SNSに飲み込まれる「私」について

かつてニーチェは言った。
「読書する暇つぶし屋を私は憎む。あと1世紀も読者なるものが存在し続けるなら、やがて精神そのものが悪臭を放つようになるだろう。誰もが読むことができるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることまで腐敗させる」と。


こんにちは。今や現世はネットによって書くことばかりか考えることまでも腐敗してしまったと決めつけていてそんな現世にやや辟易な感情を抱くこともあるニッパーちゃんです。

ここでは、私も知っている有名な野球ファンが裏で誹謗中傷をしていたことなども相まってアカウントを消す騒動になっていたことで思ったことを書く。真偽不明なので最初は様子見しようと思っていたのだが、知らない間に行われていたスペースで本人が本当だと認めていたことを踏まえて、内容をまとめている人間の投稿結果を見ながら思ったことを記した。間違っていたらわたしのtwitterアカウントを通して教えてください。


今回の騒動で気になったのは裏垢で誹謗中傷とも言える行為を彼がやっていたことではない。ぶっちゃけ誰でもやってることだしこういう裏垢がバレて炎上するのは悲しいことによくあることなので。

「敵を作りたくなくて我慢していた、言いたいことが言えなかったのが苦しかった」というコメントが引っかかった。

彼のことを知らない人のために完結に述べると、彼は一野球ファンのアカウントからスタートし、情報収集や発信をする中でその情報の精度や速報性、外国人補強選手候補の的中などで注目を集め、いつしか雑誌に野球関連の寄稿もするようになった。自分が見ていた時には既に精度の高い外国人助っ人候補の発信もしていたのでけっこうお世話になっていた。

このような情報発信の過程で必然的に日に日にフォロワーも増え、注目度やアンチも増していったのだろう。彼は自身を繰り返し一般人だという意識はあったみたいだが、最早界隈では知らない人間のいない人となってしまった。
彼は表の有名人としての「私」が絶対に言えない自分の意見や文句・愚痴を裏で言うアカウントを運用していたものの、何らかの経緯でバレたのかわからないが、今回のような騒動になったみたいである。


彼が感じていた「言いたいことが言えなかった苦しみ」を見た瞬間に思い出したのはこの番組だ。

彼のSNS運用とこの番組で扱われていたSNSのあり方は異なるが、それでも被る部分はあると思う。

まとめると、この番組では、SNSは「人は幸福を深く追求すべきだという考え方」を加速させたこと、そのような考えの加速が時には「幸せ至上主義」とも言える考えを加速させた現状を踏まえて、
多くの人々が偽りの自分の罠にはまり、フォロワーの求める自分と真の自分との駆け引きに悩み、自分を否定しようとする。駆け引きに耐えられなくなると本来の自分が崩壊」が起こりうると指摘されていた(精神分析医ミシェル・ストラによる指摘)

このほかにもいくつか番組内で指摘されていたことはあったのだが、代表すると
・SNSという相互評価の割合が「数字」で可視化される世界においては、人に残念だと思われたくないという思いが強くなり、こうして他者からの賛同を集めるために偽りの自分を意識してしまう
・現実世界の自分とのギャップに苦しみ、イライラが募り時には肉体への暴力や死を選択する人々がいること
などが海外の実例や医者による知見、インターネットの抱える特異的アルゴリズムとの接点などから述べられていた。

SNSとはバーチャルな友達による人気投票で支配された空間と言える。彼がどれほど他者からの承認を求めていたのか、いいねなどの数字に対してどれほどの価値を見出していたのかはわからないが、ともかくSNS上のインフルエンサーになってしまっていた自分と、本当に言いたいことを言えない自分の間で何らかのジレンマに近いものはあったのだろう。

彼の行動がどのような動機から生まれたのかは不明だが、裏で行っていた行動は誰にも見えないままだったら、他者からの批判に過剰に反応しなければ防げたかもしれないが、裏でやっていた行いが大衆の目に触れてしまった、自分が認めた(潔さはあると言えるのか?)時点で「思考停止した行動」と判断させられるのは不可避である。




また、インターネット空間は「パノプティコン」に例えられることがある。

「パノプティコン」とは、フランスの哲学者フーコーが『監獄の誕生』で考案した近代の管理システムであり、まとめると
・この空間では自分も他者も不特定多数を見ることができる
・同時に自分も他者も不特定多数の人間から見られているかもしれない
・すると、誰かから見られている「かもしれない」意識が芽生える
・芽生えた意識によってやがて人々のふるまいは「よい子」的ふるまいになる
というものである。
twitterでも投稿が何人に見られたかは数値化されるけれど、それが誰に見られているかはわからない。これはネットでも同じだからSNSやインターネットはパノプティコンに例えることができる。
前フォロワーが「フォロワーの数=自分に向けられた銃口の数」みたいなことを言っていたけどその通り。
ちなみにこの考えは10年前くらいの本で読みました(黒崎政男『今を生きるための哲学的思考』)


ところが現状人々のふるまいが「よい子」的ふるまいになったかというとそうではない。この話だって言われてみれば子供でも理解できる話。なのに書いたりネットの世界にダイブしている間はそんなことどうでもよくなっちゃって、ネットやSNSの"速さ"がこうしたことを意識する暇をくれない。



だからこそ少しでも意識すればだれもが一線を超える前に踏みとどまることができる。私は何回か飛び越えたことがあるので偉そうなことは言えないけれど、結論として我々がこの騒動を踏まえて改めて意識することは多い。

気に食わない相手に石を投げつけて気持ち良くなっていることは今時みんなやっているし考えなくていいし楽だが、我々が今後非対称的な世界で生きていくのに重要なのは一瞬の快楽に溺れて他者を叩くこと、自分にとっては痛い批評を聞き流して自分の世界に閉じこもることではない(誹謗中傷は無視・通報していい)。

本当に再確認・理解すべきこととは

・SNSも身体の一部・延長線上にあること
・SNS上の自分に性格を支配されたり、承認を求めようとするとやがて自分自身のアイデンティティや思想までもが異なるものに乗っ取られる可能性があること
・「書く」こととは今や非対称性を帯び誰もが行えるが、本来は緊張感と思考を伴い行われるべき行為である、という本質があること

ではないか


こうした再確認ができないと、先程のドキュメンタリーでも述べられていた
「(SNS上の人格に飲み込まれすぎないために)自分自身を受け入れ守ること」ができなくなり最終的に「私」は本来の「私」と異なるものになってしまうのだろうか。


ここまで長々と書いてきたが、頭が疲れたのでわたしの考えを集約した画像を掲載して〆たい。

ただし親しき中にも礼儀ありだ!

こうした意識づけについてを長々と述べたのは、物質的な豊かさと快楽とインターネット上での豊かさと快楽を求めて反復横跳びを繰り返す毎日を何となく送っている自分自身への「戒め」です。
読んでいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?