言語化は楽しいね、カスだけど
私は対話万歳、相互理解万歳!!の人間なんですが、その“相互理解”なんてのは相手を排除しないってことに過ぎなくて、むしろ真に相手に共感するのは無理だと思ってる
なぜなら相手と自分は異なる器に異なる心を注がれているので、心の底からの共感は、自己同一性を失うことでしかないと思うから。
無責任にあなたの気持ちが分かりますよ、だなんて言うのは、本当に無責任だと思っていて、相手の内面に無理矢理入っていって荒らしてくのと変わりがない。
それは過去の自分と現在の自分との関係においてもそうで、今の自分は昔の自分のことなんか何も分からないし、
そうそれに関係して、後から整理して書いた文章って、自分の記憶を頼りに書いてるんだろうけど、どうしても人間って物語的に記憶しちゃうから、そういう文章ってどことなく物語感がある
私は、あくまでも私は、思ったその時に書いた、主客未分に片足突っ込んだような文章を書きたいんだよね。
下手なレトリックなんか使わない。
でも思ったそのときの感情をそのまま表した言葉って、時として人を傷つけ得るんだよ
だからこそ、ひとまず文章という形に残しておいて、後から見返して世に出せるなと思ったら世に出せるっていうのが文字のいいとこだと思います
しかしながらまあ、言語化ってカスだな〜って思うことはちょくちょくあって、なぜなら言語化をした瞬間に、それはお前の心の中に秘めている、ある意味では神聖なものではなくなるから。
主客身分に片足突っ込んだ文章が好きだみたいなことを上の方で書いたんだけど、なんで“片足”かっていうと、言語化するっていうのは、その感覚を、言葉をもって主観と客観に分節するっていうこと—すなわち、厳密に言うならば“未分”なんかじゃないからなんだよね。少なくとも私はそう考えてる
だから、私が素晴らしい体験から得た感動ををそっくりそのままあなたに伝えることは絶対にできないし、あなたが見た素晴らしい景色から得たというその感動を私はそっくりそのまま理解できない。
最初に言った、心の底からの共感はできないってこういうことだと私は捉えています。
まあ言語化楽しいから、あの妄言とでも言うべき似非意見文を忘れて、こんな腐ったエッセイもどき書くんですけどね。
言葉は、一瞬のうちに心の中で変容する、ってさっきメモってました。多分その時にそう思ったんでしょう。もう変容しちゃったからうっすらとしか思い出せないけど
心が言葉を連れてくるときと、心の指示に従って言葉を探すときの違いはなんなんでしょうね。
少なくとも私という書き手にとっては、前者の方が書いてて楽しいし、そう、言葉が勝手に出てきてくれるんですよ。
でもそんな文章ってコンテクストが繋がりにくいから、あなたがた読み手にとってはあんまり好きじゃないっていう、まあエッセイとか詩をよく読む人は慣れてるのかもしれませんが。
そして言葉が詰まりつつある今、この文章はとりあえず潮時を迎えた気がします。