「ありふれた演劇について」25
今年の正月は色々あって実家に帰るタイミングを逸してしまい、結局東京で過ごした。東京での年越しは5回目かそこらだろうか。昼間近くに上野まで出たら、比較的人出も多くて雰囲気も穏やかだった。その頃はオミクロン株の流行もまだはっきりとは表れておらず、「去年に比べればわりあい平和な年越しだね」というような空気があった。だんだん状況はよくなっているし、今年こそは元の日常に戻れるんじゃないかという期待すらあったように思う(秋頃に国のトップが交代したのも、その期待に一助あったのではという気もする)。
一番それを実感したのは、家でテレビCMを見ていたときだった。正月の時期における特別仕様のCMのうち、いくつかが「コロナ禍の明けた日常の風景」を非常に希望に満ちたタッチで描くものだった。最初に見たのはセブンイレブンのCMだ。そこに出てくる人物は誰もマスクをつけておらず、店内にはビニールカーテンもなく、消毒ポンプも置かれていない。
驚いたのは、それがコロナの前ではなく「後」の風景であるということが、映像から伝わったということだ。何かそれらしいメッセージを言っていたのかもしれないが(記憶がやや曖昧で、web上にも残っていなかったので確認できなかった)、はっきりそうと示す記号もなく、それが「後」であるとわかるのは、やはり自分の中でどこか「今年こそは『こう』なれるかもしれない」という期待があったからではないかと思う。
そして、その「コロナ禍後のセブン」の店内の映像は、とても強い解像度を持っているように感じた。そこには「風景」が描かれていた。セブンイレブン自体は私も日常的に利用するが、今の店内の様子、全員がマスクをし、レジはビニールカーテンで区切られ、足元のソーシャル・ディスタンスマークを目印に列に並ぶあの光景には、もしかしたら「風景」というものは覆い隠されているのかもしれないと思った。確かに、最初はそれは「コロナ禍の風景」であると感じていたかもしれない。しかしどこへ行っても一様にビニールシートを貼られ、一様の距離をとることを要請され、マスクで半分匿名化した人々のいるような世界において、「まさにこの場所の風景」というのは失われてしまう。
テレビCMに10秒かそこらだけ流れた「風景」にすらちょっとした衝撃を覚えてしまうほど、いかに自分の日常から「風景」が失われていることか。しかもそれが、セブンイレブンという、決してそれまで特別なものだと思っていなかった場所に見いだされたというのも大きい。セブンイレブンに「風景」があるなどということは、これまでほとんど意識したことがない。ただ効率よく商品を消費するためのシステムとしか捉えていなかったように思う。しかしそこには、例えば山間部の農作業や昔ながらの商店街と同じように、いわば人の営みとしての文化があり、それが展開する「風景」があるはずなのだ。
文化があるところには「風景」があるし、「風景」を通じて文化にアクセスする行為は、むしろありふれていると言えるだろう。それこそ、『ゆく年くる年』は年末の各地の「風景」を映した番組だが、これを見ていると日本の年越しという文化に触れたように感じるし、山手線の窓から見える「風景」からは東京という都市に触れられるように思う。地元のロードサイド沿いでバスを待っているときには、この街の「文化」なるものがわかるような気がする。
そしてそれは当然、劇場文化というものに対しても行われてきた。最近劇場に行ったときにうっすらと感じる物足りなさは、その「風景」が失われていることに起因しているのではないか。
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