演劇論

「ありふれた演劇について」2

演劇に対する一般的なイメージとして、俳優は能動的、観客は受動的というものがあるだろう。俳優は能動的に、とても強く主体的に演技をしているため、観客は安心してそれを鑑賞でき、その出来を判断することができる。良くも悪くも、そういうあり方が演劇のイメージを形づくっていることは確かだ。前回「制度」と呼んだけれど、それは間違いなく街の中の劇場の存在感、演劇という文化全体、そこに関わる様々な人たちに大きな影響を与えている。

やはり制度的には、俳優に要請される演技というのは「強い演技」になりがちだ。圧倒されるような何かが欲しい、何かに打たれて、感動できるようなものを観たいということは、誰もが思うだろう。演劇の魅力は生の魅力だと言われることも多い。この「生」という部分には、強い何かを、メディアを介さずに触れることができるというニュアンスが多分に含まれている。まるでスポーツのようだ。鍛えられた筋肉と、何度も反復され練り上げられた技術。そこにはルールがあり、ルール以外のことは想定しなくてもよい。だからこそ選手は非常に高い集中力をもってその場でプレーすることができるし、観客も見るべきものを真っ直ぐに見つめることができる。そこには目指すべき高みがあり、見るべき手順がある。ルールがあるからこそ観客はその「強さ」そのものを、目前に容易に鑑賞することができる。

この連想を踏まえたうえで「強い演技」というものについて考えてみると、それは声が大きいとか、感情が昂ぶっているとか、動きが大げさだったり、力強いとかいうことではなく、別のところにその本質があるように思われる。スポーツにおけるルールのようなもの、見るべき形のようなものがそこにあるのではないだろうか。ピッチャーフライが上がったときに誰もライトを見ないのと同じように、何を見、何を見ないでよいのかがわかりやすいようなもの。どこに魅力があるのか、どこを見ていれば快楽を得られるのか、きちんと体系だっているような演技こそが「強い演技」として想定できる。

その意味では、例えばリアリズムを基調とした、自然体で声を張り上げない演技であっても「強い演技」ということになるだろう。そこではリアリズムが要請しないことは無視できるからだ。その場を構成しているルールがあって、とるべき見方があり、要請される技術(リアリズム的に正しい台詞の言い方ができるかどうか、など)がある。それは上手い下手があるので、練習を通じて磨き上げることができるし、成果に対してよかった、悪かったと比較的容易に言うことができる。この点からもこうした「強い演技」「強い身体」は、演劇の制度そのものから要請されがちだろう。よいもの、悪いものを決めたがるのが演劇の制度なのだから。

さて、ここで重要なことは、こうしたルールは消極的に決定されるということだ。「第四の壁の向こうはないことにする」「視線が泳ぐのはいけないこととする」といったように、「必要な部分以外をないことにする」ことによって、体系は作られる。もちろん、「第四の壁の向こうがないと言っても、観客の存在を無視してはならない」とか、「無意識のうちに震える身体にこそ魅力がある」というような言い方もあるだろう。しかしそれでも、それらは表立ったものの背景であり、補完するものとして体系の中に組み込まれている。ルールは消極的に作られるからこそ、俳優はそこに力を集中させることができ、力量を発揮することができる。

私はここまで強い身体について想定してきたが、もちろん私が書きたいのは強い身体のことではない。演劇において、強い身体というものが容易に想定できてしまう、とした上で、ここでそれの逆としての「弱い身体」というものを考えてみたいのだ。強い身体の消極性に対して疑いを持った上で、ここにあるものを全て積極的に等価に眺めやり、何が何を補完するというような体系すら定めない、不安定な身体について考えてみたい。そしてこの不安定な身体は、あらゆる別様になれる可能性を保持し続け、それによっていつまでも、ひとつの物語を語り続けることができるだろう。

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