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「ありふれた演劇について」18

まもなく情報が出るかと思うが、先日久しぶりに、戯曲ではない文章作品の依頼があった(とはいえ、いつぶりだろう? うまく思い出せない……)。よく誤解されることが多いのだけど、自分は現代詩の人たちと同じ企画に参加したり、同じ本に載ったりということはしばしばあったものの、自分自身は現代詩はまったくと言っていいほど書けないし、苦手だ。あまりに書けないことが気になりだして、最近とりあえず吉本隆明の詩論から読み始めた。順序として正しいかはわからないが。

文字が定着して、残るということそのものに抵抗感がある。この演劇論もweb上の媒体だからまだ続けられているが、本としてまとめるということが前提にあったら書きづらいかもしれない。自分の文章が印刷されたとしても、読み返すことはまれだ。書くごとに、そのときの自分を自分から切り離して、まったく過去の他人にしてしまうような感覚がある。書いている自分が連続しているとは思えない。この感覚に共感してくれる人がどれだけいるかわからないが、文章を書くという行為はまるでその都度違う世界線に移行するようであって、過去に書いたのは違う世界の自分のように思える。

だから「文章上の自分」という、一貫したキャラクター(ないしは役、もしくはアバター)を持っている人には、ちょっとした憧れというか、もしかしたらコンプレックスがある。文章上の自分を魅力的な人物として造形できる能力は、少なくとも自分にはあるとは思えない。いわゆるこういうときの「文体」を自分は持っていない。それはこれまで意識して作ろうと思ってこなかったということだが、もしSNSやブログでのセルフプロデュースがうまかったらもっと観客は増えているだろう。自己愛が足りないのかもしれない。社会上の自分というものに対する愛が。日常のふるまいからして、自分を一貫したキャラクターとして造形する意識は薄い方だと思う。着るものが人にどういうイメージを与えるか、これまでほとんど考えてこなかったし、ましてやそれを一貫させようとは思っていなかった。かつて寺山修司や三島由紀夫がしたように、文章や写真や映像を駆使して強いフィクショナルな作家像を作り上げることなど、きっと自分にはできないだろう。もちろん無理をするのはよくないが、こういったことを全然気にしないのも考えものである。

たとえそれがエッセイやSNSや論述ではなかったとしても、創作としての文章の中に「文章上の自分」は現れる。一人の作家の作品と日記が両方並べられていた場合、ふたつの文章をまたがってその作家のキャラクターのバリエーションが存在している。強い作家であれば、それらは見た目は違いこそすれ、内実は一貫しているように感じられるだろう。「作風」や「文体」といった領域よりもさらに大きい、まさにその人である「キャラクター」があるはずだ。梶井基次郎の肖像が意外だという話はよくあるが、それは梶井の作品の上にビジュアルイメージすら伴った作者の「キャラクター」が表れており、それと実際の肖像との落差が意外だという話なのだと思う。そして自分が文章を書くごとに違う自分であるような気がするというのは、ここでいう「キャラクター」がずれていくという感覚に近いかもしれない。

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