「ありふれた演劇について」39
学生の頃に舞台音響を教わって、しばらくは小劇場まわりで音響スタッフとしても働いていた。最近は呼ばれることもだいぶ少なくなったが、別に廃業したというわけではないし、自分の演出する作品では自分で音響を担当することも多い。微妙なタイミングであるとか、微妙な音量や音色のニュアンスが欲しいときがあって、それは言葉で伝えるよりも自分の耳で調整するほうが早い。スケジュールを合わせて打ち合わせしなくていいし、稽古場で演技との組み合わせを試す機会も増える。もちろん技術的に難しいときは他の人にお願いするが、自分でやることには楽しさを感じてもいる。
昔、大きめの劇場に手伝いに呼ばれたときに、「ディレイ」というエフェクターの存在を先輩から教わって驚いたことがある。スピーカーごとに音の出力をミリ秒単位で遅らせることができる装置なのだが、舞台上や頭上などいろんな場所にスピーカーが設置されているホールのような会場の場合、近いスピーカーと遠いスピーカーでは、観客の耳に届くときにはほんのわずかな差異が生じてしまう。音像をクリアにするためには、このディレイを使用して音の差を補正する必要がある。もちろんこの差は(実際に試したことはないが)野外やアリーナ規模でもない限りほとんど知覚のできるものではないが、きちんとディレイされていないと、どこか気持ちの悪いものになってしまうのだそうだ。
他にも様々な目的で使用されるディレイだが、このことの何に驚いたのかと言えば、音響というのは単に目に見えているスピーカーから発されるそれぞれの音が集まったものではなく、ひとつの「イリュージョン」であるということに気がついたからだ。思い返せば、左右ふたつのスピーカーから同じ音量で同じ音が流れた場合、それはあたかも真ん中から鳴っているように感じられるわけだが、それも言ってしまえば錯覚であり、イリュージョンである。演劇ではよくこうした錯覚を応用して、あたかも遠くで鳴っているような雷や、机の上で鳴っているような電話の音、隣の部屋で流れているような音楽を再現するわけだが、こうしたわかりやすいイリュージョンだけでなく、ただ「会場全体に音楽を流す」といったときにも、細かく調整された「ひとつの音像」というイリュージョンが生まれていたのだ。
イリュージョンという言葉は主に視覚に対して訴えるものに使われることが多いので、聴覚的要素でありながらまさにイリュージョンに特化した舞台音響というものは、非常に特異な存在に思える。現代演劇の作り手はしばしば、イリュージョンというものを嫌うが(現代人は、目の前のものを信じたり、心を動かされたりすることに対して、得も言われぬ気持ち悪さや不信感を覚えることがよくある)、演技や舞台美術、照明については意識が及んでも、舞台音響のイリュージョンは気づきにくいかもしれない。「ただ吊られた機械から音が出ているだけだ」と主張しようとしても、それは勝手に「音像」というイリュージョンを生みだそうとしてしまう。ディレイをかけなかったり、あるいは逆にばらばらにしてみたり、スピーカーの位相をずらしたりして、クリアな音にならないよう工夫することは可能かもしれないが、こうした方法で「イリュージョンのない音」として聞かせるためには相当の技術が必要になるだろう。
ところで最近、小劇場というものの意義について考えることが多い。きっかけは昨年、如月小春のテキストに取り組んだことだと思うが、いわゆる小劇場ブームのただ中で小劇場「運動」の終焉を感じていた如月小春のテキストを読むと、現代において小劇場を中心に活動している自分の立ち位置を考えざるを得なかった。いわゆる「運動」としての小劇場も、商業主義と結託した「カルチャー」としての小劇場も終わったあと、果たして小劇場の小劇場たる意義は存在するのだろうか?
この問いに対してまだ明確な答えは出せていないが、少なくとも作り手である自分は、ここで作るからには小劇場でなければできない作品を作りたいし、この場所ならではの体験を観客に提供したい。小劇場の特性としてはよく「演者との距離が近い」「臨場感がある」とか、「実験的なことができる」とかいうことが言われるが、もっとニッチなところで、小劇場における音響環境というものの可能性についても考えてみたい。
というのも、小劇場、特に客席数が100人もないような劇場(※)においては、先ほどの音響的なイリュージョンの問題から比較的逃れることが可能だ。(自分の知る範囲では)そうした劇場では先ほどの「ディレイ」はもちろん、各パラメーターの細かい調整がされることは決して多くない。半分壊れた機材がそのまま使われていることもあるし、スピーカーの向きが客席に対して最適化されていないこともある。しかし、それも言ってしまえば「味」になるような、破綻が許される空気がある。これはある種の趣味であるとか、フェティシズムに思われるかもしれないが、舞台音響を使いながら、「音像」というイリュージョンがあってもよい、なくてもよい場所というのは、滅多にあるものではない。
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