普通の人の使命。
「でも、普通じゃない人たちが世界を変えるんだよ。」
そんなことを言われたときに僕はこう返していた。
「普通の人が背負っているこの世界を守るという使命を全うできないから、僕らは世の中を良い方向に変える以外に生き残る道はないんだ」
普通の人は守る人。今ある目の前の生活であったり、大切な人であったり、環境であったりを守る役割を担っている。
けれども、その中で守られることで傷ついてしまう人もいるし、守ることに苦しみを感じてしまう人がいる。
僕らはそこには馴染めない。だから、普通の人になることが無理だってわかったら、もう世の中を変える以外に幸せを掴みとる道はない。
だけど、僕らが挫けてしまったときや、疲れて倒れてしまったときに帰ってくる場所を用意してくれるのは間違いなく普通の人だ。
普通の人たちのおかげで、僕たちは前に進めるし、より多くの人たちが救われる道を切り開いていくことができる。
そういう意味で、僕ら普通になれなかった人は普通の人と手を取り合っていった方がいいんだけど、どこかそれをやるのが怖い。
普通の人になれなかったのに、普通の人に歩み寄ることほど怖いものはない。
幸い、世界はそこそこに優しい倫理観を持つというのが「普通」で、弱者を徹底的にいたぶるようなことが「普通」になっていないおかげで、僕ら「普通じゃない人」は生きることができている。
人が人らしく生きていくために、優しさを気軽に発揮できる世の中を作っていくのか。
より自分がのびのびと生きるために、敵を全て殺し尽くすのか。
どれも、目的は正しいとは思うのだけれども、おそらくどちらも認められないだろうと思う。
「優しさにつけ込んで悪いことをする人たちがいる」
というのもその通りだし、
「優しさが足りないから悪いことをする」
というのも事実。
ただ、もし目の前に苦しんでいる人があれば、どうかその人を殺さず、いきられるような施しをしてほしい。
あなたがどんな思いで言葉をかけたところで、あなたはその人を救ったことになるかもしれないし、その人を殺したことになるかもしれない。
魚を与えるより、魚の釣り方を教えるのは大事だと思うけれど、
まずは魚を与えて元気にしてあげてから、一緒に魚釣りにでかければいいのではないかと思う。
誰かを助ける。苦しい時には声を出す。
愛する人を守るために、あえてそのどちらもしない。
どれも正しい。
ただ、どちらにせよ、「自分は自分、相手は相手」であるということだけは。