「ありふれた演劇について」10
演劇ではよく「台詞に感情を込める」という言い方をする。とはいえ、近頃は「もっと感情を込めて!」と檄を飛ばす演出家は少ないかもしれない。むしろ「台詞から感情を抜いて」という演出をわざわざつけている現場に、何度か遭遇したことがある。それはきっと、感情は台詞のありかたを規定してしまうから、そこから一歩引いてもう少し自由に台詞と関わりたいということだったのだろう。確かに、感情を抜く意識で行われた演技には、聞き手が様々に解釈することができるような、ある種の豊かさが生まれることがある。そこではぐっと緊張がほどけて、リラックスしたように見えることもあるし、逆に捉えがたいような、不穏な空気が生まれることもある。いずれにせよその演技プロセスは、「演技は感情から出発する」ということがまず前提にあり、それに対する態度を変えてみることによって行われていた。
今年に入って、演劇論をはじめ、岸田國士に関する書籍をけっこう読んだ。その中にあったのだが(具体的に何の本の、何についての箇所であったかは忘れてしまったので、細かい記憶違いもあると思うのだけど)、岸田國士の演出を受けていた俳優が、意味のわからない言葉についてはちゃんと意味を調べて発話していたのが、他の俳優に驚かれていたという記述があった。海外の翻訳戯曲に取り組む中では、日本で馴染みのないものが出てきたり、そもそも翻訳ミスによって前後関係のおかしな台詞になっていたりする。そのときに他の俳優は、意味のわからないながらもなんとなくそれ風にしゃべるということが普通に行われていたのだが、岸田國士の演出を受けた俳優はきちんと意味を調べて、正しく発話していたというのだ。
今となってはしっかり意味を把握した上で、演出家や俳優本人がその解釈をし、ニュアンスが正しく伝わるような言い方を選ぶというのは当たり前のことだと思ってしまうが、かつてはそうではなかった。演技というのは、「なんとなくそれ風なことを」「なんとなくそれ風にしゃべる」という、一種の技術だったらしい。岸田國士は演出論の中で、同じ台詞でも何通りもの言い方があるのだということをわざわざ力説している。そしてその中から適切なものを選ぶのが俳優の仕事だと。確かに、劇といえばまず歌舞伎か新派のことを指していた(いずれもスター中心主義である)時代の新劇の俳優たちにとって、心理や関係性が中心におかれる近代の演劇というものはなかなか到達することができない、困難なものだったのだろう。
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