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分かり辛い社会は柔軟剤の香りがする

 この世は分かり辛い事で溢れている。「○○は○○である」と言い切れることの方が少ないんじゃないかとすら思う。このまま歳を重ねていけばそれは増えていくかもしれないが、反対にそんなものだと徐々に諦観するようになるのかもしれないと思うと、なんとも悲しいものだと思わざるを得ない。
 抽象を語ることはその事象全体を捉えることに適している反面、つまらなく要領を得ないものである。一方で具体を語ることはかなり限定的だとしても、より自分にとって身近で楽しいことであると存ずる。詰まる所、分かり辛い社会とは「抽象でしか語れないことが存分にある状態」であり、面白くないということだ。歳を食ってそれを諦観してしまえば、「社会がつまらなくてもよい」と割り切ってしまうということなので、「なんとも悲しい」と表現した次第である。

 さて、抽象的で分かり辛くつまらない文章はこのくらいにしておいて、そんなことよりも洗濯用洗剤とおしゃれ着用洗剤と柔軟剤って分かり辛くしすぎじゃないだろうか。商品の端っこに小さく書いてあるだけで、すぐに判別することは困難だ。もはや一目では分からなくするため、わざとそうしているようにしか思えない。アラサーの私でさえそう感じるのだから、きっとお年寄りなんてより困惑していることだろう。

 買う時はもちろんのこと、家で使うときでさえも毎回どれがどれか迷っている気がする。面倒くさい時は、えいやと適当にあたりを決めて入れる場合もある。もはや洗濯ギャンブルだ。
 特に私は洗剤と柔軟剤を事前にタンクに入れておく自動投入タイプの洗濯機を使っているため、一度間違えると大変なことになる。ひりつきもひとしおだ。ただ、何故洗濯如きのためにこんな鉄骨を渡るようなことをしなければいけないんだと頭にきつつも、その実スリルを楽しんでいる。洗濯の選択に勝利し、汚れと石田さんが無言で落ちてくれればいいのだが。

 とはいえ、このようなギャンブル性は洗剤のイメージからかけ離れ、品行方正とはいいがたい。
 それに加え最近は、ジェルボールやビーズタイプの柔軟剤も台頭し、「家の洗濯機で使ってよいのか」や「どのくらいの量を入れればいいのか」等、新たな悩みも増えている。洗濯の煩雑さは留まることを知らない。
 もういっそのこと洗剤会社を国営にして、それぞれ一種類だけ販売した方がいいのかもしれない。この分かり辛さを明瞭化し、クリーンにするためには、国がやるしかない。郵政を民営化して久しいが、今こそ立ち上がる時だ。たとえ時代に逆行していると罵られようとも、馬鹿でかく「国の柔軟剤」と書かれた商品を買う日を心待ちにしている。かちかちに固まった政治家の頭を柔軟剤でふかふかにしよう。

 話を戻して、分かり辛いと言えば丸電池の種類もそうだ。店頭には様々な大きさの丸電池が並んでおり、もうどれがどれやら。今や体温計くらいでしか使わないけれど、電池が切れた時に絶望する。色で分けたりすればいいのに。そうすればもっと気楽に買いに行けるというのに、よくわからない型番的なところを読んで判別し、決心して購入したとしても、家に帰って装着するまでずっと「ほんとにこれで合ってるんだよな……?」と心配しなければいけない状況に辟易する。これは電球も同様である。

 本当は斎藤の「斎」や確定申告のやり方等、言いたいことはやまやまだが、挙げだしたらキリないのでこれくらいにしておく。げに社会は分かり辛く、生き辛い。
 まあそうはいいつつも、花が描いてあればそれは高い確率で柔軟剤であるし、電池は予め写真を撮っておけば間違いない。最近分かってきた。
 こうした細かな経験を逐一積んでいくことが「歳を重ねる」ことであり、そう考えれば、経験のおかげで徐々に「○○とは○○だ」と言い切れる事が増えていくわけだ。
 これから先は、そんなに悲しいものでもないのかもしれない。

 

 

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のろのろな野呂
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