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コラム:1928年の左団次一座の訪ソ公演と『浦潮日報』(ニューズレターNo.111、2024年11月号


『浦潮日報』の原紙

 今年の夏は5年ぶりにモスクワ、サンクトペテルブルグへ資料調査で赴いた。ウラジオストクで地元日本人向けに発行された邦字紙『浦潮日報』は、近代日本新聞史研究においても謎の多い新聞である。1917年に創刊されたこの新聞は、1930年まで発行されたとされるが、日本国内においては1917年から1924年まで所蔵が確認できるものの、それ以降の1924年から1930年までの原紙はロシアにのみ保存されているとされる。今回の調査の目的は1924年から1930年の全号を通覧し、終刊号を確定することであった。
 当時の時代状況の中で、1928年という年は日ソ関係において、その後の外交方針の転機となる重要な年であった。クレムリンから国賓待遇の招聘によって実現した歌舞伎俳優・二代目市川左団次一座の訪ソ公演は、芸術的な出来事よりも政治的な出来事と結びついていた。左団次をはじめとする松竹歌舞伎の一団は、7月11日から9月14日までの間、モスクワ公演14回、レニングラード8回の巡業を行った。
 このとき経由地としてウラジオストクに立ち寄った一行を『浦潮日報』は記録している。同紙は居留民向け情報紙であり生活情報を中心としていたので、特段深い考察が展開されているわけではないが、一団の到来に先立って当時のウラジオストックでは歓迎ムードにあったようである。
 管見の限り、紙面には「左団次一行の露国行き確実す」(4月12日)を皮切りに、「左団次 ロシア行」(6月21日)、「左団次一行の先発隊着浦す 舞台装置準備の爲め」(7月3日)、「歌舞伎四十六名の左団次一行来着す 国賓扱ひに一驚」(7月17日)、「左団次 声明書発表 モスクワにて」(7月24日)、「歌舞伎座の第一日 左団次の由良之助 忠臣蔵 娘道成寺」(8月10日)、「莫都で歌舞伎を観る記」(9月27日~29日、3回)というように、4月から9月にかけて9本の関連記事がみられた。
 訪ソ公演後、ソ連で出た新聞・雑誌記事・批評を収録したスクラップブック「二世市川左団次ソビエト公演記録貼込帖」がソ連側から左団次一行に贈呈され、現在は早稲田大学演劇博物館に保存されている。モスクワ、レニングラードをはじめとする29の都市で発行されていた新聞・雑誌に掲載された記事は合計275本に及んでいる(永田靖・上田洋子・内田健介編『歌舞伎と革命ロシア』森話社、2017年)。ソ連で発表された記事のみで同貼込帖は構成されているが、当然ながら、ウラジオストックで発行されていたこのマイナーな日本語新聞にソ連側は注意を払っていない。
 『浦潮日報』の記事は雑報ともいえるものであるが、当時の地元民らのまなざしをうかがい知ることもできそうである。日本の主要新聞に対して、ローカルなサブ情報にすぎない居留民新聞というメディアの特質、限界もあるのだが、日ソ関係が混迷の度合いを増していたクリティカルな時点まで文化交流の痕跡がうかがい知れることは楽しい。
 この新聞を細かくみていくことでウラジオストックのソ連からハルビンなど中国東北部へと移動していった当時の政治家、芸術家、作家などの日本人の動向、例えば中野正剛やレオ・シロタなど、もうかがい知ることもできるかもしれない。だが、残念ながら大きく欠号がみられる年もあり、未見資料を埋めていく調査の旅はまだまだ続きそうである。


記事「左団次 ロシヤ行」『浦潮日報』1928年6月21日号

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