Hyper-Popの時間性

作曲工程におけるPC の利用を前景化するHyper-Popにおいては コピー&ペーストに象徴されるような電子的な複製・反復が強調される傾向がある。

 ベンヤミンが「記述的複製可能性の時代の芸術」で、技術的な複製は文化的産物の大量生産を可能にすることでオリジナルとコピーとの序列関係を無化する傾向に働くと論じ、この現象をアウラの喪失と呼んだことはあまり有名であるが、Hyper-Popが扱うのはこうした技術的複製がすでに日常のあらゆる局面へと一般化した時代における人間の条件である。

 Hyper-Pop的状況においては、芸術品のオリジナル/コピー関係だけではなく、人々の一般的経験もまた、技術的な複製可能性に浸食されており、「オリジナルと寸分違わぬ反復」という経験は過去と現在、ファクトとフェイクのヒエラルキーを無効化する方向に強く働く。

 ここで問題になるのがSophieの"Just Like We Never Said Goodbye"、Clarence Clarityの"Vapid Feels Are Vapid"、Charli XCXの"1999"といったHyper-Popにおける重要アーティストの代表曲がしばしばノスタルジーを主題としているという点である。

 一度聞けばわかることだが、こうした楽曲は歌詞の文字通りの内容としては過去を回顧しているのだが、それが現実にあった過去の出来事に対する現実のノスタルジーであるという感覚はきわめて希薄だ。まずCharlie XCXの"1999"については、世界史的にはほとんど問題にならないような近過去に戻ってどうするつもりだというツッコミがほとんど不可避だろう。逆にごく個人的な回想としてこの曲を考えるなら、1992年生まれのCharlie XCXは当時7歳だったことになるから、小学生当時の思い出ということになってしまう。そのあたりの計算を踏まえて歌詞を確認すると、まあ確かに辻褄はあっているかもしれない。

No money, no problem
It was easy back then
Ooh, wish that 
we could go back in time, uh Good memories

確かにそうかもしれないがしかし・・・と言いたくなる。

 またSophieの"Just Like We Never Said Goodbye"の電子的に変声されたボーカルについて年齢を云々することに意味があるかはわからないが、そのせいぜいハイティーンくらいの女の子(のロボット)が16の頃の恋心を振り返り、紋切り型の言葉で回顧するという設定自体、まともに共感されることを意図したものとは思えない。

 ノスタルジーはギリシア語で「故郷」を意味する"nostos"と「苦痛」を意味する"algia"を組み合わせて作られた造語だという(OED初出は1846年)。Hyper-Popにおける電子的に変声された「歌い手」はいずれも回顧すべき正統的故郷をもたない。これはVaporwaveにもかなりの程度共通して言えることだが、それが喚起するのはノスタルジーというよりは「ノスタルジーへのノスタルジー」とでも呼びたくなるような感情である。Hyper-Popのロボットめいた歌声が示唆するのは、機械が人間に近づいているということではない。そうではなくて、人間がかつての「故郷の大地に足をつけ、それを耕す人間」(そんなものが本当に存在したかは疑問かもしれないが)から遠く離れて、レプリカント的な存在になりつつあるという可能性だ。

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