
静かに受け継がれた「自天王」という名の記憶~伊藤獨と川上村の歴史をめぐって~
はじめに
保阪正康氏の著書『天皇が十九人いた』には、歴史の表舞台ではあまり語られない“もう一つの皇位継承”にまつわる人物が登場します。
その中の一人が、いわゆる**後南朝の「自天王」です。奈良県吉野郡川上村の伝承では、自天王は南朝の正統を主張しつつ、北朝(室町幕府)との長い抗争のなかで悲運の最期を遂げたとされます。
この「自天王」の末裔を名乗る家系に生まれたのが、日本画家の伊藤獨(伊藤清作)**でした。
もっとも、伊藤獨本人は“自分が自天王だ”と大きく訴えるわけではなく、むしろふるさと川上村に伝わる歴史と伝承を静かに世に伝えたいという想いで動いていたようです。
1. 川上村と「自天王」の伝承

1-1. 後南朝の皇胤と神璽
南北朝時代が事実上北朝へ統一されてからも、南朝の皇胤を名乗る人々は各地で正統を主張し続けました。
なかでも「自天王」は、南朝側の武将が奪取してきたと伝わる三種の神器の一つである神璽(しんじ)を拠り所とし、自らを“正当な皇統”と位置づけていたとされます。
しかし最終的には赤松家の遺臣によって殺害され、神璽も奪い返されてしまった──そうした悲劇的な最期が、川上村周辺の民間伝承として受け継がれてきました。
1-2. 毎年2月5日の朝拝式
川上村では、この自天王を慰霊する意味合いで、**毎年2月5日に「朝拝式」**という儀式を行ってきたと伝えられています。
村人たちは自天王の墓を拝し、皇胤に対する敬意と弔いの想いをこめてきた――それが村の自慢であり、歴史の象徴でもあるのです。
2. 伊藤獨が見つめた“ふるさとの物語”
2-1. 協力的だった「自称天皇」系統の末裔
保阪正康氏が『天皇が十九人いた』を著す際、多くの自称天皇やその関係者に取材を試みたものの、手応えのない応対に終わることが多かったといいます。
ところが、伊藤獨は彼の取材に協力的で、丁寧に資料を示しながら自天王にまつわる話を惜しみなく聞かせたそうです。
これだけ聞くと「自天王の末裔」という独自の主張を声高にアピールしそうなものですが、実際の伊藤獨はいたって控えめでした。
彼の関心は“自分の系譜”よりも“ふるさとの伝承”にあったのです。
2-2. 伊藤獨の生涯と著作
伊藤獨は昭和47年(1972年)頃に、自天王に関する本を著しました。しかし、そのトーンは「自分が正当な皇位継承者だ」という主張ではなく、川上村の歴史を正しく伝えたいという想いが前面に出ていたと考えられています。
後に彼は木材会社を営み、地域の産業にも貢献しました。大げさな主張をすることなく、村の神秘に寄り添うように生き続けた――そんな人物像が伝えられています。
3. 自天王の史実と伝承が交錯する背景
3-1. 徳川光圀『大日本史』編纂と江戸時代の混在
江戸時代、徳川光圀の主導で編纂された『大日本史』の調査隊は全国を回りました。
その過程で後南朝の歴史を辿るうち、川上村に伝わる伝承と、調査隊が追い求める「南朝の遺跡や文書」が互いに結びついてしまい、新たに文書が作成されたともいわれます。
その結果、村にある某所の墓が「自天王の墓」とされ、朝拝式もこの時期に確立・整備されたのではないかという説もあるのです。
3-2. 明治時代の宮内省調査
明治政府となり、宮内省が「天皇陵」を再整備する一環で各地の“皇胤の墓”を公式に調査した際、実際の自天王の墓は川上村ではなく、少し離れた上北山村にあるとされました。
川上村の墓は弟の忠義王のものだと判定され、村は異議を唱えたものの覆りませんでした。
それでも、村では朝拝式が行われ続け、いまなお自天王の伝説を地域の誇りとして語っているのです。
4. 「自称天皇」と呼ばれながらも――自天王に宿るもの

「自天王」は、後南朝の正統を継承したと自ら称したため、いわゆる“自称天皇”の一人に数えられる存在です。
確かな史料と照らし合わせると、その詳細には多くの謎や後世の創作が入り混じっている可能性があります。
しかし、川上村の人々にとっては、自天王は単なる“伝説の人物”ではなく、長い歴史のなかで何度も翻弄されながらも大切に祀られた対象でした。
5. 結び ―― 静かな祈りが紡ぐ未来

伊藤獨が目指したのは、「私は皇胤である」という大げさなアピールではなく、ふるさとの伝承をありのままに、そして丁寧に伝えることでした。
川上村の朝拝式が正史とどこまで一致するのか――その評価は歴史学の視点に委ねられる面が大きいかもしれません。
けれども、村人が長く伝承を守り続けてきたという事実、そして“自称天皇”の末裔ともされる人物が静かにその物語を語り継いだこと自体が、私たちに「歴史とは何か」「地域の記憶とはどう伝わるのか」という問いを投げかけてくれます。
19人のうちの一人として語られる「自天王」。その影には、地元の人々の思いと祈りが今も深く根づいています。
大きな声を上げるわけでもなく、ただ静かに続けられてきた祭祀。
それこそが、後南朝の名残を現在へとつなぐ、もう一つの歴史のかたちなのかもしれません。
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