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【街角で円盤を、】思う。ー円盤に攫われかけた母

「街角で円盤を、」は、ウォッチャー・渋木すずが日常生活で思い、見つけ、考えた「円盤に乗る派」について綴る連載エッセイです。

◇◇◇

私が生まれる前の話だが、私の母は円盤に攫われかけたことがある。

休日。母は庭掃除をしている。玄関前の植木をいじりながら、ふっと空を見上げると楕円状のものが浮いている。
UFOだ、と思った時には既に遅く、それは凄まじい速さで近づいてきて、母の頭上に停止していた。側面に窓がある。目をそらさなければ。窓から漏れる光の中に、きっとこのまま「何か」を見てしまう。
とっさに目を瞑って叫ぶ。父と兄が母の声で庭に出たときには、既に円盤は遠くに離れ、去る姿しか見えなくなっていた。

母は言う。「UFOにはテレパシーが通じる。心の中で来る、と思ったら来てしまう。だから円盤について考えるな。思うな。連れ去られてしまうから。」

嘘か本当かは分からない。ただ私はこうして「円盤がいる」のが当たり前の家庭で育ち、「円盤を思う」のをなんとなく禁止され、「円盤の存在」に恐れを抱いたまま20余年を過ごしてきた。

そんな折になんの因果か、先日「円盤に乗る派」のメンバーとなった。母が聞いたら卒倒してしまうかもしれない。

円盤に乗る派のステートメントは下記の通りである。

円盤に乗る派宣言
架空の存在であってはならない。大きな声を出してはならない。誰でもここで生きることはできる。静かで自由な場所に、円盤はやってくる。誰も興味はないかもしれないけれど、それに乗るということはよい物語だ。人間のかたちをして生きていくとき大事なのは、いつでも円盤に乗れるようにしておくことだ。そこでは見たことのない、知らないものがなぜか親しい。価値は過剰にはならない。然るべき未来について考える。時間は経っているが、周りに気づかれるほど長くはない。帰ってきたときも、誰にも興味はもたれない。

ここで言う「円盤」はUFOのことだろうか。あるいは何かの比喩だろうか。
今の私にはまだ分かりようがないが、一つだけ分かることがある。
「円盤に乗る派」というのは、ただ素朴に、円盤が来たら乗る、ということだ。円盤を待つのでも、円盤を呼ぶのでもない。
人と一緒に円盤を思うこともできる。円盤について話してみてもいい。あるいは一人で過ごしていてもいいだろう。ただ、ふっと現れた円盤に、乗るということ。それはとても消極的な態度に見えるかもれない。

つづく「円盤に乗る派について」という項の最後はこう締め括られている。

いつか現れる円盤に乗るということに、強い目的も思想もありません。それはただ「円盤に乗ってみた」という事実が残るだけです。他の人に何ら影響を与えることもなく、大きな社会にとって何の関係もありません。しかし「円盤に乗った人」と「乗らなかった人」は明らかに何かが違ってしまったはずであり、あくまで個人的なその変化に興味を持つ人々、誰にも気づかれない秘密を抱えたい人間たちこそ、「円盤に乗る派」と呼べるでしょう。 

円盤に乗ること、とは社会的にそう大きなことではないらしい。
想像してみる。乗らなかった母と、乗ってしまった自分を思う。円盤から降りる。人に言いたくなるかもしれない。けれど誰も信じないから、最後には自分だけの秘密になってしまうのだろう。それはむしろ幸福なことのように思える。

果たして私は円盤が来たら乗るのだろうか。
そもそも、円盤に乗る、とはどういうことなのだろうか。
このエッセイでは、日々の生活を通して「円盤に乗る派」的なものごとを思い、考え、見つけたことを記録していきたい。
そしてこの機会に、幼いころから散々禁止されていた「円盤」について、じっくり考えてみたいと思う。

母は円盤に乗らなかった。
だけど30年前のあの時、誰も感知し得ない速さで母は連れ去られ、その後生まれた私は円盤の子ではないか、という疑念はぬぐえないままなのだから。

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