エロ小説について(1)
前に西村寿行氏の小説の話を書きました。
本格的な、精緻な構成による世界観。突飛な発想。
それを一気に読ませる文章力。
西村寿行氏の小説にエロ目的で飛びついた
思春期の僕に妙な性癖を残しています。
エロ小説を読むのが昔から好きです。
漢字で書くと「官能小説」という言い方になり、
高校生の時に今は最大手、フランス書院が文庫本を出しました。
最初は文字通りフランスの官能小説の翻訳でした。
もう入手も困難でしょう、黒い装丁のいかにもな感じ。
あえて直接的表現を避けた内容も素晴らしかったです。
当時の官能小説はまだ70年代の雰囲気を引きずっており、
今となってはどことなく難解でした。
西村寿行氏の表現もエロ、というよりも
非常に即物的で、シチュエーションや、
その登場人物が屈服する姿を描写することに主眼が置かれています。
犯される女の人のおっぱいがどう、お尻がこんなふう、
性器は○○みたいで、
みたいな説明的描写は無いわけではないにせよ、
ほとんど記憶にない。
フランス書院の日本人作家の小説は、この避けていた領域を
事細かに書いていきました。
編集部からの指示はもちろんあったのでしょう。
それによって描写を続けていった作家にもその能力があったのです。
最初は目新しさもあり、独特のソフトタッチの装丁もあいまって、
かなり売れたのではないでしょうか。
駅の売店や、本屋でも背表紙が黒い一角が今でもあります。
私的には嫌いではないですし、結構な数を読みました。
ただし、どんなだったかほとんど覚えていない。
西村寿行氏の小説が、今でも読み返すに足りるクオリティをもっているのに
較べると違いは明らかです。
読み手の想像力を限定してしまう副作用があったのです。
想像力というものは「余地」がないと生えないもので、
文章>画像>動画>実物となるにつれ、想像できる幅は減っていきます。
文章でこの余地を残すというのは、エロ小説では非常に難しいことで、
ついつい細かい描写を重ねていってしまいます。
最近溢れてきたAI生成のエロ絵は、この想像力の部分を
視覚化する能力が優れており、ものすごい勢いで普及しています。
この想像している部分が、作品の中で描写されていると
興奮できるという構図になっています。
この余地が違ってしまったという構図があるのが、
「春画」と「写真」の関係です。
江戸時代の有名な春画に「蛸と海女」があります。
(検索してみてください)
天才絵師、葛飾北斎の作品です。
鉛筆と消しゴムなし、墨絵、一発であの絵を描き上げていると思うと、
すごいことですね。
この絵は明らかにエロ目的で、現代であれば「触手もの」に入るものです。
でも、正直いうと古すぎませんかと思うのです。
我々はすでに写真というものを知っている。
蛸もリアルなものとはかなり違っている。
この差が、興奮度合いを分けている。
触手が女の人をどうこうするという図式はいまでもある。
一大ジャンルを作ってたりもする。
画像で描写されていて、現在の受け手にとって一体感がある現代の画風。
葛飾北斎の時代の描写としては春画のほうが上回っている。
(絵をかいてみると、葛飾北斎のすごさはわかります)
この描写をすればするほど、短期的な効果(興奮度合い)は
上りはすれど賞味期限は減ってしまうという関係が認められるのです。
フランス書院の影響というのはエロ小説の広範囲にわたっており、
いまや影響されていないエロな書き手はいないと思います。
このフランス書院の手法はやがて一般化され、
RPG的世界観と一緒になって「なろう系」
「異世界転生系」エロ小説(いや、エロ限定ではないかも)
をうんでいるのです。
この話、数回続けよう。