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「アイヌの史実を学ぶ会」によるアイヌヘイトパネル展を検証 #子どもにアイヌヘイト吹き込むな1115


パネル展と講演会の趣旨とスタンディング

2024年11月15日(金)17:00から、札幌市白石区民センターの区民ホールにて、アイヌの民族性を貶め、先住民族であることを否定する的場光昭のヘイトデマを紹介するパネル展と、小中学校のアイヌ副読本を攻撃する的場の講演会が開かれました。主催は「アイヌの史実を学ぶ会」、共催は「的場塾」と「北海道を考える会」(北考会)、後援は「日本会議北海道本部」です。

「アイヌの史実を学ぶ会」とは

主催の「アイヌの史実を学ぶ会」はアイヌが先住民族であると法文に記されたアイヌ施策推進法制定(2019)に危機意識をもった歴史否定的レイシストが、「『先住民族』『アイヌの人々』などと言われても、正確な知識を持ち合わせていないので、専門家の難しい議論とは別に、一国民としての見識を高めようと言う趣旨」で2020年に立ち上げられた勉強会です(Facebookグループ説明より)。代表の伊藤昌勝は日本会議北海道本部理事、事務局の西井千鶴子は日本第一党の幹部です(2021年時点)。

パネル展の趣旨は

開催されたパネル展は、アイヌ施策推進法の制定に危機感を抱いたネット右翼たちが、自分たちの言葉でヘイトデマを話せるように、お勉強した成果を子どもを含めた市民にたいして披露するものでした。

講演会の趣旨は

的場光昭を講師とした講演会は、小中学校の社会科の教科書を補うものとして公益財団法人・アイヌ民族文化財団が刊行している「アイヌ副読本」を「検証」と称して、攻撃するものでした。

アイヌ副読本に対する攻撃

この本は、アイヌ民族についてみなさんに知ってもらうために作りました。
今の日本の社会科の教科書に書かれていることの、ほとんどは和人の社会や文化についてです。しかし、日本には和人だけがくらしてきたわけではなく、アイヌ民族も昔から日本列島に住んできました。そこで、アイヌ民族の歴史や文化について学んでもらうのが、この本の役目です。

公益財団法人アイヌ民族文化財団「アイヌ民族:歴史と現在-未来をともに生きるために-」
https://www.ff-ainu.or.jp/web/potal_bunka/details/post.html

この副読本は2011年12月、小野寺まさる道議会議員(当時)に「日本政府は、この島を『北海道』と呼ぶように決め、アイヌの人たちにことわりなく、一方的に日本の一部にしました」という表現について、「当時、アイヌが北海道を支配していたと認めるような文書」「歴史的事実と認識が食い違う」として道議会でとりあげられました。アイヌ民族文化財団(当時は「アイヌ文化振興・研究推進機構」。のちに一般財団法人アイヌ民族博物館と合併)が見直しを検討。さらに翌年3月に国会でも義家弘介参院議員(当時)から日本国民は単一民族でないと説明している部分を槍玉に挙げられました。しかしその後、編集委員やアイヌ関連団体が抗議し「修正」の撤回を勝ち取りました。このたびの講演会は、ふたたびこの副読本を攻撃するものでした。

パネル展と講演会にたいする抗議のスタンディング #子どもにアイヌヘイトを吹き込むな1115

さらに、パネル展と講演会のフライヤーには、「Dr.的場がアイヌ副読本教材を検証‼︎ 皆様と一緒に学びましょう!」「小学生・中学生の父兄同伴大歓迎‼︎ 親子で学びましょう」とありました。この講演会とパネル展は、子どもをターゲットにアイヌヘイトを広める目的であり、悪質でした。そのためわたしたちC.R.A.C.NORTHは、白石区民センター周辺で、抗議行動をおこないました。

先だって行われたパネル展の検証


「学ぶ会」によるパネル展は、じつは10月5日、札幌駅前通地下歩行空間(チカホ)にて、すでに開催されています。チカホは完全にオープンな場所であり、アイヌ民族の当事者を含め、多くの市民が、差別的内容の展示に晒されました。

2024年10月5日「アイヌの史実を学ぶ会」パネル展
2024年10月5日「アイヌの史実を学ぶ会」パネル展

以下につづく反論は、10月5日に展示された25枚のパネルにたいするものですが、11月15日のパネルもほぼ訂正されていないようなので、いまだ有効です。

なお、非常に差別的内容なので、ご注意ください。


1 ご挨拶


2 「道内アイヌ人口は13,118人/アイヌ協会・会員は1,989人」

レイシストはアイヌの存在を否定するために「定義」をつねにほしがります。「公式に誰がアイヌであるかは」「戸籍簿には民族欄」がないから「知ることはできない」のではありません。戸籍簿に「民族欄」がないから、誰が「日本人」「和人」かを「知ることはできない」のでしょうか?

「道内アイヌ人口は13,118人/アイヌ協会・会員は1,989人」現在のアイヌ人口
「現代では、アイヌの人たちだけが住む村のようなものがあるわけではない。アイヌ民族は日本のほかの人びとと同じ地域のなかで、ともに暮らしております」(北海道博物館)。

民族的差異を軽視するため、「同じ地域」に「ともに暮らして」いるという文章が意図的に冒頭に引用されています。

戸籍簿には民族欄はありませんので、公式に誰がアイヌであるかは、知ることができません。

「公式に誰がアイヌであるかは」「戸籍簿には民族欄」がないから「知ることはできない」と書かれていますが、これは事実無根です。戸籍簿に「民族欄」がないから、誰が「日本人」「和人」かを「知ることはできない」のではないということと同じです。

道内アイヌの人口は1万3千118人(平成29年・道庁)と推計されています。

「全道で13,118人とされるアイヌの人たち」の数字は、平成29年に北海道が実施した「北海道アイヌ生活実態調査」による北海道内の市町村が調査対象者として把握しているアイヌの人数です。

北海道アイヌ協会
アイヌ協会はアイヌ自身の活動組織です。現在の協会は昭和21年に設立され、全道に50の地区協会があります(ホームページ)。また、令和6年の会員は1,989人と言われています。

「アイヌ自身の活動組織」は間違いです。北海道アイヌ協会のHPには、つぎのようにあります。公益社団法人北海道アイヌ協会(以下「協会」という)は、北海道に居住しているアイヌ民族を主な構成員として組織し、「先住民族アイヌの尊厳を確立するため、人種・民族に基づくあらゆる障壁を克服し、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展に寄与すること」を目的とする団体です(「協会のあらまし」)。

 アイヌ協会そのものは、戦前の昭和7年に道庁の担当者・喜多章明を中心に、吉田新太郎・達星北斗など多くのアイヌの仲間が結集して設立したのが始まりです。

「アイヌ協会そのもの」の「始まり」は、「喜多章明を中心に」設立されたとされる「北海/北海道アイヌ協会」ではありません。近年の研究は、北海道庁社会課の役人だった喜多が設立したとの記述と、組織としての実態をめぐって疑問が提示されてます(山田2021)。なお、違星北斗は1929年(昭和4)に死亡しており、「結集して」「設立」に関わっていません。ここで「戦前の北海道アイヌ協会」が注目されるのは、「学ぶ会」が同時代の同化主義的言説を強調したいからでしょう

規約によりますと、アイヌ協会入会の個人要件は次のようになっております。
1.アイヌの血を引く者
2.アイヌの血は引かないがアイヌの血を引く者の配偶者
3.アイヌ家庭で養育された一代限りの者で、北海道在住の18歳以上の個人(条文簡略)

北海道アイヌ協会の第一類正会員(他に第二類正会員、名誉会員、賛助会員があります)の要件は、法人の目的に賛同して入会した、アイヌの血を引く者又はアイヌの血は引かないがアイヌの血を引く者の配偶者若しくはアイヌ家庭で養育された一代限りの者です(公益社団法人北海道アイヌ協会定款第5条)。単なる「アイヌ協会入会の個人要件」ではありません

2020年の「学ぶ会」のブログには、パネル展の原型となるスライドが投稿されていますが、そこにはあからさまに「純粋なアイヌはいない」と書いてあります。これがかれらの本当に言いたかったことでしょう。公共の場で展示すると問題となるとわかっているため、生活実態調査による調査対象者と協会員数をただ並べ、主張をごまかしているのです。


アイヌ人口は 13,118人(平成 29年)

アイヌ人口は 13,118人(平成 29年)

江戸時代以来、アイヌ人口は概ね2万人で推移して来たと言われている。「現代では、アイヌの人たちだけが住む村のようなものがあるわけではない。アイヌ民族は日本のほかの人びとと同じ地域のなかで、ともに暮らしております」(北海道博物館)。
また、混血が進んでいて、「純粋なアイヌはいない」ともされている。戸籍簿には諸外国の様な民族欄もありませんので、実際のところ誰がアイヌであるかは知ることができない。
道庁の調べでは道内アイヌの人口は1万3千118人(平成29年一下図)と推計されている。
H29調査総数:13,118名

「アイヌの史実を学ぶ会ブログ」より。太字は筆者
https://ameblo.jp/ainuno-shijitu/entry-12588897042.html

3 先住民族って?

先住民族の定義として参照できる『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書』によると、アイヌも北米先住民族やアボリジナルと同様に先住民族です。北海道縄文人の直接の子孫」「13世紀ころに大陸から渡来の異民族」この2つの珍説を並べて恥じないのがネット右翼です。

・アイヌ施策推進法における「先住民族」という用語について日本政府は、「一般的に使用している意味で用いて」いるとしており、先住民族の権利に関する国際連合宣言においても、「先住民族」の定義が置かれていないということも「承知している」と答弁しています。「先住民族」の意味について参考になるのは、2009年の『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書』です。それによれば、「先住民族は、一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族である」とされています。アイヌの場合、近代国家(明治政府)が形成される過程で、多数民族の支配を受け、それでもなお独自の文化とアイデンティティを保持していることから、「先住民族」と考えることができるとされています(国立アイヌ民族博物館「よくある質問 アイヌ民族はなぜ先住民族と認められているのですか?」を参照)。

・単数形の「アボリジニ」という語は差別的であるという理由から、現在では「アボリジナル」「オーストラリア先住民」などと表記します(藤川 2011)。

「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書」の定義によると海外の先住民族と「日本に於けるアイヌ民族は全く事情が違」うわけではありません。豪州先住民族も北米先住民族も「一地域に、歴史的に国家の統治が及ぶ前から、国家を構成する多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ民族として居住し、その後、その意に関わらずこの多数民族の支配を受けながらも、なお独自の文化とアイデンティティを喪失することなく同地域に居住している民族」であり、アイヌも同様です。

・「アイヌ以前に日本人共通の祖先・縄文人」は、歴史的誤った表現です。「縄文人」は民族集団ではありません。「縄文人」はまた単一の民族集団から構成されているわけでもありません。「縄文人」は、一般的には、新石器時代に相当するとされる日本史の歴史区分である「縄文時代」(前14000年頃~前10世紀頃)に、日本列島に生活し、「縄文文化」と名付けられているものの担い手だった人々を指します。非常に長い歴史のスパンであり、きわめて多様だったはずの「縄文人」を「先住民族」とは呼べません(上記の定義を参照)。研究では、関東以南と東北以北の新石器文化人は大きく異なることが指摘されています(藤田2012)。

・①②という形に提示されている「二つの意見」は、学術研究に存在するものではなく、学術研究によって認められているものでもありません。「5~10世紀の道北・道東に展開したオホーツク文化は、サハリン経由で南下してきた人々が担い手だったと考えられているが、こうした集団流入は長い北海道の人類史の中でもまれな出来事だった。北海道の大部分では大きな集団流入や入れ替わりがないまま、縄文文化を担った人々の子孫が続縄文文化・擦文文化の中心的な担い手となり、今日のアイヌ民族につながっていると考えられている」のです(大坂2014)。

・「①であれば、全国の日本人と同じ縄文人の子孫となり、先住民とは言えない」は間違っています。上記の通り、縄文時代を生きた人間は多様であり、一つの民族集団とは言えません。先住民族は近代国家が形成される過程で支配を受けることによって形成されるものであるということも、上記の通りです。

・国連「先住民族問題に関する常設フォーラム」(UNPFII)は、単一の定義では必然的に過不足が生じ、先住民族の権利保障のためには「先住民族」の普遍的定義は必要ないという見解を示しています(UN 2018:3)。定義がないから、先住民族ではない、先住民族に当てはまらないなどは、矛盾した詭弁です。


4 現代アイヌのDNAは関東縄文人骨に近い

遺伝子によって人類を「人種」や「民族」に分類できないことが、遺伝学研究の進展により証明されています。しかし、的場は、研究論文の文を省略したり、引用文の後にデマを付け加え、論文の主張を改変します。的場のふるまいや主張は、科学に名を借りた古典的レイシズムです。

・「民族の関係を知るためには、DNA分析が最も適切な手段として確立されています」は、事実無根です。むしろ、遺伝学研究の進展により、遺伝子によって人類を「人種」や「民族」に分類できない、ということが証明されています。「人種」や「民族」は、私たちが社会的に構築するものです。

・神澤ら(2013)による18もの東アジアの人間集団の図は、三貫地貝塚からのサンプル分析に基づき、関東以南の縄文時代人と東北以北の縄文時代人との違いを指摘したものです。

・「ではFstの数値や図をどう解釈すればいいのかということですが、その前提として、アイヌと北海道縄文人、東北縄文人はN9bを共有しているということを認める必要があります。だからこそ、M7aに関する、より詳細な考察を進めるのです。しかも本文で書いているように、単に試科の数の問題なのか、あるいはM7aの流入が縄文以降だったかという2つのシナリオを著者らは提示しています。後者だとしても、N9bに関する研究成果には影響しないので、アイヌが北海道縄文人の子孫であるという蓋然性についてはまったく揺るがないのです」。

的場光昭の研究成果の歪曲については、以下のnoteが詳しいです:

稲垣克彦「DNA解析と『アイヌ民族否定論』:歴史修正主義者による先住民族史への干渉」解放社会学研究 35:2022

5 利用が海外まで及んだ/石器工場 国宝「白滝遺跡群」


6 世界遺産/北海道・北東北縄文遺跡群

つぎのパネル7のコメントで説明するように、縄文人は「民族集団」ではない。

7 一万年を超えた縄文時代/人々は日本全域に暮らしていた

これは瀬川拓郎『アイヌと縄文』(ちくま新書、2016年)からの正確な引用ではなく、どこかの文章の要約のようです。主催の「学ぶ会」は、出典を入れたとしても自分勝手な結論にしてしまうことを、師匠の的場光昭から学んだのでしょう

縄文時代は1万年を超える長い時代でした。
日本列島の縄文人は、隅々まで同一の祭祀や呪術という精神文化を共有していました(「アイヌと縄文」ちくま新書)。

・これは瀬川拓郎『アイヌと縄文』(ちくま新書、2016年)からの正確な引用ではなく、どこかの文章の要約のようですが、同書は「同じ縄文人を祖先にもつからといって、2000年以上も異なる歴史を歩んだアイヌと私たち(瀬川の「私たち」の使い方は自身の読者を和人と想定している)を同一視することはできません」とし、「弥生文化をうけいれなかったアイヌ」に注目することで縄文文化を浮き彫りにしようと試みている本です(瀬川2016: 16-17)。

彼らの言語は「縄文語」という共通語である可能性があります
(「アイヌと細文」ちくま新書)。日本人の祖先とも言えるでしょう。

・「縄文語」について瀬川は、「弥生時代以降の古代の日本列島には、言語からみると縄文語と渡来人語が融合した古代日本語のほかに、縄文語=アイヌ語、縄文語と古代日本語の融合語、古代朝鮮語と古代日本語の融合語といった、さまざまな言語が各地でみられたに違いありません」(瀬川 2016:61)とし、むしろ言語の多様性を強調しています。

・「日本人の祖先とも言えるでしょう」「日本文化の根幹である」は印象操作のための推測でしかなく、縄文時代に生きた人々の多様性を軽視する言い方になります。この場合の「日本人」の意味も定かではありません(ヤマト民族か、日本国籍者かなど)。

8 現代に残る 縄文オノマトペ

※投稿は現在削除されている。

現代に残る
縄文オノマトペ
オノマトペとは「擬声語・擬音語」などのことです。
春の小川は「サラサラ」行く、風は「そよそよ」吹く。松虫は「チンチロリン」鈴虫は「リンリン」と鳴く。
日本人には、何の不思議もない当たり前の表現です。しかし、外国人にとっては、虫の声などはただの雑音なのだそうです。
——小川の画像
——マツムシの画像

人類の定住は、農業の発生で始まったとされています。ところが、縄文人は狩猟・採集生活のままで定住しました。
集落は大自然そのものの中にありました。
恐らく、縄文人は自然現象を細かく観察し、人の行為のように理解していたのではないでしょうか。

オノマトペは、縄文語が発達する以前のコミュニケーション手段という説もあります。
縄文オノマトペが、現代の我々に自然に受け入れられるのは、日本人が縄文人のDNAを受け継いでいる証しだと思われます。

https://x.com/chizuko_N20/status/1844912088512332153

オノマトペは世界中のどの言語でも見られます。
DNAとは関係がありません。

9 北海道の統治 安倍比羅夫から始まった

出典があっても主張を変えるパターンのデマです。『新版 北海道の歴史』(上・下)には、「659年(飛鳥時代)~」からの記述、または「北海道を日本領としました」という記述はありません。この時代の歴史用語として使われる「蝦夷経営」またはその後の「管轄」と「日本領としました」は内実が異なります。

北海道が初めて記録されたのは「日本書紀」です。斉明天皇の命による安倍比羅夫北征の記述に残されています。
659年(飛鳥時代)、擦文人(縄文人の未裔)を服属させた比羅夫は後方に郡領(朝廷の出先)を置き(「新版・北海道の歴史」北海道新聞)北海道を日本領としました。

その後、712年に越国から出羽国が分離し北海道の管轄が越国から出羽国に移ったと記されています。(「新北海道史」道庁)。これは鎌倉時代まで続きます。

・長沼孝ほか編『新版 北海道の歴史』(上・下)には、「659年(飛鳥時代)~」からの記述、または「北海道を日本領としました」という記述はありません。同書における阿倍比羅夫についての記述は以下の通りです:

・「七世紀中ごろ、大化改新以降に、越(こし)の国(新潟周辺)への棚(さく、城柵)の設置など、北方関連の記事が『日本書紀』にみられるようになる。そのなかで、北海道に関する最初の文字による記録は、『日本書紀』斉明天皇四~六(六五八~六六〇)年に書かれた阿倍比羅夫北航記事と考えられている。比羅夫は百八十艘(そう)の船団を率い三回にわたり北方へ遠征し、四年には「齶田(あきた)・淳代(ぬしろ)二郡」の蝦夷を降伏させ、渡嶋蝦夷(わたりのしまのえみし)を饗応し、「粛慎(あしはせ)」を討って、羆(ししくま)二匹とその毛皮七十枚を持ち帰った。五年には「飽田(あきた)郡」「淳代郡」「津軽郡」と「膽振鉏(いふりさえ)」の蝦夷(えみし)を集めて饗応(きょうおう)し禄(ろく)を与え、地神を祭った。さらに「後方羊蹄(しりべし)」に「郡領」をおいた。六年は「渡嶋蝦夷」の千人あまりの集団に会い、粛慎の舟二十余艘(そう)と遭遇する。交易を試みるが成就せず粛慎の根拠地であった「弊賂弁嶋(へろべのしま)」で戦闘となり、粛慎は逃亡した。

様々な説はあるが、「齶田」「飽田」は今の秋田周辺、「淳代」は能代川流域、「津軽」は青森県西部に比定でき、「渡鳴蝦夷」は北海道の住人を指すと推定される。また、「粛慎(しゅくしん)」は蝦夷と区分して記載されており、考古学的状況からオホーツク文化の担い手を指すと考えられる。「粛慎」は中国の古典にみられる東夷の一つで、国家の隆盛時に「楛矢石弩(こしせきど)」を進貢したとされている。オホーツク文化の人びとが当時本州でみられない石鏃(せきぞく)を使用していたこととも、「粛慎」の名称を使用した一つの理由となろう。

 また、中国の『通典(つてん)」等に「流鬼(りゅうき)」の記事がある。流鬼は、竪穴(たてあな)住居に住み、狗(いぬ)の毛と麻を混ぜた布、豕鹿皮(しろくひ)、魚皮を衣服とし、骨や石を鏃とした。流鬼の君長「孟蜂(もうほう)」は、靺鞨(まっかつ)から唐の隆盛を聞いて、唐の貞観十四(六四〇)年に息子の「可世余志(かやよし)」を朝貢させた。流鬼の位置については、サハリン説とカムチャッカ説があるが、『唐会要』の記事中にみえる「莫曵皆靺鞨(ばくえいかいまっかつ」が北海道の住民を指す可能性がある。

 中国に黒龍江下流域からサハリン方面の状況が伝わったことになり、逆の言い方をすれば、七世紀の唐の成立によってその影響が北回りでサハリン方面へ及んでいたことになる。東アジアから東北アジアの情勢が、唐の成立によって大きく変化したことを示す一つの資料ととらえることができる。

 阿倍比羅夫の北方遠征について、朝鮮半島情勢が緊迫しているときであり、なぜ突然のように行われたかについて、様々に論議されている。『日本書紀』に中国の東北部の種族とされる「粛慎」の名を用いたのは、唐と関連しているとの意識があったためで、朝鮮半島情勢が悪化している中で北方の情勢調査が必要であったためと考えられないだろうか。「流鬼」についての情報も、遣唐使を通じて畿内政権へ伝わっていた可能性がある。」」113-114頁。

・「八世紀初頭には大宝律令が制定され、「日本国」の成立をみることになる。

 この動きのなかで、大化改新以降、倭国の東北にあたる蝦夷(えみし)の経営が図られていく。『日本書紀』斉明天皇四~六(六五八~六六〇)年に行われた阿倍比羅夫の北航も、北の情勢を把握するためととらえることができよう。

 七世紀中ごろから八世紀にかけて、現在の宮城県・秋田県・新潟県付近に優国・日本国の前進基地として城柵(じょうさく)が築かれ、郡が置かれた。また、福島県相馬市やいわき市では七世紀の大規模な鉄生産遺構群が見つかっており、倭国の北進を支える役割を果たした。八世紀になると太平洋側の陸奥(むつ)国に多賀城(たがじょう)(七二四年)、日本海側に秋田城(七三三年)が設置され、蝦夷経営の中心となっていった。」116頁。

・「北海道式古墳の被葬者は、続縄文(ぞくじょうもん)期の伝統をひく土坑墓と比べ墓制が大きく異なることから、土着の集団ではなく、律令国家勢力との強い関係をもった集団の成員であったと考えられる。阿倍比羅夫が郡領を置いたとの記述があるように、国家勢力と関連した東北北部からの渡来集団が、竪穴(たてあな)住居、農耕、機織技術、鉄製品使用など土師器文化の生活様式を持ち込み、土着集団に鉄器、土師器、須恵器などとともに、竪穴住居建築、畑作農耕、機織り、鉄製品使用、鍛冶(かじ)など様々な技術を伝えた。同時に北海道の産品である毛皮類との交易を行い、時に土着集団の族長層を率いて朝貢させた可能性も考えられる。」122頁。

以上です。この時代の歴史用語として使われる「蝦夷経営」またはその後の「管轄」と「日本領としました」は内実が違います

10 室町時代の北海道には言葉の通じない人達がいた

鎌倉時代にアイヌが現れたとするいわゆる「13世紀デマ」のパネルです。日本書紀を無批判にもちいて、考古学用語で擦文時代と呼ばれている時代の人と言葉が通じました!と書いてあることが、このパネルの根拠?です。

・「1356年頃の北海道」の地図の出典は書かれていないのですが、海保嶺夫氏の中世北方史研究において同様の地図は「中世のエゾ(14世紀初期、推定図)として登場します(海保2006、89頁)。海保は、あくまでも「中世の『日本人』=和人たちはエゾやエゾ地をどう見ていた」かを把握するために『諏訪大明神絵詞』を参照にしています。このパネルでは、パネル展を通して提示したい「アイヌ以前に日本人共通の祖先である縄文人がいた」「だから、アイヌは先住民族とは言えません」との主張を立証するために、『諏訪大明神絵詞』における言葉についての記述が用いられています。

阿倍比羅夫の時代に「言葉が通じていました」(出典不詳)をもって、後から通じなくなったとして、「アイヌなどの北方民族」が北海道島に侵入し、「擦文人」が「追い込まれた」というものです。なお、「アイヌ文化は、鎌倉時代から始まったとする説」はありません。北海道の歴史区分や考古学で言われている「アイヌ文化期」は、土器の消滅や竪穴式住居から平地式の住居へといった変化を基準として名付けられたものです。現在も存在する民族集団と同じ名称を過去の文化に用いているため、アイヌが突然に民族としてこの時代に現れたという誤解が生まれることなど問題が指摘され、学術研究において議論が行われています。

11 松前藩の北海道統治

明治以前、のちに北海道と呼ばれる島の一部に和人が居住(幕藩制国家の領域)していたとしても、島全部を和人が統治していたわけではありません。アイヌ民族の居住地である蝦夷地は、国家権力による直接的な支配の及ばない化外の地、異域とされていました。

1,292年(鎌倉中期)、幕府蝦夷管領の現地代官・安藤氏は東夷成敗権を行使し、北海道を統治しました。
また、1,394年(室町初期)、室町幕府は下国安藤氏を「日本将軍」に任命し、北海道を統治させました。

・鎌倉時代に北海道島が「蝦夷ヶ島」「夷島」として認識されるようになり、その住民の「夷」に対しての「成敗権」で「北海道を統治しました」というのは飛躍した印象操作であり、内実は不明です。安藤氏の本拠地は東北の十三湊でした。
・下国安藤氏についても、ここでの「北海道を統治させました」の内実は不明です。「日の本将軍」は室町将軍直属の地位として、役割は本州北辺と蝦夷地の「統治」にあるとされますが、これはまるで全北海道島を国家の領土として支配していたかのように「北海道を統治しました」という言い方は飛躍した印象操作です。

1,457年(室町中期)、松前藩祖となる蠣崎(武田)信広がコシャマインの乱を制し、1,514年には、蠣崎氏は日本将軍の蝦夷地代官になります。
戦国の動乱を収めた秀吉は、1,593年蠣崎慶広氏に朱印状を与え、志摩守に任じ北海道の統治を認めました。

・蠣崎氏についても同様であり、この時代の和人の交易拠点であった渡島半島南端の海岸に所在していた道南十二館のうち二館を除き陥落したコシャマインの戦い(1457年)後の断続的な交戦状態に終止符を打った「夷狄(いてき)の商舶往還(しょうはくおうかん)の法度(はっと)」によって、上ノ国とシリウチの間までの地域が本州の政治体制下へと初めて物質的に編入されたと言われています(シドル2021)。これも、国家の領土として北海道島をすべて「統治しました」と言うのは飛躍した印象操作です。
・1593年の「失印状」は、「アイヌのほか、松前の一般庶民に対して乱暴を働いてはならない。松前へ渡来する商舶への課税は従前の通りに撤収する、違反する者であれば言上(ごんじょう)すること、秀吉が速やかに誅罰(ちゅうばつ)をおこなう」という内容でした(長沼ほか編 2011:234)交易管理と体制をめぐる内容であり、これで北海道島すべてを国家の領土として「統治」していたとは言えません。

続いて江戸幕府を開いた家康は、黒印状を与え、蠣崎氏を後の松前藩として幕藩体制に組み込み北海道の統治を許しました。
また、12代藩主・松前崇広は幕府の老中を務めました。

・1604年の「黒印状」は、「蝦夷地へ渡航しての交易を厳しく規制することを加えているものも、松前・蝦夷地の交易を松前藩氏が完全に掌握することを示したものであり、この交易権の全面的な独占を保障するのが、家康の黒印状だった」とされています(長沼ほか編 2011:238)。なお、次のように、当時の松前藩とアイヌとの関係を表していることが指摘されています。

「『付(つけたり)』書きは和人の蝦夷地への渡航を厳しく禁じているのに対して、『夷』はどこへ行っても問題としないとしている規定なので、松前藩とアイヌ民族の関係をあらわしている重要な意味があると思われ、いくつかの考え方がある。①コシャマインの戦い以後、何度もみられた『夷乱』にあわされたアイヌ民族の力量が反映されているのだという見方、②江戸幕府がアイヌの交易活動についても規定していることのあらわれとする見方、③幕府の外交権(異民族との関係を律する権限)を松前藩に委任して行う形が示されているという見方ーー。以上、①~③の見方がある。

 アイヌ社会の交易活動が本州方面、千島列島、カラフト方面を含む広範な地域を『往行』して行われている実態を松前藩の政治力で規制することは不可能であった。黒印状がアイヌ民族に対する何らかの規制を定めたとしても責任を果たすことはできない、藩領の百姓を支配し、その交易活動などを規制するのと同質の規制をアイヌ民族との間に成立させることは考えない、というあり方が黒印状にあらわれているのである。異民族との関係を定めているものであるので、『外交権』との関係をみておかなければならないという見方も出されているのである」(長沼ほか編 2011:238-239)。

これはつまり、異民族を「統治」することができないという意味として捉えられます。この意味でも、幕府が松前藩による国家の領土としての「北海道の統治を許しました」とは言えません

 なお、明治維新以前の北海道島についての通常の歴史の書き方は、以下の通りです。「明治以前の北海道は、道南の和人居住地(和人地・松前地)とアイヌ民族の居住地である蝦夷地に分かれ、和人地は幕藩制国家の領域(日本の領土内)だったの対し、蝦夷地は国家権力による直接的支配の及ばぬ「化外(けがい)の地」「異域」とされていた。しかし、(一八)六九年に全島が北海道と改称され、国郡が設定されたことにより、名実共に近代日本国家の領域に組み込まれた」(関ほか編2006: 26)。

12 ロシア帝国の百年前から樺太・千島は松前領だった

・「正保御国絵図」の原資料は残されていませんが、「松前藩へも初めての幕府巡見使が、一六三三(寛永十)年に到来」し、その時に行われた「島めぐり」の際に作られた地図がもとの地図と考えられています(長沼ほか編 2011:245)。地図からは、当時の「蝦夷地地理の認識度がやや想像される」とされています(長沼ほか編 2011:246)。「幕府がすすめる幕藩体制整備の過程にあわせて藩体制の整備は、和人地、蝦夷地の区分を明らかにする必要があったとみられている。『鎖国』の体制が厳しく整えられていると、『国境』を意識した蝦夷地の管理、アイヌ民族との関係の整備が必要とされたのであろうというわけである。地理情報を正確に把握しなおし、和人地、蝦夷地の境界を明確にして、この境界を越える人、物の動きをより厳しく管理することになる。遠く、メナシや天塩からもやってくるアイヌの人々が松前城下に活発に出入りする状況を変更することになるのである。幕府の巡見使が直接、松前城下周辺を視察する時代となったのであり、対アイヌ交易=異民族との関係を城下に集中させておくことは難しくなったのである。こうして蝦夷地に商場(あきないば)を設定して対異民族交易を藩が主体となって管理する体制をつくっていくことになったとみるのである(海保嶺夫『幕藩制国家と北海道』、小林真人「商場知行成立過程についての一考察」『松前藩と松前』二二号」」(長沼ほか編 2011:246)。
「正保御国絵図」は、蝦夷地が「日本領土として、幕府の「日本絵図」に組み込まれ」たことを示すものではありません。

江戸末期、北海道はロシア帝国の侵略脅威にさらされました。
松前藩では防衛できないと見た幕府は、松前藩を伊達梁川に移し北海道を幕府の直領とし、幕府自身が防衛することにしました。

・幕府による蝦夷地直轄は、蝦夷地、すなわち場所請負制の経営とその警備をめぐるものと考えられ、「一九世紀前半期の蝦夷地は、幕領期を通じ、また復領となった松前藩政のもとでも拡張された場所請負制が、そのもとで拡大する漁産生産、流通経済で蝦夷地の『発展』をアイヌ民族への厳しい負荷とあわせて実現している状況となっていた」と考えられています(長沼ほか編 2011:312)。

1,855年、江戸幕府はロシアと日露和親条約を結び、松前藩の領土だった樺太・千島を「樺太は日露の共有地」「千島は択捉島と得撫島の境界で国境」と決めました。

日露和親条約の締結において、アイヌ民族による自らの居住地や生活圏についての発言権などは何も認められませんでした。

13 鎖国を守った松前藩/それに従った諸外国

蝦夷地は国家権力による直接的支配の及ばぬ化外の地であり異域でした。沙流地域のアイヌの指導者はロシアを引き合いに風俗改めに抵抗。根室に上陸した大黒屋らは、松前藩を通して江戸幕府に伺いを立てているうちに冬の根室で最年長者が死亡。当時の蝦夷地の政治体制を表しています。

・松前藩は蝦夷地の場所請負制の管理を行っていたのであり、「明治以前の北海道は、道南の和人居住地(和人地・松前地)とアイヌ民族の居住地である蝦夷地に分かれ、和人地は幕藩制国家の領域(日本の領土内)だったの対し、蝦夷地は国家権力による直接的支配の及ばぬ「化外(けがい)の地」「異域」とされていた」ことが歴史学の通説です(関ほか2006: 26)。「北海道を統治していた」は、まるで全道を国家の領土として支配していたかのような飛躍した印象操作です。

・のちの時代、第二次幕府蝦夷地直轄期(1856-1868年)の間に、アイヌの風俗改めとして髪型を和風に改めることが命じられた際、沙流地域のアイヌの指導者のハフラは、幕府の役人がもしアイヌの髪型を強制的に和風に改変するのであれば、アイヌは幕府に対して恨む気持ちになり、外国の軍艦が現れたら、自分たちは何の抵抗もせずに逃げて隠れるので、運上屋は一発の砲弾で破壊されるのだ、と申し出たエピソードが松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』(『アイヌ人物誌』)に登場します(高倉 1969: 809-810、松浦 2002: 355-357)。ハフラのこの交渉により、沙流地域における風俗改めの政策は破棄されることとなりました。このように、幕府は国際問題に悩まされていたとはいえ、アイヌも松前藩と幕府といった和人勢力にただ従っただけではなく、さまざまな形で主体的に行動していたということが見てとれます。

・漂流民の大黒屋光丈夫らが根室に上陸した際、まずは松前藩を経由して江戸幕府に伺いを立てる必要があり、交渉に時間がかかり、一行は根室で冬を過ごすことになり、最年長の小市は死亡しました。当時の蝦夷地における政治体制を表している出来事と言えます。

14 オムシャを活用したアイヌ統治

オムシャとは元々旧知の人に再会した際の贈答挨拶でした。蝦夷地の場所では、松前藩士とアイヌの指導者の間で行われる儀礼であり、法令申渡し、土産の交換、酒宴などで構成されるものです。場所請負制の政治体系の一部で、時代や場所により性格が異なります。

・北海道博物館による「オムシャ」の説明は以下の通りです。

「オムシャとは、もともと旧知の人に再会した際の贈答挨拶のことでしたが、しだいに和人が定めた決め事をアイヌの人たちに読み聞かせ、酒やタバコ、米などを与える政治的儀礼となりました。」https://shorturl.at/fasdj

・オムシャとは蝦夷地所場所において松前藩士とアイヌの指導者の間で行われる儀礼であり、「撫育策」と言われてきました。法令申渡し、土産の交換、酒宴などで構成されていました。場所請負制の政治体系の一部です。アイヌへの「申渡書」には、場所から自由に出てはいけないこと、運上屋以外と交易してはならないことなど、アイヌの自由を厳しく拘束するものがありましたが、他方、自分稼ぎもみられました。これらをすべて「硬軟のアイヌ統治」と一般化して語るのは、場所・地域の違い、時代の変化などを無視する飛躍した解釈になります(田端ほか 2000: 63)。

15 アイヌの反乱

コシャマイン、シャクシャイン、クナシリ・メナシの戦いを「反乱」と表記するのは、これらが幕藩制国家にたいする「蜂起」やアイヌと松前藩との「出入り」ではなく、既にアイヌが和人・松前藩に支配されているという前提がある。皮肉にも古いマルクス主義史学と共通する

アイヌの反乱
和人の北海道統治が本格化する中で、様々な不満を持つアイヌの反乱が見られます。
松前藩成立の直前から330年間で3回の反乱が記録されています。ここでは、簡単な事実だけを述べます。

・コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦いを「乱」あるいは「反乱」と表記する現代の北海道史研究、またはアイヌ史研究はほとんどありません。アイヌ史研究上にそれぞれの戦いを「反乱」と表記した事例は、例えば、マルクス主義史学の影響を受けた奥山亮の『アイヌ衰亡史』1966年が挙げられます。歴史家の菊池勇夫によると、特にシャクシャインの戦いに関していえば、幕府領主層にとって戦いは概ね「蝦夷蜂起」「狄蜂起」として受け止められたという(菊池 1994: 90-91)。「蜂起という言葉には、領主ー農民関係を前提として領主の非法を訴える百姓一揆とは質的に違って、幕藩制国家それ自体に対する反逆、戦いという意味合いが込められている。また松前藩とアイヌの「出入(でいり)」だとする認識もあり、この場合には両者は上下の支配関係というよりは、横の対立関係としてとらえられていることになろう。また、蝦夷と韃靼(だったん)が隣接しているという当時の地理観念から、実際の脅威はなかったものの、背後に韃靼人(女真)の動きが懸念されたことも見逃しえない」(菊池 1994: 90-91)。現在では「戦い」と書くのが一般的です。こちらのパネルで「反乱」「乱」と書く意図については、アイヌの行動を「支配者」側(和人・松前藩)に対する「反乱者」「反逆者」の行動として描写したい願望が強く感じ取れます。

コシャマインの乱・1457年
1,394年に室町幕府が「日本将軍」に任じた下国(桧山)安藤氏は、3守護12館体制で北海道を統治しました。
1,457 年、鍛治屋がアイヌ青年を殺すトラブルが発生し、これがコシャマインの乱に発展しました。
コシャマインは12館(居城)のうち10を落城させた後、松前落祖となる武田信広に打ち取られ、乱は終了しました。

・道南12館は、その名の通り、すべて渡島半島南端の海岸線に分布されてました。道南12館をもって安藤氏が「北海道」をそれが国家の領土であるかのように「統治しました」とは言えません。なお、コシャマインの戦いの後につづいた戦いのうち、館主と館主との戦いもあり、時にはアイヌと館主との戦いもありました。歴史家の間では、これを北の戦国時代または「倭寇的状況」と呼ぶこともあります(田端ほか編 2000: 27)。

シャクシャインの乱・1669年
松前藩が統治してから65年後、1669年(江戸時代前期)にシャクシャインの乱が発生しました。
シャクシャインは、交易の不満などを理由に、全アイヌに松前藩への反乱を呼びかけました。
進軍中、和人子女などの虐殺(365人)や略奪を繰り返し、国縫(長万部町)で敗北。和睦の際に殺害されました。

・松前藩は「北海道」を国家の領土として「統治して」いたとは言えません。徳川家康の「黒印状」の内容については上記パネル11ですでに触れています。

・「和人子女などの虐殺(365人)」という言い方は恣意的です。シャクシャインに率いるアイヌ勢は、蝦夷地への交易商舶を襲撃し、東蝦夷地で213人、西蝦夷地で143人の和人を殺害したという数字の出典は『津軽一統志』(北海道編『新北海道史』第7巻史料1)によるものです。『日本庶民生活史料集成』第4巻(高倉新一郎編)に収録されている「蝦夷蜂起」では、東蝦夷地153人と西蝦夷地120人となっています(田端ほか編 2000: 40)。アイヌの死者数は不明です。

クナシリ・メナシの乱・1789年
1789年(江戸時代中期)道東で、アイヌの指導者が不在の時、アイヌ青年たちによるクナシリ・メナシの乱が発生しました。
この乱で和人71人が殺害され、鎮圧した松前藩はアイヌ指導者の了解の元、反乱の首謀者37人を処刑しました。

・クナシリ・メナシの戦いの原因について、「蜂起鎮圧後の松前藩の報告書や陳述では、飛騨屋の支配人・番人らによるアイヌ民族を強制的に働かせるための暴力・脅迫・性的暴力など、理不屈かつ非道な取り扱いや不正な取引が喧伝されて」いました(田端ほか編 2000: 60)。また「多数の番人・稼方を投入し、アイヌの人びとを使役し、大型の網を使っての鱒漁を行ない、〆粕・魚油の生産が始ま」り、「場所請負人飛騨屋が松前藩に貸した借金を回収しようと鰊〆粕生産を導入し、アイヌの人びとを、ただ働き同然に酷使して反撃を招いた」とされています(田端ほか編 2000: 60-61)。こうした場所請負制の下でのアイヌの死者などの情報は不明です。

16 樺太・千島交換条約とアイヌ

樺太アイヌの宗谷への移住は、行政側からの強い働きかけ、主導がありました。宗谷から対雁への移住は、最終的に銃を持った官憲などが派遣され、船の大砲の射撃による脅迫もありました。強制移住です。

・樺太・千島交換条約の結果、樺太アイヌの宗谷および対雁への移住について、以下のことが言えます。

1)先住民族である樺太アイヌは国籍および居住地の選択を迫られた。
2)政府側には最初はそういう意向はなかったが現場の役人の提案によって話が進み、行政側が主導でアイヌの北海道移住を積極的に進めた。
3)その結果、樺太南部の841人のアイヌが北海道の宗谷に移住した。
4)国籍選択についての3年の猶予が設定されたにもかかわらず、移住するか否かの意思決定の期限を政府が早急に設定したので、アイヌ側がじっくり検討する時間がなく、十分な準備がない状態での移住となった。
5)樺太から宗谷への移住については、現在の記録によると、暴力による脅迫によるものであったとは判定できない。ただし行政側からの強い働きかけ、主導があった。
6)政府側には樺太アイヌを石狩方面に移住させる案が早い時期からあったが、アイヌ側の抵抗があったので実行できず、とりあえず宗谷への移住となった。
7)宗谷に移住後、政府側が、アイヌの石狩移住を進めようとしたがアイヌが同意しないので交渉は難航した。
8)アイヌの長たちによる移住に関する同意書が作られた。
9)現地視察の結果、アイヌ側からの反対の声が強かった。
10)長たちは同族たちの反対が強いので、移住を強行しないよう嘆願書を出した。
11)政府のアイヌの石狩移住を断行する考えは変わらず、結局銃を持つ官憲を派遣し、アイヌの移住を強行した。
12)船からの大砲の射撃による脅迫もあった。
13)移住させられた樺太アイヌの約半数は1886年~1887年に起きた一連のコレラと天然痘の流行で死亡した(シドル 2021:84)。
14)南樺太が1904年~1905年の日露戦争後に日本の統治下に復帰する前から、ほとんどの生存者は帰還し始めていた(シドル 2021:84)
(以上、詳細な史料の検証に基づく次のブログを参照:http://poronup.seesaa.net/article/362579701.html?seesaa_related=categoryhttp://poronup.seesaa.net/article/361636459.html?seesaa_related=category

・「同意書」があって、嘆願書もあったにもかかわらず、さらに銃を持つ官憲なども派遣されたことを踏まえ、樺太アイヌの宗谷から対雁への移住を強制移住ではなく「了解移住」であるとするのは間違いです。
・千島アイヌについて「定住者は安定しなかったようです」
または「ロシア正教の様々な手立ても空しく」と書いてありますが、実態は以下の通りとされています。

「1884年に、97人の北千島アイヌがカムチャッカ近くのシュムシュ島から強制的に移住させられた。シュムシュ島は、もともとクリル諸島の各地で狩猟と漁をするために北千島アイヌが本拠地としていた。北千島アイヌたちは根室の近くの不毛の地であったシコタン島に移住させられ、多くがロシア語を話し、ロシア正教会に洗礼を受けていたにもかかわらず、農業化と教育の政策を通じて彼らを「永く帝国の臣民」に変える試みが行われた。当初のグループのほぼ半数が5年以内に死亡した。この移住は、アイヌの撫育を理由に正当化されたが、実際には緊張が続く国境地帯における国家安全保障との関係が深かった」(シドル 2021: 84-85)。
歴史家の海保洋子によれば、「千島アイヌは、心底ではロシアへの帰還を強く望んでいたにもかかわらず、日本政府の強い要請で希望を具体化することができず、猶予期間切れとなり、結局は日本に所属せざるをえぬこととなったのである」としています(海保1992:106)
また、海保は「1945年の敗戦後は、千島アイヌは北海道本島へ再移住したと思われるが、その後の足跡はよく分っていない。戦後の日本のなかに再び組み込まれたと思われる千島アイヌへの日本側の支配の意味はおろか、「北方領土」問題のなかでの位置づけ[つまり先住民族としての位置づけ]についてさえ現時点では論議されることは少ない」(海保1992: 109)と述べています。

17 一夫多妻だったコタンの首長

マイノリティを性的におとしめることは人種差別の一形態です。和人にも「側室」制度や「妾」制度がありました。子どもが婚姻関係や性愛について学ぶのは権利ですが、露悪的であってはなりません。写真のタイトルは「アイヌの一家族」であり、このパネルに組み込まれる理由はありません。

コタンの首長(首長)は、一夫多妻でした。その分、若者の結婚機会は失われます。江戸幕府は、妻は3人迄と制限しました。

しかし徹底されず、明治政府は6人迄に緩和しました。
・「一夫多妻だったコタンの首長」「コタンの首長(酋長)は、一夫多妻でした」は出典が不明な一般化であり、飛躍です。「酋長」という単語も、アイヌ社会を見下ろす差別的なニュアンスを帯びているという理由から現在はほとんど使われていません。
・例えば、言語学者の久保寺逸彦による1971年の『民族学研究』に掲載された報告によると、江戸期のいくつもの文献をみると、「1)アイヌの酋長を初め、富裕な者は、本妻poro-machiの他に多くの小妻を各地に持ち、2)その多くの小妻たちはほとんど夫の援助を得ず自活しながら貞淑に夫の訪れを持っていること、3)本妻や小妻どうしの間柄は極めて仲睦まじく骨肉の如く相親しんで嫉妬しないというように報告されている」としています(久保寺 1971: 176)。
・しかし、江戸時代まで和人にも「側室制度」があり、近代以前は皇室や公家、武士に限らず、富裕な商人が「妾」を持つ例は少なくなかった。1870年に制定された『新律網領』は、「妾」を妻と同じく二親等と認めることで、一夫多妻制の法整備をし、さらに「妾」を正妻に格上げすることも認められました。1873年の大政官指令では、戸籍上でも「妾」を妻の次に記載することが定められました。
・民法の施行により、和人にとっても、アイヌにとっても一夫多妻制は制度的になくなります。
・一夫多妻により「若者の結婚機会は失われます」「江戸幕府は、妻は3人迄と制限しました」「しかし徹底されず、明治政府は6人迄に緩和しました」については、すべて出典が不明です。

コタンでの身分は厳しいもので、絶大な権力を持つ首長(首長)とその一族。ウタレ(男子の半奴隷)とチハンケマチ(妻達)などで構成されていました。
ウタレとチハンケマチは売買もされていたと言われています。
また、首長は労働者派遣の権限を持ち、和人の漁場などでの労働・収益は首長が来配しました。

・最後の段落の「コタンでの身分は厳しいもので~」もすべて出典が不明な断言です。
・右側の写真は「(北海道土人風俗)アイヌの一家族」などというキャプションで売られた明治以降の絵葉書からのものであり、親子とその娘たちではないかと推測されますので、ここで使われるのは印象操作になります。
・このパネルの目的は近代以前のアイヌ社会は「平等社会」ではなく、厳しい身分社会であり、和人の明治国家によって「近代化されて」当然だというメッセージを印象づけるものと言えます。

18 土人学校の教育/手を焼いた朝登校・入浴躾

アイヌ児童が受けた教育は、質が低く期間も短いものでした。別学制度によって、「土人学校」「土人学級」の生徒だと蔑視され、「見物」されました。パネルが挙げている「理由」は全てアイヌを「文明化されていない」者として見下すものであり、衛生などへの過度な注目は差別といえます。

・各々の情報の出典が書かれておらず、不明です。

・北海道旧土人保護法および「旧土人児童教育規定」のもとで設立された特設アイヌ学校(旧土人学校)について、アイヌの人口が多かった地域には学校が建設されたか、既存の学校が保護法のもとに組み込まれました。また、アイヌの人口が少なかった地域では、アイヌの児童は和人の学校に通わせることとなったが、規則のもとで分離されたクラスで教育を受けることになりました。アイヌ児童が受けた教育は、「質が低く、期間も短かった。最初の一年はほとんど日本語の学習に専念し、農業や縫製などの非学問的な科目もあった。1919年から教育課程は7歳から4年間に固定された。6歳から6年間続く和人児童の教育とは対照的であった」(シドル2021: 93-94)。
「『別学』制度は、アイヌ学校とシャモ(和人)の学校は隣接したり、一つの学校や学級のなかでアイヌ児童とシャモの児童とを区別したり、同じ学級でも出席簿にはシャモを先に記載したり、といった事態をもたらした。アイヌ児童は「土人学校」「土人学級」の生徒だと蔑視され、移民や旅行者の増加、アイヌ研究への関心の高まりなどに伴って、アイヌ学校を「見物」する来訪者が増えた。アイヌ児童にとっては、いわゆる学校教育のみならず、かかる制度の存在そのものによって、またこうした一つ一つの体験によって、自分たちが「劣った」存在として扱われていると感じさせられたのである」(小川1997:384)。
なお、アイヌ児童の「言語動作」が「明快」ではないなどとされたこと、アイヌ児童の日本語の発音を揶揄するシャモの児童がいたといういくつもの記録があります(小川 1997:218)。

・上記を踏まえて、「相撲部屋」の比較事例がいかに不適切かはわかります。

・「勿論、学校以外でアイヌ語は自由でした」は、全体的な社会状況を無視した悪質な印象操作です。

・このパネルに挙げられている「土人学校が設置した理由」は全てアイヌを「文明化されていない」者として見下ろすものであり、衛生などへの過度な注目は差別的とも言えます。なお、出典は不明です。

19 至れり尽くせりの北海道旧土人保護法

北海道旧土人保護法制定は、たしかに行政の不正と救助に関するアイヌの陳情も契機でしたが、アイヌは「保護」の名の強制同化を求めていたわけではありません。「旧土人」という呼称のせいでいつまでも「かつて土人だった人々」と認識されました。農耕目的限定なのに農耕不可能の下付ばかり、相続以外の譲渡禁止、実質的な土地喪失でした。

・「アイヌ代表等の強い要望」は印象操作です。北海道旧土人保護法の成立課程は複雑でした:
「保護法は、1893年の第5回帝国議会に初めて提出された。議員提出したのは、以前に北海道で記者として働いていた立憲改進党の加藤政之助であった。加藤は、アメリカ合衆国を訪問した際にマサチューセツ州の「土人」(先住民族、インディアン)が完全に絶滅したと指摘し、政府がアイヌに関して同じ間違いをしないようにと訴えかけた。だが、法案は委員会での改正後、十分な支持を得られなかった。別の試みが1895年の第8回帝国議会においても、鈴木充実が率いる6人の議員グループから法案が提出された。この2回目の法案提出は、北海道の新聞記者と一緒に東京に訪れた沙流アイヌの指導者であった鍋沢サンロッテーによる陳情から生じた動きであった。しかし、急いで組み立てられたこの法案も、集中的な質疑に耐えられなかった。この時期になると、北海道庁も保護法の必要性を確信するようになっていた。内務省がこうした法律を勅令として制定するように説得することに失敗したため、道庁は1898年開会の第13回帝国議会において政府委員によって法案が提出されるようにした。そして「北海道旧土人保護法」は、1899年3月1日に法律として可決された。」(シドル2021:91)
パネルで「アイヌ代表等」と書いているのは、おそらくこの鍋沢サンロッテーのことでしょうが、サンロッテーが提出した行政の不正とアイヌ救助に関する「質問書」が鈴木らの保護法法案提出と直接の契機となったとされているものの、歴史家の富田虎男が指摘しているように、「明記しておかねばならないことは、サンロッテーが鈴木保護法案が示すような内容の「保護」を求めていたわけではなかったことである。にもかかわらず、鈴木らは、こうしたサンロッテーの改善要求の主体的働きかけに対応して、むしろそれを奇貨として、保護法案を提出し「保護」の名目の下に強制的同化の法的根拠を築こうとしたと見られる」のです(富田 1990:15)。
つまり、「アイヌ代表等」が「北海道旧土人保護」の「成立」を「要望」したのは事実無根です。

・「旧土人」は「開拓以前に住んでいた人々の意」という出典は示されていません。1871年に戸籍法が公布され、「土人」と呼ばれていた人々は平民に編入されると布達されました。つまり、天皇のもとに「平等」に統一された臣民として他に区別されるべき「土人」は存在しないものとされたのです。一方、開拓使がアイヌを区別しないで扱うとしても、植民地化によって生活様式の変更を余儀なくされたアイヌの異民族としての存在は無視できませんでした。教育政策上や戸口調査などに反映させるため、呼称がどうしても必要だったのです。そのため、1878年、開拓使はアイヌを「自今区別候時(じこんくべつそうろうとき)ハ旧土人(きゅうどじんト可相称(あいしょうすべし)」としました(1878年11月日付・第22号)。この呼称はのちに、北海道旧土人保護法に採用されました(児島2009:157-158)。歴史家の児島恭子が指摘しているように、「旧を付すことによって過去の立場を復活させるとともに、それ以上に「旧」であることに新たな価値が付加されるのである。つまり、「旧」何とかであったから現在こうなのだという論理のもとに使われ、「旧」をつけて過去が否定されているかのようにみえて、実は強調されているのである」(児島2009:158)。「平等」な日本の臣民になったはずのアイヌは、「旧土人」という呼称を被ることによって、いつまで経っても「かつて土人だった人々」と認識されるようになります。

・このパネルでは、保護法の下付地の面積を「開拓農民の標準経営面積と同じ広さとしました」とあたかも保護法の政策が「平等」であるかのように見せており、出典として2009年の「アイヌ政策に関する有識者懇談会報告書」を挙げていますが、報告書の実際の文章は以下の通りです。
「土地については、当時の農家1戸当たりの標準経営面積と考えられた1万5千坪を基準としたものであったが、既に和人に対する土地の払い下げが進んだ後であり、アイヌの人々に下付された土地には農地に適さないものも少なくなかった。また、農業指導はほとんど行われず、アイヌの人々の貧窮を十分改善するには至らなかった。」(15頁)。
北海道旧土人保護法の土地給付が農耕目的限定にもかかわらず、農耕不可能の下付が多く、相続以外の譲渡も禁止されました。和人小作人による賃貸借での実質的な土地喪失もあり、保護法予定地の変更や追加の時にはアイヌの農耕地確保より和人向けの土地処分が優先されました。

20 サケは川で放流し、漁獲は海でアイヌ儀式だけは、川捕獲OK

明治の乱獲は和人の入植者によるものでした。近代化によるアイヌ文化への打撃を鑑みて政府は儀礼を含めアイヌ文化継承のための環境整備責務があります。なお、そもそもアイヌには先住権があります。

21 文明開化の流れで禁止されたアイヌ習俗

Body Modificationや美意識を変えようとするのは身体を支配しようとする行為でもあります。和人の入れ墨なども確かに禁止されましたが、歴史的に日本が辿った西洋化の流れの中に、アイヌを勝手に位置付けることでアイヌ文化の禁止を正当化するのは間違っています。

文明開化の流れで禁止されたアイヌ習俗
明治維新は、激しい文明開化の時代でもありました。
簡単に言えば、伝統的習俗を改め社会を西洋化する運動です。
明治天皇は女官等の大反対を押し切り、自ら断しました。
アイヌの習俗もその例外でなく、3習俗が禁止されました。

・開拓使は1871年、死者の出た家屋を焼き払って他に移転することを禁止、新生女子の入れ墨と男性の耳環を禁止(女性の耳環は暫定的に許可)し、翌年にはアイヌの重要儀礼であるイオマンテを禁止し、1876年に耳環の全面禁止と違反者の厳重処分を布達しました。これらを「文明開化」または「西洋化」の文脈において解釈するには無理があります。

1.女性の口周入れ墨の禁止
アイヌ女性には、成人の証しとして「シヌイェ」という口に入れ墨を施す習俗があります。
入れ墨は苦痛を伴うこともあり、文明開化の過程で禁止されました。

・「女性の口周入れ墨」が「苦痛を伴うこともあり」の出典もなく、それが「文明開化の過程」で行われたという解釈の出典も書かれていません。

3.死者の出た家の焼き払い禁止
アイヌは死者をケガレたものとみなし、強く恐れていました。
怨霊を恐れ、死者の出た家は焼き払う習俗があります。
財産上も大きな痛手になることもあり、禁止されました。

・家屋を焼くという習慣は、「死者をケガレたものとみなし」または死者を「強く恐れてい」たためではなく、「家を副葬品として死者とともにあの世に送るという意味を持っている。例えば、道南ではその家の主婦が亡くなると家を焼いたが、これは女性の力ではあの世で自分お家を建てることできないので、家ごと持たせるという解釈がなされていた」ためなどでした(内田 2004:123)。なお、「アイヌには、人が住まなくなった空き家を非常に恐れる習慣がある。伝承などでは、空き家には悪い神が住み着き、人間に悪さをするので恐ろしいと伝えられている。しかし実際には、空き家になるということは、家を焼いて送るなどの本来の血縁集団内で行われるべき処理ができなくなった状況が生まれたことを意味している。つまり、何らかの理由で血縁が途絶え一族がいなくなった結果、家送りの儀式ができず、空き家が発生したことになる。これは、血縁集団を重視するアイヌ社会においては非常に忌まわしい状況であり、それに対する感情が空き家への恐れと結びついたものであろうと考えられる」のです(内田 2004:123)。パネルの文章ですと、アイヌはただ非合理的な恐れを抱き、自分たちの財産に対しても「痛手になる」ようなことをしてしまう無知または無邪気の人びとであるかのように、習慣が禁止されたというような、アイヌを見下ろす説明になっています。

22 アイヌをいじめたのは教育の無い和人

※閲読注意

砂沢氏は確かに「教育を受けた人、ものの分かった人は、私たちアイヌをほんとうの日本人として尊敬してくれました」と書いていますが、看護師のとき院長から性暴力を受けたとも書いています。病院の院長は教育があり、ものの分かった人ではないでしょうか。

 私は、これまで何度か「アイヌ」と言われていじめられましたが、いじわるをする人はどういうわけか教育もろくに受けられず、下働きのような仕事をさせらている人達ばかりでした。娘時代、病院の看護婦をしている時、私を「アイヌ」と言っていじめたのは、字も書けない車夫でした。
 学校の先生とか医者など教育を受けた人、ものの分かった人は、私たちアイヌをほんとうの日本人として尊敬してくれました。山の中で働いている営林署の人、発電所の人、炭鉱の人も少しも威張らず、私たちを大事にしてくれました。

・砂沢クラ氏は、確かに「教育を受けた人、ものの分かった人は、私たちアイヌをほんとうの日本人として尊敬してくれました」と書いています。一方、彼女が旭川の一条通にあった「しののめ病院」で看護婦になった際、院長に疲れているから布団を敷いてくれと言われ、勉強を教えるから本を持ってきてくれと言われ、院長によって突然布団の中に引き込まれ、顔を寄せられ、暴れて泣くと口を押さえつけられ、その院長を力いっぱい突き飛ばして、逃げ出すことができたエピソードも綴っています(砂沢 1990:102-104)。病院の院長は「教育を受けた人」と言えるでしょう。

・このパネルでアイヌを差別する人びとは「教育もろくに受けられず」にきた人びとであるという砂沢の記述をことさら引用する意図が不明です。

23 アイヌ系日本人

小野寺まさるも的場も北大教授になった知里真志保だけ「先生」と呼び、アイヌ自身がアイヌがいないと言っているとチェリーピッキングする。しかし知里の「アイヌ系日本人」とは、同時代においてアイヌを遅れている「劣等な」民族とみる差別の眼差しに対する異議申し立てでした。

北海道開拓にあたって、政府はアイヌを戸籍制度に組み入れ日本人としました。
コタンでは、一般アイヌが厳しい身分制度から解放され、四民平等が確立された社会で自由な平民の立場になりました。

・コタンで「アイヌが厳しい身分制度」にあったということに出典の不足や、戸籍制度に編入された傍での「旧土人」という取り扱いの矛盾などは、上記述べた通りです。

一口にアイヌの名で呼ばれているが、その大部分は日本人との混血によって本来の人種的特質を希薄にし、さらに明治以来の同化政策の効果もあって、急速に同化の一途をたどり、今やその固有の文化を失って、物心とも一般の日本人と少しも変わる所がない生活を営むまでにいたっている。したがって、アイヌ民族としてのアイヌはすでに滅びたといってよく、厳密にいうならば、彼らは、もはやアイヌではなく、せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである。知里真志保

知里先生の手記から、さらに70年が過ぎた和の世。混血はさらに進み、生活実態もご承知のとおりです。
いわゆるアイヌ新法もできました。知里先生はどのようにおっしゃるだろうか?

・知里真志保の「アイヌ系日本人」についての解釈は、彼が生きた時代背景と彼の「人種」および「民族」に関する認識と理解を把握する必要があります。知里の「アイヌ系日本人」は、同時代におけるアイヌを遅れている「劣等な」民族とみる差別の眼差しに対する異議申し立てとみることができます。また、知里真志保が自分と同時代のアイヌは「もはやアイヌではなく、せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべき」と言ったとしても、それは今現在アイヌを「民族」と呼べないなどと同じ意味ではありません。一人のアイヌの言語学者の1950年代における見解です。

24 シティーボーイになって帰郷したアイヌ青年

アイヌが入学させられたのは、開拓使仮学校ではなく、付属の北海道土人教育所と開拓使第三官園でした。「シティボーイ」の裏返しはアイヌへの蔑視です。パネルの流れでは、次も反動形成的な褒めそやし、さらに写真の人物たちが「陽気に応じた」ように読めますが、誤りであり冒涜です。

開拓使は、開拓エリートを育てるため明治5年東京に「開拓使仮学校」を開設しました。
後の「札幌農学校」・「北海道帝国大学(現北大)」になります。

仮学校にはアイヌからも35人が選抜され、入学しました。帰郷したアイヌ青年は、目を見張るシティボーイに変身していました。
送り出した当局の調所広丈は、次のような報告を上司にあげています。

・「目に見張るシティーボーイ」は何を言い表しているのか不明です。写真にジャケットを着ている「アイヌ」が写っているから、「シティーボーイ」だと呼んでいるだけでしょうが、全くもって歴史学的な書き方ではありません。

・アイヌが入学したのは、開拓使仮学校ではなく、開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使第三官園でした。「開拓使は1872年5月、東京府芝(現、東京都港区)の増上寺に設置した開拓使仮学校附属北海道土人教育所(以下、北海道土人教育所と略記)と、東京府下渋谷村(現、東京都渋谷区) に設置していた開拓使第三官園(開拓使官園と略記)にアイヌを強制的に入学・入園させた。北海道土人教育所では主に読・書といった学科を教授し,開拓使宮園では農業を指導した。しかしながら、帰郷を願い出る者が多く、1874年7月、退学ないし帰省を希望したアイヌ全員を帰道させ、北海道土人教育所を廃止した。開柘使官園では翌8月、帰省者を再び東京に連行し農業指導を開始しようとしたが、応じたアイヌは皆無であった」(広瀬1996:90)。(広瀬 1996:102)。寄宿舎生活では、病死者が出ました。

帰郷の土人、その勢い男は靴を踏み蝙蝠傘を持し洋服或いは着袴・夏羽織にて歩行す。恰も官員の及ばぬ体裁にて、途上偶々知人に遭遇し礼するに只脱帽を以てす。その勢い風を切り、意気揚々として歩行せり。女も、蒸り。身に荒希をまとひ職履を踏み、雑飾美麗、人をして顧視せしむ。

・出典が不明です。

・写真のタイトルは「開拓使東京第3号園留学アイヌ人 其1」であって、上記の描写に直接的な関係はありません。左端の人物が「着用している洋装は官が支給したものである可能性が高く、撮影も官の監督下でなされたものである以上、そこに加わった作為を考慮することなしに安易な想像を広げることは、いかなる学問的な意義も持ち得ない、故人に対する冒涜に過ぎない」(大坂 2022:6)。

明治政府はアイヌを積極的に登用し、アイヌ青年達は陽気にこれに応じた様子が伺われます。

・明治政府がどこにアイヌの青年たちを登用したのか不明ですし、「陽気」の根拠もありません。

25 GHQに挑んだアイヌ大地主 農地改革

アイヌは寄生的な「不在地主」ではありませんでした。アイヌの給与地の多くは和人に賃貸されましたが和人の中には不当に安い賃貸料で長期にわたる賃貸借契約を設定したり、その土地を転貸して多くの利益を得る者もいました。実質的な土地喪失です。農地改革によって給与地の3割程度が再分配されてしまいました。

GHQに挑んだアイヌ大地主 農地改革
占領軍(GHQ)が主導した国内改革の一つに農地改革があります。
これは、「大地主とそこで働く小作農民」を「自前の土地を持つ自作農民」に変えること。
つまり、地主の土地を没収し農民に配分する大革命でした。

アイヌの中にも、大規模な地主として和人の小作人からの地代で生活していた人達がいました。
このようなアイヌ達はGHQに、自分たちは改革の例外扱いにするように強く要請しました。
その時の、マッカーサーへの礼状が残っています。

・「アイヌの中にも、大規模な地主」とはどこの誰かについて、出典はありません。保護法下で付与されたアイヌの給与地の多くは互助組合や民間の取り決めを通じて和人に賃貸されましたが、和人の中には、不当に安い賃貸料で長期にわたる賃貸借契約を設定する者や、賃借した土地を転貸し、多くの利益を得る者がいました。実質的な土地喪失といえるでしょう。あるいは、漁夫や人夫となって出稼ぎに出て、畑は老人や婦人に任せていたアイヌの人々も多くいました(シドル 1996=2021: 200)。したがって、給与地の3割程度(26%。農地だけみれば34%)が農地改革によって再分配されてしまい、その結果、戦後のいわゆる民主化の下でも差別的な社会構造が継続することになりました(道史編さん室 2023:154)。

日本占領に温情を示される閣下に対し御多幸と御武運の長久をお祈りし、北海道アイヌを代表して昨 1947 年秋閣下に鹿の皮と角を献上致しました。
閣下から早速御情あふるる礼状を賜り吾々は感動致しました。

・マッカーサーへの手紙は新聞記者の高橋真によるものですが、中では「北海道旧土人保護法」に触れ、アイヌに下付された給与地が、和人に”合法的”な手段で奪取され、生活が困窮している状況を訴えかけています。手紙の冒頭は「閣下が日本管理に万遺憾なきを期し、民主々義遂行に害を及ぼす者を追放し、人民大衆に自由と平等とを与へて呉れた事に対し、日本の土人である我等一万七千北海道アイヌ民族も満腔の敬意と感謝を捧げるー」とあります(合田 2021:90)。日本の戦時体制の終焉と新しい民主主義の時代を讃えるものです。このパネルでは、まるで高橋がマッカーサーにアイヌに対して打撃を与えた土地改革に対する感謝を述べているかのように見えます。

出典不明・著作権無視からみえてくるパネル展の歴史否認的性格

大半の画像の出典が不明で検証に耐えません。自分たちに都合のよい、他者の痛みを無視した子どもじみた心地よい物語にあてはまる”証拠”を拾ってよしとするところに、まさに歴史否認の性格が現れているのではないでしょうか。パネルには的場塾などから借用と記されていますが、パネル展を利用目的として手続きしたのでしょうか?なお通報済みで連絡無用です。

以下、代表的なもの。

・”アメリカインディアン” :フリッカー。クレジットが必要。じつはboketeサイトでヘイトに利用されている。
・カリンバ遺跡「漆塗りの櫛」:著作権あり。
・おそらく「アイヌ”先住権”訴訟~サケと生きる暮らしを求めて」(NHK北海道)。著作権あり。許諾が必要。
・マツムシ:著作権あり。有料素材。
・昭和初期のコタンの風景:ウィキペディアでは「1930年頃の平取アイヌコタン」とキャプションがある。非常に侮辱的なパネルのため、時期と場所をぼかしたのでは?
・北海道アイヌ:ウィキペディア
・「(北海道土人風俗)アイヌの一家族」:出典なし。絵葉書か
・砂沢クラ:出典なし。本来は子孫に許諾を得るべき。
・知里真志保:同上。

・「玉飾をつけて正装した唇鯨のアイヌ女子」:出典なし。1877年代 明治初年アイヌ風俗写真。
・仮学校
上記2つは、北大北方資料館所蔵であれば申請が必要。公序良俗に反する行為への使用は禁止。

くり返されるアイヌのステレオタイプ化とイメージの消費としてのヘイトパネル展

最後に、著作権が切れ、絵葉書など広く流通した写真や絵でも、人種的な非対称性のうちに撮影され描かれたケース——ステレオタイプ化され好奇心のうちに珍重された、抽象的な「アイヌ」として——が少なくないことに留意が必要です。しかし、その被写体になった人たちにはどんな思いがあったのでしょうか。過去からつづくアイヌのステレオタイプ化とイメージの消費の延長線上に、このヘイトパネル展もあったといえるかもしれません。

以上。

【参考文献】


アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会『報告書』2009年:https://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/pdf/siryou1.pdf
稲垣克彦「DNA解析と『アイヌ民族否定論』ー歴史修正主義者による先住民族史への干渉」解放社会学研究 第35号、2022年:https://amcor.asahikawa-med.ac.jp/modules/xoonips/download.php/2022060201.pdf?file_id=9351
内田祐一「アイヌの伝統家屋チセ」榎森進編『アイヌの歴史と文化II』創童社、2004年、114-123頁。
大坂拓「アイヌ民族の歴史」『太陽の地図帖 アイヌの世界を旅する』平凡社、2014年、7-9頁。
大坂拓「琴似又一郎の写真についてー北海道大学付属図書館所蔵資料の再検討」『札幌博物場研究会誌』、2022年、1-7頁。
小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』北海道大学出版会、1997年。
海保洋子「北方領土問題と強制移住」『近代北方史ーアイヌ民族と女性と』三一書房、1992 年、98-115頁。
菊池勇夫『アイヌ民族と日本人ー東アジアのなかの蝦夷地』朝日新聞社、1994年。
久保寺逸彦「アイヌの一夫多妻の古習についての一見解」『民族学研究』第36巻第2号、 1971年、176-177頁。
合田一道『アイヌ新聞 記者 高橋真ー反骨孤高の新聞人』藤原書店、2021年。
児島恭子『エミシ・エゾ・アイヌ』吉川弘文館、2009年。
シドル、リチャード著『アイヌ通史ー蝦夷から先住民族へ』岩波書店、2021年。
砂沢クラ『ク スクップ オルシペー私の一代の話』福武書店、1990年。
瀬川拓郎『アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史』ちくま新書、2016年。
関秀志ほか編『新版 北海道の歴史 下ー近代・現代編』北海道新聞社、2006年。
高倉新一郎編『日本庶民生活史資料集成』第4巻、三一書房、1969年。
田端宏、桑原真人監修『アイヌ民族の歴史と文化ー教育指導の手引』山川出版社、2000 年。
富田虎男「北海道旧土人保護法とドーズ法ージョン・バチェラー、白仁武、パラピタ、サン ロッテー」『札幌学院大学人文会紀要』通号48、1990年、1-22頁。
長沼孝ほか編『新版 北海道の歴史 上ー古代・中世・近世編』北海道新聞社、2011年。
広瀬健一郎「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究」『北海道大学教育学部紀要』72、1996年、72-119頁。
藤川隆男「アボリジニーズ、アボリジナル、アボリジニ」『オーストラリア辞典』: https://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00003_AboriginesAboriginals.html
篠田謙一「縄文人はどこからきたかーDNA研究から見えてきた日本人の成り立ち」北の縄 文文化を発信する会編『縄文人はどこからきたか? 北の縄文連続講座・記録集』株式会社 インテリジェント・リンク、2012年、6-47頁。
北海道「北海道アイヌ生活実態調査」平成29年: https://www.pref.hokkaido.lg.jp/fs/1/0/3/0/2/8/2/7/_/★_第1回資料(10-1~17).pdf
北海道「北海道アイヌ生活実態調査」令和5年: https://www.pref.hokkaido.lg.jp/fs/1/0/6/5/3/1/6/8/_/R5実態調査報告書(完全版).pdf
北海道総務部行政局文書課道史編さん室『北海道現代史 資料編2(産業・経済)』2022年:https://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/hokkaidoshi/shiryohen2/html5m.html#page=1101
北海道博物館, オムシャ:https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/post/document/theme-01/detail6802/
松浦武四郎著、更科源蔵・吉田豊訳『アイヌ人物誌』平凡社ライブラリ、2002年。
山田伸一『近代北海道とアイヌ民族ー狩猟規制と土地問題』北海道大学出版会、2011年。
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Kanzawa-Kiriyama, Hideaki; Saso, Aiko; Suwa, Gen; Saitou, Naruya, "Ancient mitochondrial DNA sequences of Jomon teeth samples from Sanganji, Tohoku district, Japan," in Anthropological Science, Volume 121, Issue 2, 2013, pp.89-103: https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase/121/2/121_121113/_article
rutke アイヌの歴史・文化など:http://poronup.seesaa.net/article/362579701.html?seesaa_related=category, http://poronup.seesaa.net/article/361636459.html?seesaa_related=category

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