「世間」を抜け出し、「社会」をまなざす~大坂なおみ氏のボイコットとその撤回に対するリアクションをめぐって~
ウィスコンシン州で発生した警官による黒人銃撃事件を受け、ウエスタン・アンド・サザン・オープンを勝ち進んでいた大坂なおみ氏が大会ボイコットを発表した。
ボイコットについてのコメントは、大坂氏自身のTwitterで公開されている。
「プレーしないことで何か劇的なことが起きるとは思わないが」と留保をつけてはいるものの、「大多数が白人のスポーツ」であるテニス界で、「ボイコット」という行動に出ることは、非常に勇気ある決断だと言える。
ところがこの決断に対し、批判的な声も多い。例えば日刊スポーツは、以下のような記事を発表している。
この記事の筆者が表明する「違和感」には、日本社会に特有の「世間」というものが色濃く反映されている。
筆者は「違和感」の背景として、「彼女に敗退した選手の心情・大会に賭けていたもの」や、「ファンやスポンサー、家族や友人など彼女をサポートする人たちの存在」を挙げている。「一個人としての権利行使」よりも、「周囲との関係性」に重点を置くこの見方は、日本に生きる我々の倫理規範の中心に、「世間」というものが根差していることを表している。(欧米の人に日本の「世間」を説明しようとするなら、具体例としてこの記事は非常に有用だろう)
ネット環境が普及しきった現代において、いまだに「世間」というものが倫理規範の多くを担っていることを、私たちはコロナ禍を通じて再び思い知ることとなった。「世間」は私たちに、マスクをしないことに対して罪悪感を抱かせたり、里帰りを背信行為のごとく思わせたりするのであり、つまるところ「世間」はコロナ禍において、日本人の「自己管理能力の高さ」と「陰湿さ」という二面性をもたらすものとして現れたと言える。
個人の意思決定に先立つものとして、「世間の目」というものがある。その構図は、今なおこの社会において変わるところがない。このことの是非については、今回論ずるつもりはない。私がここで主張したいのは、個人の意思決定よりも世間を優先することを、普遍的な美徳と考えるべきではないということだ。
個を消して、周囲の恩に報いる。それはもちろん美しい姿勢だろう。個を消して、全体としての利益に寄与する。敬うべき考え方である。しかし、社会における「付置関係」を冷静に見据え、改善のために自分の為すべきことを決断する、というあり方も、最も尊敬すべき態度のひとつではないだろうか。
大坂なおみ氏が今回の決断をするうえで、家族やファン、周囲の人たちのことを考えなかったはずはない。そのうえで、彼女は「一人の黒人女性」として、「白人スポーツ」であるテニス界における「対話的関係の構築」を、自身にとっての至上命題として決断したのである。彼女が見据えているのは、「社会」であり、「普遍的な人権の擁立」である。彼女が問題にしているのは、「世間」という「目に見える範囲の世界」を超え出た、「普遍的な社会関係」にほかならないのである。
ボイコット撤回についてのメディアの反応
大坂氏によるボイコットの本質を見て取ることができなければ、当然彼女の「ボイコット撤回」の真意も推し量ることができない。SNS上の的外れな批判はもちろんだが、マスメディアにおいてもピントのズレた報道がなされているようである。
東京スポーツの記事では、大坂氏の一連の行動に対して、「撤怪」や「大坂の乱」など蔑称を与えている。この記事では大坂氏の行動の背景に、人種差別反対を掲げるスポンサーの存在があるのでは、と推測しているが、これは問題の本質的な所在に対し、きわめて些末な部分に言及しているに過ぎないだろう。
彼女の行動は、社会的なレベルにおいて「黒人差別」を「問題」として提示することを目的とするものである。黒人の存在は、社会において"matter"なのか、"don't matter"なのか。その二択を突きつけることが、Black Lives Matterの根本的なモチーフである。大坂氏が全米オープンをボイコットしたことによって、テニス界に対してもこの二択が突きつけられたことになる。白人がマジョリティとなる世界において、「黒人の命は軽んじられるべきものなのか」という問いを表立って提起したこと。彼女のボイコットの意味はここにある。
それゆえに、大会運営側が彼女の意向に追随して大会を延期し、ATP(男子プロテニス協会)やWTA(女子プロテニス協会)、USTA(全米テニス協会)が連名で人種差別に反対する旨の声明を出した段階で、「テニス界に対する問い」には回答が与えられたことになる。これを受けて大坂氏がボイコットを撤回することに、何ら「奇怪」な点はないだろう。
社会問題に対して、YesかNoかを表立って問いに付すこと。大阪なおみ氏は今回の行動を通じて、その問いに対する明確な回答を得たのである。
しかしもともと、この「問いに付す」という役割は、マスメディアに期待されるものではなかったか。