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「ありふれた演劇について」30

ふと、一年前は何をしていたっけ、ということを思い返して、たしか『ウォーターフォールを追いかけて』の上演に向けて企画を進めつつ、アトリエ「円盤に乗る場」も徐々にスタートさせていたはずだ。東京オリンピックがまもなく始まるという頃で、地域によってはお店で酒を飲むことができなかった。今からすると隔世の感がある。当時と今では、身体の感覚が全然違う。これは自分の、演劇を観る感覚にも大きく作用しているし、当然作るときの姿勢とも無関係ではない。これは一体何なのだろう、自分は今何を感じているのだろう? ということを、覚え書き程度に記しておきたい。

以前の自分の中には間違いなく、新型コロナウイルスへの恐怖感がはっきりとあった。人混みはこわいし、マスクをせずにしゃべっている人がいたら避け、不特定多数の人が触っただろう場所を触ったときは、ちゃんと意識して手を消毒するようにしていた。アルコール入りのスプレーボトルを持ち歩いていた時期もある。人と食事をするのは覚悟のいることだった。劇場は特に避けていなかったが、やはり満員電車はなるべく避けていた。劇場でも、完全に気持ちよく観劇できていたわけではない。比較的小さな劇場では、俳優との距離の近さに緊張感を覚えた。身体的な接触に対してはどうしてもネガティブな感情があった。それは文字通り直接触れるということではなくても、同じ空間にいるだけで「身体的に接触している」というような感覚があった。

その感覚の中で制作した『ウォーターフォールを追いかけて』は、今思うとかなりオフビートな作品になっていた。当時の身体感覚でぎりぎり受容できるくらいの存在感で俳優が舞台に立ち、できるだけ身体的な衝突を避け、あくまで「言葉」や「物語」を媒介にしてコミュニケーションするようなことが起こればよいと思っていた。それが当時の感覚だったし、今からすれば物足りない作品だったとしても、演劇は目の前の観客に届けるしかないので、自分の判断は間違いだったとは思っていないが、それでも随分特殊な作品になったとは思う。

翻って今どういう身体でいるのかといえば、まず先述のウイルスに対する恐怖感は、だいぶ薄くなっている。知らない人とマスクなしで会話することに、以前ほどの抵抗感はない。神経質なほどに消毒することもなくなった(接触感染は主な感染経路ではない、という知見に触れたことも理由だと思うが)。少しずつ身体が外部に向けて開かれてきたように思うし、接触への緊張感もだいぶ緩和されている。イベントの参加や、劇場に行くことも、だいぶポジティブに捉えられるようになっている。この2年間封じられてきた「つながり」への神経がわずかにくすぐられていて、その感覚をだんだん思い出してきたような感じがする。

自分はそこに、きっと大きな喜びを感じているのだろうと思う。コロナ禍では「感染対策か、経済対策か」の二分法で語られがちだったが、この分け方に自分はずっと違和感を感じていた。感染症対策によって抑えられているのは経済だけではない。そこにはもっと根源的な「喜び」のようなものがあるはずだ。しかしこうした曖昧で主観的な領域というのは、大きな対話の中では軽んじられてしまう。数字で見える感染者数やGDPの方が説得力のある指標とされる。だが喜びがなければ人は健康に生きていけないし、感染対策にはどうしても、そうした健康に生きる権利が権力によって制限されるという側面がある。まさに制限されているときは意識しにくいが、実はこれだけのものが奪われていたのかもしれない、ということに最近気づき始めた。

正確に言えば、これまでも「制限されている」「奪われている」とは感じてはいたが、それがどういった性質のもので、取り戻したときにどんな感覚になるのかはわかっていなかった。それが、「もしかして、これがコロナ後の感覚なのか?」というものを、しだいに予感し始めたという感じだ。

抽象的なことを言えば、これまで平面の世界に生きていたのが、立体の次元に出てきたような感覚がある。街中で出会う人たちもどこか薄っぺらで、データベースに還元できるような存在だと感じてしまう部分があったが、最近はまさにその人の肌理や体温を高い解像度で感じられるようになったし、他の誰とも交換できない唯一の存在であるということを実感できるようになってきた。自分と相手が、SNSのタイムラインのようにたまたま並んでいるのではなく、自分の存在の延長線上に相手がいるような、自分と相手というものがどうしようもなく関連していて切り離せないような、そんな感覚を覚えている。

考えていることはふたつある。人と高い解像度で接することの価値について、演劇をやっている者としてちゃんと言葉にしていかなくてはならない。コロナ禍が始まったとき、演劇人たちは「生の表現」が失われることを嘆きはしたが、それが一体どういう意味をもつのかはまだ十分に言説化されていない。失われた瞬間には、まだわからないことが多い。徐々に取り戻しつつある今だからこそ感じられるもの、見いだせるもの、言葉にできるものがあるはずだ。

そしてもうひとつは、この身体性の回復の中で生み出される、「ポストコロナ演劇」なるものがあるとすれば、それはどのような形をしているだろうか? ということだ。

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円盤に乗る場

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