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「ありふれた演劇について」13

自分が劇作家だと名乗ったときによくされる質問が、「人間観察とかするんですか?」というものだ。面白い人間とか出来事とかを指して「こういうの、作品のネタになるんじゃないですか?」というのもある。この質問にはいつもうまく答えられない。人間を見ていないことはないし、たしかに実際にあった出来事、した会話を作品に取り入れることはある。自分と遠い人物設定の場合、具体的な知人を想定して要素を借りてきている部分は間違いなくある。面白かった会話を参考に会話を書いたことだってある。しかし、そういう日々の出来事から作品を立ち上げているのかというと、そうではない。それらはいわば表層の要素で、代替可能な、趣味的な装飾にすぎない。もちろん趣味的な装飾も必要ではあって、それがないとどうも作品に余裕がなくなってしまう。そうした余裕が事故的に、想定していなかった要素と結びついて新たな回路が開けることもある。だから重要ではあるのだが、いかんせん作品の本質なのか言われると、それはどうも違うと思う。

「人間観察とかするんですか?」と言われて、「まあ人並みにします」としか答えられない。別に特殊な技能を使って人間観察をしているわけではないし、その観察したものに対して何か特別なものを施すわけでもない。これは、「人間が好きなんですか?」「人間に興味があるんですか?」という質問に対しても同様だ。いずれも特別なことなく、人並みに好きだし、興味がある。

つまりは劇における登場人物というものと、一般の意味における人間というものとの間には、根本的な違いがある。もちろん、戯曲は人間のために書かれるものだ。しかしそこに書かれている人間は、限りなく人間に近いようであるけれど、間違いなく人間とは違う。もちろんそれは、戯曲の中の人物は心理や行動が必ずしも一貫していないという意味においてでもなければ(人間だってそうだ)、作者のコントロール下にあるという意味でもなければ(人間だって何かにコントロールされていないとも限らない)、時によって魔術が使えるとか神や幽霊であるといった意味においてでもない(きっと神も存在するし空だって飛べる)。それらは結局、存在として同一であると前提した上で差異を述べているに過ぎない。ではいったい、一般の人間と戯曲の登場人物は、どのような意味で異なるように存在しているのだろうか。

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