演劇論

「ありふれた演劇について」3

前回では「弱い身体」について、その外部との関わりがどのようにあるのかを考えた。周囲に対する感度を上げ、積極的に立つことによって、自分は中心ではなくなり、身の回りに偶然存在している様々なもの(環境)は、自分とは関係のないまま身体に影響を与えてくる。身体は一つのルールに定まらず、別様になってしまう可能性と自由さを持ち続ける。それが「弱い身体」であり、この状態であることが、物語を語り続けるためのひとつの重要な方法だ。

そして外部について考えるのであるならば、同時に内部のことも考えなくてはならない。身体が「弱い」状態であるとき、内部に対する意識はどのようになっているだろうか? それを考えるにあたって、外部に対して行ったのと同じアプローチを内部に対しても適用していきたい。

外部に対し、解像度を上げて積極的に眺めやるというアプローチは、普段の意識からこぼれて落ちてしまうものを拾い上げようとする行為だった。日常の状態では周囲の見方そのものに、普段の生活のルール、あるいは演劇上のルールというものが投影されてしまっているから、まずそのルールを外してみる。自分にとって必要なもの、意味のあるもので構成された世界から、無意味なもの、名付けがたいものの世界に移行する。

このプロセスを自分の身体そのものに対して行うとどうなるか。そもそも、普段の身体、あるルールに則った身体というのはどういったものだろう。普段の生活において、自らの周囲にある様々なものには、それぞれのルールが存在している。例えば包丁は手に持って野菜や肉を切る道具であるし、パソコンやスマホはキーを叩いたり、画面をタップしたりして情報を操作する道具だ。こういったものに向き合っているとき、例えば包丁であればそれを握っている手、切るものを抑えている反対の手、切ろうとしている食材、が意識されているだろう。そしてその状態では、例えば自分の肩や足の裏、ももの付け根などは意識されない。

また、スマホを夢中になって操作しているとき、例えばTwitterやAmazonの情報に没頭しているときなどは、せいぜい指先くらいにしか意識は働かないだろう。それどころか、自分の身体がスマホの中に入り込んでしまって、画面のスクロールやスワイプの感覚そのものが、自らの身体として感じられるかもしれない。ここではスマホを操作する人間は想像上のありさま、いわばシステムに変身してしまって、インターネットの平面を移動し、情報をシェアし、また別の情報に触れ、広告に流され、あるいは個人情報を提供する。何かの理由でスマホを離れると(休憩時間が終わるとか、電車が駅に着くとか)、少なくともその変身は解かれ、また別の、もう少しはシステムらしくはないありように移行する。とはいえ、せいぜいそれは労働をするだとか、決められた道筋に沿って改札を通るための身体に過ぎない。

こういった状態をもう少し考えてみると、2つのことが同時に起こっているように思われる。ひとつは、身体が部分化しているということで、意識されない部分は全く存在しないものになってしまうということ、もうひとつは、自分の身体の意識が、自分の肉体という、ある輪郭をもって存在しているこの物質の外に流出しているということだ。包丁の例であっても、自分の身体の感覚は持っている包丁や、切っている素材、あるいは下に敷いてあるまな板にも延長している。身体そのものが、「食材を切る」というひとつのありかたに変身してしまっている、と言えるかもしれない。日常生活において、自分の身体が何かに変身していない状態というのはほとんどないだろう。ソファに座ってリラックスしているときでも、自分の全身をまんべんなく意識することなどまずないし、その身体感覚はソファに延長してしまっている。

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