「SNSと想像力」その2

社会に生を営むにあたって、私たちはしばしば「感情の落としどころ」を見つける必要に駆られる。

仕事で理不尽な文句をつけられたり、プロジェクトの方針が自分の信念に反するものとなったり、どだい我を通すことなどできはしない環境のなか、どうにか自分を納得させることができる論理やポイント……それが「落としどころ」である。

大人になる、というのは、この「落としどころ」をうまく見つけられるようになる、ということである。「大人になれ」というメッセージは、個々人に対して現状肯定を促すとともに、(それによって)共同体への寄与を促すものとなるだろう。

「大人」になった人間は、自分自身の感情に対して、受け皿が用意されているわけではないことを知っている。「報われないことの方が多い」社会生活において、我慢する術を心得ているのが一人前の大人というわけである。

我慢というのは、ただ感情を押し殺すことをいうのではない。社会生活における我慢は、「自分自身を納得させる論理」をつくりだす、積極的な創造行為である。

いかにしても乗り越えることのできない巨大な壁、脱することのできない強大な渦、自らを挫折に導くそのような存在を前にして、これ以上進むことのできない自分に、いかに肯定的な意味を与えるか。私たちはこのような物語を創出することなくして、安定した生を送ることはできないだろう。

英雄譚的な文脈において、それは「自分に対する言い訳」などと言われる。たしかにこの「我慢の現状に対する意味付け」は、向上する意思の放棄であったり、思考停止であったりと、「見習いたくない大人」が持つ心性の典型例でもあるだろう。とはいえこの「意味付け」の行為自体は、人間本性に由来するものであり、価値中立的なもの、どちらの面にも転じうるものである。

意味付けする行為は、宙ぶらりんの出来事を、自分のものにする行為である。その時言葉にすることのできなかった感情も、後から意味を与えることで消化できるようになる。「あの時は腹が立ったけれども、彼も上から成果を要求され焦っているのだ」という形で、事象に意味を与えることで、私たちは納得することができる。落としどころを見つけることができるのである。

あるいは、内輪での飲み会で愚痴を言い合うのでもいい。理不尽な出来事に対する解釈を親しい者と共有することで、私たちは「理不尽」をすんなり飲み込むことができるようになるだろう。

落としどころというのは、このように「出来事そのもの」に対して直接的なはたらきかけをするのではなく、後付けの意味解釈によって見出されるものである。このことが全面的に正しいなどというつもりはない。先に見たように、この意味付けのはたらきは、容易に現状肯定を前提とした思考停止へと陥ってしまう。

とはいえ、「後付け」によってどうにか日々の憤懣を解消していく、というのは私たちが生きていくうえでの方便たりうるものだ。「むかつく」のあとに、直接「すっきり」がやってくることなど、そうそうないのだから。すべての感情に、解消のルートが用意されているわけではないのだから。

しかし、SNSの存在は、この直接的な解消のルートが存在すると、私たちに錯角させてしまう。炎上するタレントのツイートは、鬱屈したもののバーチャルな投影として映り、「すっきり」をもたらすための「討伐対象」として現れる。そこからもたらされる不快感は、「なろう小説」の敵キャラがもたらす不快感と、同種のものとして受け取られる。ここからどのような結果がもたらされているか、あらためて書くまでもないだろう。

問題は、前半で述べてきた「我慢」ということ、不満に対する迂回のプロセスが、まったく欠けてしまっていることである。なぜか?SNSの構造からして、そもそも我慢する必要がないからだ。直情的な言動によって、失うものがないからである。

しかし、なぜ「相手が傷つくかもしれない」という想像に至らないのか。あるいは、その想像よりも自らの感情の解消を優先してしまうのか。これを「道徳的な問題」として考えてはいけないだろう。「バーチャルなやりとりに慣れてしまっているから」なんて話では、どこにも展開していかないのだ。

あくまで構造的に、あるいは歴史的に、この問題を捉えていく必要がある。次回以降も、想像力の問題について、引き続き考察していきたい。(続)

いいなと思ったら応援しよう!