「ありふれた演劇について」21
最近はCreator’s Cradle Circuit参加の「名取川」、『ウォーターフォールを追いかけて』の稽古、アトリエ「円盤に乗る場」の本オープンに向けた準備…などなどで慌ただしい日々を送っている。本当であればもっとゆっくり本を読んだり、勉強したり、細々とした用事を片付けたり、イベントに行ったり映画を観たり友達と遊んだりしたいのだが、そもそもコロナで心の余裕をなくしている部分もあり難しい。
というのも、ここまで日常的に制度やら官僚制やらを意識させられる生活もなかなかない。政府や自治体の要請に逐一耳を傾け、分科会や政治家の記者会見を眺め、ワクチンを打ち、資料を隅まで読んで補助金を申請し…というのはいかにも健康によくない。しかもそれらがすべて科学的な合理性に基づいているかと言えばそうでもないからタチが悪い。もはや夜20時以降に飲食店が営業していると「なんとなく、よくない」感じがするのである。たとえ明確に効果的なウイルス対策が提唱されたとしてもこの謎の制度は空気のように残り続けるような気がしてならない。いつまで経っても日本企業でファクシミリが使われているように、である。高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』は野球が滅びて「日本野球」の神話だけが残った世界を描いた小説だが、「日本コロナ」も同じく独自の存在として残り続けるというのは、あながちあり得ないことでもない(とはいえ野球とは違い、「日本コロナ」はどうしても愛することはできないが)。
この、曖昧で、それでもなんとなくみんなが共有できてしまう「空気感」というものの非合理さをかつて指摘し続けた一人が岸田國士だった。時代により立場の変化はあるものの、岸田は戦前・戦後を通じて「日本人」を批判し続けた。大政翼賛会文化部部長時代は相応にいかにも愛国心を煽り、戦意高揚のための言葉も発信していたが、同時にそれが節度を欠いてしまうことを諌めもしていた。合理的に考え、個人としての意見を持つ近代的な価値観を重視した。文学者としての経歴の初期こそ厭世的な立場からの批判を行っていたが、戦争が近づくにつれて社会と正面から向かい合うようになり、西洋至上主義ではなく、近代的な思想をいかに日本の伝統の上に成立させるかを発信するようになった。結果として戦争や大東亜共栄圏の肯定には至ったわけであり、当然に戦後的な価値観からは否定される部分もあるが、「日本人」のある部分を批判し続けた立場は常に一貫している。
その岸田が演劇の制作において、脚本を中心とし、俳優や演出家がその芸術的な価値を純粋に引き出して上演する「純粋演劇」のあり方を理想としたのは必然的であったと言える。「純粋演劇」においては、俳優のエゴや自意識といった、演劇の芸術的達成において不純とされるものは否定される。しかし同時に演出家万能主義のもと、理論偏重、衒学的になってしまうことも批判する。
総て芸術上の理論などゝいふものは、それ自身には、常に一つの美しい真理と、新しい香りとを含んではゐるが、その実行に当つて、動もすれば極端な反動的偏見を曝露して、自縄自縛に陥り、美の本質を離れて衒学的な奇異を弄ぶに至るものであります。(岸田國士『演劇一般講話』)
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