ恒常的であれ)グループを形成せざるを得ない。演劇を作る集団がさらに集まればコレクティブを形成できるのかもしれないが、そうした集団の維持が困難だろうことは容易に想像できる。また同じ理由で、コレクティブの条件の後段に挙げた「内部に強い権力構造を持たない」というものも達成が困難になる。当たり前であるが、集団の中で特定の誰かが作品の成立に向けての責任を負うのであれば、それだけ権力構造は発生するからだ。
したがって、演劇の集団がコレクティブ的なあり方に近づける可能性があるのは、作品をまとめるための責任を全員で負いつつ、誰か個人に過剰に集中することを回避することしかないように思われる。たとえ独立して作品をつくることができなくても、「まさにこれは自分の作品である」とその集団の構成員たちが感じていて、それだけの責任をもって作品について発言し、行動し、努力するときに、コレクティブという言葉に抱かれるような理想の多くは達成できるだろう。
だがそれが達成されるためにはその集団の構成員がそもそも、自発的に作品をまとめたい=プロデューサー役を負いたいと思えるほどのモチベーションと、それに必要な能力を持っている必要がある。そこに偏りがある場合、結局責任と権力は誰かに集中してしまう。先程の問題に戻るならば、結局現代日本の演劇シーンにおいて、そもそも誰にも何も言われなくても自発的に作品をまとめようと動く人間が演出家に集中してしまっていることが、コレクティブの達成を難しくしているという現状はあるだろう。あるいは、全員が等しくモチベーションを持たない場合(集団になって初めてモチベーションが生まれる場合)も達成可能かもしれない。逆説的な発想だが、これはこれで可能性があると思う。もちろん活動を長続きさせるためにはそれなりの困難が伴うだろうが、私より若い世代などを見ていると、演出家が過剰にモチベーションを発揮しないことによって権力構造をなだらかにしようという実践は(意図的かどうかはわからないが)実際に行われているように感じられる。
最初の話に戻ると、円盤に乗る派はコレクティブを標榜していないし、代表である私自身はコレクティブの成立を目指そうとも考えていない。やはり前述した達成の困難さはつきまとうし、責任や権力は代表である私に集中してしまう。独善的にならないように気をつけてはいるつもりだが、どうしても勾配は存在する。またそれによって団体がある程度うまく運営できているという面もある。リスクを個人が多く引き受けることによって挑戦的な企画が可能になるということもあるし、メンバーもそれぞれ仕事や個人の活動などで忙しいことが多いので、協議による意思決定では時間がかかりすぎてしまう。今の規模の活動を継続していくためには、やはり私がある程度の責任を引き受ける必要はあるだろう。
しかししばしば「コレクティブである」と言われることもある通り、どこかコレクティブとも通じる思想を円盤に乗る派が持っていることは事実だ。それは円盤に乗る派が掲げている「複数の作家・表現者が一緒にフラットにいられるための時間、あるべきところにいられるような場所を作るプロジェクト」という言葉の通りで、要するに、円盤に乗る派がプロデュースする場所や空間においては、そこにいる人達は横並びで存在していて欲しいと思っている。しかしこれは主体を持った集団についてではなく、あくまでも「場所」についての話だ。
コレクティブとして存在するためにはコレクティブという主体が形成される必要があるし、そこには主体としての意思決定がある。その形成のプロセスは団体によって異なると思うが、いずれにせよ団体は社会の中におけるひとつの人格として現れる。円盤に乗る派が目指すところの「場所」について言えば、必ずしも主体は必要ない。もちろん、運営している円盤に乗る派という団体については主体が必要になるし、その意思決定においてはカゲヤマがある程度の中心を担っているわけだが、その作るものはあくまでも複数の個人という主体がいられるための「場所」でありさえすればいい。
とはいえ、円盤に乗る派の内部においても、がちがちの権力構造が生まれてしまうことは避けたい。レイヤーが分かれているとはいえ、硬直した権力によって「フラットにいられるための時間」が作られることはあり得ないのではないかと思う。問題は、ある程度の権力構造を引き受けつつ、いかにそれを絶対化せず、ゆるやかなものにできるかだ。
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