何も考えずにダラダラ書いてみる
気が付いたらもう10月だ。
時の流れは早いものである。
気温は秋を通り越してもはや冬。
洒落になっていない。
雪が降っていないだけまだ秋だと、
自分に言い聞かせながらこの文章を書いている。
読書の秋・芸術の秋・食欲の秋・・・とは言ったものだが、
それらしい事は何もしていないしたいしたものも食ってはいない。
何かを書きたいけれどなにも思い浮かばない。
なにも思い浮かばないけど何かは書きたい。
そんな悶々とした中で私は今この文字を書いている。
だから出任せで支離滅裂となる事をあらかじめご容赦願いたい。
私は文章を書くのが苦手だ。
言葉を知らなさ過ぎてポッと出た言葉に自信がなく、
調べながら打つことが多い。
文章にまとまりを持たせる事ができなくて、
結局何が言いたいのか自分でもわからないで、
強引に締める事もある。
そんな私でも一時期はブログを更新し続けていたし、
その度に長文になりつつも日々思った事を綴ってはいた。
だが、ひとつの文章を書くのに多くの時間を必要とし、
それだけで体力を使い切ってしまう為、
いつしかそのブログをやめてしまった。
創作活動そのものを辞めてしまったと言ってもいいだろう。
読書も好きだったがそれも辞めてしまったし、
以前好きだったことがある日突然飽きる事もあれば、
やむを得ない理由で辞めざるを余儀なくされ、
それそのものが苦痛となり一切見向きもしなくなったものも多い。
だからこの文章を書くのもリハビリのようなものだし、
文章を書くためには何かしらの活字に触れなくてはいけない。
強いて言うなら紙の媒体に触れる習慣を取り戻す必要がある。
言葉を扱う上で大切なのは紙媒体の活字に多く触れる事だと思っている。
そこは人によって異なるのだろうけど、
少なくとも私の場合はそうだと信じている。
あの頃のように次から次へと言葉は溢れてくることも無いだろうし、
文章の構成を無意識に行って起・承・転・結なり、
盛大なフリと綺麗なオチで終わらせるような文章は、
もう私には書けないかもしれない。
それでも今の私でも書ける文章はきっとあるだろうし、
諦めなければ何かしらの文章はきっと生まれてくるだろうと信じたい。
今、窓を開けている。
冷たい空気が部屋中に流れてくる。
否応なく秋冬交じりの気配が部屋を支配する。
少なくとも、
夏のように窓全開での薄着ではとてもじゃないがいられない。
時が確実に流れている事を感じる。
私は何をしてるのだろう。
そんな不安と恐怖と辛い気持ちが入り混じる。
何かを言葉にし続けなくてはとてもじゃないが居られない。
時々、小動物の鳴き声が聞こえる。
あれは犬じゃない。
かと言って、
鳴いている主をまだ見ていないからはっきりはわからない。
推測できる動物はいるので怖さは無い。
それより、
元気の良いバイク集団の方がよほど怖い。
先ほど大河ドラマの特別番組を見ていた。
どなたも魅力的な役者さんで、
どの方のお話も興味津々で聴いていた。
役者さんはその役に没入するので、
その役の気持ちに浸りながらいろんな葛藤を重ねて演じられる。
そのおかげでそのドラマの登場人物に興味を持ったり時代背景を調べたり、
そうして視聴者もまたドラマの一役を担うのである。
歴史とは人間ドラマの積み重ねである。
有名無名問わずいろんな人がいろんな思いや行動で歴史が作られ、
強い者が現代にまで語り継がれたり痕跡を残したりする。
史跡や歴史資料と呼ばれるものはそうして残されるものだし、
その当時の支配者によって残される歴史に改ざんがあったとしても、
積み上がった石垣の一つ一つが誰かの人の手で積み上げられるように、
必ずどこかになにかの痕跡が残るのである。
もちろん、多くの人は歴史の露に消えゆく定めではあるのだが。
北海道にも悲しい歴史はあった。
先住民族に対する和人達の行い。
それでも、
全てが初めから何も無かったかのように埋没しているわけではなく、
現代を生きる私達にも悲しい歴史があった事を伝えてくれている。
網走監獄を代表とする囚人たちの過酷な北海道開拓の歴史も、
今多くが暗い歴史として語り継がれている。
ひとりひとりにとっては生き地獄のような出来事も、
なにも無かったかのように埋没するという事は、
そう多くないのかもしれない。
否、
もしかしたら私達がまだ知らない哀しい歴史は、
多くの地方で埋もれているかもしれないし、
現在進行形で行われ続けているのかもしれない。
この現在とて、
全ての人権が保護されているかというと、
決してそうではない現実があるのだから。
私達は何のために歴史を学ぶのか。
基本的だが大切な質問をされた事がある人もいるだろう。
年代まで暗記させられてこんなものを勉強する事に、
何の意味があるのだろうと。
学生がそういう疑問を持つ事は決して不思議な事ではない。
その質問に答えられる大人がいるかどうかが問題であって。
歴史は60年周期だという。
60年とは大きな出来事が忘れ去られてしまうのが、
おおよそ60年後になるからだという。
歴史は繰り返す。
それが60年を周期として。
例えば戦争。
戦争を知らない日本人達が増え、
もはや、
戦争を肌身で知っている人はそうそう多くは無いだろう。
そうなると、戦争への危機感が揺らぐのである。
今も変わらず隣国との緊張状態が続く中で、
私達はどの方向へと舵を切るのかは、
歴史を学んでいないと判断が難しいだろう。
もっと簡単に言うなら、
人は多くの失敗をして多くを学び、
大きな成功を掴んできた。
歴史を学べば自分達が直に同じ失敗をすることなく、
歴史上の人達の失敗経験を学ぶ事で、
同じ失敗を回避する事ができる。
その上でも歴史を勉強する事はとても大きな意味を持つ。
まだ小さな学生にある大人がこんな事を言っていた。
「学校の勉強で社会に出て役立つ事など何も無い」
「数学なんて無意味だ。だが、それが美しい」
・・・ちょっと何言っているのかわからなかった。
ある日ラジオでこんな台詞を聞いた。
「数学なんて社会に出たら使わないというが、
それは使わない環境にあなたがいるだけだ。」
すんなりと受け入れることのできる言葉だった。
同時にもっと勉強をしておけばよかったとも思った。
学校で習った事を何に活かすかはその者の才能で有りセンスなのだ。
ありとあらゆる分野でありとあらゆる教科目で習った知識が、
基礎知識として生かされている事を知ると、
私は多くのものを無駄にしてきてしまったと恥じると同時に、
「役に立たない」等と言い切ってしまう者にだけはなるまいと、
思わずにはいられない。
こうして文章を書いている今も、
言葉をちゃんと覚えればよかったと後悔しきりである。
辞書を通読すれば語彙は嫌でも身につくと聞いた事がある。
同時に、
小説をいくつも読めば同じような物語を紡ぐことができるのだという。
だとしたら、
好きな音楽をたくさん聴いて楽器に触れていたら、
作曲もできるような感性が育つという事でもあるのか。
なるほどなぁと思う。
さてこうダラダラと書いてしまったが、
時間を気にしなければ、
まだいろいろと書いてしまえる気になっている自分が怖ろしい。
とはいえこんな中身の無い文章をダラダラと書いていてもキリが無いので、
ここらへんで締めたいと思う。
ここまで読んでくださった心優しい方、
ありがとうございます。
お疲れ様でした。