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自分の文章について今一度見つめ直す野良犬
Xでスペースなるものを利用してみた。とはいっても、部屋を作ったっきり何も発言はしない。一人だから。
どうせ私がやるとき(深夜四時を回ったころ)には誰も起きていないだろうし、あまり話す予定も覚悟も無いのだけれど、いつ聞かれても、いつ話しかけられてもおかしくないという状況下に置かれると、すこぶる作業が捗る。意外といいかもしれない。
いや、嘘だ。正直に言うと、緊張して気が気でない。全然捗らない。こんなもの余裕だよと格好つけたかっただけだ。ただ、その「いつ聞かれるか分からない状況」については少し興奮気味だ。それは間違いない。やっていることは露出狂と同じである。世に晒すものが全裸ではなく生活音で良かった。
誰も来ないスペースをちらちらとみつつ、今もこの記事を書いている。自意識過剰にも、私は誰かと話ができることを期待しているのだろうと思うと、なんだか自分に辟易する。
丁度いい機会なので自分のことについて考える。自分のことというか、自分の文章について。そういえば前に、「野呂さんの文章は接続語が少なくてさっぱりとしている。竹を割ったようだね」と言われたことがある。当時は評価されたのだと思っていたが、これってもしかしたら、京都的な婉曲表現だったとするならば、結構痛烈な批判だったんじゃないかなと今になって思う。
確かに小説を読んだ際、流れるように続くなあと感心する時がある。対して私の文章というと、基本的にはぷつりぷつりと句点で区切り、淡々としている印象を与えるような気もする。麺類でいえば蕎麦だ。切れやすく、うどんのように太く長くはならない。彼はきっと、そのことが言いたかったのだろう。
とはいえ、それについては直すつもりもない。向上心が無いと言われればまあそれまでだが、うどんよりも蕎麦の方が好きな人もいる。接続語が無ければ無いで、テンポ感が産まれる(ように感じる)。だから、そんな文章を好む人だってきっといるはずだ。決して書けないからそう言っているわけではない。ピカソが本当は写実的な絵が描けるのと同じように、私にとって接続語を駆使した、グラデーション的な文章を書くことなどお茶の子さいさいである。はい。本当に。敢えてコントラストを強調している。
そもそも、接続語が多い文章が果たしてエッセイや小説に合っているのか疑問が浮かぶ。そういったものはどちらかといえば、因果関係がしっかりと結ばれたことが重要である、例えば論文や憲法のような、公文書に求められる言葉なのではないだろうか。だとしたら、散文をただ垂れ流すだけの肛門筋のいかれた野良犬である私にそれを求める方がお門違いだ。
そう考えると、優れた小説に接続語が多く使われているとは到底思えない。実際に適当な小説の1ページを開き、私の過去に投稿した記事を見比べてみても、文章に対する接続語の数の比率に大きな違いはなかった。
では何故この小説が、「流れるように続く文章」だと感じるのか。もしかしたら、接続語の数云々の問題ではなく、なにかこう、導線がしっかりした文章を意識的に組み上げているからなのかもしれない。
彼がこうしたから、私はこう思い、そしての行動をとった、みたいな。何か視覚的な情報を描写するときも、例えば、向こうから来た人間の顔を見て、着ている服を見て、ズボンを見て、足元まで描写したりとか。若しくは話全体で見た際に一本の筋が通っているような感じ。目線や心理描写、行動の推移について時間的進行や導線を強く意識した言語化が所謂、「流れるように続く文章」だと考えれば、納得がいく。
そして、そのような文章には自然と接続語が多くなる事はいうまでもなく、中でも接続語を多用せずとも流動する文章がきっと、世間に評価され得る文章と言えるのだろう。
納得がいく答えが出たところで、では自分はどうなのかと考えると、やはりそうした意識を大分疎かにしている感が否めない。「話は変わるが」とか、「ところで」のような言葉を乱用し、自分の進みたい方向へと進み、気が済んだら他へと舵を切ることが多い。いやはや、読んでいただいている身としては非常に恥ずかしい。
今回私が取り上げた事項が、文章を書く上でかなり初歩的で、かつ基礎的なスキルであることは重々承知である。しかしいざ自分に当てはめてみると、こうも能力の低さが露呈するのかと驚く。こだわりだけ強い癖に、出汁もろくに引いていない蕎麦じゃ、当然味は悪い。
ただ、何となく分かってきた。書きたいことを好きに書くのが私の信条だが、決してそれが「流れるように続く文章」と両立できないわけではない。如何様にも表現することは可能なのだ。これからは、不格好にもそうした意識を心がけようと強く思った。
さて、そんなところで今回の出来はどうだろうか。ちゃんと流れが作れていただろうか。そう思って記事を振り返ってみる。
何故だか知らんが、どうやら私は不味い蕎麦を打つ肛門筋がいかれた露出狂の野良犬になっている。すごい。凄まじい程一貫した変態性だ。私の想定した場所とは別のところで流れが生まれてしまった。
……まだまだ「流れるような文章」の道は長いらしい。
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