![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/111567063/rectangle_large_type_2_23864206a5e3d1f00ddbc07e4d8266fe.jpeg?width=1200)
元祖1式体験記 ⑤ vol.21〜vol.25
2022.7.6 Vol.21 顕在意識での思考の価値が、揺らぎ始めた。
思考をとめる。
おもむろに、そんなことを始めだすと、とある疑問が、浮かび上がってくるようだ。
思考をとめる。たったそれだけのことが・・・なぜ、こんなにも厄介なものになってしまうのだろうかと (?_?)
自分のことだというのに正直、理解に苦しむ。
思考をとめたい。ただそれだけのことなのに、止めようとすると、考えたい。と強烈に思ってしまう。
なぜ、こんなにも私は考えたいのか?
考えて、何かに結論をだすことで、“知った”という優越感のような感覚を味わうことに、とても魅力を感じているのだ。
“知る”といっても、『顕在意識での知る』の為、本質を知れるわけではない。
それは、自分の中にある概念や定義、世間体などに照らし合わせての“知る”ということだから。
・・・・・(´・ω・)
果たして、そのニセモノの“知る”に、何の価値があるのか・・・。
初めて“知る”ということへの人類の欲求を肌で感じた。
このブログを書いているのが、7月6日。
あと2日で元祖1式開始から、1ヶ月になる。
思考をとめ、完璧な潜在意識に丸投げへの移行は、まだまだですが、少しずつ、確実に潜在意識への丸投げが始まっていると信じたい。
【ここから追記 R5.7.24現在の私】
この時の私は、まるで中毒のように思考することを止められない自分に気付きながらも、なぜ止められないのかを模索している段階でした。
自分が思考に苦しめられていることを知りながら、それをやめられない自分への苛立ちもあったと思う。
思考に魅了されている。と思っていた www
可笑しな話ですよね。
思考なんて幻想です。自分の中にある関係のない記憶と記憶をつなぎ合わせ、作り上げる夢物語です。
そのもとになっている記憶でさえ幻なので、幻で作り上げられた幻ってところでしょうか。
今(2023年7月24日)の私にとっては、思考どころか、現実さえも幻の認定になっています www
この元のブログは、2022年の7月6日の私が書いているので、1年前の私が書きましたが、私ではありません。
今の私からすると、ただの記憶で、幻です www
今の私は記憶と記憶を関連づけることをしていないので、あの過去の出来事が今に繋がっているとは、思えなくなっているのです。
それと、今の私から言えることは、思考に魅了されているのではなくて、思考することで得られる感情という名の“刺激”に魅了されているということです。
炭酸ジュースを飲んだ時に感じるシュワシュワ。あれと一緒です。
刺激を楽しみたくて、自らの意志で、感情を大きく揺さぶるような思考を繰り返しているのです。
現実を使い、関係のない記憶と記憶をつなぎ合わせ、未来への不安を煽ることで、感情を高ぶらせ、良くも悪くも刺激を楽しむ。
思考をとめることは、その刺激を楽しむことからの卒業の始まりだったな。と今では思います (^▽^)
2022.7.7 Vol.22 細かいことはおいておく。それは潜在意識の仕事だから。
顕在意識下での完璧主義は地獄だな。と思う。
元祖1式でも、引き寄せでも、『なる』でも、宇宙の法則でも、呼び名は何でもいいけれど、
それらを実践するにおいて、完璧にやろうと意気込むことは地獄を招く。
自分に厳しすぎる人もまた同様だ。
これが、今のところの私の個人的見解です (;^ω^)
自分の中指にできたささくれを眺めながら、もっと、単純だったらなぁ~。とため息をついてしまう。
中指のささくれには、細かいことを気にしすぎ、細かいことを気にするな。
といったメッセージがあるらしい。
・・・・・・(;´Д`)はぁ~。
私は細かすぎる。
細かすぎるということは、思考しすぎる。ということに直結すると私は感じている。
そんな気質をもった私のような人物にとっては、全ての思考をとめる。というものは、ものすごい荒行だ。
そりゃ、疲れるよ。
もっと、私の“出来る”とか“完璧”が、レベルの低いものだったらよかったのに・・・。
さてさて、堂々と掲げている
『私は完璧を目指しています』という看板を、そろそろ下ろしましょうかね。
顕在意識の完璧を目指しても、何にもならないし、疲れ果てるだけだ。
ムダ、ムダ!!
アタマを休ませ、リラックス。
潜在意識に丸投げだ。
複雑はコリゴリ。もっと、単純明快でいい。
【ここから追記 2023年7月24日現在の私】
この当時の私と今の私とでは、完璧の使い方や感じ方がまるで違います。
今の私は、なんでもかんでも『カンペキング』として扱っています。
1年前のこのブログ当時の私は、その当時の狭く凝り固められた常識やら世間体やらに、がんじがらめにされている中での完璧だったので、
そりゃ、さぞや苦しかろうと思いますね www
『こうじゃなきゃ完璧じゃない』そんな完璧判定でしたから (;´Д`)
今の私からすると、浜辺に沢山の魚たちが残されるほど、引いてしまうような案件です www
今の私の完璧認定は、『全てに対して』ですから。
どんなことを思っても完璧。どんなことをしても・起きても完璧。
それが今の私の『カンペキング』
善・悪や良い・悪いと言った二元論の世界を越えて、シフトした世界。
そのように変わった。
2022.7.8 Vol.23 過去の後悔・未来の不安。
このブログを書いているのが7月8日。
元祖1式を始めたのが6月8日。
1ヶ月がたちました~(^▽^)💛
おめでとう。私 バチバチバチ
いやぁ~、がんばったねぇ (^^♪
さぁ~て・・・1か月間。
思考をとめ、全てを潜在意識に、丸投げできるようになったかの確認。
ドラムロール 開始・・・・
ジャン!!
100%はムリ~~(笑)
そりゃそうだ~
納得!!(´∀`*)ウフフ
だけど、学べたことは、とても、多かったです。
今までのように、私に届いた情報たちが、私の思考によって定義づけされることも、概念化されることもなく、ありのままの、純粋な状態で
私の中を通り抜けていきました。
思考をしないということは、自分の中にある定義や世間体などを物差しにできない。
誰かの考えや、意図も読み解かない。
言葉に自分の解釈や判断を上乗せできない。
ただ、在るがまま見つめる。
そして、自分を裏切れない。
思考をしないから、アタマの中で過去にいられないし、未来にもいけない。
いけないのだから、過去を後悔し、未来を不安に思う。そんな器用なことも出来ない。
そのうち、そもそも、過去も未来も本当はないのだ。と少しずつ、体感するようになってくる。
もちろん100%ではありませんが・・・
100%である必要もない。
そもそもその100%とかいうものも、定義によってアタマの中だけにしか存在できない顕在意識が見せる幻でしかないのだから・・・。
顕在意識の思考は、もう、いらない。
2022.7.11~12 Vol.24 苦手な方の対処法。
始めてこのブログに来られた方は
元祖1式 体験記の1からお読み頂ければ
幸いです。
では、早速元祖1式 体験記 24
思考は常に意味づけをしたがる。
思考をとめたことで、より深く理解したことです。
思考をとめること
潜在意識に全てを丸投げすること。
元祖1式は、このたった二つのことを、徹底的にやるだけです。
元祖1式を始めた頃の私にとっては、この二つは、全く別の工程でした。
とにかく起きている間、ずっと走り続ける思考をアファでとめ。
そして、再びアファで、潜在意識の完璧さを自分に叩き込む。
それが・・・(;´・ω・)
元祖1式を始めて1ヶ月もたてば、個人差はあるとは思いますが、思考の止め方は、だいぶ上手くなります(笑)
そして、完璧な潜在意識の“あまりの完璧さ”に触れる機会が増え
舌をまく(;゜Д゜)
その完璧さに私、もう何も考えない方がいいんじゃないか?と、心の底から素で何回も思ってしまったほどです。
今では、潜在意識に丸投げすることで思考をとめる。と言った合わせ技が始まっています(笑)
不安や恐れから、完璧な潜在意識の邪魔をしても
どうしようもない (+_+)
しっかり自分で考えないとイヤな思いをする。
自分ばかりが損をしてしまう。
想像した通りの最悪の未来になってしまう。
そんな恐れが、思考をとめることに不安を感じさせるけど、完璧な潜在意識に丸投げした時の結果の方が、実は何処までも完璧なのです。
最近では、外側の人のことを少しでも思考しだしたら、
外側の人の対処は、既に完璧な潜在意識に『全てまかせた!!』とお願いしてある。
だから、完璧な潜在意識が上手く対処してくれる。
そんな風に、始めは苦手な人に対して発動していました。
ですが、ある時、ふと・・・
あれ?これ苦手な人だけでなくて、外側の全ての人でよくない? ということに気づき。
何故、私は・・・この方法を苦手な人限定にしているのだ(;゜Д゜) となりました(笑)
もう、イヤな思いをさせられるのは、本当にうんざり(*´Д`)
だから、『アイツの相手はあなたがして!!』と、苦手な人を完璧な潜在意識様へ丸投げし続けた(笑)
苦手な人って、だいたいが、以前にイヤな思いをさせられた人。
ですから、そのイヤな思いをした自分を思い出し、イヤな気分になる。
だけど、今回はその人ではなくて思い出している自分の思考に、イヤな思いをさせられているのです。
元祖1式は、思考をとめる以外の思考をとめるので、この思い出し思考もとめる。
これにより、過去に体験したイヤな思いを復活させるのを、封印することになります。
元祖1式を始めると、自分にとっての現実の重要性が変わってくるような気がします。
まるで良く作られた、子供のおもちゃのよう。
以前より、現実のとらえ方が軽くなりました。
完璧な潜在意識が、私のイヤがることをするとも思えない。
私がイヤがることを思いつくのは、私の思考だけだから。
しかし、こんな苦手な人の対処法があるとは・・・。
2022.7.15 Vol.25 精神や考え方まで、西洋化する必要はないよね。
元祖1式 体験記 25
思考をとめる以外の全ての思考をとめる。
そして、完璧な潜在意識に全てを委ねる。
何たる単純作業
なのに、何たる難しさ ( ゜Д゜)
開始から1ヶ月もかる~く過ぎると
思考をとめること自体が、潜在意識に丸投げしているのと、同義な気がしてきました。
思考をとめているおかげで、自分の中にある定義や概念を手放すのが、容易になったのか、本などの外から入ってくる情報も、定義や概念・世間体などを素通りし、純粋にスッと入ってきます。
新しく入ってきた情報にも、思考をとめているので、それによる新たな定義や概念も蓄積されないようで、
自分の中に顕在意識のゴミが、これ以上増えないのは、とてもありがたいことです(^_^)
最近、私が面白いなと思った情報は
現代物理学において、未来・現在・過去が同時に存在している。ということ。
前々から言われていたことで、知ってはいたのですが、
その頃は、思考をとめていなかったので・・・(笑)
この情報によって、私が持った疑問は『どうして、なんでも西洋化しないといけないの?日本は日本独自の文化でいいじゃない』というものでした。
現代の日本人は、無意識に西洋が正しいと思い込まされていませんか。
全員が一致する正しさなんて、この世には存在しないのですから。
日本人は、日本の古来からある文化で生きて、良いのではないでしょうか。
日本は江戸時代まで和時計を使用してきました。
『日本人たるもの全員、和時計に戻しましょう!!』とか、そんなことを言っているのはありません。
ただ、和時計は、西洋時計の秒針が右へ動くものとは違い、文字盤の方が左へ動くものだったようです。
西洋時計は、過去から未来へ
和時計は、未来から過去へ
そんな概念で創られている気がしました。
それを肌で感じると、江戸時代までの日本人は時の流れを
『未来→現在→過去』という概念をもっていたのかもしれません。
ということは・・・日本人には本来こちらの概念の方があっているのではないでしょうか。
そう思うと、明治時代の無理矢理な西洋化が、現在の日本人の心に
影を落としているような気がします。
確かに震災などの復興をみると、日本人は他の国の方とは違い過去よりも未来を見つめているような気がします。
常に上昇志向で前へ前へと進んでいく?というか
遺伝子レベルでそうしたくなるのかな(笑)
だから、改善とか改良とか、そんな言葉があるのでしょう。
ご自身に聞いてみて頂きたい。
西洋化ってそんな優れたもの?本当に、自分にあっている?と
もちろん、西洋化した方が便利なこともあります。
ですが、それのほとんどが物質的な面に関してだと、私は思っています。
ですが、西洋化では、精神的な満足は、得られない。
だから、心まで西洋化する必要はないのではないでしょうか。
私が思考をとめたことで、感じたことの一つに顕在意識の思考が
西洋の定義や概念にいつの間にか埋め尽くされていた。
という恐ろしい事実がありました。
もちろん、西洋の考え方が悪いと言っているのではありません。
ただ、日本人の自分がそれによりしあわせを感じているか?ということです。
もちろん、その考え方があっている日本の方も沢山いらっしゃると思います。
ですが、今、しあわせを感じていないのなら、一度たちどまり、自分が本当は、どんな思いでいるかを知るのも良いのではないでしょうか。
どうせ、未来も現在も過去も、同時にあり、今しかないのなら
元々の日本人がやっていた未来→現在→過去の定義にチャンスを与えてあげても面白いかもしれませんよ。
自分の好む未来を決めて、それによって、今、自分はこれをしている。
今していることが、どう繋がるかは解らないけどね(笑)
と言った軽い感じで、楽しめば、きっと、気分も良くなることでしょう。
こんな風にみなさんに、おススメしても
私は元祖1式体験中なので
思考も、未来を決めることもできませんが(笑)
ですが、引き寄せとか『なる』などを体験中の方であれば、楽しく思考した方がよくありませんか。
というご提案になってしまいました(笑)
【2023.7.24日 現在の私より】
『正直どうでもいいわ~い!!ごちゃごちゃとうるさいわい(-_-)zzz』というのが、この回のブログへの今の私の意見です www
東洋でも西洋でもそんなのどうでもいいんです。全部完璧ですから。
それにめっちゃこの時の私思考している www
善・悪や良い・悪いの二元を越えた先では、どちらでも良いのです。
正しい。という定義は同時に、正しくない。と言う定義がないと成立しないので。
その時の自分が快になるもので遊べばいいですし、不快になる刺激を楽しみたい気分ならば、そうすればいいのです。
だけど、その為には自分を深く知っていないといけない。
自分を知らないと、自分が本当に好きなものが何なのか解らない場合があるから。
そして、本当の自分と対話をしたいのなら、記憶を使い思考で遊んでいる場合ではない。
思考では本当の自分には会えないから。