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「ありふれた演劇について」20

先月が忙しくて更新できず、久しぶりの演劇論になってしまった。円盤に乗る派の活動も、アトリエ「円盤に乗る場」での活動も、個人としての細かい活動もそれぞれ進行中です。また順次情報は出ていくかと思いますので、ゆっくりご覧いただけたらと思います。

劇作家の犬飼勝哉さんをホストに開催予定だった、豊岡演劇祭2021フリンジのオンラインイベント『演劇を配信することについて』にトークゲストで呼ばれていたが、演劇祭の中止を受けてこちらの中止も決まったと先日連絡があった。企画者であるSCOOLの土屋さんからは、また機会があれば開催したいとのことだったので、個人的にもこういうテーマで話すことは今必要と思っていることもあり、是非実現してほしいと思う。

演劇の関係者やよく観劇をしている人にはわかりきっていることであると思うが、パンデミック以後の劇場文化は、なんというかとても変だ。最初はビニールシートやフェイスマスクに阻まれ、上演中に笑い声を上げることも憚られ、終演後に黙って帰っていくあの感じに強烈な違和感や息苦しさを感じていたが、最近はなんとなく慣れてきた部分もある。よっぽど狭い劇場でなければ、出演者がマスクをつけていなくても「怖さ」は感じない(とはいえ、最前列に座るのはためらってしまうが)。デルタ株が拡大してからは日常生活においての緊張感は高まっているが、ガイドラインの守られた公演での観客を含めたクラスターはまだ発生しておらず、それを理由に観劇をやめるほどの考えには自分は至ってはいない。

配信というのもひとつの重要項だ。確かに、演劇の配信というものは未だに「苦肉の策」という感が拭えない。とはいえ、私も昔は演劇のテレビ放映をよく観ていたし、大学の図書館や上映会に出向いて過去の作品を楽しんでいたし、他のジャンルに目を向ければ、DOMMUNEはまちがいなくひとつの文化を作り、先日のフジロックの配信だって多くの人が楽しく観ていたわけで、映像化や配信そのものに可能性がないとは言えない。演劇の配信のいまいち盛り上がらない感じには、「クオリティ」とか「一体感」とか「生の感じ」とは違う何かが足りないせいではないか? という気がずっとしているが、この問題については別のところでちゃんと考えたい。

やり方が定着してきて、ひとつの共有事項になったものはまさに「文化」と言えるだろう。この1年間で、演劇関係者たちは間違いなくひとつの「文化」を作った。もちろんそれはやむにやまれず、なんとか演劇公演をパンデミック下において実現させるためにとった、いわば消極的に作られたものではあるが、とはいえそれが「文化」であることは事実だ。当初の希望的観測では、今年(2021年)のうちにはパンデミックはだいぶ収束するだろうという見立てがあった。しかし変異株の登場によってその見解も修正を余儀なくされた。少なくともこの現状の奇妙な劇場文化は、もうしばらくは続くだろう。そうなったときに、今の文化を積極的に捉えていくようなことがどうしても必要になってくると思われる。それが一体どういうことなのかはまだわからないが、いわゆる「逆転の発想」や「逆境を逆手に」ということではなく、ほんの少し見方ややり方を変えることで見えてくる何かがあるのではないかという気がする。

そうすると、やはり「観客」の問題になってくると言わざるを得ない。結局、この状況で一番不可視化されてしまうのは観客だ。間違いなくそこに集まっているのだけど、マスクでほとんど顔は見えないし、反応もわからないし、会話をすることもできない。しかしそこに集まっているのは紛れもなく個人であって、それぞれ人生や生活を背負っているはずだ。この人々が、一体何なのか? ということは、改めて考えたい。

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