小説「霧の淵、朝日館の灯」第1章: 疲れた都会人
東京のオフィスビル。夕暮れの中、佐倉亮介はデスクに突っ伏していた。
机の上には未処理の書類が山積みされ、画面に映るメールの件数が彼の疲労感を一層深めている。
「亮介、少し休んだらどうだ?」
上司の石田が肩に手を置き、心配そうに声をかけた。
「……そうですね、少し疲れているのかもしれません」
亮介は苦笑いを浮かべながら答えた。だが、その言葉の奥には、本音の一片が滲んでいた。
数日後、亮介は旅に出ていた。
目的地も決めずに乗り込んだ電車で、ふと目にした観光パンフレットに「奈良県川上村柏木――霧の淵」という文字を見つけた。
その写真に写る深い霧に包まれた谷の光景が、なぜか心に響いた。
「ここに行ってみよう」
亮介はそう決め、川上村に向かうバスに揺られていた。
夕方、亮介は川上村に到着した。バスを降りた彼を迎えたのは、山間に広がる静寂だった。
空気は冷たく澄んでおり、遠くには紅葉に彩られた山々が連なっている。
「ここが、霧の淵の村か……」
亮介は観光案内板を見つめながら呟いた。
そこには「料理旅館 朝日館」の文字があり、徒歩5分ほどで到着できると書かれていた。
旅館に向かう道は、古びた石畳が続いていた。
山の傾斜を利用して建てられた民家や小さな商店が並び、昭和の時代にタイムスリップしたような感覚を覚えた。
「いらっしゃいませ」
旅館の引き戸を開けた瞬間、柔らかな声が響いた。
そこに立っていたのは、和服を纏った藤本静香だった。
「予約なしなんですが、泊まれますか?」
亮介が少し申し訳なさそうに尋ねると、静香は微笑みながら答えた。
「もちろんです。一人でのご滞在ですか?」
亮介が頷くと、静香は帳簿を開きながら、手慣れた様子で空き部屋を確認した。
「こちらのお部屋になります。夕食は7時に準備いたしますので、どうぞゆっくりお過ごしください」
鍵を受け取った亮介は、案内された部屋に入った。
畳の香りが漂い、窓の外には苔むした庭石や紅葉した木々が見える。
遠くには、山間から漂う薄い霧が霞のように広がっていた。
しばらくして廊下を歩いていると、一人の若い男性が雑巾を手に忙しそうにしていた。
「あ、新しいお客さんですか?」
彼は笑顔で声をかけてきた。
「はい、佐倉亮介です。急に来ちゃったんですけど、よろしくお願いします」
「竹内雄一です。ここで住み込みで働いてるんですよ。村や旅館のことなら何でも聞いてくださいね!」
明るく人懐っこいその性格に、亮介は自然と肩の力が抜けた。
「じゃあ、霧の淵ってどんな場所か教えてくれる?」
亮介が尋ねると、雄一はいたずらっぽく目を輝かせた。
「気になりますよね! でも、夜は近づかないほうがいいですよ。
昔からあの谷は不思議な場所だって言い伝えられていて、霧の中で声を聞いたとか、見ちゃいけないものを見たとか……」
その話に亮介は引き込まれたが、同時に胸の奥に何かが引っかかるような感覚も覚えた。
夕食の席では、静香が地元の名物料理を振る舞ってくれた。
川魚の塩焼き、山菜の天ぷら、具だくさんの味噌汁――どれも手作りの温かみが感じられる。
「都会の方には、こういう料理が珍しいんじゃないですか?」
静香が笑いながら尋ねる。
「そうですね。久しぶりにちゃんとしたご飯を食べた気がします」
亮介の言葉に、静香は柔らかく微笑んだ。
「こちらでは、四季折々の素材を使った料理をお出ししています。この川魚も、近くの川で獲れたものなんですよ」
静香の話を聞きながら、亮介は口に運んだ塩焼きの香ばしさと甘みを堪能した。
都会のコンビニ弁当では決して味わえない、本物の自然の味がそこにあった。
食後、亮介は中庭に出てみた。夜の冷たい空気が肌に触れ、星が輝く静かな世界が広がっていた。
遠くからは、谷の方角に立ち込める霧が見える。
「霧の淵……本当に何かあるのか?」
亮介は誰にともなく呟いた。その声は静寂の中に吸い込まれ、消えていった。
続く