「SNSと想像力」その1
差出人不明の文字というのはいつも、それを記した側の思い以上のものを受取人に伝える。受取人は、文字が示す意味とは別に、「どんな人間が、どんな意図で」それを書いたのか、推測しなくてはならないからである。推測の余地があるほど、受取人の足元は覚束ないものになる。
相手が知った人間なら、文字だけでもある程度意図を把握することができる。ぶっきらぼうな言葉でも、もともとそういう人だとわかっていればダメージを受けることもない。互いの立場とか性格とか、相手と自分との間で何かしらの前提を共有しているから、異なる人間の間でコミュニケーションが成り立つのだ。「この人は上下関係を嫌う」「この人は悲しい時ほど饒舌になる」とか、そういう無数の前提がやり取りの土台となっているのであり、この土台づくりを抜きに安定したコミュニケーションはありえない。
SNSにおける著名人等への誹謗中傷には、こうした土台は当然存在しない。むしろ、土台が存在しないからこそ、誹謗中傷がありうるのだろう。差出人の名前さえ書かなければ、放ったものが自分に返ってくることもないのだから。透明人間のポイ捨てみたいな感覚で、しかし受取人にとっては現実的な重みをもった言葉が投げかけられる。差出人と受取人との間にある、現実感の不均衡は、差出人の思いもよらぬ形で受取人を苦しめることになるだろう。
顔の見えない無数の相手から、四六時中人格を否定され続けることの恐ろしさを、私は想像することができない。それは自分が実際に受取人になってみなければわからないもので、身をもって知るほかないものだ。けれども「知りようがない」という事実は、相手の立場について「想像しなくてもいい」ということを意味するのではない。わかるか、わからないかという事実的な問題と、わかろうとするか、しないかという道徳的な問題を混同してはいけない。後者は「社会」というものが可能であるための、もっとも根本的な条件だ。
コミュニケーションには、前提が必要であると書いた。しかしそもそも、相互に「前提をつくりましょう」という姿勢が欠けていれば、コミュニケーションの可能性そのものが失われてしまう。反対に、わかろうとする姿勢さえあれば、理解の程度に差はあれコミュニケーションは成り立つのである。
コミュニケーションの根本的な土台は、相手への想像力である。正しく想像する力ではなく、想像しようとする力だ。思いやりと言ってもいい。
こんなこと、わざわざ書くまでもない、当たり前のことかもしれない。けれどもいま明白に、この当たり前は崩れてしまっている。何によって?SNSの普及?マスコミの腐敗?消費社会?どれもその通りかもしれない。しかし重要なのは、原因の所在について追及することではない。
私たちの考え方に、一体どのような変化が起きているのか。時代精神とかパラダイムとか、いろいろ言いようはあると思うが、社会的な構造によって規定される、私たちの物事の捉え方。そいつはここから、どこに向かおうとしているのか。その危険性と可能性を、見通すことが重要である。
そのような問題について、このnoteでは「想像力」というキーワードを軸に考察していこうと思う。さしあたりタイトルの通り、SNSと想像力の問題について究明することを当面の課題としたい。(続)